朝顔
(第四回)
錦織が取手にもどってきたのは、その翌日の昼過ぎだった。
荷を担いだ快彦たちを従え、錦織が安孫子屋に着くと、庄兵衛が飛び出してきた。
「坊ちゃま」
錦織は驚いて目を丸くした。
「どうしたんだよ、じい」
「坊ちゃまが毒を盛られたと聞いて、いてもたってもいられませんでしたぞ」
庄兵衛は、完全にそう思いこんでいるようだった。そして、錦織の姿を見て安堵したのか、手拭いを出して目を押さえた。
「毒なんか盛られちゃいないよ」
錦織はあきれていたが、庄兵衛は大まじめだった。
快彦たちは、荷を下ろすと過分な雇い賃を貰い、ほくほく顔で近藤屋にもどった。
また、錦織は、庄兵衛がねじ込んだことを聞き、済まないと思ったのか、昌行を夕食に招いた。
昌行も聞きたいことがあったので、身支度をして出かけていった。
今日は仕出しではなく、膳には、太一の心づくしの料理が並んでいた。
錦織は、芸者を呼ぶこともなく、女中に酌をさせ、軽い調子でものをいいながら食べた。
昌行の見たところ、幇間を呼ぶような旦那ではなく、人に楽しませて貰おうとするよりも、自分が人を楽しませようとする男だった。
気軽に昌行の仕事の話を聞き、さかんに、「えらいねえ」と言っていた。
同席した庄兵衛も、錦織が無事で、供の者が具合が悪くなったことを気にしていないようなので、笑顔で相伴にあずかっていた。
昌行は、聞きたいことがあったが、ほかのものがいるので切り出せず、勧められるままに酒を飲んだ。
酒が済むと、錦織は女中を下がらせ、主人を呼んだ。そしてさらに、太一とおツタを呼んだ。
昌行は、座をはずそうとしたが、錦織は、
「お上のご用をつとめる人がいてくれた方が都合がいいから」
と言って、同席を求めた。
人が揃うと、錦織はこう切り出した。
「おツタさんは、ほんとうは半年前に年季が明けるはずだったんだってねえ」
おツタが答えた。
「はい……」
太一は憮然としている。
錦織は少し笑ってこう言った。
「残りの借金はあといくらぐらいかね」
「さあ……」
そこで錦織は主人に目を向けた。主人は少し考え、
「おそらく、あと七両余りではないかと思いますが」
と言った。
「じゃあ、それを肩代わりしさえすれば、わたしの好きなようにできるんだね」
「はい、それはもう……」
そこに庄兵衛が割りこんだ」
「ぼっちゃま、あ、いや、旦那様。まさか、女郎を身請けして家に入れようなどというお積りではありますまいな」
「庄兵衛は黙ってておくれ」
たしなめるように言ったが、錦織は笑顔だった。
そして、安孫子屋の主人の方へ向き直ると、懐から小判を十枚取り出した。
「ここに十両ある。これで、借金は帳消しにできるね」
安孫子屋は驚いて腰を浮かせた。庄兵衛も驚いて、錦織に詰め寄った。
「なにもこのような土地の女を」
「どんな土地でもいいんだよ。さ、安孫子屋さん。どうなんです」
「それは、まあ、異存はございませんが……」
「乗り気じゃないようだね。まあ、おツタさんは、一番の売れっ子だそうだからかね」
「有り体に言えば、そうでございます」
「そうかい、嫌ならいいんだよ。結城に帰ったら、取手の安孫子屋には気をつけるように、みんなに忠告しておくからね。うっかり泊まると腹が下るってね」
「そ、そんな……」
主人は色を失った。
「それが迷惑なら、証文を持ってきてくださいな」
安孫子屋の主人は、頭を下げて出ていった。
おツタは、どうなることかと、不安そうな目で太一を盗み見た。じっと俯いている太一の膝の上では、にぎりこぶしが細かく震えていた。
庄兵衛は、錦織にさらに詰め寄った。
「旦那様、いくらなんでも、酔狂が過ぎますぞ」
錦織は笑っていた。
「べつにわたしのものにするつもりはないんだよ。どうです、近藤屋さんは独り身ですかい」
いきなり話をふられて昌行はまごつき、少し間をおいて、
「はい」
とだけ答えた。
「どうです、おツタをいりませんか」
昌行が返答に困ると、
「ははは、冗談です、気を悪くなさらないように」
と、錦織はあくまで笑顔でいる。おツタは涙を浮かべていた。
「近藤屋さんは、女中をおいてるんでしょうね」
「はい」
「若い女中かな」
「いいや、おシゲという婆さんです」
「ほう、おシゲさんというと、いかにも婆さんみたいな名ですね。それでも若い時はあったんだろうに。ねえ、庄兵衛」
「おシゲ……。いや、そんな婆さんのことより、今申し上げなくてはならないのはですな……」
そこへ、主人が書き付けを持って入ってきた。
「これが証文でございます」
錦織はそれを受け取ると、自分の前に置いた十両を手に取り、主人に手渡した。
「これでもう、おツタさんは、わたしのものだね。ここにいる近藤屋さんも証人ですよ」
安孫子屋は、小判を手にし、不承不承答えた。
「はい、さようでございます」
