女化
(おなばけ)

(後編)

 代官所からの迎えが来たのは、植草が帰ってすぐだった。
 急いで羽織をまとい、何事かと駆けつけると、東山と松岡が待っていたので驚いた。
 昌行の表情を見て取って、東山は決まりが悪そうにこういった。
「実は、こちらの松岡殿は、さるお方の添え状をお持ちでな。ひとまず話はうかがったのだが……」
「狐憑きの話、でございますか」
「うむ」
 東山も困惑しているようだったが、松岡の表情には自信があふれていた。
「間違いない。狐が憑いておる」
 昌行は東山を見た。東山は目をそらし、扇子で背をかきながら、
「植草なら、近藤屋と縁がないわけでもないし、一度会ってはいるというのでな、来て貰ったのだが、どうしたものかな」
と、救いを求めるような口調になった。
 昌行は、松岡に向き直り、
「もし仮に狐が憑いているとしても、あの健吉は、ありがたがられているようでございます。本人も回りも今のままがよければ、何もわざわざお手を煩わせることはございますまい」
と、反撃に出たが、相手はひるまなかった。
「それなのだ。最初は誰でもありがたがられる。しかし、やがて煙たがられ、疎外されるようになるのだ。そうなる前に手を打てばよいのだ。長い目で見れば、その方がよい。手を貸してくれ」
「しかし、狐憑きだの狐の子だのということに、お上の御用を務めるあっしが手を貸すというのはどうも……」
 松岡は身を乗り出した。
「今、狐の子、と申したな。やはりそういう話があるのか。狐の子と言われておるのか」
「いや、別段そういうわけではございませんが……」
 昌行は唇をかんだ。剛太に聞いた話が頭にあったので、つい口に出してしまったのだ。
「いやいや、きっとそうに違いない。狐の子と言われるのもよくある話だ。ますます放ってはおけん」
 昌行は再び東山を見た。今日ばかりは、東山に対して恨みがましい気持ちが兆すのを抑えることはできなかった。
 東山も、責任を感じてか、昌行に加勢した。
「狐の子などという、埒(らち)もないことに……」
 しかし、松岡は最後まで言わせず、一気にまくし立てた。
「何をおっしゃる。たとえば、陰陽師として名を残した安倍晴明は、信田(しのだ)の狐の子と伝えられていることをご存知ないか。また、古くは、『日本霊異記(にほんりょういき)』にも、狐直(きつねのあたい)と申して、狐が人の妻となり子を残した話が記されております。一概に、埒もないなどと決めつけてはなりませんぞ」
 東山は昌行と顔を見合わせ、しばらく黙った。
 昌行は、外に目をやった。
 若葉の緑の中に、辛夷(こぶし)の白い花が浮き上がっていた。女化稲荷の縁起もあるし、狐が人の妻となって子を残したという話は、聞いたことはあったが、今まで、真に受けている人間がいるとは思ってもみなかった。
「なにゆえ、それほどまでに執心なさるのかな」
 ややあって、東山が尋ねた。
「それは……」
 松岡の口調が変わった。
「実は、わたし自身が、狐の子と、言われて育ったのです」
 先ほどとはうって変わった訥々とした調子だった。昌行は松岡に視線を戻した。
「わたしは、さる西国の大名の江戸屋敷でうまれましたが、実の母は武家の娘ではござらん。飯綱(いづな)使いでありました。飯綱使いをご存知でしょうか」
 東山は頷いた。
「占いを業としてしておるとか」
