(第10回)

 まもなく楡木の宿、というところで地蔵堂が見えてきた。その前に、一見して武家とわかる女が五、六歳と見える子供と腰を下ろしている。
 簡単な茶店や、菓子などを売る店もあった。 
 地蔵堂が見えたところで六人は立ち止まった。
 長野は懐から紙入れを出した。しかし、女に向かって足を踏み出すことができない。
「あっしが行きやしょうか」
 昌行が言った。
「お武家同士では、仇(かたき)だのなんだの、面倒なことになりやしょう」
 長野は、救われた、という表情で昌行を見た。
「頼めるか」
「へい。あっしと准で渡します。どうぞ、先に行っておくんなさい。すぐ、追いつきます」
 井ノ原も昌行の考えに同意した。
「それがよかろう。拙者も、切り合いがありながらそのままにしておいたのを知られるのは具合が悪い」
 長野は昌行に紙入れを渡し、剛毅とケインを促して足早に地蔵堂の前を通り過ぎた。
 女は子供に何か話しかけている。
 長野たちが離れてから、昌行は、紙入れを懐に入れ、准を伴って女の前に立った。
「もし、お尋ね申します」
 女は顔を上げて昌行を見た。
「何でしょう」
 昌行は腰をかがめ、
「失礼ではございますが、稲垣様の……」
 相手は立ち上がった。
「はい、家内です。何か」
「重ね重ねの失礼ではございますが、お名前をお聞かせ願えないでしょうか」
 女は子供を後ろに回し、懐剣に手をやり、
「何のために聞くのです」
と、尋ねた。目つきは厳しい。
「お疑いはごもっともでございます。実は、稲垣様から預かりものがございまして」
 女が目を見開いた。
「めぐみ……と申します」
 昌行は頭を下げると、
「信用していただきありがとうございます。稲垣様からの預かりものはこれでございます」
と、紙入れを出して差し出した。
「たしかに、これは稲垣の……」
 そう言いながら女は受け取った。中を見ると、小判が十枚入っている。
「これは……」
 女は昌行の顔を見た。昌行は腰をかがめたまま、
「お察しのこととは存じますが、稲垣様がいまわの際にあっしにお預けなすったものでございます。何があったのかは存じませんが、切られて苦しんでおられるところに通りかかりまして、それを頼まれたんでございます」
「主人は……、稲垣はどこに」
「この街道を壬生に行く途中に倒れておいででした」
「そうですか……。確かに受け取りました。お手数をかけましたね」
 そういうと、女は後ろを向いて懐に手を入れた。何かを懐紙に包んでいる。そして、振り向くと、紙包みを、
「これはお礼に……」
と言って差し出したが、昌行は一歩下がって手を振った。
「とんでもないこってす。あっしら渡世人は、義理人情を粗末にしちゃやっていけねえもんでござんす。いまわの際の頼みを引き受けて礼を貰ったとあっちゃ、あっしらの沽券にかかわります。どうぞ、それは納めておいておくんなさい。では、ごめんなすって」
と一気に言って頭を下げると、長野たちの後を追って歩き出した。
 准も頭を下げ、歩き出した。
 二人の後ろで女の声がした。
「父上の亡くなったところへ参りましょう」
 准が振り返ると、女は子供の手を引いて歩き出していた。昌行も立ち止まり、それを見送る。
「偉いもんだ。さすがお武家の奥方だ。泣きたいだろうに」
 昌行がそう言っているうちに、准は近くの店に駆け寄り、大きな飴を買った。そして、その飴を持って女の後を追った。昌行が見ていると、准は女と子供の前に立ち、子供に飴を差し出した。
「これ舐めながら行き。お侍の子は泣いたらあかんで」
 准がそう言うと、子供は母親の顔を見上げた。母親が頷いて、
「いただきなさい」
と言うと、子供は准に一礼し、
「ありがとうございます」
と言って両手で受け取った。
 准は頭を一つ下げると、すぐに昌行のところへ走って戻ったが、女は子供と一緒に振り返ってそれを見送り、並んで立った昌行と准に頭を下げてから、子供の手を引いて歩いて行った。
