女化
(おなばけ)

(中編)

 夕食の膳には、煮物のほかに、蕗(ふき)の葉の佃煮が載っていた。かすかな苦みが食欲をそそった。
「明日は鯉が食えるんだな」
 達也は、今食べているもののほかに、明日食べるもののことも考えていた。
「ご隠居のおかげだな」
 快彦がそう言うと、智也は少し嫌な顔をした。
「鯉の洗いできゅっと一杯、などというのも悪くないものだぞ」
「いや全く」
 快彦の言葉に、昌行が大きく頷いたが、その隣の博は嫌な顔をした。
「別に飲まなくたっていいでしょう」
「それはそうだ」
 話が思う方へ行かず、昌行は少し気落ちしたが、それは快彦も同じだった。しかし、その二人以外は、飲む必要などない、という気持ちを顔に表していた。
 花見のときの経験で、昌行と快彦が飲み始めると、迷惑なのがわかっているのだ。
 花見の日は、仕事を早めに切り上げ、まず、快彦の希望で湯船に入った。
 河岸で働くようになった快彦をもっとも驚かせたのは、その湯船だった。船の銭湯である。
 長さ五間(ごけん・約九メートル)ほどの屋形船のような形をしたものが係留してあり、岸から板が渡してある。
 船の中は大きく三つに区切られ、真ん中に風呂があり、左右が座敷になっていた。
 風呂に入れるだけでなく、酒も飲めれば、簡単な料理も出す。
 水が少なくて上れないときの水待ちや、雨止み待ちの時に、そこで暇をつぶす船頭も多かった。
 湯屋が船になっている、というのも興味深かったようだが、酒も出す、というのが最も気を引いたようだった。
 剛太が重箱を取りに行っている間に、快彦は、念願かなって達也や智也と湯船で湯を浴び、座敷で軽く飲んだ。
 剛太が、重箱を抱え、昌行と博を連れてくると、皆で、土手の桜の下に座を占め、煮染めや漬け物を肴に飲み始めたが、昌行も快彦も互いに注ぎ合い、休まずに飲むので、剛太は三度も酒を買いに走らなくてはならなかった。
 酔っても絡むようなことはなく、機嫌良く飲んでいたが、結局二人とも歩けなくなり、智也と達也に背負われて帰ってきたのだ。
 快彦の手柄で凶状持ちを捕らえた日もそうだったが、その時も、翌日は二人とも二日酔いでぼんやりしていたのだった。
「そうだ、食いながら聞いてくれ」
 昌行は、話が思う方向へ行かなかったので、話題を変え、植草に頼まれたことを話し出した。
「ご隠居に頼まれたんだが、気にとめておいて欲しいことがあるんだ」
 横に並んでいた達也たち四人が、そろって昌行の顔を見た。
 快彦、達也、智也、剛太の順に並んでいる。快彦は、自分では一番末席でいいと言っていたのだが、そういうわけにもいかず、達也よりも上の座を占めていた。
「実はだな、今度植草さんのところに奉公に来た男の話なんだが」
「あの若いやつですか」
と、剛太。
「そうだ。お前は会ったのか」
「ちょっと見ただけです」
「そうか。まあ、その奉公人だが、生き別れのおっかさんがいるそうなんだ」
「ほう」
 快彦は箸を止めたが、達也と智也は聞きながら食べ続ける。剛太も口を動かしながら、目は昌行に向けていた。
「十二年前、八つの時にいなくなって、それっきり会ってないそうだ」
「いなくなった?」
 ちゃんと聞いているのが快彦だけなので、昌行は快彦の方を見ながら話を続けた。
「貧乏な百姓暮らしがいやでいなくなったんだろう、と言ってたな。おとっつぁんが病気で借金もあったそうだ。おっかさんがいなくなってすぐ、おとっつぁんも死んで、それからは親類の厄介になって育ったそうだ」
「気の毒な話だ。兄弟は」
「一人息子だったそうだ」
「天涯孤独だな。男の名は」
「健吉と言っていた」
 そこに突然、剛太が割り込んだ。
「あいつ、健吉じゃなくて、ただのケンですよ」
 皆が剛太の顔を見た。
「知っておるのか」
 快彦は、身をねじるようにして剛太の方に顔を向けた。
「はい。同じ村のもんですから。あいつ、狐のせがれなんですよ」
 昌行と博は、思わず顔を見合わせた。松岡と名乗った侍の、「狐が憑いている」という言葉が脳裏によみがえった。
 そこに、シゲが、茶の用意を盆に載せて持ってきた。
「何やねん、狐のせがれたあ」
 シゲは、興味を持ってその場に腰を据えた。
「あいつのおっかさんね、狐が人に化けてたんです。それだから、あいつ、ケンなんて、狐の鳴き声みてえな名前なんですよ。狐だってことがばれないようにと思って帰っちまったんですよ。村ではみんなそう言ってました」
「帰ったって、どこへ帰ったんや」
「女化(おなばけ)だよ、女化」
「いい加減なこと言うんじゃない」
 博は少し強い口調でたしなめた。
「それは、あそこの稲荷の話だろう」
「でも、みんなそう言ってたし……。おっかさんが急にいなくなったし……」
 剛太は不服そうだった。
「家の者は、おっかさんを探さなかったのか」
 達也も興味を持ったようだった。
「さあ……。おとっつぁんもすぐに死んじまって、あいつはいなくなっちまったし。俺もガキだったから、よくは覚えてねえんです」
「それにしても」
と、快彦が眉を寄せて、
「子を捨てて行方を消すとは、とんでもない母親だな」
と言うと、一瞬気まずい空気が漂ったが、博はただ黙々と飯を食っていた。
 昌行は腕を組んだ。
「なんか、わけがあったんだろうよ。植草の隠居が来たら、もっとよく聞いてることにしよう」
「よく聞いてください」
 初めて智也が口を開いた。
「気になるか」
「はい。餌は何を使ったんですかね。あの隠居は練り餌も工夫してるっていうし」
「釣りの話かよ」
 昌行は苦笑して、再び箸をとった。

