女化
(おなばけ)

(前編)

「だいぶ水かさが増えてきたなあ」
「ああ、日光の方の雪が解けて流れてくるって話だぜ、いのさん」
「ほう、日光から」
 快彦は川上の方へ目をやったが、霞がかかったような春の空気を透かしてみても、日光が見えるようなことはなかった。快彦と並んで川を見ていた達也は空を見上げた。
 穏やかな日差しが、雲間から差し込んでくる。
 雲雀(ひばり)の声が、けたたましく何事か訴えているかのように聞こえるが、姿は見えない。
 智也は、少し離れたところで、利根川の中をのぞき込んでいた。
 少し前、桜の咲いていた頃は、のっこみの時期で、産卵場所を求める鮒が、身を重ねるようにして、真菰(まこも)や葦の根元に押し寄せ、笊(ざる)を抱えた子供たちが歓声を上げていたが、今は年寄りの釣り人が数人いるだけだった。
 剛太は弁当を取りに戻っていた。
「それでね、いのさん」
 達也は話を続けた。
「夏にね、日光水ってのが流れてくることがあるんだよ」
「ほう、文字通り日光の水か。東照宮ゆかりの水だな。何か御利益があるか」
「そんないいもんじゃねえんだよ。冷たくってさ、あたりは水浸しになっちまって、田圃も畑もだめになっちまう」
「ほう……」
 快彦は、少し背伸びして辺りを見回した。
 柳の枝が、ぼやけたような緑色に揺れている。
 水入れを待つばかりの田圃は、黒く光っていた。
 名前を思い出したものの、自分の素性を思い出せない快彦は、あれ以来、近藤屋に居座っていた。町人髷(まげ)にし、皆と同じお仕着せの半纏をまとい、自分では一介の町人になったつもりでいたが、武士であることは確かなので、昌行たちも粗略には扱えなかった。
 仕事中では、ほかの人足と同じ扱いだった。武道の心得があるためか、船の上では足をあげて歩くことを禁じられていることを知ると、すぐにすり足になり、腰を落として荷を運んだ。その点は皆に感心された。足をあげて歩くと、船が揺れるのである。
 呼び名は、名前を全部思い出す前の「いのさん」が、そのまま定着していた。
「何かいるかい」
 快彦は、今度は智也に声をかけた。
「うん。鯉がいるはずだ。この間、でかいのがいたんだ」
「ほう、鯉か」
「きっと植草のご隠居もねらってるはずだ。負けられねえ」
 それを聞いて達也が笑った。
「向こうは暇なんだから、勝てっこねえだろう」

