朝顔

(第三回)

 おツタは、やはり、お上のご用と言うことで、昌行の前でかしこまった。
 主人がいたのでは言いにくいこともあろうかと、二人だけにして貰って話を聞いたのだが、拍子抜けしただけだった。
 おツタは、二十歳は過ぎていたが、色が白く、うなじのきれいな女だった。
 取手では一番と言われているが、それを鼻にかけることがないので、それでさらに評判が高かった。
 昌行に問われるままに答えたところでは、錦織は、二晩とも、おツタには指一本触れなかったのだという。
 最初の晩は、ただ話をしただけ。錦織は、おツタの身の上を聞きたがったので、売られてきたときの話などを正直に話したという。
「夕べはどうした」
「はい、主人に言われてお座敷には伺いましたが、やはりいろいろお話をしただけで……」
「酒は番頭が持っていったそうだね」
「はい。番頭さんが運んでくださったのですが、錦織屋様は、今日はもういい、お供のお二人に飲ませてやろう、とおっしゃって、ご自分で持っておいでになりました」
「ほう、自分で運んだのか」
「はい。わたしが運びます、と申したのですが、いいから、いいから、とおっしゃって」
 供の二人の話と合わせると、やはり、本当の善人であるらしい。
「いろいろ話したと言うことだったが」
 昌行は、話の向きを変えた。
「板前とのことも話したのかい」
「え?」
 おツタは、何のこと分からない、という風に首を傾げた。
「俺の見込み違いかね。あの太一とのことだよ」
 見る見る血の気が引き、おツタは、細かく震えだした。
「そ、それは」
 昌行は、安心させようと、少し笑って見せた。
「案じることはねえ。こういうところで使われてる者同士がくっつく、なんてのは許されねえことぐらい、俺でも知ってる。ほかの奴には言いやしねえよ。どうなんだい」
「はい……」
 おツタは、しばらく落ち着かない表情で昌行の顔を見ていたが、思い切ったようにこう言った。
「話しました」
「どんなところまで」
「年季が明けたら……、そうしたら一緒になろうって……」
「いつ明けるんだね」
「ほんとうは、半年前に……」
「借金が残ってるのか」
「はい。なんでもわたしの着物や何かでお金がかかったとかで」
 売られたときに、借金という形で金が支払われ、働いてそれを返せば自由の身となれるはずなのだが、あれこれと理由をつけて借金を帳消しにせず、少しでも長く働かせようとするのは、よくあることだった。
「この旅籠で、板前とのことを知ってる者はいるのかい」
「たぶん……」
「誰が知ってる」
「旦那さんも番頭さんも……」
「何だ、みんな知ってるのか」
「たぶん……」
 昌行は拍子抜けがした。
「で、ここの旦那からは何か言われたかい」
「きつく釘を刺されました」
「折檻なんぞ、されなかったかい」
「そこまでは……」
「しかし、いい顔はされねえよな」
「はい……」
「太一も何か言われたようかね」
「はい……」
 昌行は、太一の握りこぶしを思い浮かべた。

 宿を出ると、強い日差しに目がくらむようだった。
 酔いも回ってきて、汗が噴き出した。
 腹が痛み出す気配はない。
 扇子をつかいながら歩いたが、背中がじっとり濡れてきた。
 結局、わかったのは、錦織屋が善人だということだけだった。
 手がかりは何もない。