「はい。占いのほかに、呪いを請け負うこともあるようです」
 飯綱使いというのは、管狐(くだぎつね)などと呼ばれる霊を養い、その力を借りて占いなどを行う者で、男女を問わず、それをなりわいとする者がいた。
「ある時、父の難を救ったことから気に入られ、側室となったのです。母は、わたしが八つの時に亡くなりました。父にはすでに跡継ぎがありましたので、わたしはただの厄介者となりました。母は、つまり、父の正室は、わたしを狐の子と呼んで蔑みました」
 松岡は目を閉じた。その表情を見るに、嘘ではないようだった。松岡はまた目を開け、話を続けた。
「わたしは、母に気に入られようと、できるだけのことをしました。失せ物を見つけ、難を前もって察知しました。なぜか、わたしにもそのような力が備わっていたのです。しかし、そうすればするほど、母には疎まれました。今になってみれば、その訳はよくわかります。ただでさえ、飯綱使いの子で薄気味が悪いのに、人にできぬことができるのですから。わたしは、父の配慮で、家を出て学問の道に進むことになりました。幸い、師はわたしを理解してくれ、わたしのような目に遭う者がなくなるよう務めよ、と励ましてくれました。それで、蔑まれそうな者を救うことを天命として諸国を巡っておるのです」
 松岡の大きな目に、偽りの色はなかった。
「大変な思いをなさってきたことはわかりましたが」
 昌行が口を開いた。
「しかし、あの健吉が狐憑きだということが、どうしてお分かりになったんでしょう」
「見ればわかる」
 松岡は、自信のある表情に戻った。
「しかし、ほかの者はそれだけでは納得いたしますまい」
「お前も納得せんか」
「はい」
「では、一つ当てて見せよう。あの男、健吉と申すようだが、雇われてあまり間があるまい」
「はい」
「今まで、一つ処に長く務めたことはないはずだ」
「確かにそのようですが、それは、訳あってのことでございます」
「訳とは」
「生き別れのおっかさんを捜していると言っておりました」
 そこで、昌行は、健吉の身の上話をかいつまんで話して聞かせた。
 しかし、松岡は納得しなかった。
「いや、そんなはずはない。あの男の母は生きてはおらぬはずだ」
「なぜわかります」
「見れば分かる。それにだな、もし母を捜していたとしてもだな、居場所がすぐに変わるのでは、誰かが見つけたとしても、知らせてもらえぬではないか」
 言われてみればそうだった。昌行は顎に手をやって考え込んだ。
「早めに手を打つことが肝要だ。手を貸してくれ」
 松岡は、あくまでも真剣だった。
「狐憑きでいい、などと言われるのは最初のうちだけなのだ。やがては気味悪がられる。あたりまえのことだが、できることとできぬことがある。どうしてもできぬこともあるのだ。しかし、期待されていながら、できぬ、ということになると、今度は冷たい目で見られることになるのだ。それにな、何か良い目に合うと、今度はねたまれることになる。西国(さいごく)には、犬神(いぬがみ)憑きと呼ばれる家があるが、それは人をねたむ心が生み出したものなのだ。にわかに分限者になった者を、犬神が憑いているからだ、などといって蔑むのだ。そうやって、いい目にあえぬ己を慰めるのだろうが、妬みと蔑みを同時に受けるというのはつらいものだ」
 昌行は、じっと松岡の顔を見た。

