河童

(後編)

 翌朝、朝食時に、侍が突然こう言った。
「礼として、今日一日、仕事を手伝わせてくれんか」
 昌行が驚いて侍の顔を見た。
「うちの仕事は、荷物運びで、お武家様がなさるような仕事ではございません」
「うむ。それは分かっておる。しかし、世話になったままでは、わたしの気が済まないのだ」
 河岸の仕事は力がいる。それに今日も昨日と同様に寒い。とても侍につとまりそうになかった。
「こう見えても力はあるぞ」
 侍は、言葉を続けた。
 昌行は苦笑したいのを隠し、考えた。つとまりそうにないからと言って断ったのでは、侍もいい気はすまい。それに、力があると自慢げな侍に、達也たちの力を見せるのも面白い。行く当てがないからここにいるつもりだろう。どうせ暇なのだ、一日ぐらいは河岸の小屋の火の番でもしてもらおう。
「さようでございますか。では、今日一日手をかしていただきましょう」
「よし。働かせてもらおう」
「ところで、お名前ですが」
「うむ……。まだ思い出せんのだ」
「しかし、お名前がないとこちらとしても呼びようがございません。取りあえず、井野様と申し上げてよろしいでしょうか」
「井野か……。まあ、よかろう」
 達也たちは驚いて昌行の顔を見ていた。
「ま、今日はみんな、井野様と一緒に働いてくれ」
 昌行は一同にそう言い渡した。
 食事が済むと、井野と呼ばれることになった侍は、昌行の古着を借りて身支度をし、達也たちと一緒に河岸へ出かけた。身なりは粗末だが、髷(まげ)は侍のままで不釣り合いだった。また、さすがに裸足というわけにはいかず、足袋をはいている。
 河岸に出てはみたものの、それほど仕事はない。
 銚子であがった魚などは、舟で運ぶと時間がかかるので、冬は、少し下流の木下(きおろし)で船から下ろし、馬をつかって江戸へ運んでいた。ただし、夏は魚がいたむので、生け簀になった船で水路をつかって運んでいた。
 風はない。
 棹(さお)をついて上ってくる船は、主に米を積んでいた。
 達也たちと井野は、船が着くと積みかえに走り回った。細い体で俵を抱え、弱音を吐かずに精を出したが、一段落し、小屋に戻ると、
「さすがにきつい仕事だな」
と、感心したように言った。
「次は休んでておくんなさい。あっしらでやりますから」
 達也がそう言ったが、井野は、
「いや、そういうわけにはいかぬ」
と、腕をさすった。
 川原を冷たい風が吹き抜けた。
 渡し場へ行くのか、旅姿の商人がゆっくりと歩いているのが見えた。

 昌行は、東山のところへ顔を出してみた。
 侍をどうするか相談しなくてはならない。特に怪しい点がない以上、引き留めておくわけにはいかない。しかし、名を思い出せぬまま放り出すわけにもいかない。
「いかがいたしましょうか」
 東山の部屋は、昨日と同じように冷え切っていた。
「そうだな……。今日はどうしておるのだ」
 そう尋ねられ、昌行はありのままに話した。
「ほう、河岸で働いておるのか。奇特なことだ。いっそのこと、そのまま雇ってはどうだ」
「とんでもない。お武家様を雇い入れるなど。ところで、行方知れずのお武家の方ですが、どうも取手の旅籠には行ってないようでございます」
 昌行は、昨日、旅籠をあたってみたことを話した。そして、伊助に聞いた、侍が河童を見たらしい、という話をすると、
「やはりそうか。あまりにもばかげておるので、昨日は話さずにおいたのだが」
と言って、東山は今日も白い息を吐いた。

