(中編)
智也が綿入れを抱えて戻ってくると、昌行は、男を着替えさせ、自分で家に案内した。
智也の話を聞いて気を利かせたらしく、シゲが座敷に布団を敷き、博が火鉢を運び込んでいた。
昌行が、男を布団に横にならせると、男は、
「かたじけない」
と言っておとなしく横になり、すぐに目を閉じた。
シゲが、濡れた着物を干し終え、鉄瓶を持ってきた。それと入れ違いに座敷を出て帳場に戻ると、博が茶をいれてくれた。
「何か、わけありですか」
湯飲み差し出しながら、そう言う。昌行は頷いた。
「人相書きの通りなんだ」
博は昌行の顔を見た。
「ただ、凶状持ちにしちゃあ、おとなしすぎる」
シゲが戻ってきた。
「どうだった。寝てるかい」
そう昌行が尋ねると、シゲは、
「はい。ぐっすり寝ておられます」
と答えて流しに戻った。
「さて、どうするかな」
昌行は湯飲みを置いて腕を組んだ。
「東山様にお知らせしますか」
博の言葉に、頷き、昌行は立ち上がった。
「わたしが行きましょう」
博がそう言ったが、昌行は、
「いや、一度俺が行って、もう少し詳しいことを教えていただいてから申し上げることにする。あの侍の目が覚めたら、とにかく引き留めて置いてくれ」
そう言って昌行はすぐに出かけた。
相変わらずの寒さである。今にも粉雪が舞いそうな雲が空を覆っている。
代官所を尋ねてみると、東山は渡し場へ行っているという。渡し場へ行ってみると、東山は番小屋にいた。
ほかの小屋には、着物を乾かしているらしい男の姿も見えた。転覆した渡し舟に乗り合わせた者のうち、家の遠い者なのだろう。
昌行の顔を見て、東山は頷き、こう言った。
「一人助けたそうだな」
「はい。そのことでうかがいました」
「怪しいか」
「はい」
「だが、近藤屋で助けた男より怪しいのがおるのだ。あと一人足りんのだ」
「見つからないのですか」
「そうだ。しかも、若い侍らしい。まあ、座れ」
東山が、腰掛けを指差した。
ここでも、まんなかに七輪が置いてある。昌行が腰を下ろすと、顔見知りの渡し番が、茶をいれてくれた。
渡し番を交えて、東山が、何があったのか説明してくれた。
渡し舟には、侍も町人も一緒に乗っていた。侍は二人だけで、そのうちの一人が、昌行たちの助けた侍らしい。
川の中程まで来た時に、若い侍が突然立ち上がった。そんなことをしては舟がゆれて危ないので、船頭が座るように言ったが、座ろうとせず、川下の方をじっと見ている。見かねて、隣に座っていた町人が、座るようにと袖を引いたが、侍は頑として座らず、もめているうちに舟がひっくり返ってしまったのだという。
町人の方はすぐに引き上げられたが、侍の方は行方が分からない。
大きな荷物を背にしていたので、それが命取りになったのではないかという。
「もしや、あっしが助けたお侍では」
昌行がそう言うと、東山は首を振った。
「この渡し場でも、岸にいた者が、流されていく客の様子は見ていた。近藤屋のところで引き上げられたのは、別の侍だという話だ」
「そのお侍は、立ち上がって、何を見たんでございましょう」
「それがだな」
東山は少し笑った。
「河童だというのだ」
「河童……」
昌行が渡し番を見ると、渡し番も笑って、こう言った。
「何でも、乗り合わせた客の話じゃね、その侍、河童だ、河童だって言って立ち上がって川を見てたんだそうです」
「利根に河童がいるというのは、よく聞く話だが」
そう言って、東山は冷えた茶をすすった。
「実は、その河童でございますが……」
昌行は、東山に、達也たちが見たという河童の話と、剛太の聞いてきた話をして聞かせた。
「ほう」
東山は意外そうな顔をした。
「すると、その侍も、何か見たのかもしれんなあ」
「とりあえず、あっしのところでお助けしたお侍は、お構いなしでよろしゅうございますね」
「そうだな。どこかの藩士なら、藩と名前だけ聞いておいてくれ」
名前と言われて、昌行ははっとした。
「そういえば、そのお侍なんですが、名前が思い出せないようでして」
「自分の名を忘れたというのか」
「はい。ただ、いの、とだけおっしゃいました」
「いの……」
「はい。それで、もしや例の……」
「そうだな」
東山は腕を組んだ。大きく息を吐くと、小屋の中でも息が白くなる。
「とりあえず、引き留めておいてくれ。日暮れ前には顔を出す」
「かしこまりました」