 その頃、植草の隠居は、近藤屋を訪れていた。
 離れから見えるところでは、すでに山桜は散り、ところどころに見られる八重桜だけが、盛り上がるように花びらを開いていた。近藤屋の離れにも、風に乗って、その花びらが運ばれてきた。
 佐知が、手を伸ばし一枚受け止めたところだった。
「どうだい、具合は」
 植草が声をかけると、佐知は顔を上げ、笑顔を見せた。
「あら、ご隠居」
 佐知は、手に乗せていた桜色の花びらを、そっと脇の懐紙の上に置いた。
 植草の後ろには、籠を背負った若い者が従っていて、佐知に向かって軽く頭を下げた。
「おかげさまで、近頃は、ずいぶんいいんですよ」
「そうかい、そりゃあよかった」
 植草は、縁側に腰を下ろし、若い者から籠を受け取った。
「ほれ、鯉だ。精をつければやまいなんぞふっとんじまわあ」
「立派な鯉。あら、まだ生きてる」
 籠には、笹が敷き詰めてあり、その上に、二尺(約六十センチメートル)はあろうかという、まるまるとした鯉が大きな口を開閉しながら身を曲げて入っていた。
「おキミ、来てごらん」
 佐知が奥へ声をかけると、キミが出てきた。佐知の後ろから、籠をのぞき込んだ。
「まあ」
 キミが目を丸くしたのを見て、植草は満足そうに頷いた。
「シゲさん、桶借りるぞ」
 植草は若い者に籠を渡すと、相手は、井戸端へ行き、桶に鯉を移すと、水をくんで注いだ。鯉のはねる音がして、若い者の裾が濡れた。
 キミはその姿を見て、何か思うところがあるようだった。
「はっはっは、活きがいいだろう」
「ほんとうに」
 そこに、シゲが茶を持ってきた。そして、盆を置くとすぐに井戸端へ行き、桶をのぞき込んだ。
「いやあ、立派やなあ」
 水をくんでいた若い者は無言で頷いた。年の頃は、二十歳をすぎたばかりというところらしい。シゲは、今度はその顔をまじまじと見た。
「いやあ、ええ男やなあ」
 男は笑顔も見せず、植草のそばに戻った。
「鮒ならな、のっこみの頃にゃあいくらでも子持ちがとれるが、鯉はなかなか釣れんぞ。やっとのことで釣り上げた。網なんぞ使っておらんからな」
 植草は、茶を一口すすると、また自慢した。
「どうせ一日は泥を吐かせなくちゃならない。いいか、智也のやつによく見せてからさばいてくれよ。あの野郎は、どうもわしの腕を信用しておらんようだ」
「はい、とっぷり拝ませます」
「そうしてくれ。この健吉は、わしにとっては福の神でな。こいつが来てから、大物ばかりかかりよる」
 植草は、そう言って、そばに戻った男を見た。健吉と呼ばれた男は、黙って少しほほえんだ。
「どれ、ちょっと昌行と会っていこう。行くぞ、健吉」
 若い者は黙って頷き、植草の後に従った。佐知とキミはその後ろ姿を見送り、シゲは盆を持って一緒に母屋へ戻った。
 それと入れ違いに、剛太が勝手口から顔を出した。
「シゲさん、弁当、どこだい」
「ほい、しまった。まだ包んでおらんかった」
 剛太が流しで待っていると、植草と若い者が土間から座敷に上がるのが見えた。
「植草さんが立派な鯉を持ってきてくださったんや」
「へえ、鯉か……」
 しかし、剛太は、鯉よりも、植草の連れていた男が気になるようだった。
 座敷の方からは、昌行が座を譲る声が聞こえた。
「ちょっと気にとめておいて欲しいことがあってな」
 植草は、腰を下ろしながら用件を言い出したが、昌行はどこか落ち着かない様子だった。
「どうした。何かあったか」
 植草に尋ねられ、昌行は照れ笑いを見せた。
「さっきから、煙管(きせる)を探してるんですが、どこに置いたのか」
 すると、健吉と呼ばれた若い者が長火鉢を指さした。
「そこの引き出しでしょう」
「いや、こんなところに入れた覚えはねえんだが」
 そう言いながらも、昌行は引き出しをあけてみた。するとそこには、いつも使っている朱羅宇(しゅらお)の煙管が収まっていた。
「ありゃ。こりゃあどういうこったろう」
「さすが健吉だ」
 植草はうれしそうに笑った。
 昌行は、植草に煙草盆をすすめ、自分も一服つけた。
「何か、お話があるとか」
「じつは、この健吉のことでな」
と、植草は、下座に座っている健吉に目をやった。昌行も健吉を見ると、健吉は少し目を伏せた。
「生き別れのおっかさんを探しているんだそうだ」
「ほう」
 昌行は、灰を落とし、煙管を置いて腕を組んだ。
 植草が、健吉に向かい、
「自分で話してごらん」
と言うと、健吉は頷いて話し始めた。
「実は、八つの時におっかさんが行方知れずになったんです」
「何年前だね」
 昌行が尋ねると、健吉は考えることもなく答えた。
「十二年前です」
「随分前だな」
「はい……」
「で、行方知れずになってそれっきりかい」
「はい」
「おとっつぁんは」
「そのあとすぐ死にました」
「兄弟は」
「いません」
「おとっつぁんが亡くなった後、どうしてたんだ」
「親戚のやっかいになりました。それから奉公に出ました」
「植草さんのところに来たのは最近だよな」
「はい」
「何で奉公先を変わったんだね」
「おっかさんを見つけるためです。どこかで会えるんじゃないか、どこかで消息が聞けるんじゃないかと思って、ずいぶん変わりました」
 そこで植草が口を開いた。
「そういうわけでな、今まで一つところには落ち着いたことがないんだそうだ。実は、雇う前に、今までの奉公先に聞いてみたんだが、悪い噂はない。どこでも、おっかさんを探すために暇をもらったということなんだ」
 健吉の答え方は、まるで、今までに何度も同じ問答をしてきたかのようで、まったく滞るところがなかった。
 その後も、昌行に聞かれるままに、母親の名前、今年何歳か、顔立ちなど、何事も即座に答えた。
 しかし、健吉は、口はなめらかだったが、その目は不安そうだった。
 昌行は、なぜかその目が気になった。