 准はそれを見送りもせず、昌行の前に立って歩き出した。
「子供が気の毒か」
 追いついた昌行がそう言ったが、准は無言で目をこすり、ずんずん歩いていく。昌行は黙ってその後をついていった。
 昌行たちは、まもなく長野たちに追いつき、そのまま北上した。
 今まで歩いてきた壬生通りは、楡木で日光例幣使(れいへいし)街道と合流する。
 合流した後も、街道の名としては壬生通りである。
 日光例幣使街道は、中山道から倉賀野宿で分岐し、栃木を経て楡木に至る。かつて、家康の遺体が、日光に葬られる時に通った道であり、家光の代からは、朝廷から使わされた奉幣使が通行する道となっていた。
 二筋の街道が合流していたが、冬のせいか、人通りは多くはなかった。
 街道には杉並木があり、沈みつつある日が見え隠れした。さらに風は弱まり、歩くのは楽になった。
 奈佐原を過ぎ、鹿沼に着いたときには、宿をとってもいいような時間だったが、長野は先を急ぎ、文挟(ふばさみ)まで足を延ばした。
 鹿沼を過ぎ、歩くに従って、影が長くなっていき、日が傾いて、頭の影がどこにあるのか分からないほどになった。
 十五夜を過ぎたばかりで、まだ丸い月が東の空にあった。
 一行は、文挟に着いたときには、月明かりを頼りに足を運んでいた。
 着くのが遅かったので、夕食の用意ができるまでに時間がかかると言われ、井ノ原は、土地の役人に話を聞いてくると言って出かけていった。
 昌行は、
「疲れたろう、先に風呂に行け」
と、准に先に風呂に入らせた。
 すっかり暗くなっていたので、行灯のほかに、燭台も頼んだ。
 残った長野と昌行は茶をすすり、剛毅とケインは火鉢の炭をつつき、吹いてみたりしていた。息を吹きかけると赤くなるのが面白いらしく、交互に息を吹きかけている。
 しばらく四人は無言でいたが、昌行が口を開いた。
「あっしは、今まで何人も人を切りやした。やくざの出入りの助っ人になったこともございやす。しかし、今日ほどいやな気持ちになったことはござんせん」
 長野は茶碗を置くと、静かな声で言った。
「誰もが皆、命がけなのだ」
「お武家が大変なのはわかりますが」
 昌行は内心面白くないようだった。
 長野は腕を組み、しばらく考え込み、それから言った。
「明日(あす)……、明日にはすべて明らかにできる。私がしていることはお国のためになることなのだ」
「そのお国には、あっしらも入ってるんでしょうか」
「もちろんだ。武士も町人も、お上あってのものだ」
 火鉢を囲んでいた二人が声をあげた。強く息を吹きかけたために、灰が舞い上がったようだった。
「あの浪人の妻女はどうしたろう」
 長野が言った。
「身を売るようなことにならねばよいが」
 昌行は、子供の手を引いて歩いていった女の後ろ姿を思い出した。
「お武家の方ですし、縫い物かなんかで暮らしは立てられるでしょう」
 長野はほっとしたようだった。
「そうか。武家の女性が賤業に身を落としては、あまりにも気の毒だからな」
 昌行は黙って首を振った。
 その時、井ノ原と准が一緒に戻ってきた。
 准は、体を洗ってさっぱりはしたようだったが、元気がなかった。命のやりとりが続くことがこたえているようだった。
 井ノ原も気落ちしたような顔をしていた。
「状況はよろしくないようですな」
 腰を下ろして開口一番、そう言った。
「待ち伏せしてるようですかい」
 昌行が尋ねると、井ノ原は首を振った。
「そんなことではない。幕府がどうも大変なことになりそうなのだ」
 長野は真剣な目で井ノ原を見た。
「何かありましたか」
「これはただの噂ではないようですが」
 そう言って井ノ原は長野の顔を見た。
「武力で倒される前に、先手を取ってしまおう、という動きが強いようです」
 長野は黙り込んだ。
 沈黙が続き、夕食の膳が運ばれてきた。
