河童

(前編)

 日暮れ時になり、河岸から戻った達也が、笑いながらこう言った。
「兄貴、出るそうですよ」
「何が」
「河童です」
「ばか言え。出たところで、この寒さじゃ胡瓜はもらえめえ」
 昌行が鼻で笑うと、達也と一緒に足を洗っていた智也も、
「ほんとらしいっすよ。河岸にも出たらしいっす」
と言った。
「そう言われても、なあ」
 昌行がそう言って博を見ると、帳場の博も、ただ笑っていた。
 夕食になると、使いから帰ってきた剛太も、自分の聞いた河童の話をし始めた。
「植草さんとこの小僧が、河童を見たそうですよ」
「ほら、ほら」
と、達也は昌行を見た。昌行は苦笑する。
「どんな格好してたって」
 智也が尋ねると、剛太は、
「目がまんまるで、体は茶色だったそうです」
「俺の聞いたのと同じだ。どこで見たんだって」
 達也が身を乗り出して剛太の顔を見た。剛太は、何でそんなに熱心なのか不思議に思いながらも、
「河岸のちょっと下の方です。ご隠居の釣りのお供をして、川に行ったら、川の中からこっちを見てたって」
と答えた。
 植草というのは、作り酒屋で、そこの隠居は、佐知が真彦のところへ嫁入りした時に、佐知の仮親になってくれたのだった。
「何釣りに行ったんだろう。鯉かな」
 智也が口を挟むと、達也はそれを手で制した。
「頭に皿はあったのかい」
「いや、それが、皿はなかったっていう話で。こっちに気づいて、すぐにもぐっちまったそうです」
「植草のご隠居も見たのかい」
 博がそう尋ねると、剛太は、
「ご隠居は見なかったそうです。小僧は、河童がいるから帰るように言っても、ご隠居は釣り始めたそうで」
 そこへまた、智也が口を挟む。
「何が釣れたかな。寒鮒かな。いや、あのご隠居ならやっぱり鯉だろうな。練り餌で寄せて……」
「釣りの話はいいんだよ。河童だよ、河童」
 達也は、昌行の顔を見ると、
「どうです、兄貴。嘘じゃなかったでしょう」
と、自慢するように言った。
「しかしなあ。俺はもう三十だけどよ、一度だって見たこたあねえぜ。シゲさんはどうだい。見たことあるかい」
 昌行が、そう言って、給仕をしていたシゲに話を振ると、シゲは、
「話に聞くばかりですねえ」
と答えた。
 博も昌行の味方をし、
「疑心暗鬼を生ず、ってことでしょう」
と言う。
「そんなところだろう」
 そう言って、昌行は、タクアンを口に放り込んだ。
 河童の話はそれで終わった。

