長野は、火鉢の炭火の具合を見ている井ノ原に尋ねた。
「定宿(じょうやど)ですか」
「そんなところです」
その時、宿に着いて以来明るくなっていた井ノ原の表情が、険しくなった。三度笠の二人が笠をとったのだ。
「まるで異人ですね」
二人は答えない。長野も黙っていた。
長野は二人と一緒に風呂に行った。
戻ってみると、食事が運ばれてきたところだった。
漬物と煮物のほかに、鯉の洗いが載っていた。
膳が並ぶ。
燗徳利が、一人に一本ずつついてきた。
「これは」
長野は井ノ原の顔を見た。
「お近づきのしるしです」
年増の女中が、給仕をするために残ろうとしたが、井ノ原が断った。
井ノ原は、長野に上座を譲り、自分は窓を背にして座った。
長野の連れの二人は、廊下側に座る。
「杯のやりとりは面倒です。手酌で行きましょう」
そう言って、井ノ原はどんどん飲んだ。長野も少しずつ飲んだ。
それを見て、長野の連れの二人も、杯に酒をついでみたものの、口へ持っていって、においをかいだだけで置いてしまった。
相変わらず、剛毅とケインは箸使いがおぼつかなかった。
井ノ原が興味深く見ていると、二人は、鯉の洗いは口には入れたが、すぐ吐き出してしまった。
「普通なら、親のしつけがなっていない、というところですが」
井ノ原は遠慮がちに切り出した。
「そこまで箸の使い方を知らないとなると、どうも、そういうわけではなさそうですな」
長野は箸を止めて井ノ原を見た。
「誰にでも、得手不得手はあるものです」
「それだけではごまかせますまい」
井ノ原はそう言って、里芋を口に放り込んだ。
「それに、全く口をきかない。かといって、耳が聞こえないわけではないらしい」
そう言いながらも、井ノ原は杯を口に運ぶ。
「実はですな、長野殿」
井ノ原は長野の方へ向き直った。長野も緊張して座り直した。井ノ原の顔が幾分赤くなっている。
「見たんですよ。銚子で。長野殿がこのお二人を迎えに行ったのを。何、別段、その前から怪しんでいたわけではございません。たまたま、抜け荷の噂を聞きまして、張り込んでおりましたら、案の定、小舟が漕ぎ寄せた。これか、と思ったら、人が二人降りただけ。それがこちらのお二人ですね」
と、二人を見る。二人は自分たちのことが話題になっていることは理解できたらしく、不安そうに長野を見ている。
「いかにも、この二人でござる。それが何か」
長野はあくまでも平生を装った。
「見た目は異人とは違う。目の色も髪の色も我々と同じだ。しかし、どうも怪しい。無宿人のような格好をしているものの、どうみても無宿人ではない。差し支えなければ、どういう身分の方かお聞かせ願えまいか」
長野は黙っていた。自分で杯に酒をつぎ、ゆっくりと飲み干す。そうしながら、何か考えていた。
「お聞かせ願えまいか」
井ノ原は繰り返した。
「申し訳ないが……」
長野はやっと答えた。
「余人に口外することは固く禁じらております」
井ノ原は嘆息し、
「お互い、役目には忠実でなくてはならない、ということでございますな」
と言うと、杯をあおった。
「ところで、これからどちらへおいでになります」
「西へ。利根川を、いや、この先は、鬼怒川をのぼります」
鬼怒川は、取手の西の守谷という土地で、利根川から分離している。
「どこまで」
「それは申し上げるわけにはまいらん」
「そうですか」
そう言って、井ノ原はまた杯を干す。
「あの昌行の野郎はどうしました」
だいぶ砕けた口調になってきた。
「あんな野郎と一緒になったんじゃ、怪しむなというのが無理というものですぞ」
長野の表情も少しゆるんだ。
「道を知っている、というので、香取までの案内を頼んだだけのこと。一文無しで、食うに困っている様子でしたので、少し助けてやりました」
「そうですか。あの男は、腕はたつんだが、酒飲みで……。いや、人のことは申せませんが」
そう言うと、井ノ原は膝で身を進め、
「これは頂戴してもよろしゅうござるな」
と、剛毅とケインの膳にあった銚子を持って自分の席に戻った。