 翌日は、雲が空を覆っていた。
 昌行は、離れの濡れ縁に腰を下ろし、佐知に、健太の話をして聞かせた。ただし、松岡という侍のことは伏せておいた。
 濡れ縁の横には、水仙が身を寄せ合うようにして黄色い花をつけており、そこだけ日が当たっているかのようだった。
「そうかい。気の毒だねえ」
「しかし、もう十二年も前の話だっていうし、よっぽどの縁がなきゃ、見つからねえでしょうね」
「でもさ」
と、佐知は昌行の顔を見た。
「おっかさんが見つかったとして、それでどうする気なんだろう」
「さあ……」
 昌行は、佐知と目を合わせるのが気恥ずかしく、井戸端に目をやった。
 桶を囲んで、シゲとキミが、鯉のさばき方の話をしている。
「おっかさんの方は、今はそれなりに暮らしてるのかも知れないしさ」
「そうですね。それは考えなかった」
「女には女のわけがあるからねえ」
 佐知はそう言って、灰色の空を見上げた。
 少しの沈黙があり、昌行は、笑い話のつもりで、剛太の言った、狐の子だという噂を話した。
「まあ、女化の狐の子かい」
 佐知は興味深そうに言った。
「あれもなんだかせつない話だよね。子供に未練を残したまま、帰らなくちゃいけなくなっちゃって」
「全くで。亭主も、狐でもいいから一緒にいようって言ってやりゃあよさそうなもんです」
「ほんとだねえ。世間体が悪いと思ったのかね。ほら、別れ際に歌を残していくんだよね。なんて言ったかね、あの歌」
 昌行も首をひねったが、思い出せなかった。
「やだね、こんなのも思い出せなくて。あたしも年だね」
「滅相もない」
 昌行と佐知は、少し笑った。

 女化の狐というのは、女化稲荷の縁起を語る言い伝えである。
 忠七、あるいは忠五郎という男が、ある時、猟師にねらわれている狐を助けた。
 翌日、男の家を、若い娘とその下僕らしい男が尋ね、宿を頼む。泊めてやると、翌朝、娘だけが残されており、下僕に財産を持ち逃げされたので家においてくれ、という。
 請われるままにおいてやると、その娘は男の妻となり、三人の子を産む。
 しかし、一番上の子が八つになった年、月に見とれてうっかり尻尾を見られ、命を助けられた狐であることを明かして姿を消すのである。
 伝承によっては、尻尾を見られるわけではなく、いつか自分の正体が狐であることがばれたら、と不安になり、未然に自分から去ることになっている。

 近藤屋では、明るいうちに、井戸端で、シゲとキミの二人がかりで、鯉をさばきにかかった。
 キミに押さえさせ、シゲが包丁の峰で鯉の頭をたたこうとするが、うまくいかず、鯉ははね回る。
 失敗するたびに二人が騒ぐので、博と昌行も裏に出てきた。
「俺がやろうか」
 博が声をかけたが、シゲは、
「これしきのこと、女とてできるわい」
と言って、むきになって鯉の頭をたたいた。はね回っていた鯉も、一発当てられるとおとなしくなった。
 水をかけて砂を洗い落とし、鱗を落とすと、半透明の鱗が飛び散った。
 頭を落とすところは、シゲがキミに指図してやらせた。
 次は、はらわたを出すのだが、そこはシゲが慎重に引き出した。そして、血に染まった、黄緑の玉のような臓器を指さし、
「これがニガ玉や。これをつぶしてしもうたら、鯉がどこもかしこも苦くなってしもうて、食えんようになる。気をつけなあかんで」
と教えた。キミは神妙に頷いた。
 引き出されたはらわたを見ると、心臓は、まだピクピクと動いていた。
 昌行は感心して声を上げた。
「大したもんだ。さすが、鯉ともなると、強いもんだな」
「これを食えば精がつきますね」
 博がそう言ったので、昌行は、ふと気になって離れを見た。冷えてきたので、障子は閉めてある。
 昌行は、また鯉に目を戻した。
 シゲに指図され、キミが筒切りにしていく。桜色の切断面を見ながら、昌行は、心の中で、佐知の病が癒えるのを祈った。