太一は、顔を上げて錦織をにらみつけた。
「さて、これで一つ片付いた。ご主人はもう下がってくださいな」
錦織は、そう言って、主人を下がらせると、足音が遠のくのを待って、座を立ち、太一の前に座った。
太一はその顔を背けたが、錦織は気にする様子もなく、
「さ、これを」
と言って証文を差し出した。
「えっ」
声をあげたのはおツタだった。
太一は声も出ず、錦織の顔を見つめている。
錦織は笑って、証文を太一の懐に押し込むと、もとの座にもどり、あぐらをかいた。
「さ、お二人はもう下がっておくれ。あとはもう、所帯を持つなり、ケンカ別れするなり、好きにするがいいさ」
太一とおツタは顔を見合わせると、次に、錦織に向かって言葉もなく深々と頭を下げ、手を取り合うようにして廊下に出て、そこでまた膝をついて深々と頭を下げた。
錦織は笑顔で頷いてかえした。
「さて」
二人が去ると、錦織は昌行の方へ向き直った。
「あとで面倒があるといけませんから、証人になっていただきました。ご迷惑さまでした」
「とんでもない。感じ入りました」
昌行は座り直して頭を下げた。
「明日、発つ前にお礼にうかがいます」
という錦織の言葉に、
「それには及びません。ごちそうになりました」
と言って、昌行は座を立った。
庄兵衛が送って出た。
「うちの旦那様は、ほんとうにお優しくて」
感心半分、自慢半分の響きがあった。
「全くです。さすがに大店の旦那は違いますね」
「しかし、旦那様に毒を盛ったのは一体……」
「ははは。それは詮索しない方がいいかもしれません」
昌行は機嫌良く家に戻った。
次の日、昼前に、錦織と庄兵衛が近藤屋を訪れた。
昨日の言葉通り、発つ前に証人の礼を言いに来たという。
座敷に腰を下ろすと、錦織は簡単に礼を述べ、
「供の二人が腹を下したことは、お捨て置きください」
と言った。
昌行は笑顔で頷いた。
「承知しております」
シゲが茶を運んできたが、俯いたまま茶碗を置くと、すぐに流しに戻った。
特に庄兵衛の顔は見たくないようだった。
庄兵衛には、錦織と昌行の交わした言葉の真意がわからなかった。
「まさか、何もなかったことにはできますまい。またこのようなことがあっては錦織屋の一大事でございます」
昌行と錦織は、顔を見合わせて苦笑した。
「おおかた、旦那がうっかり何か入れちまったんでしょう」
その言葉に錦織が頷いた。
「実はそうなんだよ。ほら、じいがくれた薬、あれがどれぐらい効くもんかと思ってね、試しに飲ませたみたんだよ。そうしたら効き過ぎるようだから、わたしはやめておいたよ」
「あの薬でですか」
「うん。入れすぎたのかもしれないね」
錦織はそこで昌行に向き直り、
「旅に出るとお通じがなくなって困ることがあるからって、じいが薬を持たせてくれたんですが、それを飲ませてやっただけでして。大事になって、つい、ほんとうのことを言いそびれてしまいました」
「どうにも怪しいもんが出てこないんで、そんなことだろうと察しておりました」
庄兵衛が尋ねた。
「して、どれほど飲ませたのでしょうか」
「それがね、ついうっかりして全部」
「全部……」
「わたしが悪かったんだよ。さ、もう帰らなくちゃいけない。おいとましましょう」
そう言って錦織は軽く礼をし、立ち上がった。
錦織は雪駄を突っかけて来たのだが、庄兵衛はわらじを履いていた。
シゲは暖簾の陰から二人を盗み見していたが、紐を結ぶために身をかがめた庄兵衛には、その顔が見えた。
庄兵衛はゆっくり紐を結ぶと、流しに向かった。
シゲはあわてて後ずさる。
「水を一杯くださらんか」
「はい」
シゲは茶碗に水を汲むと、顔を背けて差し出した。
博は、庄兵衛が何か不快なことを言い出すのではないかと、そっと中の様子をうかがった。
庄兵衛は、茶碗を手にして、声を震わせながらこう言った。
「夕べ、こちらのご主人の口から、おシゲさんという名を聞いて。もしやとは思ったが……」
シゲは、観念して向き直り、深く頭を下げた。
「お久しぶりでございます」
「坊ちゃまは、あんなに立派におなりになったよ。坊ちゃまも、先代の奥様とはいろいろあったが……」
「はい、拝見して、うれしくて……」
「達者だったかい」
シゲは無言で頷いた。
「できれば名乗りを上げさせてやりたいが……」
「それはあきらめる約束でした」
「そうだったね」
庄兵衛はゆっくりと水を飲み終えると、それをかたわらへ置き、錦織の待つ土間へ顔を出し、こう言った。
「旦那様、めずらしい人に会いました。こちらのおシゲさんは、ずっと昔、うちの店に奉公していたことがある人でございました」
「おや、そうかい」
錦織は、流しの方へ顔を向けた。
庄兵衛は、
「さ、ごあいさつを」
と言ってシゲを押し出した。
シゲは体を震わせながら、やっとのことでこう言った。