小屋を出て、昌行は利根川を見やった。
川面に映る白い空がゆらめいている。
「河童か……」
そうつぶやき、昌行は家に戻った。
風はないがとにかく冷える。
街道を行き交う人影もほとんどない。二、三人、荷を担いだ商人が、綿入れで着ぶくれした姿で歩いているだけだ。
草履と足袋を通して、地面の冷気が伝わってくるようだった。
家に戻り、
「お侍はどうしたい」
と声をかけると、博は、
「まだ、お休みです」
と答えた。
念のため、そっと覗いてみると、ぐっすり眠り込んでいた。
昌行は、シゲがいれてくれた茶を飲みながら、博に、渡し場で聞いた話を聞かせた。
「その侍は、流されちまったんですかね」
博は気の毒そうな顔をした。
「どうだろうなあ」
「こう冷える日に、川に落ちて流されたんじゃ、命にかかわりますね」
博は、話をしながらも、手を火鉢であぶっては算盤をはじき、手をあぶっては筆をとって書きつけている。
「全くだ」
昌行は、長火鉢にあたりながら一服つけ、立ち上がった。
「出かけてくる。お侍は、起きてもまだ引き留めておいてくれ」
「はい」
博は、また手をあぶりながら返事をした。
夕暮れまでにはまだ間があるが、空は灰色になっていた。
昌行は、街道筋の旅籠を一軒一軒あたってみるつもりだった。もしや、見つからない侍がどこかに宿を取ったのではないかと思ったのだ。お上の御用だと言えば、どこでも宿帳はすぐに見せてくれる。
近いところから順にあたっていき、取手のはずれの宿まで来た時、昌行は、宿帳に書かれた、「江戸伊勢屋 伊助」という名に目を留めた。伊之助ではないが、似た名だ。偽名かもしれない。また、「伊勢屋」という、あまりにもありふれた屋号なのも気になった。
「この、伊助、というのはどんな客だね」
宿帳を持ってきた番頭に尋ねると、番頭は、昌行の顔色を見ながら、
「若い商人で、二十四、五というところでしょうか」
その顔には、関わり合いになったら迷惑だ、と書いてあった。
「ここに来た時には濡れてたかい」
「はい、渡し舟がひっくり返ったとかで、震えながら駆け込んでおいでになりました」
「会わしちゃくれねえか」
「よろしゅうございます」
番頭が先に立って、昌行が、座敷に案内した。
ふすまを開け、番頭が事情を説明するのを待って、昌行は中に入った。
狭い部屋に、どてらにくるまった若い男がいた。
「伊助さんですね」
昌行が、腰を下ろしながら尋ねると、相手は、お上の御用だというので座り直し、
「はい、伊助でございます」
と、いかにも商人らしく、丁寧に頭を下げながら答えた。
「伊勢屋産というのは材木問屋ですかい」
「いえ、鰻屋でございます」
「ほう、鰻」
「はい、商売のことで、土浦に参る途中でございます」
相手は、聞かれる前にそんなことまで話した。鰻屋が、霞ヶ浦のある土浦へ行くのは何の不思議もないことだった。
態度には、少しおどおどしたところがあったが、八州廻りの道案内の訪問を受けて落ち着いていられる者は、そうはいない。
一度下がった番頭が、自分で茶の用意を運んできた。
茶をいれながら、昌行と伊助の会話に耳を澄ませている。
昌行は伊助の顔をじっと見た。年は若いが、目は細くはない。
「お生まれはどちらで」
「土浦でございます。伯父が伊勢屋に鰻をおろしておりました縁で、奉公に出たのでございます」
言われてみれば、かすかに訛があるようだった。
これは違う。
昌行はやや落胆したが、せっかくなので、渡し舟で起こったことを聞いてみた。
「渡し舟がひっくり返ったときのことを聞きたいんだが」
「はい」
伊助の表情が少しゆるんだ。
「なんでひっくり返ったのか、知ってる限り話してもらいてえ」
「よろしゅうございます」
そう返事をして、伊助が語った内容は、渡し場で東山から聞いた話と寸分たがわなかった。
少し気落ちしたが、昌行は、ついでに、
「その侍は、何だって立ち上がったんだろうね」
と尋ねてみた。
「それが……」
伊助は口ごもった。
「どうしたい」
「そのお武家様は、河童、と」
「河童……」
やっぱり河童か。昌行は、横で話を聞いていた番頭の顔を見た。番頭も不思議そうな顔をしている。
伊助は話を続けた。
「そのお武家様は、河童だ、と独り言をおっしゃって、それから立ち上がってじっと川を見ておいでになりました」
「伊助さんは、見たのかい」
「いえ、私は、渡し舟がゆれるのが気になりまして、川の方までは……」