 夕食の膳には、筒切りの鯉をそのまま煮込んだみそ汁が、大椀で出た。鯉こくである。
 智也は少し悔しそうではあったが、喜んで食べた。厚い切り身は食い応えがあった。
 離れでは、いつもは粥と漬け物だが、今日は佐知の膳にも鯉が供された。
 それを見て佐知はほほえんだが、食べきることはできそうになかった。
「おキミちゃん、お椀持っておいで。こんなにいらないから、半分あげる。食べられるだろ」
 しかし、キミは、
「あたしの分はちゃんとあります。お薬のようなものですから、召し上がらないと」
と、遠慮した。
「ご隠居の気持ちはありがたいけど、いきなりこんなに食べちゃ、かえって毒だよ」
「じゃあ、残ったらいただきます」
 佐知の顔から笑顔が消えた。
「そんな、人の残り物を食べるなんて、女郎みたいなことはおよし」
 その口調に、キミは息をのんだ。
「いいから、お椀をお出し」
 キミはおとなしく、自分の椀を差し出した。佐知は、鯉を半分、キミの椀に移した。
「さ、おあがり」
 今度は穏やかな口調でそういうと、佐知は、汁を一口すすり、鯉を少し口に運んだ。
「久しぶりだねえ。鯉なんて」
 キミは無言で箸を動かしている。
「客がとってくれた物しか食べられなかったんだよ。台の物って言ってさ、仕出し屋が運んでくるのさ。女郎の分もとってくれる客ばかりじゃなかったからねえ……」
 そう言って、佐知はまた鯉の肉を箸でむしり、口に運んだ。
「女郎はみんな、客の残り物を食べて暮らしてるんだよ。こうして、いつもちゃんと自分の分があるっていうのは、ありがたいことだよね」
 キミは無言で頷いた。

 その翌日、昼前に、植草の隠居が訪ねてきた。
 やはり、籠を背負った健吉を従えていた。
「おっ、食ったようだな」
 裏庭に出ると、まず、井戸端に残っている鱗を見て、うれしそうに言った。
 それから、離れの縁側に腰を下ろし、佐知に声をかけた。
「どうだい、具合は」
 佐知が障子を開けて顔を出した。
「あら、鯉をありがとうございました。ゆうべいただきました」
「そうか、あれで治るといいな。今日はな、筍(たけのこ)を掘ってきたぞ」
 そう言って健吉に頷くと、健吉は籠をおろし、佐知に中が見えるようにした。太い、土のついたままの筍が二本転がっている。
「まあ、いつもありがとうございます。みんなも喜びますよ」
「もう取り尽くされたかと思っておったが、この健吉が見つけてくれてな。全くもって福の神だ。それじゃ、おシゲさんに預けておくからな」
 そう言って、腰を上げ、裏から流しに入ると、シゲとキミが漬け物桶をのぞいて何か話していた。かすかに糠のにおいがした。
 二人は、植草を見てあわてて立ち上がって、挨拶した。
「筍を持ってきた。わしは昌行に話がある。健吉に茶でも出してやってくれ」
 植草は一人で座敷に上がり、健吉は土間に籠をおろして筍をとりだした。
 座敷にはシゲが茶を持っていき、健吉には、キミが淹れてやった。
 湯飲みを健吉の前に置くと、健吉は無言で頭を下げた。その健吉に、キミは、思い切ったように声をかけた。
「ケンちゃん……でしょう?」
 健吉は、はっとしたようにキミの顔を見た。
「覚えてる? キミよ」
 健吉は頷いた。そして、何か言おうとしたところに、剛太が入ってきた。
「おキミちゃん、弁当、とりにきたんだけど」
「はい、これ」
 つつみを受け取った剛太は、俯いている健吉に一瞥をくれると、すぐに外に出たが、戸口で振り返って流しの方を見た。
 すると、キミが健吉に何か話しかけようとしていたので、面白くなさそうな顔つきで走り出した。

 座敷では、植草と昌行が向かい合って話していた。
「あの侍は、もう出ませんか」
「おお、あれっきりだな。全く妙な話だ」
「狐憑きとはねえ。お武家ともあろうものが」
「全くだ。確かにあの健吉は、勘はいい。あいつが来てから、鯉でも何でも大物ばかりかかる。昨日もな、うちの手代が、書き付けをなくして騒ぎになったが、健吉が見つけてくれた。風に吹き上げられて、神棚に乗ってしまっておったんだが、見ていたようにありかを示してな」
「ほう」
「あれが狐憑きだというなら、ずっと憑いたままでいてもらいたいもんだて」
 そう言って植草は笑った。
「いいのを雇いましたね」
「そうなのだ。今まで、母親を捜してあちらこちらと渡り歩いてきたようだが、うちに腰を据えて貰いたいものだ」
 昌行は、その言葉に頷きながらも、松岡という男の顔を思い浮かべていた。

(続く)


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