「どう思う」
 近藤屋に戻った昌行は、煙管を片手に、代官所で聞いた話を博に聞かせた。
「そうですねえ」
 博は算盤をはじきながら答えた。
「親がいないとあれこれ言われるもんです。それに、東山様まで一緒になって憑きものを落とすというのは、ちと具合が悪いんじゃないでしょうか」
「そうだよなあ」
 昌行はそう言って煙を吐いた。
「しかし、何でも添え状があるとかでな。後でうかがったら、森様とか言っていたな。どうから、東山様はその方には頭が上がらないようだ」
「それなら、いっそのこと、松岡という人の言うとおりにさせてみたらどうです。何も起こらなければ、おとなしく退散するでしょう」
「それもそうだな」
 そう答えながら、昌行は、健吉の不安そうな目を思い出していた。

 翌日は朝から晴れていたが、少し風があった。
 昌行が、いつものように離れに行くと、佐知はすぐにキミを呼んだ。そして、キミを縁側近くに座らせ、
「夕べの話をしてごらん」
と、うながした。
 キミは、おずおずと、濡れ縁に腰を下ろした昌行の顔を見た。
「どうしたい。何かあったか、おキミちゃん」
「ケンちゃんのことですけど……」
「ケンちゃん?」
 横から佐知が補足した。
「植草さんのところの若い人のことだよ」
「ああ、健吉だね。あいつがどうかしたかい」
「おっかさんを捜してるって言ってるそうですけど……」
「ああ、そう言っていたな」
「あの……。おっかさんはもう亡くなってるんです」
 昌行は、佐知の顔を見た。
「そうなんだってさ。もう亡くなってるそうだよ」
「じゃあ、あいつはそれを知らねえで捜してるってわけかい」
 キミは小さく首を横に振った。
「知ってるはずです」
「知ってる?」
「はい。ケンちゃんは、あたしの村にいたことがあって、その時、おっかさんが亡くなったって」
「自分で言ってたのか」
 キミは再び首を振った。
「村の人たちが言ってました。でも、ケンちゃんも知ってるはずです」
「どうもよく分からねえな」
 キミの話によれば、父親の死後、健吉は、キミの村に住む親戚に引き取られた。そこにいる間に、母親はどこかで亡くなった、というのだ。
 昌行は、松岡が、健吉の母は死んでいる、と断言したことを思い出した。
「いったいどこで死んだってえんだ。とむらいはあったのか」
「お葬式はありませんでした」
「なんで死んだことがわかったんだ。行方知れずだったんじゃねえのか」
「あの、あの……」
 キミは、横目で佐知の顔色をうかがった。佐知が代わりに答えた。
「売られたんだよ。女郎に」
 それを聞いて、昌行は、剛太の言っていたことを思い出した。
 健吉が八つの時に、母親は売られた。大人はそれを知っていただろうが、子供たちの間では、行方知れずになったことになっていたのだ。そのために、女化の狐だったのだという噂が流れたのだろう。
 すぐに父親も死に、健吉は、剛太と同じ村から、キミの住んでいた村に引き取られていったため、剛太は、健吉の母は行方知れずになったままだと思っていたのだ。
「名前は昔から健吉だったのかい」
「いいえ。ただのケンでした。狐の鳴き声みたいな名前だって言われてました」
「おっかさんが亡くなってることを、健吉は確かに知ってるはずなんだね」
「はい」
 昌行は、腕を組んで黙り込んだ。
「夕べ、あたしが、健吉の話をしてやったら、おキミがびっくりしてね。おっかさんはもう亡くなってるはずだって。それで、耳に入れておこうと思ったんだよ」
 昌行は佐知の顔を見た。なんと言えばいいか分からなかった。
 佐知は、興奮しているのか、少し顔に赤みが差していた。いつもの青白い顔とは違い、生き生きして見えた。昌行は、佐知の顔色がいいことに気づいて、健吉のことを忘れそうになったが、佐知が健吉のことを思い出させた。
「もういないことが分かってても、どこかで生きてるって思いたいのかもしれないねえ」
 そう言う佐知の話を聞いて、昌行は立ち上がった。
「ありがとうございます。ちと気になることがあるんで、出かけてまいります」

 植草屋の店先では小僧が二人、ほこりよけの水をまいていた。
「健吉さんはいるかい」
 昌行が尋ねると、一人が、
「隠居所の方におります」
と丁寧に答えたが、昌行が少し離れると、ひそひそと言葉を交わした。その中に、「狐憑き」という言葉があったのが耳に入った。
 昌行が振り向くと、手を止めて昌行の方を見ていた二人が、あわてて手を動かし始めた。
 健吉は好奇の目で見られている。それがよく分かった。
 裏手の隠居所に回ると、健吉が箒(ほうき)で庭を掃いていたが、昌行の姿を見ると、手を止めて挨拶した。
「ご隠居はいるかい」
「出かけております」
「そうか。その方が都合がいい」
 昌行は、四つ目垣を回って木戸から入り、健吉の前に立つと、単刀直入にこう尋ねた。
「お前さん、おっかさんがとっくに亡くなってることを知ってるね」
 健吉は、無言で、昌行の顔を見つめた。
「知ってるね」
 そう繰り返すと、無言のまま頷いた。
「そうかい。それはまあ、いい。ところで、お前さんは、人にできないことができるね」
 健吉の顔に警戒の色が浮かんだ。
「それでとやかく言うつもりはねえんだ。実は、頼みがあってな」
「何でしょうか」
 やっと声を出してそう言った。
「うちの姐さんの病のことは知ってるな」
 健吉は頷いた。
「お前さんの力で、治せねえかな。病の治る薬をみつけてくれるんでもいいんだが」
「それは……」
 健吉は俯いた。
「できねえかい」
「はい……」
 もし、佐知の病が治せるなら、狐憑きのままでも自分が目を掛けて護ってやろう。昌行はそう思っていた。しかし、予想していたことではあったが、できる相談ではなかったようだ。
 昌行の心の中に、失望が拡がった。
 そして、その時、松岡に言われた言葉がよみがえった。
「期待されていながら、できぬ、ということになると、今度は冷たい目で見られることになるのだ」
 自分もまた、冷たい目で見る人間になりかねない。そのことに気づいて、昌行ははっとした。そして、小僧たちの好奇の目を思い出した。
 ばかばかしいと思っていたことが、にわかに現実のものとなってきた。
「お前さん、一つところに落ち着きてえと思わねえか」
 健吉は無言だった。
「今まで人にあれこれ言われて来たろう」
 それには小さく頷いた。
「よかったら、手を貸すぜ。うまくいけば、ずっとここにいられるかもしれねえ」