「そうかい。いや、災難だったな」
そう言って昌行は立ち上がった。
それからも一軒一軒聞いてまわったが、濡れ鼠の旅人震えながら駆け込んできた、という話はあっても、着物を濡らした侍を見た者はなかった。
何の収穫もなく戻ると、侍が起きて帳場に座っていた。
博と、火鉢を挟んで座っている。昌行を見ると、丁寧に礼をした。
「たいへん世話になった。かたじけない」
「うまいこと、あっしらの方へ流れておいでになってようございました」
相手の身分がどの程度か分からないので、奥に腰を据えるわけにもいかず、昌行は侍の横に座った。侍は温和な顔をしている。
「念のため、お名前と、どちらのご家中かお聞かせ願えないでしょうか。代官所からお尋ねがあるかもしれませんので」
侍は少し俯いた。
「それが……。思い出せんのだ」
「思い出せないとは……」
昌行が博と顔を見合わせたとき、東山が入ってきた。
「邪魔するぞ」
昌行はすぐに出迎えた。
侍は、東山の様子から、身分ある者とは分かったらしく、座り直した。東山は上座に腰を据え、侍に尋ねた。
「代官所の東山と申す。直裁にうかがうが、お名前、それから、どちらのご家中か承りたい」
「それが……」
侍は目を伏せた。
「思い出せませぬ」
「思い出せぬとは」
博が横から説明した。
「さきほどお目覚めになったのですが、どうしてもお名前が思い出せないとおっしゃっるのです」
「たしか……」
昌行が口を挟んだ。
「いの、とおっしゃってましたね」
「そうなのだ」
侍は、今度は天井を見上げた。
「いの……。いのなにがし、というのではないかと思うのだが」
昌行が尋ねた。
「土地の名ではありませんか。このあたりに、井野という村がございます」
侍は首を振った。
「いや、拙者の姓のようだ。土地の名ではないような気がする」
東山が尋ねた。
「確かに姓でござるか。名ではござらんのか。伊之右衛門、伊之助、というような」
侍は目を閉じ、しばらく考えたが、これにも首を振った。
「姓でござる。いの……」
シゲが、茶道具を載せた盆を持ってきた。
火鉢の湯で茶をいれ、東山に差し出した。
東山は頷いて茶碗を受け取り、しばらくそれで手を暖めた。
「困ったな」
東山の言葉に、侍が頷いた。
「困り申した」
シゲは、お上のご用にかかわることと察して、長居せず、すぐに流しに戻った。
「どうしたものか」
そう言って、東山は茶をすすった。
「とりあえず、今日はここにお泊まりください。一晩寝れば、何か思い出すこともございましょう」
昌行がそう申し出ると、侍は素直に頷いた。
東山と入れ違いに、剛太たちが帰ってきた。
「いやあ、寒くてたまらねえ。鼻水まで凍りそうだぜ」
そんなことを言いながら、たらいの湯で足を洗い、座敷に入ってきた。
侍は、達也たちにも丁寧に礼を述べた。
「いや、そんな。かえって恐れ入ります。ただ居合わせただけでございますから」
皆は、武家に頭を下げられ、まんざらでもないようだった。
昌行が、侍は名を思い出せないこと、今夜は泊まることを話し、達也たちが気の毒がっているうちに、シゲが夕食の膳を並べた。
寒いことであるし、客もいるので、大きめの銚子が一本ずつついている。
侍を客の座につかせ、昌行がまず一杯酌をしてやると、侍はうれしそうに飲んだ。
河岸から戻った男たちは、汁が冷めないうちにと、大急ぎで掻き込んだ。侍は、それを面白そうに見ている。
「そういえば」
昌行が、思い出して達也に尋ねた。
「今日は河童はどうしたい」
「出ませんね」
飯をほおばったまま、達也が答えた。
「河童……」
侍が昌行の顔を見た。
「何ね、こいつらが、昨日河童を見た、なんて言いましてね」
「誰かが、河童と……」
侍は箸を止めた。
「そうだ、舟の上だ。渡し舟で、河童がどうのと言って立ち上がった男がいて」
「そうらしいですね」
昌行は侍の顔をじっと見た。
「それで転覆したのだ。あの男が立ち上がったせいだ。河童、確かに河童と申しておった」
驚いている達也たちに、昌行は、宿で伊助という商人に聞いたことを話して聞かせた。
「ほうら、やっぱりいるんですよ」
達也が自慢げに言った。智也も大きく頷いた。
昌行は博と顔を見合わせた。
(続く)
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