 河岸では、達也たちが醤油の樽を積みかえていた。香ばしい香りが漂っている。
 樽を担いでいた井野の足が止まった。何かに気を取られているらしい。
「止まるとあぶねえですよ」
 智也が声をかけると、はっとして足を運び始めた。
 しばらくは忙しく働いたが、船が出てしまうと、また暇になった。
 皆は小屋に戻って火にあたったが、井野は川原に残り、何かを見ていた。
 剛太が、何を見ているのかと隣に立つと、井野の視線の先には、旅姿の、若い商人がいた。合羽から、道中脇差しの柄がのぞいている。
 樽の積み替えを始める前にもそこにいたのを、剛太は覚えていた。商人は、川面を見ながら土手を行き来しているらしい。
「井野様、どうかしたんですかい」
「うむ……」
 生返事をしながら、井野はじっと商人を見ていた。
 商人は、井野たちに見られていることには全く気づかず、川を気にしている。
「なんかいるのかなあ」
 剛太も川を見たが、いつもと同じ利根川が、灰色の空を映して流れているだけだった。
「あの男だ」
 そう言うと、井野は商人の方へ歩き出した。剛太は、迷ったが、その後に続いた。
 井野がすぐそばに来ても、商人は気づかず、じっと川面を見ている。
「何を見ておるのだ」
 商人は、井野に声をかけられ、ぼんやりと振り返った。遅れてきた剛太が井野の横に並んだ。
「いや、べつに」
「なぜ、あの時立ち上がったのだ」
「あの時、とは?」
「渡し舟でだ。あの時は侍の格好だったが」
 言われてみれば、確かに、商人の服装と髷が不釣り合いなところがあった。
「何のことやら」
 相手は一歩下がった。しかし、その分、井野が一歩踏み込んだ。
「河童がどうのこうの言っておったな」
「河童? ああ、この川に河童が……。いや、何でもねえ」
 様子を見て、達也と智也もいぶかしそうに井野と剛太の方へ歩き出した。

 昌行は渡し場の番小屋にいた。
 炭火で体を温めながら、渡し番に、東山に聞いてきた話をしていた。今日になって、少し詳しい話が入ってきたのだ。
「それでその男だがな、主人の宝を盗もうとしたんだそうだ」
「ほう、何ですか、宝というのは」
「それがだな」
 昌行は、もったいぶって茶を啜った。そばにいた船頭たちが身を乗り出す。
「河童だそうだ」
「河童……」
 船頭たちは顔を見合わせた。
「河童と言ってもな、河童のミイラだそうだ」
「ほう、ミイラでござんすか」
 渡し番は感心したように言った。
「あっしは、江戸で見たことがありますぜ」
 船頭の一人が口をはさんだ。
「浅草の見せ物小屋に出ておりました。確かに河童でしたぜ」
「ほんとかよ」
 ほかの船頭が疑わしそうに言うと、その船頭はむきになった。
「嘘じゃねえよ。顔は赤ん坊みてえなんだが、腰から下は魚だったぜ。鯉みてえな鱗もちゃんとついてた」
 河童のミイラというのは、もちろん、人間が、猿などと魚を使って、作り出した偽物である。江戸時代、日本を訪れたオランダ使節が持ち帰った品の中にも河童のミイラがある。一見したところ、継ぎ目が分からないほど、精巧なものが作られていた。
 やりとりを聞いていた渡し番は、昌行の方に向き直った。
「そのミイラを盗もうとしたんですかい」
「ああ、そうらしい。その店の守り神みてえなもんでな。それがあるおかげで繁盛してるということだったんだ。おおかた、それを盗み出して、高い金で買い取れと脅すか、それが無理なら見せ物に売り飛ばすかするつもりだったんだろう」
「なるほどねえ。そこまでして金が欲しいんですかねえ」
「御家人株を買いたがっていたそうだからな。商売の元手にでもしようと思ったんだろう」
 そこに、何か叫ぶ声が聞こえた。
「何だ」
 番小屋にいた男たちが、飛び出した。
 川下から、旅姿の商人がが走ってくる。その後を、井野が追っている。井野の後ろには剛太たちが続いていた。
 昌行は、取りあえず、走ってくる商人の前に立ちはだかった。それを見て、渡し番たちも横に並んだ。
 町人は立ち止まり、振り向いた。すぐ後ろに井野が迫っている。町人は道中脇差しを抜いた。井野が足を止める。その目は町人を見据えていた。
「なぜ逃げる」
 井野は静かな声で言った。
「追ってくるからでさ」
「お前は、渡し舟に乗っていたろう。町人の姿なので最初は分からなかったが、間違いない」
「何のことだか、わからねえって言ってるだろう」
「河童とは何のことだ。なぜ立ったのだ」
 井野は、そう言いながら一歩踏み出した。
「何でもねえよ」
 商人は一歩下がったが、後ろにいる昌行たちも気になるようだった。
 昌行は、河童と聞いて頷いた。人相書き通り、目が細い。
「おめえ、伊之助だな」
 相手は、はっとして振り向いた。
 揉め事と見て、渡し場にいた船頭たちが、棹を手に走り寄ってきた。
 河岸と渡し場の男たちで、脇差しを構える商人を取り囲む格好になった。
「俺はな、材木問屋の奉公人で終わるのは真っ平なんだよ」
 その言葉は、自分が伊之助であることを認めるものだった。
「人を殺しても、お旗本の仲間入りがしたかったのか」
 昌行は、伊之助の脇差しに注意を払いながら声をかけた。
 返事はない。
「侍になりたかったのか」
 井野が尋ねると、伊之助は、
「それがどうした」
とわめいた。
「侍というのは、お前が思うほどよいものではないぞ」
 井野の声は静かだった。
「主殺し(しゅうごろし)は、獄門間違いなしだぜ」
 昌行がそう言うと、伊之助は昌行に向かって脇差しを振りかぶった。昌行は一歩下がる。
 その時、井野が、隣に立った船頭から棹を奪い取るようにして前に出た。
「俺が相手だ」
 そう言うや、棹をまっすぐにつきだした。伊之助は慌てて振り向き、脇差しを振り下ろしたが、したたかに鳩尾(みぞおち)を突かれ、顔をしかめてうずくまった。
 井野は大きく息を吐くと、船頭に棹を返した。その右腕を一筋の血が伝って流れ落ちた。