 ついに、ばかばかしいと思っていたことに手を貸すことになってしまった。
 健吉を残し、昌行は代官所へ行った。それから松岡の宿へ行った。
 そして、再び植草の隠居所へ顔を出した。
 今度は、植草もいた。
 昌行は、植草には、東山の立ち会いのもと、松岡との間で決着をつけることになった、と説明した。
「そういうわけで、ちょいと、健吉さんを借りていきます」
 そう言うと、植草は、
「わしも行こうか」
と言ったが、大したことではないから、と断った。
 何が起こるかわからないが、立ち会う者は少ない方がいい。
 代官所の奥まった座敷で、東山と松岡が待っていた。
 松岡の前には、石の玉があった。両手で包めるかどうか、という大きさのもので、いつも、その座敷の床の間に飾ってあったものだった。
 昌行は、松岡の正面に健吉を座らせ、自分は横手に座をとった。
「母を捜しているという話だったが……」
 松岡は、穏やかに話しかけた。
「すでに母は亡くなっておることは、自分でも分かっておるな」
 健吉はおとなしく頷いた。
「実は、そなたは、その母に護られておるのだ。そなたの母は、狐などではない。ただ、そなたのことを思う余り、念が残り、そなたから離れずにおるのだ」
 東山と昌行は、無言で二人を見つめていた。そう言われてみると、健吉のうしろに、女の姿が見えるような気がしてきた。
「しかし、このままでは、そなたは当たり前の人間として暮らしていくことができぬ。そなたの母も、そなたが一人前の男として生きていくことを望んでおるはずだ」
 健吉は頷いた。
「では、ここで、その母には去って貰おう。このままでは成仏できぬ。それでは親不孝というものだ。よいな」
 健吉は俯いた。
「悪いようにはせん。そなたのためであり、そなたの母のためなのだ」
 健吉は小さく頷いた。
「そうか。では、この玉を見るのだ」
 そう言って、松岡は石の玉を少し押し出した。
「よいか。じっとみつめるのだ。わたしはこれから三つ数える。数え終わったとき、そなたは、わたしの声以外は耳に入らぬようになる。よいな」
 健吉は石の玉を見つめたままじっとしていた。
「一つ、二つ、三つ」
 松岡が低い声で数え、健吉の様子を見た。健吉はじっとしている。松岡は、穏やかな声でこういった。
「さあ、今、お前の体から母親が離れるぞ」
 昌行の目には何も見えなかったが、松岡は、健吉の体から何かを引き出すような仕草をした。そして、引き出した何かを石の玉の上に押さえつけるような手つきをした。
「この玉に、お前の母が入る。そして、そうなったら、お前は、母の力を借りずに、一人で生きてゆくのだ。よいな」
 健吉は玉を見つめたまま頷いた。
「ええいっ」
 松岡が低い声で気合いを込めると、昌行の目には、玉が一瞬鈍く光ったように見えた。
「さあ、これでもうお前は一人だ。しばらく眠るがよい」
 そう言って、松岡は、健吉の体に手を添え、横にしてやった。健吉は目を閉じ、かすかな寝息を立て始めた。
「今のは、この男の母だったのでござるか」
 東山の声は、興奮に震えていた。東山にも何か怪異というべきものが見えたらしい。
「そうであるとも言えますし、そうではないとも言えるのです」
 松岡の声は落ち着いていた。
「本当に母の魂が憑いていたものか、あるいは憑いているとこの男が思いこんでいたのか、それはわかりませぬ」
「わからぬ? しかし、松岡殿は、この男に何かが憑いていると……」
「確かに。私はこの男の母の姿を見ました。しかし、それが真にこの男の母なのか、この男の思いの生み出したものなのかはわからぬのです」
 昌行は手ぬぐいを出して額を拭った。いつの間にか、汗をかいていた。そして、尋ねた。
「健吉は、もう狐憑きではなくなったと、皆に申してよろしゅうございますか」
「いやいや、そのような言い方をしてはいかん」
 松岡は、その大きな目で昌行を見た。
「この男はもともと狐憑きなどではなかった。狐を落としてやると言っていた侍の方が、偽りを暴かれて尻尾を巻いて退散した、と言ってやれ。一度は狐憑きだったなどと言うことにしては、後々つまらぬことを言い出すやからもあろう」
「承知いたしました」
 昌行は頭を下げた。
 松岡は、東山に向き直り、自分の前にあった玉を押し出した。
「これは役目が済みました。お返し申す」
「い、いや、それは困る」
 いつもは冷静な東山は、少しあわてたように言った。
「この男の母の魂が込められているようなものを置いて行かれても、扱いに窮する。何とかしてださらんか」
「しかし、これは、もともとこちらのもの」
「それはそうだが、ただの置物ゆえ、なくなろうと差し支えござらん。なにとぞ、持ち帰り願いたい」
 松岡は苦笑した。
「さようでござるか。では、いたしかたない。ひとまず持ち帰りましょう。かといって、その辺に捨てるわけにも参りません」
 そう言って、両手で玉をもてあそびながら、少し考え、
「うむ。布川に小川という知り人がございます。その家に預けることにいたします。もし、これがなくては困る、というような場合には、そちらへお尋ねください。では、わたしはこれで失礼つかまつる。この男は、起こせば普通に目を覚まします」
 そう言うと、松岡は石の玉を抱えて立ち去った。
 健吉は、昌行が起こしてみると、すぐに目を覚ましたが、代官所へ来てからのことは何も覚えていないようだった。
 昌行は、健吉を植草屋へ連れて行き、植草の隠居に、狐憑きなどというのは根も葉もないでたらめだった、と説明した。
 植草は、素直にそれを信じ、喜んだ。
 近藤屋に戻っても、昌行は、松岡は健吉を狐憑きだと言ったのは嘘だった、と、皆に話して聞かせた。
 その翌朝、昌行は、離れでも、佐知に、松岡に言われたとおりに話をした。
「そうだろうねえ。狐憑きなんて、ほんとはいないんだろうね」
 佐知はそう言って頷き、それから、手を打って、うれしそうにこう言った。
「思い出したよ。女化の狐の詠んだ歌。こうだったよ」
 そう言って佐知は一度咳払いをし、声を改めた。
「みどり子の 母はと問わば 女化の 原になくなく 臥(ふ)すと答えよ」
 昌行は、胸の中でその歌を繰り返した。子を残して去った狐の気持ちがわかるような気がした。
「そういえば、そんな歌でしたねえ」
 そう答えながら、もしかしたら、ほんとうに、健吉の母の魂が健吉のそばにいたのかもしれないと考えた。

