井ノ原は長野の前に立つと、
「失礼ながら、腰のものを拝見したい」
と言った。やや息が切れている。
「なにゆえ」
長野は不思議そうに答えた。
「昨日、鹿島神宮で浪人が二人切られておった。念のため、刀を改めたい」
長野は苦笑して刀を鞘ごと井ノ原に渡した。受け取った井ノ原は、すぐに抜いて刀身に目を寄せ、鍔から刃先まで調べた。全く曇りはない。
刀を収めると、井ノ原は、
「失礼つかまつった」
と言いながら返した。それから昌行に向かい、
「脇差しを見せて貰おう」
と声を掛けた。昌行もおとなしく脇差しを渡した。
井ノ原はこれも丁寧に改め、
「最近切った様子はないな」
と言って返した。
「二人とも刀傷だけだったんですかい」
昌行が尋ねると、井ノ原は、准の脇差しを受け取りながら答えた。
「不思議なことに、一人は肩に鉄砲傷があった。昨日のあの時にやられたのだろう。むっ、これは」
井ノ原は、准の脇差しを抜こうとしてうめき声を上げた。真っ赤な刀身がわずかにのぞいている。
「うむっ」
井ノ原は力任せに脇差しを抜いた。准のものは根元が真っ赤にさびていた。
「なんだこれは。これでは役に立つまい」
「こいつは格好だけでして」
わきから昌行が弁解する。
「そちらの二人は」
井原は、長野の隣になっている二人に声を掛けたが、長野は、
「刀を差しておらぬのは、改めなくともわかろう」
と言って改めさせなかった。井原は、不思議そうに二人を見たが、長野の方へ向き直った。
「香取神宮へおいでになるというお話でしたな」
「いかにも。これより参る。同道なされるか」
「今夜のお泊まりは」
「さて。まずは佐原へ参るが、宿は決めておらぬので、返答しかねる」
「よろしい。ひとまず一緒に渡ることにいたそう」
こうして、次の渡し舟には、井ノ原も同乗した。井ノ原は、長野から離れた所に座り、昌行を自分の隣に座らせた。
「おい。お前はあの方とどういう関係があるんだ」
「いや、何も」
「なぜ一緒にいる」
「一緒に行ってくれと頼まれただけでして。道案内をさせるつもりでしょう。何なら、旦那があっしの代わりに案内しますか」
「そんなことをしている暇はない。分かっておるだろうな。滅多なことをやらかすと、お上は黙っちゃいねえぜ」
そいう言いながら、井ノ原は懐に隠してある十手を着物の上から軽く叩いた。
「へえ。それはもう、よく分かっております」
緩やかな利根の流れを横切り、舟は鳥居河岸に着いた。
鳥居河岸は津宮(つのみや)河岸ともいい、香取神宮参拝者のための河岸である。
川岸には鳥居がたち、店が並んでいた。二階建ての料理屋もある。
井ノ原は、
「佐原で待ち申す」
と言い捨てて一人西へ向かった。
残る五人は南へ向かう。
香取神宮は、河岸から南へ半里ほど歩いた山の中にある。
鳥居の前には、茶店が並んでいる。五人はそこで団子を食べた。
香取神宮は、鹿島神宮と並ぶ東国の大社で、参詣人が絶えない。
昌行は、茶を口に運びながら、あたりに気を配っていた。ここも鹿島神宮同様、幕府の厚遇を受けており、武士の姿が多い。
武士と渡世人が一緒にいるのが珍しいらしく、昌行たちを見ながら通っていく者もいた。
鳥居をくぐると、参道は緩やかな坂になっている。
祀(まつ)られているのは経津主神(ふつぬしのかみ)で、鹿島神宮の武甕槌神とともに、国土平定のさきがけをなした神である。
参道の途中で、小道を横には行っていくと、そこにも鹿島神宮と同じような要石がある。
五人はそれを見てから参道に戻り、本殿に詣でた。
参拝を終え、長野が参道へ戻ろうとすると、昌行は、
「裏へ回りましょう」
と、長野を引き留めた。
「厄介なことになりそうです」
見ると、石段のあたりに浪人が四、五人固まっている。
長野は頷いて本殿の裏の森に入った。
ここにも鹿がいる。しばらくいくと、少し開けた場所に出た。かなたに利根川が見える。帆を上げて川をさかのぼっていく船の姿があった。
「ちょっと待ってておくんなさい」
昌行はそういうと、准を連れて茂みを降りていった。
笹をかき分けていく音が遠くなり、また近くなって昌行が一人で現れた。