「昌行のことですが、腕は立つんだが……おっと、これは先ほど申し上げた。無宿人ではありますが、没義道(もぎどう)なことはしておらぬようです。何度か人を切ってはおりますが、いつも決まって切られた方が悪党でして。昌行の野郎が切ってくれたおかげで我々の手間が省けるというくらいのもので。この半年ばかり、噂を聞かなかったんですが、いつの間にか子分までこしらえていたんですなあ」
長野は聞くともなく聞きながら食事を口に運んだ。
連れの二人は、煮物と飯だけを平らげ、漬け物と洗いはほとんど手をつけずに残していた。
しゃべるだけしゃべり、飲むだけ飲むと、井ノ原は風呂へ行った。
その間に布団が用意され、三人は先に横になった。障子の外の雨戸も閉めたが、夜通し、寒風の吹きつけ、隙間がヒュヒュウと音を立てていた。
翌朝、食事が済むと、井ノ原は、
「戻るまで、ここをお待ち願いたい。できる限り助力いたそう」
と言い残して出かけていった。
それとほとんど入れ替わりに、宿の主人が現れた。主人は、ふすまを開けると、敷居際に手をつき、
「長野様でいらっしゃいますか」
と尋ねた。
「いかにも、長野だが」
そう答えると、主人は言いにくそうに話し始めた。
「長野様にお目にかかりたいという方がおみえなのですが……」
長野の顔に緊張が走った。
「それが、どうも、お武家ではないかたでして」
主人の言葉は歯切れが悪い。
「名は名乗っていないのか」
長野が尋ねると主人はこう答えた。
「昌行、と言えばわかる、というばかりでして……。お知り合いでしょうか」
「ほう……」
その名を聞いて、長野はしばし思案した。
「よし、会おう」
長野は立ち上がり、主人とともに上がり口の板の間へ出た。
道中合羽に身を包んだ昌行と准が土間に立っている。長野の客だというので、女中が茶を出してくれたらしく、盆に茶碗が二つ並んでいるが、手はつけていない。
昌行と准はだいぶ疲れている様子だったが、長野を見ると、合羽をはずし、腰をかがめた。なにやら生臭いにおいがした。
「やあ、どうした」
長野が声を掛けると、昌行は片膝をつき、頭を深く垂れた。准もその後ろで同じ姿勢になる。
「申し訳ございやせん。お目に掛かれた義理ではございませんが、長野様には、一宿一飯どころか、着るものまで世話になり、その恩を忘れるようでは、犬畜生にも劣ると思いまして」
「用件は何だ」
長野の声には怒りの響きはなかった。昌行は顔を上げ、
「あの猟師の弟が、長野様を追ってこちらへ向かっております。お気をつけください。それから、馬の侍は、中居というそうでござんす」
と、言った。
「それを教えに来てくれたのか」
「へえ」
昌行はまた頭を下げた。長野はじっと昌行を見つめた。
主人と女中たちは、何事かと様子を見守っている。
「いろいろと、お腹立ちでしょうが、これで勘弁してやっておくんなさい。また、どこかでお目にかかることがあれば、何かお役に立ちとうござんす。では、ごめんなすって」
そう言うと、昌行は膝の土を払って立ち上がった。准も立ち上がる。昌行が戸口から出ていこうとした時、長野がその背中に声を掛けた。
「待て」
昌行はびくりとして立ち止まった。こわばった顔で振り返る。
「どこか行くあてはあるのか」
「ございません」
「ならば、ちょと部屋に来い。話がある」
昌行は長野の顔色をうかがっている。准の顔は、血の気が失せていた。
「案ずることはない。頼みがあるのだ」
「へ、へえ」
昌行は、准に頷いてみせると、上がりがまちに腰を下ろし、草鞋のひもを解いた。
女中が、たらいにぬるま湯を入れて持ってきて、二人の足を洗う。二人は足を拭くと、長野のそばに立った。いよいよ生臭い。
長野は二人を部屋へ連れて行って腰を下ろした。
二人は下座に正座する。
「二人とも、やけに生臭いな」
昌行は頭をかいた。
「申し訳ございません。少しばかりドジを踏んでしまいまして
「どうした」
「佐原で、鰯油(いわしあぶら)を積んだ船に乗せて貰うことになったのですが、准の野郎が油をこぼしてしまいまして。その始末に、油まみれになるわ、船から叩き出されるわで、ざんざんな目に遭いました。もっとも、そのおかげでやつの弟の話が聞けたのでございますが」
