(第1回)

 夜明け前の薄闇の中、小舟が河口近くの砂州に漕ぎ寄せた。
 季節は冬を迎えようとしており、冷気が川面を覆っていた。砂州には提灯を手にした男がいた。吐く息が白い。
「お待ち申し上げておりました」
 小舟から人影が二つ、降り立った。
「ご無事で何よりです」
 小舟の漕ぎ手は何も言わず、すぐに砂州を離れて沖へと去った。
「ひとまずこれをお召しくださいませ」
 男は提灯を足下に置き、用意しておいた道中合羽を羽織らせた。
「こちらへどうぞ」
 小舟から下りた二人は、男に案内され、無言で後についていった。
 東の水平線が明るくなっていった。
 紫の雲がたなびいている。
 薄明の中で、少し離れた場所から、枯れた葦の原に身を伏せ、三人の様子をうかがっている男がいた。
 そして、さらに離れたところにもう一人。その男のそばには、馬が繋いであった。

 まだ朝早いが、渡し舟はほぼ満員になっていた。
 荷商いの商人や旅姿の男、商家の娘と女中などが入り混じっている。
 最後に、羽織を着た若い侍一人と、道中合羽に三度笠の男が二人乗り込んだ。三人は一緒らしい。妙な組み合わせに、船頭は少し首を捻ったが、渡し賃を受け取ると、棹を手にし、客に声をかけた。
「じゃあ、出しますぜ」
 船頭が船を出そうと時、声がかかった。
「おおい、待ってくれ」
 これも羽織を着た若い侍が、早足に歩いてくる。
 船頭は手を止め、
「申し訳ございません。あいにく一杯でして」
と、声をかけたが、相手は、
「済まんが、急ぎの用があるのだ」
と言って、懐にあるものをちらりと見せた。船頭は嫌な顔をしたが、すぐに笑顔を取り繕い、乗っていた客に向かって声をかけた。
「少し詰めておくんなさい」
 先に乗っていた客達は、少しずつ舳先(へさき)の方へ身を移した。
「や、かたじけない」
 その侍は笑顔で乗り込んだ。
「窮屈な思いをさせて済まんな」
 あくまでも笑顔で先客に詫びる。
「では、出します」
 船頭は言葉を改め、ともづなをとくと、櫓で岸を突いた。
 渡し船は川面を滑り、緩やかな流れに少し流された。船頭はすぐに櫓を使い始めた。
 河口に近く、川幅は広い。向こう岸までは遠い。
「何度見ても広いなあ、さすが利根川だ」
 最後に乗り込んだ侍は誰に言うともなく言った。
「へえ。日本一の川でございます」
 仕方なく船頭が応じる。
「これだけ広いと、黒船でも通れそうだな」
「黒船、でございますか」
「ああ。一度見たことがあるが、でかいといっても大したことはねえ。この川なら入って来られそうだ」
「物騒でございますねえ」
「このあたりにゃ、黒船が来たりしねえかい」
「沖まで出る漁師の中には、黒船を見た、なんて言うのがいますが、さあ、本当かどうか、わかりませんねえ」
「そうかい」
「お武家様は、お江戸の方でございましょうね」
「まあな」
「お江戸も大変でございましょう」
「なあに、公方様のお膝元だ。ぐらつくようなことはねえよ」
 男は、船頭と言葉を交わしながら、目は、先に乗り込んだ三人連れを観察していた。羽織の武士は黙って向こう岸を見ている。三度笠の二人は、顔を伏せ、膝を抱え、合羽で体を覆うようにしていた。
 男は、その二人の足元に目をやり、何か思うところがあるようだったが、あとは素知らぬ顔をして渡し船からの眺めを楽しんでいた。
 小舟は、銚子から波崎へと、何事もなく利根川を渡った。
 三度笠の二人を連れた侍は、利根川沿いに上流へ向かう。後から舟に乗り込んだ男は、間を開け、つかず離れずその後をつけていった。
 しばらくすると、羽織の侍が後ろを振り向いた。男と目があった。
 前を歩んでいた侍は、つかつかと歩み寄った。
「先ほどから、我らの後をつけておられるようだが、何かご用か」
 仕方がない、というように男は笑った。
「その通りだ」
 男は懐を開けて見せた。鉄製の十手がのぞく。柄(え)には紫の房紐が結ばれている。
「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)、井ノ原快彦と申す」
 関東取締出役とは、いわゆる八州回りで、関東全域を管轄する広域警察のようなものである。八州とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の八カ国を指す。
「ほう、ずいぶんお若いですな」