 翌朝、東山から使いが来た。
 昌行が出向くと、東山は、冷え切った部屋で、困ったような顔で待っていた。
 東山は、昌行を火鉢の向こうに座らせると、手を炙りながら話し始めた。
「江戸からな」
「はい」
 昌行は身を乗り出した。
「凶状持ちがこっちに向かっておるというのだがな、それが、侍に化けているというのだ」
「お侍に」
「ああ。見た目は全くの侍のような格好をしているらしい。無宿人らしい格好をしておれば、こちらも片端から改めればよいが、武士となるとおいそれとはいかん」
「はい」
「それでまあ、武士にしては妙だ、というような者がおったら、知らせてもらいたいと思ってな」
「お知らせするのはよろしゅうございますが、見つけたら、その後、いかがいたしましょう。ただ怪しいというだけでは手の出しようがございません」
「それで困っておる。何かよい知恵はないか」
 そう言われても思案に余ることだった。
 常陸(ひたち)から房総にかけては、天領や旗本領が入り組み、ある土地で罪を犯しても、領主の異なる土地へ逃げ込むことで追及を逃れることができるため、無法者が流れこむことが多かった。
 東山は、人相書(にんそうがき)の写しを見せてくれた。人相書というのは、身体的特徴や生国(しょうごく)などを箇条書きにして文章で説明しているものである。似顔絵が描いてあるわけではない。
 それによると、名は伊之助。年若く、目が細い、という。江戸の生まれで、訛(なまり)はない。
 材木問屋の手代だったが、主人を殺し、金を持って逃げたということだった。主殺し(しゅうごろし)である。
「何だって、こんな大それたことをしでかしたんでございましょう」
「それだ」
 そう言って、東山は火鉢の炭にかざした手を揉んだ。
「その男、武士になりたかったのだそうだ」
「武士に」
「ああ。近頃はな、旗本の株が売りに出ることなど、珍しくもない。株を買って士分になろうとしていたのだ。それで金が欲しかったらしい。土蔵に忍び込んだところを主人に見つかり、逆上して主人の脇差しを奪い取り、切った、ということだ」
「しかし、土蔵から一人で盗めるぐらいの金で、お旗本の株が買えるのでございましょうか」
「それは無理だろうな。ただの金盗りだったのだろう」
 町人が、武士の身分を金で手に入れることはよくあることだった。特に、御家人は、幕府直属の身分ではあっても俸給は低く、生活が苦しいため、身分を株として売り渡し、それを買った者がその家を継いで武士となることがよく行われた。
 例えば、江戸城無血開城を果たした勝海舟も、曾祖父が男谷(おだに)家の旗本株を買って士分となったのである。
 男谷家の次男として生まれた小吉が、やはり旗本の勝家に婿養子として入り、その子として勝海舟が生まれたのであるが、勝家も例に漏れず生活は苦しく、海舟は、天井板をはがして薪代わりにするほどの困窮を経験している。
「刀は使えるのでしょうか」
「うむ。町道場で鳴らしたらしい。まあ、武士の家に生まれてみれば、人が羨むほどの身分ではないということが分かるのだが」
 そう言って、東山は白い息を吐いた。
「もし、見つけても、手は出すな。あとをつけて、居場所を知らせてくれればよい。町人に怪我はさせられん。その人相書は渡し場に持って行ってくれ」
 言われた通りに、昌行は人相書を渡し場へ持っていった。
 しばらくそこで話し込み、戻ったときには、昼近くだった。
 シゲが用意をしているうちに、昌行は、母家を出て離れに向かった。
 曇っているせいか、冷え切ったままで、霜柱がまだ解けずに残っている。下駄の歯霜柱がつぶれる音がした。
 離れの障子は閉じられている。
「昌行でございます。姐(あね)さん、お加減はいかがですか」
 声をかけると、障子が半分ほど開いた。
「開けちゃいけません。冷えます。お体に障ります」
 そうは言ったが、昌行は、佐知の顔を見ることができたので、冷気にこわばっていた顔が少しゆるんだ。
「こう冷えると、かえって気持ちがいいくらいだね」
 佐知は、上体を起こし、綿入れを肩に羽織っている。
「へえ、今日はめっぽう冷え込みます」
「雪でも降りそうだね」
 そう言いながら、佐知は少し身をずらして曇り空を見上げた。昌行も、縁側に腰を下ろし、空を見上げた。今にも粉雪がちらつきそうな、白い空だった。
 佐知が片手でほつれ毛をかき上げた。その白く細い腕に、青く血筋が浮き上がって見えている。昌行は、つい、その腕を見つめてしまった。佐知はそれに気づいたのかどうか、綿入れの前をかきあわせ、
「東山様に呼ばれたのかい」
と、尋ねた。
「へえ」
「何かあったのかい」
「それが……」
 昌行は、東山に聞いた話をかいつまんで話し、あまりいい話題ではなかったので、次に、夕べ達也と剛太に聞いた河童の話をして聞かせた。
 佐知はすこし笑った。
「この寒いのに、河童も大変だねえ」
 そこに、キミが粥を運んできた。昌行は、佐知の体のことを考え、
「御免なすって」
と、頭を下げて母屋に戻った。