 剛太たちの乗った船は、何かに遮られるということなく、順調に川を下っていった。
 昼時になると、船頭が来て、錦織のいるところへ連れて行った。
 簡単な膳が出してあり、折り詰めが三人分用意してあった。
「一人で食うのも淋しいからね。一緒に食べようじゃないの」
 そう言って、錦織は、扇子で、二人分並んでいる膳を指した。
 まさか、雇い主と一緒に食べることになるとは思わず、どうしようかと思ったが、断るのも具合が悪そうなので、二人はおとなしく座に着いた。
「お前さんたちは、こっちへいける口かい」
 そう言って、錦織は猪口をもつ仕草をした。
「はい」
「いいえ」
 快彦と剛太が同時に答えるた。
「そうかい、一人はいけるのかい」
 錦織は、自分のわきにあった徳利を手にし、給仕のために残っていた水夫(かこ)に、
「じゃあ、これを注いでやってくれ」
と言って渡し、水夫(かこ)は、快彦の膳の上にあった湯飲みに酒を注いだ。
 快彦の顔に笑みが浮かんだ。
「じゃ、頂こうかね」
 そう言って錦織は箸をとった。快彦と剛太も、声を合わせて、
「いただきます」
と言ったが、剛太は箸をとり、快彦は茶碗を手にした。
 一口飲んでみると、あっさりとした味わいの酒だった。
「いい酒ですね」
「そうだね、いい酒だね」
 しかし、錦織は自分では飲む様子はなかった。鯉の煮物をむしっている。
 快彦は、卵焼きを一口食べ、また湯飲みを口に運んだ。
「二人は、ずっと取手にいるのかい」
 唐突に錦織が聞いた。
「はい、もう六年います」
 剛太が答えた。
「奉公に出てきたんだね」
「はい」
「おっ母さんは、達者でいるのかね」
「はい、お陰様で」
「そりゃあいい、孝行するんだよ」
「はい」
「そちらはどうなの」
 錦織は快彦に尋ねた。
 快彦は、少し迷ったが、取手に来るまでの記憶がないことを話して聞かせた。
「ほう、そりゃあ気の毒だねえ。名前も覚えてないのかい」
「名は、井ノ原快彦と申します」
「おや、お武家さんかい」
「侍だったようです」
「いやあ、何があるかわからないものだね」
 錦織は感に堪えたように言うと、
「そうそう、少しは商売の話もしないとね。どう、お二人、紬(つむぎ)は。何か持ってる」
「とんでもない」
 剛太は手を振った。
「とてもとても」
「おや、そうかい。何かあったらうちの生地を使っておくれよ」
 快彦は、酒を飲ませてもらったので、少し愛想を言ってみた。
「旦那は紬ばっかりなんでしょうね」
「そうなんだよね。夏は着てられないけど、あとは紬ばっかりよ。一度、洒落で下帯も紬で作ってみたんだけどね、あれはいけないね、擦れちゃってさ。歩くたびに擦れるのよ。半日でやめたよ」
 飄々とした話しぶりに、剛太は吹き出した。

 昼食が済むと、昌行は、植草の隠居に会いに行った。
 酒を飲んでみたが、何ともなかったことを知らせるためである。
 隠居は、昌行の話を聞いて大いに喜んだ。
「あたりまえのことだが、うちの酒で腹を下すなどということがあるわけがない。おおかた、ほかに悪いものでも食ったのだろう」
 そう言って、盛んに頷いていた。
 昌行は、そばにいた健吉に尋ねてみた。
「どう思う。何か勘が働かねえかい」
 健吉はおだやかな表情で首を振った。
「わかりません。おおごとにはならないようで、何よりでした」
「ま、おおごとにはならないようだが、結局わけがわからねえままじゃ、俺は収まらねえなあ」
「なに、何かわるいものを食ったに決まっておる」
 植草はあくまでもそう言い張った。