「いろいろ物騒で、人手が足りんのだ。はっきり言おう。お名前と、旅の用向きをうけたまわりたい」
 羽織の侍は少し躊躇し、三度笠の二人を振り返ったが、井ノ原に向き直り、目をそらさずに答えた。
「拙者は、幕臣、長野博」
「ご身分は」
「幕臣、で充分であろう」
「どちらへ行かれる」
「鹿島神宮の参拝だ」
「お連れの方は」
「答える必要はない」
「役目ですので」
「幕臣の監察は目付の役目のはず。どうしてもというのであれば、勘定奉行様を通して若年寄様へお尋ねいただきたい」
 取締出役の井ノ原は、肩をすくめた。八州回りは勘定奉行の支配下にあるが、旗本・御家人といった幕臣の問題を扱うのは目付で、目付は若年寄の所管である。
「そう杓子定規におっしゃらずとも。せめて笠のうちの顔だけでも拝見したい」
「どうしても見たい、と言われるか」
「どうしても、でござる」
 長野と名乗った侍は、懐から書き付けを出した。
「まず、これをご覧いただきたい。勘定奉行様もご承知のことだ」
 井ノ原は、遠慮なく受け取って読み始めた。
「この書状を携えし者……」
 この書面をもつ者については、不審の点があっても改めるには及ばない、何かあれば救援せよ、と、老中の名で記してある。花押(かおう)には見覚えがあった。花押というのは、判の代わりになる署名で、他人にはまねのできない、崩し字を図案化したものである。
「ほほう……」
 井ノ原は感心した面もちで書状を返した。
「これでよろしいか」
「よろしい、と申し上げるしかありますまい。どうぞ」
「では、御免」
 長野は三度笠の二人を促し、歩き始めた。
 三度笠の二人は、寒さをしのぐための道中合羽をまとっている。長めの合羽なのだが、時折、足元がのぞいた。
 井ノ原はその足元に目をやり、一人頷くと、三人の後を追ってゆっくりと歩き始めた。
 間を開けたまま後をつけていくと、後ろから、蹄の音が聞こえた。
 侍が一人、馬を走らせて来る。井ノ原のそばまで来た時に、馬は速度を落としたが、それは井ノ原がいたためではなかった。
 馬上の侍は、前を行く三人連れを気にしている。
 三人は後ろから馬が来たので、道ばたに身を寄せた。馬が迫る。井ノ原にその侍の背中が見えた。打裂羽織(ぶっさきばおり)を着ている。背の下半分を縫い合わせていない、乗馬用の羽織である。裂けた部分から、刀の鐺(こじり)がのぞいていた。
 馬上の侍は、三人をしげしげと見ながら、ゆっくりとその横を通った。それからまた馬に鞭を当て、駆けさせた。
 三人連れは、馬が行き過ぎると、また歩き始めた。井ノ原も後を追う。
 利根川は、さかのぼっていくと途中で二つに分かれる。
 一つは利根川の本流で、もう一つは、霞ヶ浦に通じ流るれである。二つの流れは、砂州によって隔てられ、現在では、霞ヶ浦に通じる流れの方は、常陸(ひたち)利根川と呼ばれている。街道は、今の常陸利根川の北岸にあった。
 まだそれほど日が高くならぬうちに、三人連れは、街道沿いの、小さな飯屋に入った。
 飯屋とは言っても、よしず張りの小屋で、縁台が並んでいるだけだった。
 離れて見ていた井ノ原は、少し間をおいてから、飯屋の前を通り過ぎた。
 ゆっくり歩きながら、横目で中をのぞく。三度笠の二人は、長椅子に腰掛け、笠をとらずに飯を食べていた。箸の使い方がぎごちない。
 井ノ原は少し先まで行き、宿場のはずれの地蔵堂のわきに腰を下ろし、懐からにぎりめしを出した。
 三人連れが来るのを待ちながら、ゆっくり食べる。
 晴れてはいるが空気は冷たい。もう十月だ。
 陰暦の十月は、太陽暦の十一月から十二月半ばにあたる。
 ところどころに人家があるほかは、すっかり干上がった田圃(たんぼ)が広がっていた。
 かたわらに生えている柿は、すっかり葉を落とし、梢には、木守(きまも)りの実だけが赤くなって揺れていた。
 三人連れは現れない。
 立ち上がってあたりを見回すと、竿を突いて、川をさかのぼっていく舟が見えた。それを見て井ノ原は、
「しまった」
とつぶやき、左右を見回した。
 乗っている客の中に、あの三人連れがいた。井ノ原は、走ってそれを追おうとしたが、すぐに思い直し、船着き場へと向かった。
 荷を積んできた舟が帰りに客を乗せていたのである。井ノ原は、潮来へ向かう船を見つけると、十手を見せ、乗り込んだ。