 伊之助は、すぐにぐるぐる巻きにされ、昌行と渡し番によって、代官所に引き立てられた。
 怪我をした井野の方は、一旦、手当をしに戻った。
 東山は、伊之助が見つかってほっとしたようだった。
 なぜ伊之助が侍の姿をしていなかったのかは、すぐ分かった。侍の格好をしていても、町人の着物を風呂敷に包んで持って歩いていたのだ。
 渡し舟が転覆したとき、わざと水に潜って河岸よりも下まで流され、川岸の枯れた真菰(まこも)の中で着替え、川に落ちた町人、というなりで旅籠に駆け込んだため、昌行が聞いてまわっても分からなかったのである。
 取り調べの中で、なぜ渡し舟に乗っているときに立ったのか、と尋ねられ、伊之助は、
「河童がいたからだ」
と答えた。なんど尋ねられても、間違いなく河童を見たのだと言い張った。
 そして、今日は、河童を生きたままとらえれば、高く売れるに違いないと、川を見ながら土手を歩いていて井野に見つかったのだった。
 東山は、取り調べが一段落つくと、書留役を横に置いて昌行の話も聞いた。
「それで、その井野という侍は、腕はたつようだったか」
「はい。落ち着いておられました。船頭の棹を借りて、切られながらも一突きで……」
「いや、待て」
 東山は、書留役に手を振って筆を止めさせた。そしてこう言った。
「そのような言い方をするものではない。切らせながらも、だ」
 昌行は感心して頭を下げた。

 井野の傷は皮を薄く切られただけで、浅いものだった。
 東山からは金一封と、酒一樽の褒美が出た。
 めでたいし、客もいるので、シゲは夕食に油揚げの炊き込み飯を作り、魚の干物も一つずつつけた。
 酒がたっぷりあるので、その夜は、昌行も飲みたいだけ飲んだ。井野も酒が好きらしく、うれしそうに杯を口に運んでいた。
「頼みがあるのだが」
 顔を赤くし、改まった口調で言い出した。
「何でございましょう」
「ここでこのまま雇ってもらえまいか」
 昌行は首を振った。
「お武家様を雇うなど、畏れ多い」
「いや、侍とは思わんでくれ。町人になりたいと思っておるのだ」
 昌行と博は、井野の顔をじっと見た。達也と智也も意外な言葉に驚いている。
「町人になりたいのだ。なぜかわからんが、侍は嫌になったのだ」
「嫌になるようなことがあったのでしょうか」
 博が尋ねると、井野は手酌で注ぎながら、こう言った。
「何かあったはずなのだが、思い出せんのだ」
 酒を飲まない剛太が、夕食を食べ終え、自分の膳を片づけようとすると、突然、井野が叫んだ。
「ああっ」
「どうしなすった」
 昌行は驚いて杯を置き、剛太も膳を持ったまま立ち止まった。
「思い出したっ。井ノ原だ。拙者は井ノ原快彦だ」
「お名前を思い出したんですね」
「そうだ。思い出した」
「どちらのご家中だったんです」
 博が尋ねると、井ノ原は頭を抱えた。
「それが……。それは思い出せんのだ」
「どうして取手においでになりました」
 昌行の問いにも首を振り、つぶやくように言った。
「もう少し……」
「もう少し?」
「もう少し飲むと思い出せそうな気がするな」
 そう言うと、井ノ原は、また自分で酒をついでぐっとあおった。
 達也と智也は顔を見合わせ、剛太はさっさと膳を片づけた。