「こちらから降りられます。逃げることになりますが、表の連中と切り合うよりはましでしょう」
長野は参道の方を振り返った。人がこちらへ来る気配はない。少し思案したが、昌行に従うことにした。
「そうしよう」
そう言って、長野は三度笠の二人を促し、茂みに足を踏み入れた。
木立の中は静まりかえっている。茂みの枝が体に擦れる音ばかりがした。
少し降りたところに准がいて下の様子をうかがっていた。准が立っているところは細い山道になっている。
五人は、昌行を先頭に山道を降り始めた。昌行の後ろに長野。准はしんがりをつとめる。
「こんなことを聞いちゃあ失礼かもしれませんが、何で追われてるんですかい」
昌行が尋ねた。
山道には枯れ葉がつもっていて、五人の足の運びに合わせてかすかな音を立てた。
「それは言えんのだ。拙者は拙者なりに世のため人のためと思って行動しているのだが、皆が皆同じ考えとは限らん。反対するものもいる」
「命のやりとりをしてまで、なさらなくちゃいけないことなんですか」
「そういうことだ」
道が少し広くなった。道の山側は緩やかな斜面だが、谷側は少し急だった。
木立を通して、麓にある田圃が見えた。稲の切り株だけが残っている。
風が、足元の枯れ葉を裏返して吹きすぎた。
昌行は、脇差しの柄に手をかけた。用心深く足を運びながら茂みの向こうに目をやる。
「准」
小声で声をかけると、准はすぐさま、剛毅に飛びついた。もつれあって山道から転げ落ちる。
昌行は振り返りざま脇差しを抜き、長野とケインを抱えるようにして道の下へ押し倒し、自分も道から姿を消した。
「何をする」
長野が声を上げたのを制し、昌行は脇差しを鞘ごと抜いて、積もった枯れ葉に繰り返したたきつけ、音を立てた。
「うわっ」
自分で悲鳴も上げる。
長野は驚いて昌行を見ている。准もあっけにとられていた。
剛毅とケインの二人も不思議そうに昌行を見ている。
昌行は、長野に向かって唇に指を当てて見せ、それから、
「准、うまくいったぜ。怪我はなかったか」
と少し大きな声を出した。
「あ、兄貴……」
准は不安そうな声を出す。昌行はにやりとして、准にも唇に指を当てて見せた。
それを見て准は黙る。
昌行は体を伸ばして道上の方をのぞいた。それから、そばにあった枝を拾い、道中合羽を脱いでそれにかぶせ、高く上げた。
「ダーン」
銃声が響き、合羽に穴が空いた。穴の回りが焦げている。
「やっぱりな」
昌行は身を縮め、ほかの四人にもそうさせた。
「兄貴……」
准の声は震えている。
「はめられたのよ」
そういうと、昌行は、次に、斜面の上の方へ向かって怒鳴った。
「出てきやがれ。こっちは逃げも隠れもしねえぞ」
茂みから男が一人、姿を現した。鉄砲を手にしている。布子を着て、帯代わりの縄を結んでいる。土地の猟師のようだった。
男は油断無く鉄砲を構え、ゆっくりと斜面を降りてきた。
「誰に頼まれた」
昌行は、杉の大木の陰に身を隠し、男の様子を見ながら怒鳴った。
「言えるわけねえだろう」
男はそう答えながら近づいてくる。
長野たちは身を縮めていたが、ケインは、笠を取り、合羽を脱いだ。長野はそれを見て、首を振り、身を低くしているよう手真似をしたが、ケインはそれを無視し、枯れ葉の上を、手斧を手に、器用に足音を消して動き出した。上からは見えないように屈みながら、道沿いに上へ移動していく。
昌行はそれにはかまわず、鉄砲を持った男に向かって怒鳴った。
「うまいこと話をつけようじゃねえか。お前さんだって、殺生はしたくねえだろう」
「うるさい、おとなしく俺に撃たれろ」
「ばかな奴だ。馬に乗った侍に頼まれたんだろう。俺を撃って礼金の残りを貰いにいけば、今度はお前が切られるぞ」
「どういうことだ」
「俺が三人を切ったら、お前が俺を撃つ。お前は、人を撃ったということであいつに切られるわけだ。あいつは、自分じゃ三人は切れねえし、かといって、俺と切り合う度胸もねえ。俺がしくじったら、お前が三人を撃てと言われたんだろう」
猟師は足を止めた。昌行は言葉を続ける。
「お前も俺も、あいつにはめられてるんだよ」
しかし、猟師はまた足を前に進めた。