 翌日の昼過ぎ、血相を変えて近藤屋に乗り込んできた男がいた。
「近藤屋さんはこちらですね」
「はい」
 博が応対に出てみると、髪の白い、六十は越えているような客だった。
 身なりからするに商人のようだった。
「人足の手配でしょうか」
 博が尋ねると、相手は、フンと鼻先で笑った。
「そのような用向きではござらん。失礼だが、こちらのご主人かな」
「主人は奥におります。失礼でございますが、どちら様で……」
「とにかく、主人に会わせて貰おう」
 相手は、そう言うと、手早く草鞋を脱ぎ捨て、足も洗わずに上がり込んだ。
 しかたなく博は後に続き、昌行が、何事かとこちらを見ている座敷へ二人で行った。
「ご主人かな」
 男の声は、怒りに震えていた。
「はい。手前がここのあるじでございます」
 昌行は、座り直して、そう挨拶したが、相手が一体何を怒っているのか見当もつかなかった。
「一体、下手人の目星はついておるのか」
 相手はいきなりそう切り出した。
「下手人、とは」
「うちの旦那様に毒を盛った下手人だ」
「毒?」
「安孫子屋で」
 昌行も、博同様、相手の身なりから、商人だろうとは思っていたので、それでようやく話が分かった。
「結城からおいでになったのですか」
「錦織屋のもと大番頭(おおばんとう)だ。知らせを聞いて飛んで参った」
「それはそれは、お疲れさまでございます」
 そこへシゲが茶を運んできたが、男の剣幕に恐れをなしてか、敷居のところで、盆を持ったまま中に入れずにいた。それを見て、博は、
「俺が持っていくよ」
と言って盆を受け取り、男に茶を勧め、そのまま横手に腰を下ろした。
「こちらは、八州回り様の道案内も務めておられるとか。すでに下手人の目星はついているのでしょうか」
 男は、少し落ち着いてそう言うと、茶碗を手にし、一口すすった。
「まだ、錦織屋様のお話を伺っておりませんので、今のところは何とも申し上げられません」
 昌行はゆっくりと、そう言った。
 それからいろいろ聞いてみると、男は、名を庄兵衛と言い、もとは錦織屋の大番頭で、今は隠居の身だという。
 主人の供についてきた二人が具合が悪くなったことについて、安孫子屋が気を利かせて、結城へ知らせてやったのだが、話が大きく伝わり、隠居で暇な身の庄兵衛が駆けつけた、ということだった。
 庄兵衛はまずは安孫子屋へ行ったのだが、具合が悪くなったのは供の者であっても、もとは主人が飲み食いするはずだったものを口にしたため、と知り、主人が狙われたものと思いこんだのである。
 安孫子屋から、調べに当たっているのは昌行だと聞き、どこまで調べが進んだか聞き出しに来たのだが、当の昌行が、走り回っていればまだしも、落ち着いていたので頭に血が上ったのだった。
「お気持ちはお察し申し上げます」
 昌行はつとめて下手(したて)に出た。お上のご用を務める身としては、高飛車な態度をとっても差し支えはないのだが、昌行はそういうことを好まなかった。
「しかし、どうも解せないところがございます。錦織屋様のご主人は、明日、取手にお戻りになるとか。一度お話を伺い、それからあとの調べに入ろうと思っております」
「悠長なことじゃ」
 庄兵衛は目を向いた。
「もうよい。わしはわしで調べてみる。構わぬであろうな」
「はい」
「では、これで失礼する」
 庄兵衛は、足音も荒く、座敷を出た。
 土間では、シゲが履き物の向きを直していたが、庄兵衛が近づくと慌てて流しに逃げ込んだ。
「どうしたの、おシゲさん」
 流しから、キミの驚いた声が聞こえた。
 庄兵衛は、ちら、とそちらを見たが、手早く草鞋のひもを結び、出ていった。

 夕刻、健吉が勝手口に顔を出した。
 植草の隠居から、潔白を明かしてくれた礼だといって、焼いた鰻を持たせてよこしたのだった。
「こらうまそうやなあ」
 タレの匂いに、シゲは鼻をうごめかせた。
「錦織屋の人が来たそうですね」
 健吉の言葉に、おシゲが頷いた。
「えらい剣幕やったで」
「安孫子屋では、その後、その人に一人ずつ呼び出されて、あれこれ聞かれたそうです。鰻屋の人の話じゃ、旦那から女中まで、みんな音を上げているそうです」
「きつい人やったからなあ」
「特に板前さんが長い間つかまっていて、仕事ができないんで、仕方がないから、安孫子屋さんは、鰻屋から仕出しをとったそうです」
 それで、安孫子屋のことが健吉の耳に入ったのだった。

 夕食の時、シゲが、健吉に聞いた話をすると、昌行は苦笑しただけだった。
「でもさ」
 智也が言った。
「なんかわかんないけど、こうして鰻が食えることになって、俺はよかったよ」
「そうだよな、安孫子屋には気の毒だけど、回りまわって、俺たちのところに鰻がくることになるとは思わなかったな」
 達也もうれしそうに、たれの付いた飯をほおばった。
「俺たちは鰻にありつけたけど、いのさんたちはどうしてるかね」
 博がそう言うと、その言葉に昌行が頷いた。
「そうだな、あんなことがあったあとじゃ、酒も飲ませてもらえねえだろうな」
「何か、俺たちだけ鰻食ってて悪いみたいだなあ」
 智也は口ではそう言ったが、顔は笑っていた。
 しかし、そのころ、鹿島の宿で、快彦たちが二の膳付きの馳走を前に、歓声を上げていたことを、昌行たちは知る由もなかった。

(続く)


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