 石の玉は、松岡の言葉通り、布川の小川という家に預けられた。布川は、取手のわずか下流にあり、現在では利根町の一部となっている。
 明治の半ばになって、兵庫出身の松岡という若者が、その小川家の離れを借りて医院を開業した。名は鼎(かなえ)といった。松岡鼎は、暮らしが落ち着くと、郷里から、弟たちを呼び寄せ、その二年後には両親も呼び寄せた。
 弟たちのうちの一人は、名を国男といった。
 国男は、ある時、家の守り神が祀(まつ)ってあるという祠(ほこら)に興味を持ち、人目を盗んでその扉を開けてみたことがある。
 中には石の玉が納めてあったのだが、国男は、その石を見ているうちに、不思議な気持ちになった。空を見上げると、真昼なのに、無数の星が見え、別の世界に引き込まれそうな気がした。しかし、その時、ヒヨドリの鳴き声が聞こえ、はっと、目が覚めたように現実に引き戻された。後年、国男は、その時ヒヨドリが鳴かなかったらどうなっていたかわからない、と思い出を語っている。その時の体験が、国男に、この世のさまざまな不思議に目を向けさせるきっかけの一つとなった。
 この松岡国男は、成人してのち、他家の養子となり、柳田と姓を変えた。すなわち、日本民俗学の祖・柳田国男である。

(女化・終わり)


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