「そういうことなら、俺は弟を連れて金を受け取りに行くさ。俺の弟に勝てるやつなんざいねえ。侍だろうがなんだろうが、ひとひねりだ。悪いが、やっぱり死んでもらうぜ」
猟師は、昌行の姿が少しでも見えるようにと、斜面を横に移動していった。昌行は、隣の、もっと太い杉の陰へ飛び移ろうとしたが、枯れ葉で足を滑らせた。慌てて手をついたが、猟師から姿が丸見えになった。
猟師はその機会を逃さず、ねらいを付け、引き金を引こうとした。
しかし、銃声ではなく、金属音が響いた。
鉄砲がはじき飛ばされ、積もった枯れ葉の上に音を立てて落ちた。銃身は曲がっている。
猟師は、何が起こったのか理解できず、枯れ葉の上に落ちている鉄砲を見た。
そして、自分の横に姿を現した男を見た。ケインが立っていた。その手には何も持っていない。猟師の反対側の杉に、手斧が突き刺さっていた。
昌行はすぐに体勢を直し、脇差しを抜いて猟師に向かって突進した。猟師は鉄砲を拾い上げようとしたが、昌行が来るのを見て、そのまま山を駆け下りていった。
「待ちやがれ」
昌行は後を追う。准も走り出した。
長野は、ケインに笠と合羽を渡すと、昌行の後を追った。ケインと剛毅も山道を駆け下りる。
道になれている猟師は速かった。すぐに距離が開き、その姿が見えなくなった。しかし、昌行は足を止めない。あと少しで麓に出る、というところで、茂みの向こうから、肉を切り裂く音と、
「ぐわっ」
という悲鳴が聞こえた。
昌行が真っ先に山道を抜けた。准が続く。
二人は、血に染まって倒れている猟師の姿を見て足を止めた。
長野が追いついた。あとの二人は遅れている。
蹄の音がした。顔を向けると、馬にむちを当てて去っていく侍の後ろ姿が見える。
「准、来い」
昌行がそれを追う。准が続く。
「待て、無理だ」
長野が声をかけたが、二人は足を止めない。むしろ長野から逃げるかのように走り去った。
遅れていた二人が追いついた。無言で、倒れている猟師の体を見下ろす。
「どういうことだ」
長野はつぶやいた。
枯れ草の中の猟師は動かない。すでに息が絶えていた。
冷たい風が吹きすぎ、枯れ草を揺らした。
長野は、剛毅とケインを促して歩き始めた。歩きながら、昌行が猟師と交わした言葉の意味を考えていた。
昌行は、長野ら三人を切るつもりでいたらしい。人に頼まれて。
では、なぜ切らなかったのか。ほんとうに切るつもりがあったのか。
いくら考えても分からなかった。
長野は、利根川沿いの街道を西へ向かった。佐原までは一時(いっとき)ほどである。
昼過ぎには佐原に入った。佐原は水郷の中心地で、水運で栄えた町であり、町なかに堀が巡らしてある。
長野は、昼食を済ますと、利根川をさかのぼる船を探した。佐原からは、水郷の米や醤油などが積み出されており、中には、客を乗せるものもあった。
利根川は、関宿で江戸川と分岐しており、利根川をさかのぼり、関宿から江戸川を下ることができる。江戸に行き来する船は多かった。
河岸で船便を探していると、後ろから声を掛けられた。
「長野殿」
振り向くと井ノ原が立っている。
「船をお求めか」
「いかにも」
「どちらへ」
「とりあえず、取手まで」
井ノ原は、興味深そうに、傍らに立つ三度笠の二人を見た。二人は黙っている。
「何かご用か」
長野の声には、明らかに「迷惑だ」という響きがあったが、井ノ原は意に介しなかった。
「用というわけではござらんが、お急ぎか」
「急いでおる」
「昌行はどうしました」
「別れ申した」
「ほう。それはよかった。あんな連中と一緒にいたのでは、長野殿まで疑われます」
「では、今は疑っておられぬのか」
「これは厳しい」
井ノ原は笑った。
河岸の人足たちは、立ち止まって話をしている二人を避けて荷を運んでいる。
邪魔になっていることに気づき、長野は脇へ寄った。
「差し支えなければ、拙者が船の世話を致しましょう」
井ノ原はにこやかに言った。その笑顔が却って警戒心を呼び起こす。
「ほう、なぜ」
「そなたがお持ちの書状には、便宜を図るようにとありました」
長野は井ノ原から目をそらし、利根川に目を向けた。
枯れた葦が風に揺れている。