「どこで聞いた」
「ちょっとした遊び場で……」
そう言いながら、昌行はサイコロを振る手つきをして見せた。
「弟というのも見たのか」
「見てはおりませんが、以前から話は聞いております。慎吾と言って、化け物のような奴だという話です」
「化け物か」
「へえ」
「あの男は中居というそうだが、誰に聞いた」
昌行は少し黙った。
「言えんのか」
「実は……。香取の境内に、浪人ものがおりましたが、あの連中に聞きました」
「どこで会った」
「それも遊び場で……」
「知り合いだったのか」
「一人は知り合いでございました」
「最初から仕組んでおったのだな」
「申し訳ございません」
昌行は深く頭を下げた。
「何もかも申し上げます。あっしは、あの中居という侍に頼まれて、長野様たちを切るつもりでおりました。鹿島で、長野様たちがあの八州回りにつかまらねえようにしたのもそのためでして。香取では、浪人と示し合わせてあって、裏から下りるようにしむけて、山の中で始末する、という手はずになっておりました」
長野は、香取神宮で見た浪人たちを思い出した。道理で目につくように固まっていたわけだ。
「では、なぜ切らなかった」
そう聞かれて、昌行は頭をかいた。
「それが……。何と申しましょうか。一晩一緒におりますうちに、長野様はただの侍じゃねえ、という気がしまして。それに、准に簡単に小判をお預けなすって、あんなに信用されたんじゃ、こちとら、気が引けるばっかりで」
「理由はそれだけか」
「正直なことを申し上げれば、香取で山を下り始めたときには、まだ切る気でおりました。そのために、准とも手順を決めて置いたんでございます。あっしが合図したら、准が、そちらの剛毅さんを押さえる、というわけで。短筒を出されたんじゃ、勝負になりません」
そう言って昌行は剛毅を見た。剛毅は無言で昌行たちを見ている。
「なぜ私たちを助けた」
長野が尋ねた。
「あの時、長野様は、何か大事な事のために命をかけていらっしゃる、ということでございましたね」
昌行の言葉に、長野は頷いた。
「一つはそれでございます。どうも、このお方を切るのはよくねえんじゃねえか、という気が致しました。それからもう一つ」
「なんだ」
「あの時、火縄のにおいが致しました。どうも隠れてあっしたちを狙っているようでしたので、それでからくりが見えました」
長野は大きく息を吐いた。あの時、この昌行に切りかかられていたら、どうなっていただろう。
「それで、まあ、とりあえずはあの猟師をとっちめてやろうと思ったんですが、ご存知の通り、あの中居って侍に切られちまったわけで。あっしらも、もとはといえば、あいつらと同じ穴のムジナってやつでしたんで、追いかける振りをして逃げ出した、というわけでして」
「それでそのあと、あの浪人たちと顔を合わせたわけか」
「へえ。全く、申し訳ございません」
昌行が頭を下げると、准も緒に頭を下げた。
「なぜ、教えに来てくれた」
「それは、先ほど申し上げたとおりでございます。ただ世話になりっぱなし、というわけには参りません。一度はお命を狙ったということについても、詫びねえことにはきまりがつきませんし。義理を欠いては渡世稼業はつとまりません」
「船で来たのか」
「遊び場に顔を出したのは日が暮れてからでござんした。もう船はございません。話を聞いてすぐ歩き出し、夜通しかけてここへ参りました。お武家と渡世人が一緒に旅してりゃ、目立たねえわけがございません。佐原の河岸で、取手に向かわれたと聞きました。井ノ原の旦那がご一緒だったんで、宿もここと察しはつきます」
くたびれているのは、夜通し歩いてきたためだった。
厳しい寒さの中を歩いてきたはずだ。
「食事はまだか」
「先ほど済ませました」
「疲れておろう」
「それはまあ。しかし、あっしのようなもんにとってはよくあることでございますから」
「ちょっと待っておれ」
長野は番頭に会いに行き、隣の部屋が空いているのを確かめ、そこも借りることにした。
女中に布団と火鉢を用意させ、昌行たちをそちらへ移した。