 昌行は、昼食をとりながら、博とシゲに、東山からの話を聞かせた。
「ぶっそうですね」
 博は眉を寄せた。
「ああ。刀を振り回されたんじゃな。渡し場の連中の中には、気の荒いのもいるからな。下手にもめて、怪我人でも出なきゃいいが」
 二人とも、煮物と漬け物を菜に、飯を、熱い汁と交互に口に運びながら話した。
 夏ならば、朝炊いて、さめた飯を昼に食うところだが、冬は冷え切ってしまってとてもたべられない。
 特に、河岸で働く連中に弁当を作ってやるため、冬は昼にも飯を炊いて、少しでも温かい飯が食べられるようにしていた。
「ほんになあ」
 給仕をしていたシゲも不安そうに頷いた。
「しかし、なんでこっちに来よるのやろ」
「なんでも、水戸の方に、頼っていく先があるらしい」
「頼っていったかて、面倒見てくれるとは限らんのに」
「これ、うまいね」
 博が、白菜を箸でつまみ、関係のないことを言い出した。
「そやろ。冷えるときほどうまくできるんや」
 炊いて間もない飯も、急いで掻き込まなければ、すぐに凍ってしまうのではないか、というほどの寒さだった。

 昌行が河岸に来てみると、達也達が小屋でまるくなっていた。
 隙間だらけの小屋ではあるが、いくらか風がしのげるだけでもありがたい。
 真ん中に置かれた七輪で、炭が赤くなっていた。鉄瓶がのせてある。
 さすがに利根川が氷結することはないが、川岸には薄く氷が張っている。
「冷えるな」
 昌行が中をのぞいて声をかけると、智也が自分の横を開けてくれた。
「へえ。荷を運んでるときはいいんですが、待ってる間が寒くてやりきれねえっす」
 剛太が手を揉みながら答えた。
 みな、唇が、寒さと乾燥でひび割れ、薄く皮がむけている。
 利根川は、銚子から江戸までの物資を運ぶ水路ではあるが、取手の上流で川底が浅くなっている。そこで、水量が少ない冬などには、大型船から小型船に荷を積み替えなくてはならなかった。
 男達は皆、厚手の股引を穿き、綿入れで着ぶくれしている。暮れの忙しいときには、伊達を気取って半纏(はんてん)一枚で動き回っていた男もいたが、小正月も過ぎた今は、わりに暇で、そんなまねはできない。
 それでも、足元は素足に藁草履だった。足袋を穿くのは昌行のような、人から旦那と呼ばれる身分のものだけだった。
 隙間から吹き込んだ風に、火の粉が舞った。
 鉄瓶の口から湯気が吹き出している。
 昌行は、火にあたりながら、凶状持ちの話をした。
「喧嘩(けんか)なら負けねえけどなあ」
 腕っ節には自信のある智也も、刀を使う相手となると敬遠したくなるようだった。
「渡し場の連中は大変ですね」
 そう言って、達也は小屋の戸口から頭を出し、少し川上の渡し場に目をやった。
 水戸街道は、取手と我孫子の間は、渡し舟によってつながっている。
 昌行も、渡し場に目をやった。渡し舟がこちらに向かっている。蓑と笠で寒さから身を守っている船頭が、棹をあやつっていた。
 暑かろうが寒かろうが、行き来は絶えない。人だけでなく、馬も乗せる渡し舟もあった。
 客の身分によっては、駕籠に乗ったまま舟に乗ることもある。
 達也が、見るともなく見ていると、渡し舟の中で立ち上がった者がいた。
「あぶねえな」
 川底が浅いため、渡し舟も底が浅く、不安定なのだ。
 達也が声を上げたので、みな、外顔だけ外に出して渡し舟を見た。
 渡し舟の上では、もう一人立ち上がった。何か揉めているらしい。
「あれあれ」
 智也も気づいて声を上げた。皆、首をねじって渡し場の方へ目を向けたが、手は火にかざしたままだ。
 船頭が、やめさせようと手を伸ばした。