 船が止まるたびに、武家と三度笠二人の三人連れを見なかったか、と尋ねるのを繰り返し、息栖(いきす)神社で降りたことが分かった。
 息栖神社は、川岸に鳥居があり、船で漕ぎ寄せてそのまま参道に入るようになっている。
 波崎から川沿いに続いていた道は、息栖で二つに分かれる。そのまま西へ行けば潮来に至り、北へ向かえば、鹿島を抜け、海沿いに水戸へ向かうことになる。
 十手をちらつかせて茶店の女に聞いてみると、三人連れは北に向かったという。鹿島神宮への参拝というのは嘘ではないらしい。
 井ノ原は急ぎ足に後を追った。
 道は一本である。三人連れは旅には不慣れなように見えた。容易に追いつけるはずだ。
 予想通り、まもなく、前方に三人連れの後ろ姿が見えてきた。
 しばらく行くと、三人の向こうに、馬の侍がいるのに気がついた。三人連れを見ながら抜いていった男だ。その侍は、三人をじっと見て、それから馬を走らせていった。
 長野と、三度笠の二人は、無言で歩いていく。井ノ原は黙ってついていく。
 何度か長野が振り返ったが、井ノ原は意に介せず、ただついて行った。
 鹿島神宮は、天孫降臨に先立って国譲りの交渉をしたとう武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀(まつ)っており、どっしりした朱塗りの楼門が参詣者を迎え入れる。
 長野は二人とともに楼門をくぐると、本殿に詣で、杉林の中の道を奥へと向かった。
 かつて塚原卜伝(つかはらぼくでん)が、鹿島神宮に参籠して極意を会得し、新当流を開いたという言い伝えがあり、剣術修行中らしい侍の姿も散見された。
 井ノ原は、少し距離を取りながら三人に続く。
 森閑とした木立の中に、神の使いといわれる鹿の姿が見え隠れした。
 本殿の奥まで足を延ばす参詣人は、多くはなかった。
 長野は参道を抜け、奥の院のところで右へ折れ、小道に入った。その先には、小さな社と、土から頭を出した石があった。
 長野はそれを指差し、二人に何か説明している。井ノ原は、耳をそばだてながらそばへ行ったが、何を言っているのか理解できなかった。
 長野は、井ノ原が近づくのを見て、苦笑し、わざと声を大きくした。
「そういうわけで、この要石(かなめいし)が地震を押さえているわけです」
 井ノ原は三度笠の二人に並んで石を見下ろした。
 見たところは、ただの岩にしか見えないが、いくら掘っても掘り出すことがないと言われている。この石が、大地を押さえ、地震を防いでいるという言い伝えがあった。
「それにしては、安政の時はひどいことになりましたな」
 井ノ原はからかうように言ったが、長野は相手にしなかった。
 安政年間には、元年(一八五四)に、遠州を中心にした地震と、紀伊から四国にかけてを襲った地震が続いて起こり、翌年には、江戸に甚大な被害を与えた直下型地震が起こっていた。安政元年には、前年に続いてペリーの来航があり、それと相俟(あいま)って、世情は不安に陥っていた。
 要石見物らしい侍の二人連れが来たので、長野達は場所を空けた。二人連れは、剣の道に志を立てているのか、浪人ながら、顔つきに緊張感があった。
 長野が二人を促して歩き始めたので、井ノ原は、その横に並び、
「このあとはどちらへ」
と、尋ねた。
「裏の池を見ます」
「それから」
「それを聞いていかがなさる」
「いや、別段どうするということもござらん」
 長野たちは、奥の院の所まで戻ると、入ってきた楼門とは逆の方へ向かった。細い下り道になっている。
 井ノ原も黙ってついていった。
 道を降りきったところには、茶店があり、その向こうに、池があった。御手洗(みたらし)の池である。右側の崖の裾に、男が二人いて、柄杓で水を飲んでいたが、長野達が来たのを見て場所を空けた。
 場所を空けてくれた二人を見ると、ぼろぼろの合羽をまとっている。全体が鼠色になっているが、もとは縞の模様があったらしい。脇差しを差しているのが合羽の上からでも分かった。
 足には、穴が開いて指ののぞいている足袋と草鞋を履いている。流れ者の渡世人らしい。そのうちの一人は、井ノ原の顔に見覚えがあるらしく、顔を背け、目を合わさぬようにして、池の周りを迂回し、坂道の方へ移動していった。
 それまで二人がいた崖の裾には、石組みがしてあり、その中で滾々(こんこん)と清水がわき出していた。