 湯葉の揚げ物が珍しかったほかは、汁の実は凍り豆腐で、菜(さい)としては、蒟蒻(こんにゃく)の田楽、里芋と干瓢の煮物が並んでいた。
 准は、無言で平らげた。
 ゆっくり飲みながら食べていた昌行は、
「先に横にならしてもらえ」
と言って准を休ませた。横になった准は、すぐに眠り込んだようだった。
 食べ終えた長野は剛毅とケインを連れて風呂に行った。
 外から狙われるおそれがあったので、井ノ原が、一緒に行こうとしたが、剛毅とケインが他人と風呂にはいることを好まない、という理由で断られた。そこで、井ノ原は、自分と昌行に徳利を追加した。
 井ノ原は、田楽のみそが皿についていたのを箸につけて舐め、手酌で飲みながら、
「さすがに腕が立つな。剣術の修行をしたわけでもあるまいに」
と、独り言のように言った。昌行は、ぐっと猪口をあおると、
「死ぬのが怖くなけりゃ、誰だってあっしぐらいにはなれまさあ」
と、これも独り言のように答えた。
 井ノ原は昌行の顔を見た。
「死ぬのが怖くないか」
「へえ。少なくとも半年前からは怖くなくなりました」
「何かあったのか」
 昌行は、それには答えずにまた猪口をあおった。
「今も怖くないか」
 井ノ原が質問を変えると、昌行は口元で少し笑った。
「今は……、今はちっとは怖いような気もいたしやす」
 そう言って、寝ている准の顔を見た。准は口を開けて寝ている。
 風が雨戸に当たって音を立てた。
 井ノ原と昌行はそちらを見たが、その後は何の音もしなかった。
「お前、親兄弟はいないのか」
「いるもいないも」
 昌行はそこで言葉を切って、徳利を傾けた。
「無宿人のあっしにゃ、たとえいても、いないのと同じこってすよ」
 火鉢一つの部屋は寒かった。燗をした酒は、すぐに冷めた。
 長野たちが戻ってくると、昌行は井ノ原を先に風呂に行かせ、自分で膳を片づけて布団を敷いた。
 剛毅とケインはすぐに横になったが、長野は、座敷の隅に、昌行と火鉢を挟んで座った。
 燭台のろうそくが、炎をゆらめかせながら二人の横顔を照らす。
 昌行は、体を動かしたので酔いが回ってきたらしく、顔に赤みが差していた。
 風の音がする。
「冷えるな」
「はい」
 しばらく、風の音ばかりが聞こえた。
 思い切ったように昌行が口を開いた。
「長野様は、お武家の方が身を売るのをずいぶん気の毒がっておいでですね」
「ああ。気の毒ではないか」
「町人の娘なら気の毒じゃござんせんか」
「いや、そんなことはないが……。それでも、武士は武士だ。町人とは違う」
「そうですか」
 昌行は黙った。
 長野は昌行の顔を見て尋ねた。
「どうした。気にいらんか」
「気に……いりませんね」
 昌行は、長野の顔色をうかがいながらそう言った。
「あっしは……あっしの妹は、死んだ親の借金のかたに、連れて行かれちまったんですよ」
 長野は眉を寄せた。
「身を……」
 昌行は頷いた。
「あっしにはどうしようもなかった。連れてかれる妹をとりもどそうとして、袋叩きにされました。妹は、泣きながら連れて行かれたようでした」
「そうだったのか」
「なんとか身請けしてやりたかったんですが、親許身請けでも三十両はいる、と言われまして……。とてもそんな金は用意できるもんじゃござんせん」
 話しているうちに、やめられなくなったようだった。腹にたまっていたものを一気に吐き出すかのように、昌行は話し続けた。
「会いに行っても、店の裏で立ち話がせいぜいで……。すぐに追い払われちまう。ゆっくり話したいときにはね、どうすると思います」
 長野はそう聞かれたが、答えが分からず黙って首を振った。
「買うんですよ、妹を。そうすりゃ、一晩ゆっくり話ができるんです。一緒に夕飯を食って、飲んで、後は一緒に布団にくるまって話をするんでさ」
 剛毅とケインは、横になったまま、昌行が話すのを見ていたが、内容は理解できていないようだった。准は軽くいびきをかいている。