 それがよくなかったのか、折から吹き付けた風のためか、舟は大きく揺れ、横倒しになった。乗っていた客の悲鳴が聞こえた。あっという間に、凍りつきそうな水の中に投げ出された。
 すぐに、川面に、男や女のまげが浮かんだ。皆、必死に舟にしがみつこうとしている。
 渡し場からも、すぐに救援の舟が出た。
 転覆した舟はしがみついた客ごと、流されてくる。
 昌行たちは、岸辺に駆け寄った。助けられるものなら助けたい。
 達也と智也は、棹(さお)を手にして、船着き場の先に立った。
 幸い、助けに漕ぎ寄せた舟が間に合い、次々に、客が引き上げられていく。自力で岸に泳ぎ着いた男もいた。
 昌行が見ていると、それでも、流されてきた客がいた。
 うまい具合に、岸の方へ寄ってきている。
「流されてきたぞ」
 昌行が声をかけると、達也も気づいていたらしく、黙って頷き、川面を見ている。
 まもなく、達也は、
「これにつかまれ」
と大声で呼びかけながら、棹を突きだした。それが手に触れたらしく、流れてきた相手は必死にしがみついたようだった。
「離すなよ」
 声をかけながら、達也が引き寄せる。智也が横にしゃがんで水面に手をさしのべた。
 智也の手首を、相手がぐっとつかんだ。智也が踏ん張って引き上げる。
「ひえぇっ」
 智也が悲鳴を上げた。
「河童だ」
 水面に顔を出した相手の頭には、青白い皿があった。
「ばか野郎、はやく上げてやれ」
 昌行が怒鳴った。見直すと、髷(まげ)がほどけ、ざんばら髪になった男だった。脇差しを差している。
 智也は、ぐっと踏ん張って男を引き上げた。船着き場にへたり込んだ男は、唇が紫になり、歯の根も合わないほど震えている。
「さ、火にあたって」
 達也と智也が、抱えるようにして小屋に連れてきた。
 剛太も手伝って、急いで着物と袴を脱がせた。そのままでは着物が凍ってしまいそうだった。
 昌行は、手拭いを出してさっと体を拭ってやり、自分の着ていた綿入れ羽織を肩に掛けてやった。
 男はまだ口がきけない。
 昌行はその男の顔をじっと見た。町人ではない。脇差しだけの軽装で旅をしていたらしい。
「江戸からおいでなすったんですか」
 そう尋ねると、相手は震えながら頷いた。
「お侍ですね」
 これにも頷いた。
 達也は、着物を絞り、炭火の上にかざして乾かしてやっている。智也は茶碗に番茶をついでやった。
 男は震えながらそれを受け取り、茶碗を口に当てたが、カチカチと、歯が茶碗にあたる音がした。
「差し支えなければ」
 昌行が、男の様子をうかがいながら尋ねた。
「お名前をお聞かせ願えないでしょうか。あとで代官所から何かお尋ねがあるかもしれませんので」
 男は、昌行に目を向けた。まだ顔に血の気が戻っていない。
「い、いの……」
 そう言って、自分で首を傾げた。
「いの……。はて……」
 名が思い出せないような様子だった。
「おい、剛太」
 昌行が、戸口の所に立っていた剛太に声をかけた。
「へい」
「渡し場へ行ってな、一人はこっちで助けたと伝えてくれ。あとはこっちでお世話する」
「へいっ」
 剛太はさっと駆けだした。その後ろ姿を見て、昌行は、走るのに自信があった頃のことを思い出した。遠い昔のことのような気がする。
 しかし今は、思い出に浸ってはいられなかった。
「智也」
「へい」
「急いで戻って、何でもいい、俺の綿入れを持ってきてくれ。羽織もな」
「へいっ」
 智也も駆け出した。
 達也は、頷き、笑みを見せた。昌行が、ただ親切心でそうしているだけだと思っているらしい。
 しかし、昌行は、緊張に身を固くしていた。智也が戻ってくるまでの時間が、ずいぶん長く感じられた。

(続く)


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