 長野はそこにあった柄杓で一杯飲んでみせ、連れの二人に柄杓を渡した。二人もまねて飲む。井ノ原も飲んだ。
 冷え冷えとした空気の中で、清水の方がぬくもりがあるようにさえ感じられた。
「さて、この後は」
 井ノ原は、顎の滴を拭いながら尋ねた。長野は苦笑した。
「香取神宮に参詣いたす」
「ほう、武者修行の途中ですか」
「いや、その方面はめっきり不調法で。では、御免」
 長野は一礼すると、連れの二人と、もとの道へ戻っていった。
 井ノ原は、長野たちと離れ、反対側へ行った。そちらからも神宮の森から抜ける道があり、役人の詰め所があった。
 そこで、何か変わったことがないか聞き、ついでに茶を振る舞ってもらうつもりだった。長野たちは三人連れだ。後ですぐに追いつくことができる。
 一方、長野は自分が先頭に立って狭い坂を登っていった。両脇は少し高くなり、どまでも杉が生い茂っている。風が吹き抜け、枯れた下草がかすかな音を立てた。
 長野は、坂の途中で足を止めた。
 坂の上に、浪人が二人立っているのが見える。先ほど、要石のところで会った二人だ。二人とも、刀の鍔(つば)に、左手の親指をかけていた。
 長野は手真似で二人を促し、脇の木立に入った。二人のいるところを迂回するつもりだったが、浪人はそれに気づき、三人の先回りをするようにして木立の中に入ってきた。
 避けようがなかった。
 杉の森の中で、長野たち三人は、刀を抜いた二人の浪人に行く手をふさがれた。
「何のまねだ」
 長野は、二人を後ろにかばいながら尋ねた。表情はこわばっている。
 三度笠の二人は、合羽の中で何か手探りしてるようだった。
 浪人は、これも顔をこわばらせて答えた。
「わけをいう必要はあるまい」
「雇われたのか」
「答える必要はない」
 右側の浪人は、そう言いながら刀を振り上げた。次の瞬間、黒いものが宙を飛び、その浪人は刀を取り落とし、右腕を左手で押さえていた。
 もう一人の浪人は、それを見ると、すぐさま長野に切りかかったが、今度は、静まりかえった神宮の森に銃声が響き、これも刀を取り落とし、右肩を押さえた。
 長野の後ろにいた二人が、長野の両脇に立っていた。一人は鞭を手にし、一人は拳銃を握っている。
 それぞれ合羽を肩にからげ、半身が見えている。二人とも洋服を身につけいていた。
 拳銃の男はジャッケトを着ていたが、鞭の男は革のベストを着ていた。
 風が、硝煙のにおいを運んでいく。
 浪人は二人とも青ざめ、顔を見合わせると、落とした刀を拾い上げ、走って逃げ出した。
 三度笠の二人は、それぞれ合羽の前を合わせ、もとのように身なりを隠した。
 長野は、逃げた浪人の後を追うことはせず、二人を促して立ち去ろうとしたが、今度はそこに井ノ原の声がした。
「何事でござるか、今の銃声は」
 井ノ原が、十手を握りしめ、木立の中を走って来る。
 長野が立ち止まり、顔をしかめた時、横から、
「何だろうな、今の」
「あっちの方から聞こえたで」
と言いながら二人の渡世人が現れた。御手洗の池の脇で水を飲んでいた二人だ。
 そこへ井ノ原が到着した。
「これは、旦那」
 井ノ原の顔を知っているらしい男が声をかけた。
「あっちの方で鉄砲を撃ったやつがいるみたいですぜ」
 そう言いながら、浪人が逃げていったのとは全く違う方を指差した。
「鹿でも撃とうちゅうんやろか。とんだ罰当たりなやつもおるもんやなあ」
 その連れの若い男も、男が指差す方に顔を向け、木立の中を透かして見ている。
 井ノ原は男をにらみつけ、
「嘘じゃあるまいな、昌行」
と強い語調で迫った。
 昌行と呼ばれた男は、苦笑してこう言った。
「八州回りの旦那に嘘をつくような度胸はありませんや」
 井ノ原は、男をにらみつけると、長野の方へ向き直り、
「この男の言葉は、まことでござるか」
と、尋ねた。
「確かに。あちらから銃声がいたしました」
 長野も同調する。
 井ノ原は少し迷ったが、とりあえず、指で示された方向へ走っていった。
 長野は、昌行と呼ばれた男に頭を下げた。
「助かった」
「いやあ、あの旦那の鼻を明かしてやりたかっただけでしてね」
 井ノ原の背中を見送ってから、五人は木立を抜け、参道に出た。
 長野と昌行が並び、残りの三人は後ろに続いた。

(続く)


「投奔怒流」目次

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