「妹はね、早く迎えに来てくれなんてことは一度も言わなかった。ただ、泣いて……。あっしもなんとかしてやりたかった。最後にあった時には、妹はもうあきらめてたようですが、それでもあっしは身請けしてやりたくて。それでまあ、金を貰って人を手に掛けるようなことも……。やっと、半年前に、三十両、身請けのための三十両が用意できて、飛んでいったら」
 昌行は手の甲で目を拭った。
「胸をやられてて……。間に合わなかった……。あっしが行った時には、もう、投込寺(なげこみでら)に放り込まれた後で……。ほかの女郎に聞いた話じゃ、火鉢もねえ部屋に寝かされてたっていう話で……。寺に行っても、ただの無縁仏と同じで、卒塔婆(そとば)一つ立ってるわけじゃなし」
 死んだ遊女は、わずかな銭を添えて、決まった寺に運び込まれることになっていた。山門に投げ込むようにして置いてくるので、それらの寺は投込寺と呼ばれたのである。
 こういった処置は、吉原に限ったことではなく、江戸四宿と呼ばれた、品川、新宿、板橋、千住でも同じことが行われていた。
 昌行は言葉を続けた。
「和尚にわけを言って、三十両出して、戒名をつけてもらって、永代読経を頼みましたが、結局、あっしがやくざになって金を稼いだのも無駄でした。かといって、一度やくざになってしまえば、足を洗うことなんかできやしません」
 長野は、昌行にかけるべき言葉を見つけることができなかった。
 昌行は一人で話し続けた。
「お武家が大変なのはあっしにもわかります。お上もたいへんでしょう。でも、あっしら町人だって……」
 そう言って昌行は自嘲するように笑い、長野に頭を下げた。
「申し訳ござんせん。つまらねえ愚痴を申し上げちまいました。勘弁してやっておくんなさい」
 そこに井ノ原が戻ってきた。
「こう冷えては、風呂にもつかっておれん」
 そう言って笑った。
 昌行は、
「それじゃ、ちょっくら行って参ります」
と、手拭いを手にして出ていった。井ノ原は、常ならぬ雰囲気を感じ取り、長野に、
「何がございましたか」
と、尋ねたが、長野は暗然とした表情で首を振るばかりだった。
 翌朝になると、風は止んでいたが、曇っていた。
 長野は、出立前に、宿で握り飯を用意させ、剛毅とケインに最初から靴を履かせた。
 外に出てみると、日光の山並みが、低く垂れ込めた雲を支えている。
 吐く息が白かった。
 板橋を過ぎ、余市に近づくと、長野は茶店で道を聞き、街道を東にそれ、余市を迂回して日光街道を横切った。
 今市から北へは、奥州の会津に通じる道が延びている。
「まさか本当に会津に行くわけではありますまいな」
 井ノ原は冗談半分に言ったが、長野は無言で先を急いだ。
 中禅寺湖に源を発する大谷川(だいやがわ)を越えた。
 道は北へ続く。
 茶臼山、毘沙門山を左に見ながら進んだ。
 日陰には雪が残っている。
 長野は回りを見ながら先に立って歩んだ。
「このまま行けば」
 井ノ原が不思議そうに言った。
「鬼怒川に出るはずだが」
 長野が頷いた。
「その通りでござる」
「湯が湧き出しているという話だが」
「そのようですな」
 長野は何か気になることがあるらしく、上の空で答えていた。
 前方が谷になった。
 水気を含んだ冷たい風が吹きつけてくる。
 川が見えた。
「鬼怒川だ」
 井ノ原がそう言うと、長野は頷き、立ち止まった。
 川の両岸はほとんどが崖になっていた。流れの中には大きな岩が見え隠れしている。
 長野はさらに足を進めた。
 北へ進むと、崖ではなく、なだらかな河原も見えてきた。
 長野はそこで立ち止まった。
 河原は、砂ではなく、砂利でできていた。
「ここで休もう」
 長野は回りを見回しながら言った。
 日は雲に隠れて見えないが、昼が近いらしい。
 六人はそれぞれ手近な岩に腰を下ろし、かたくなった握り飯を出してほおばった。
 准も、何か容易ならぬことが起こりそうな気配を感じ、無言で握り飯を食べている。
 川の流れは緩やかではなかった。