ここで断っては、怪しまれることになるだろう。
「お任せ申す」
長野は井ノ原に頭を下げた。
「では、まいろう」
井ノ原は先に立って歩き出した。荷を積み終えたらしい大きな船を見つけ、船頭に懐の十手を見せた。
「ご用のためだ。取手まで、四人乗せてくれ」
船頭は一瞬嫌な顔をしたがすぐに承知した。下手に断ってはあとが面倒になるとふんだらしい。
四人はすぐに乗り込んだ。おりよく東風が吹いている。
帆をあげ、船は利根川をさかのぼり始めた。
積み荷は酒で、樽が積み上げてあった。微かに酒のにおいがする。
「うーん、たまらん。いいにおいだ」
井ノ原は、胸一杯に、酒のにおいの混じった冷気を吸い込んだ。
佐原は酒の産地でもある。
全国を測量し日本地図を作り上げたことで知られる伊能忠敬も、隠居して測量術を学ぶまでは、佐原で酒の醸造と米の取引を業としていた。
「こんな荷を積んで乗ってると、つい飲みたくなったりしねえのかい」
井ノ原は気安く船頭に声を掛ける。船頭の顔が青くなった。
「申し訳ございませんが、これは荷主より預かりました大切な積み荷でございます。手前どもの考えで一杯差し上げる、というわけには……」
「いやいや、そういうつもりで言ったんじゃねえ。悪かった。気にせんでくれ」
酒のにおいに、一人よろこんでいる井ノ原をよそに、長野たちは黙っていた。長野は行く手に小さく見える筑波の峰を見つめていた。
その四人を、利根川沿いの街道で、馬上から見ている侍の姿があった。鹿島神宮の出口で長野たちを見ていたあの侍である。
井ノ原は、長野の隣に移ると、声を潜めて話しかけた。
「佐原で聞いたところでは、どうも、幕府があやういのではないか、という話です」
長野は井ノ原の顔を見つめた。
「公方様は、ずっと京においでで、あれこれ策は立てているものの、朝廷はどうもいい顔をしないようです」
「なぜそんな話を」
「長野殿のお役目に、何か関わりがあるのではないかと思いまして」
長野は答えず、再び筑波に目を向けた。傾き始めた日の光を受け、山頂が少し白く光っていた。雪が少し積もっているようだった。
風に恵まれ、夕刻には取手に着いた。
取手は、水路の利根川と陸路の水戸街道の二つの要衝を兼ねた宿場町である。街道筋には瓦屋根の建物もあった。
船から下りると、井ノ原はこういった。
「宿もお世話いたそう」
長野としては、初めての土地でもあり、それに従うしかない。
水戸街道は利根川沿いに通じており、川の反対側は高台になっていた。
高台の麓に、茅葺きながら、ひときわ豪壮な屋敷が見えた。
「あれが本陣です」
井ノ原に教えられながら、その前を通り過ぎた。
宿が軒を連ねていたが、井ノ原はさして大きくない宿に入り、
「俺だ」
と、声を掛けた。中から番頭が出てきて頭を下げた。
「これは、井ノ原様。ようこそお越しくださいました」
井ノ原は腰を下ろしながら、
「今日は四人だ」
と言って草鞋を脱ぎ始めた。
なじみになっているらしく、女中たちも気安く井ノ原の足を洗ってやり、袴の裾の泥を落としてやっている。
長野たちも、井ノ原と同じように足を洗ってもらい、座敷に案内された。高台に面した側の部屋で、窓の障子を開けると、目の前に崖が見えた。
「こういう部屋の方が用心しやすいのでね」
井ノ原は、我が家にいるかのようにくつろいでいる。
女中が、桐火鉢を運んできた。さっそく井ノ原が手をあぶる。
「お茶をお持ちしましょうか」
その女中は井ノ原とは顔見知りのようだった。
「いや、茶はいらん。それよりも夕飯に一本ずつ頼む」
「はい」
女中はそう返事をすると、今度は長野の顔を見て、
「鯉を出してもよろしゅうございますか」
と尋ねた。
「鯉か、出してくれ」
長野がそう言うと、女中は、
「かしこまりました」
と言って出ていった。
こんなところに、宿の気遣いが感じられた。切腹に臨む武士の食膳には鯉の焼き物が出ることになっているので、鯉を好まぬ侍がいることをわきまえているのである。
(続く)
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