 翌朝、朝食の座に井ノ原の姿はなかった。
「何だよ、町人になりてえなんて言っておいて」
 達也があきれたように言うと、博がたしなめた。
「まあ、そう言うな。兄貴も同じなんだから」
 井ノ原と昌行は、夕べ飲み過ぎ、二日酔いで起きられないのだった。
 達也たちは井ノ原をおいて河岸へでかけ、昌行と井ノ原は昼近くなって起き出した。
 いつもなら剛太が弁当を取りに来るが、初仕事として井ノ原が持っていくことになった。
 食欲がないまま、茶だけ飲んだ昌行は、井戸で顔を洗うと、離れに向かった。
 今日も冷える。井戸水が暖かく感じられるほどだった。
 昌行が声をかけると、障子が開いて、佐知が笑顔を見せた。
「夕べはだいぶにぎやかだったようだね」
 昌行は、顔を赤くして頭を下げた。調子に乗って小唄を歌ったような気もするのだが、よく覚えていない。
 佐知の向こうでは、キミが口に袖をあて、笑いを隠している。
 返答できずにいると、後ろで博の声がした。
「俺がやるよ。こういう時は、呼んでくれよ。腰でも痛めたらどうするんだ」
 振り向くと、シゲが白菜漬けを取り出そうとしているところだった。それを押しのけるようにして、博が漬け物石をおろしている。
「冷たいで」
 シゲが心配そうに言ったが、博はさっと手を突っ込んで白菜を取り出した。
「うへぇっ。氷が張ってやがる」
 博は、シゲが手にしているザルに白菜を載せると、また木蓋をして石を乗せた。
「偉いもんだねえ」
 佐知が言った。
「へえ」
「実の親子でも、ああまではできないだろうね」
 昌行は黙って頷いた。

 弁当を持った井ノ原が河岸に着くと、ちょうど、皆が小屋に戻ろうとしているところだった。
 剛太が真っ先に気づいて、
「こりゃ、申し訳ねえ」
と言って弁当を受け取った。しかし、弁当を渡した井ノ原は、剛太を見ていなかった。
 井ノ原の視線を追った剛太は、
「あっ」
と叫んだ。
 その声に、達也と智也も振り返った。そして、目を見張った。
 利根川の水面に、茶色い顔が浮かんでいた。丸い黒い目が、井ノ原たちを見ている。
 それは、つと横を向き、とがった口を見せると、音もなく水の中に消えた。
「河童だ……」
 剛太は弁当を取り落としそうになった。

 『利根川図志』という書物がある。取手より少し下流の布川という町の医師の赤松宗旦が著したもので、安政二年(1855)の序文がある。源流から銚子まで、利根川流域の地誌を記したものである。
 その末尾近くに、銚子の沖にある葦鹿(あしか)島のついての記述がある。その島には年中アシカがおり、遠眼鏡でその姿を見ることができると記されている。
 明治の初めまではアシカがいたらしい。
 利根川は中流以下は流れが緩やかで、下流は海水混じりの水になっていた。明治までは、取手までカレイがのぼってくることもあったという。
 何かの拍子に利根川をさかのぼってきたアシカを見た者が、それを河童だと思い込んだこともあったのではないだろうか。

(河童・終)


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