「シゲと申します。昔、錦織屋様にお世話になったことがございます」
錦織は笑顔で頷いた。
「そうだったのかい。奇遇だね。ずいぶん前なのかい」
「はい。まだ旦那様がほんとうにお小さい頃で。おんぶして差し上げたこともございました」
「そうかい。覚えてなくて悪いね。長生きしておくれ」
「ありがとうございます」
シゲはそう言うと、そっと目を拭いながら頭を下げ、流しへ戻った。
庄兵衛は、錦織を促して去っていった。
錦織たちが取手を去ってから、昌行は東山のところへ報告に出向いた。
一応、あらましは耳に入れて置かなくてはならない。
東山は、最初は感心して聞いていたが、話を聞き終わると、しばらく考えてこう言った。
「おツタはいいだろうが、ほかの女郎はどう思うだろう」
「は?」
昌行は、東山の顔をのぞくように見上げた。
「おツタは、たまたま錦織屋の相手に呼ばれ、たまたま惚れあった相手がいた。おツタと同じように、借金に泣いている女もあろう」
「はい……」
「おツタ一人が救われたとあっては、ほかの女は、よけいに我が身の不幸が身にしみるのではないかな」
「そう言われてみますと、確かにそうでございます」
東山は扇子を使いながら、庭に咲く夾竹桃に目をやった。
「おそらく、錦織屋は、おツタを救ったのではあるまい。何か訳があって、自分を救いたかったのだろう。救ったのは己(おのれ)自身なのだ」
昌行は、思ってもいなかった言葉に、返事のしようがなかった。
夜は、植草の隠居が持ってきた酒をあけて飲んだ。
酒にはまったく問題がないことが分かったので、気持ちよく飲むことができた。
剛太と快彦は、錦織の話題で盛り上がった。
達也と智也は、夕べも聞いた、という顔をしていたが、それに気づかぬのか、快彦と剛太は、さかんに錦織を持ち上げた。
一緒にいた二人の話では、決して威張らず、気前がいいということだった。
「女を呼んでもさ、ただ飲み食いさせて話を聞くだけなんだよな」
剛太が感じ入ったように言った。
「いやまったくたいした人物だった」
快彦も心服の体である。
「でもなあ」
快彦が言った。
「なんだか寂しそうなところもあったな」
その言葉に、達也が言った。
「あんなお大尽なのにかい」
「ああ。へんに女にやさしすぎる」
剛太と昌行は頷いた。
言われてみれば、錦織屋は満たされぬ思いを、他人への親切で埋めようとしているかのようなところがあった。
昨夜、おツタを太一に与えたことは、まだ噂にはなっていないようだった。
いずれ噂として広がるだろうとは思ったが、昌行は話さずにいた。
評判になるのは、錦織の本意ではないだろうと思ったのだ。
それでも、昨夜は楽しく飲ませてもらったので、昌行も快彦や剛太と一緒になって錦織をほめた。
給仕をしているシゲは、少しうれしそうにそれを聞いていた。
博は、時々、シゲの様子をうかがっていた。
日が落ち、流しの横の部屋に博が蚊帳を吊り終えたところへ、シゲが、自分で肩を揉みながら入ってきた。
「肩揉んでやろうか」
博が声をかけると、シゲは、
「頼むわ」
と言って、博に背を向けて腰を下ろした。
博は、しばらく黙って肩を揉んでいたが、迷いながらシゲに声をかけた。
「おシゲさん」
シゲは黙っていた。
「あの旦那は、おシゲさんの子かい」
返事はない。
「そうなんだろ。昔子供を産んだことがあるって、一度だけ言ったことがあったよね」
ややあって、シゲがこう言った。
「あそこの……、錦織屋の奥様が子を産めなくて。妾奉公に雇われて……。男の子が生まれてな。妾の子でも跡取りは跡取りだが、生みの親がそばにいたんじゃ、もめ事のもとだって。物心つくまえにって言われて……」
博はシゲの背中をさすった。
「俺……。いつも言ってるけど、おシゲさんが、俺のお袋だと思っているから」
あとは、シゲの、嗚咽をこらえる声が聞こえるばかりだった。
次の日の朝、離れに向かった昌行は、佐知の顔を見ることができて顔をほころばせた。
何もかも片づき、晴れ晴れとした気持ちになった。
「よく晴れたね」
佐知は空を見上げた。
「はい」
まだ朝のうちではあったが、今日も暑くなりそうだった。
キミは今日も朝顔に水をやっていた。
大輪の花が一つ開いている。
「お、咲きましたね」
昌行の言葉に、佐知が身を乗り出した。
濃い紫の花だった。竹竿にからみついているツルもだいぶのびている。
「不思議だねえ、朝顔って」
昌行とキミが、佐知を見た。
「何かに巻き付かないと伸びられないなんてさ。自分だけじゃ立っていられないんだね。誰かに頼らなくちゃいられないんだ」
「そうですねえ」
少し風が吹き、朝顔はより必死にしがみついたようだった。
(終わり)
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