 見え隠れする岩のために白い波が生じ、音を立てて流れていた。
 長野は、食べ終えると、川で手を洗い、懐から書き付けを出した。
 回りの風景を確認しながら書き付けを見てこう言った。
「もう少し北らしい」
 それを聞いて井ノ原が言った。
「このあたりは神領(しんりょう)のはず。へたに足を踏み入れるとやっかいなことになりかねんが」
「差し支えござらん。日光奉行もご存知のはず」
 長野は剛毅とケインを見ると、頷いて見せた。
「ここでお待ちください。確認して参ります」
 丁寧な口調に、井ノ原は少し驚いたようだったが、長野は気にせず、昌行に声をかけた。
「一緒に来てくれんか。井ノ原殿がいれば、役人が来ても申し開きはできよう」
 昌行は、
「へい」
と答えて立ち上がった。
「井ノ原殿、それに准。お二人の警護を頼む」
 長野はそう言うと、昌行を促して歩き出した。昌行がその後に続く。
 道は上り坂で、右側が崖になり、わずかな河原を隔てて鬼怒川が流れている。
 二人は北へ向かった。
 人家もなく、行き交う人もない。奥州との国境(くにざかい)あたりは雪に閉ざされている季節であった。
 鬼怒川温泉は、今では温泉地として知られ、行楽地と化しているが、近世においては、家康の廟が近いこともあり、一般人の利用は禁じられ、入湯が許されていたのは日光山の僧侶だけであった。なお、「鬼怒川温泉」という名は、昭和になってからつけられた名で、それまでは、滝の湯、下滝温泉などと呼ばれていた。
 歩きながら長野が言った。
「昨日、お前に言われたことを考えた」
「昨日のこと、とおっしゃいますと」
「お前の妹のことだ。武士であろうが町人であろうが、気の毒であることにかわりはない。しかし、私は武士だ。武士としての役目を果たさねばならん。昌行たち渡世人にも、守らねばならぬことはあろう」
「それはもちろんございます。仁義を欠いちゃ、やっていけません」
「この仕事が終わったら、お前の妹が葬られた寺を見に行きたい。ずいぶん学問をしたつもりでいたが、世の中には、私の知らぬことが多すぎる」
「旦那が足を踏み入れるような寺じゃござんせん」
「妹の名は、何というのだ」
 昌行は困ったような顔をした。そして、少し間をおいて答えた。
「それが……じゅんと申しました」
「じゅん? あの弟分と同じ名か」
「へえ。妹が死んだ後、ひょんなことからあいつに会って……。名前を聞いたら准だなんぞといいやがって。それでどうも、捨てておけなくなってしまいまして」
「そうだったのか」
 進むうちに、前方に小屋が見えてきた。その脇は河原になっている。河原には小舟が繋いであった。
「あれだ」
 長野が足を早めた。
「誰か待ってるんですかい」
 昌行は、遅れないように続きながら尋ねた。
「ああ。これで旅は終わりだ」
 長野の声には明るい響きがあった。
 しかし、昌行が後ろから長野の袖をつかんで引き留めた。
「何をする」
「しっ」
 昌行は唇に指を当てた。小屋の方から物音がする。人の声もした。
「揉めているようです」
 確かに、人が争うような音がしていた。昌行は長野と共に、道の脇の茂みに身を隠し、小屋の様子をうかがった。
「やめろ」
 小屋から怒鳴り声が聞こえた。
 ガタン、と音がして小屋の戸が開く。出てきたのは、羽織を着た武士だった。見覚えがある。
「中居って野郎ですぜ」
 昌行が言うと、長野が頷いた。
 中居に続いて武士が三人出てきた。いずれも、裾を絞った裁衣袴(たっつけばかま)を穿いていた。出てきた四人は、小屋の中をにらみつけると、繋いであった小舟に乗った。最後に乗った男が竹竿で岸を突くと、小舟はすぐに流れに乗り、鬼怒川を下っていった。
 もう物音はしない。
 長野は茂みを飛び出し、小屋に駆け寄った。昌行が続く。

(続く)


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