「ゆっくり休め」
昌行は驚いて長野の顔を見ている。
「長野様、いったいどういうお積りで」
「難を知らせてくれたものに報いぬわけにはいかぬ。とりあえず休め」
二人を残して自分の部屋に戻り、火鉢にあたりながらこれからのことを考えていると、井ノ原が戻ってきた。
「何か、生臭いようですが」
井ノ原は鼻を鳴らした。
いつのまにか鰯のにおいがこもっていたようだった。長野はずっとそこにいたので慣れてわからなくなっていたらしい。
長野は、井ノ原が火鉢を挟んで座ると、昌行が知らせてくれた内容を話して聞かせた。ただし、昌行も長野の命を狙っていたことは伏せて置いた。隣の部屋に寝かせたことまで話すと、井ノ原は感心してこう言った。
「ほう。奴も律儀ですが、長野殿も律儀ですな」
それから、火鉢に炭を足し、かじかんだ手を炙りながら言った。
「やはり、昌行もなかなか感心なやつですな。帰す前に一杯飲ませてやりましょうか」
「それなのだが」
長野は井ノ原の様子を見ながらこう言った。
「この先、あの男を連れて行こうと思っております」
井ノ原は、手をさするのをやめて長野の顔を見た。
「気は確かでござるか」
長野は頷いた。
「それには賛同いたしかねますな」
井ノ原は火箸を手に取り、炭の具合を見ながら言った。取り上げた炭の一角が、微かに赤い光を放っている。
「一度助けてくれたからと言って、この先も同じようにしてくれるとは限りますまい。ああいった手合いは、見所のある奴でも、目先の金につられることもめずらしくはござらん。昌行とて、いつ貴殿の命を狙うようなことになるか、わかったものではない」
長野は黙っていた。
「それに、わざわざ教えに来てくれた、というのが腑に落ちません。何か、計略があってのことかもしれませんぞ」
そう言われてみれば、下手をすれば手討ちにされかねないのに、向こうからやって来た、というのは不思議だった。それに、昌行たちは井ノ原と入れ替わりに現れた。井ノ原と顔を合わせたくないために、隠れて、井ノ原が出かけるのを待っていたのではないか。
井ノ原は言葉を続けた。
「おそらく、用心棒のお積りでしょうが、それならあてがござる。ちょうど今日、取手に戻って参りますので、ここへ呼ぶことに致しました。もう一晩お泊まりください。明日からその者に同道させます。それがしを信用していただきたい」
「井ノ原殿には同道願えないのか」
「同道願ってないのはそちらでしょう」
そう言って井ノ原は笑った。
「関八州取締出役とは申しても、どこもかしこも取り締まる、というわけには参りません。拙者は、主に、常陸(ひたち)と下総の、水戸街道より東を回っておるのです」
長野が腕を組んで考えていると、井ノ原がまた口を開いた。
「ただ、気がかりなのは、慎吾という男ですな。もしほんとうに長野殿を追っているとすれば、やつはこちらへ向かっているはず。もう一晩泊まれば追いつかれてしまいます」
井ノ原は腕を組んだ。
長野は尋ねた。
「慎吾という男をご存知ですか」
井ノ原は頷いた。
「でかい奴です。一度見かけたことがありますが、六尺はゆうにあります。一体何を食って育ったのか。馬鹿力で知れ渡っております。性情はきわめて粗暴と聞きました。喧嘩になると一抱えもあるような丸太も平気で振り回すという話です。正直なところ、拙者一人では取り押さえようはない」
長野は少し考えてから次のように言った。
「昌行たちが起きたら、少し先へ行くのはいかがだろう。井ノ原殿の紹介してくださる方とは、そこで明日落ち合いましょう」
「そうですな……。しかし、慎吾がすでに取手に来ていたとしたら、人気(ひとけ)のないところを歩くのは危険です」
井ノ原も長野も思案するばかりで、策は決まらなかった。
もし、慎吾という男が長野たちを襲うつもりなら、取手のようなにぎやかなところにいた方が、人目もあり、安全ではある。しかし、人目を気にせず襲いかかるような相手であったとすると、どこにいても同じことだ。
(続く)
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