「聞いてたかい」
 植草たちの帰った後、昌行は、帳場に出てきて、そこにいた博に声をかけた。
「はい」
 昌行と植草が話をしていた座敷はすぐとなりで、襖は開け放してあったので、話は全部聞こえていた。
「気の毒な話ですね」
「そうだな。確かに気の毒ではあるが、役に立つのはちと難しそうだ」
「そうですね。十二年もたってちゃ」
「八つの時に別れたきりか……」
 昌行は、そう言うと、煙管にたばこを詰め、火鉢に顔を寄せてた。そして、体を起こすと、煙の混じったため息をついた。
 そこに、出ていったばかりの植草の声がした。
「助けてくれ」
 驚いて目を向けると、植草と健吉が駆け込んできた。追われているようだった。昌行はすぐに立ち上がり、土間に降りた。
 二人に続いて、若い男が飛び込んできた。
「待て、話を聞け」
 その男は、そう怒鳴り、大きな目で植草と健吉をにらむように見た。植草を見ると、健吉の前に立っている。侍のねらいは健吉らしい。
「一体どういうことでしょう」
 昌行は、穏やかに侍に話しかけた。下手に刺激しないほうがよさそうだ。
 男は、初めて気づいたように昌行を見た。夢中になっていて、自分が、戸口から飛び込んだことにも気づいていないらしい。
 その姿は、髪は総髪で医者か学者のようだが、袴をつけ、刀を差しており、侍らしい。
「人の家に押し入って済まん。その男に用があるのだ」
 男はそう言って、健吉を見た。
「これはうちの使用人で、怪しまれる筋はございませんぞ」
 植草は声を励まして言った。健吉は、その後ろで、不安そうな目をしている。
 昌行は、進み出て植草を背にし、男の前に立つと、
「あっしは、この宿で、八州廻り様の道案内を務めております。この近藤屋の主人で昌行と申します」
と、あくまでも穏やかに名乗った。
 相手は、正面から名乗られ、無視することもできず、
「拙者は松岡と申す。迷惑はかけん。その者と話をさせてくれ」
と言って、健吉を指さした。
「どのような用向きで」
 昌行は身をずらし、健吉を男の視線から隠した。
 松岡と名乗った男は、ムッとしたようだったが、声を潜めてこう言った。
「狐が憑(つ)いておるのだ。それを落としてやろうと言っておるのだ」
 昌行は健吉を振り返ってみた。植草も健吉も驚いたような顔をしている。
 何を言い出すかと思えば、狐憑きだと言う。
 そこに博も寄ってきた。板の間から、腕を組んで見ているが、何かあったら昌行に助勢しようという気構えでいるのがわかる。
 昌行は、内心ばかばかしいと思ったが、顔には表さなかった。
「お見受けしたところ、れっきとしたお武家様のようですが、狐憑きなどとおっしゃるのは、お武家様としてはいかがなものかと存知ますが」
 相手は言葉に詰まったが、それでもこう言い募った。
「そのれっきとした武家が、あえてこう申すのだ。それだけのわけあってのことと思ってくれ」
「子は怪力乱心を語らず、とか申します。この宿(しゅく)で、あくまでも狐憑きを落とすなどとおっしゃるのであれば、代官所を通していただけますまいか。お代官様からお達しがあれば、あっしもお手伝い申し上げるにやぶさかではございません」
 意外にも、松岡というその男が高姿勢に出てこなかったので、昌行は改まった口調になった。
「うむ」
 相手は唇をかんだ。
「まず、話をさせてくれればよいのだが」
「狐の話でございますか」
「そうなのだ……」
 昌行は思わず少し笑った。
「この男に盗みか何かの嫌疑がかかっているのであれば別段、狐憑きだから話をさせろとおっしゃるのでは、なにかありましたら、むしろ松岡様がとがめ立てされることになりはしませんでしょうか」
 相手は腕を組んだ。
「では……どうしても話はさせてくれんのか」
 昌行は無言で相手を見つめた。
「やむを得ん。折りを見つけて話そう。あきらめはせんぞ」
 そう言い捨てて、男は出ていった。
 昌行は大きく息を吐いて振り返った。
「なんでしょうね、ありゃあ」
 そう言われて、植草は首をひねった。
「全くわけがわからん。いきなりこの健吉につかみかかってきおった」
 健吉は不安そうに戸口を伺っていた。
 昌行が先に出て街道を見渡したが、侍の姿はなかった。
 しかし、どこに潜んでいるかわからないので、昌行が二人を送っていった。

「くそう、やられた」
 智也は、桶の中をのぞき込んで腕を組んだ。
 夕刻の井戸端、河岸から帰ってきた男たちが足を洗っていた。
「お前のねらってた鯉かどうか、わからねえだろう」
 足を洗いながら達也が笑った。
「いや、これだ。この鯉だ。間違いねえよ」
「昼間さがしてたのはこれだったのか」
 快彦も、そう言いながら笑っている。
「そうだよ。これだよ。くそう」
「もっとでかいのを釣って見返すしかなかろう」
「ぜったい負けねえ。覚えてろ、あのじじい」
 そこにキミが手桶を提げて現れた。
 無言で足を洗っていた剛太が、
「汲んでやるよ」
と言って手を出した。キミは黙って手桶を渡し、剛太が、釣瓶を引き上げ、しぶきをたてないようにそっと注ぎ込むのを見ていた。
「ありがとう」
「うん」
 剛太はキミの後ろ姿を見送ったが、ほかの三人は桶を囲んで談義にふけっていた。
「夜の間にはねるから、笊(ざる)かなんか、載せとかないと」
 そう言いながら智也が辺りを見回した。
「これがいいだろう」
 達也が、軒下に掛けてあった、大きな笊を持ってきた。シゲが、白菜や梅をつける前に天日に干すのに使う笊だった。
 笊をかぶせ、その上に石を重しにおいて、それでやっと智也は足を洗い始めた。

(続く)


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