朝顔

(第二回)

 昌行が安孫子屋に着いたときには、錦織屋が出立するところだった。
 剛太と快彦は、糊のきいた半纏を与えられ、荷を担いで駕籠の後ろを歩いていた。
 駕籠の錦織屋は、役者絵のような顔立ちだった。昌行のことなど意に介さず、扇子を遣っている。番頭が先導して歩いていた。
 昌行は、剛太たちに無言で頷いて見せ、黙って見送った。
 川に出てしまえば少しは涼しくも感じられるが、土手の上では、草いきれで蒸し暑いはずだ。
 荷を担いで土手を歩くのは、船荷の積み替えとは勝手が違って大変だろうと思った。
 一行を見送って、安孫子屋に入ると、見送りに出ていた主人がいた。まだ五十にもならない、細面の男だった。
「これはこれは、近藤屋さん」
「厄介ごとがあったそうで」
「そうなんですよ。どうぞお上がりください」
 昌行は座敷に通され、茶を出された。しかしそれには手をつけず、こう切り出した。
「だいたいのところは植草のご隠居に聞きました。一応、お上(かみ)のご用として改めさせてもらいます。よろしいでしょうな」
「もちろんでございますとも。うちの評判にも関わることでございますから」
「さっそくですが、板前さんに話を聞かせてもらえないでしょうか」
「よろしゅうございます。ただいまこれへ」
 主人は立って、奥の女中に声をかけた。すぐに、片襷(かただすき)の若い男が現れた。
 男は、昌行を見ると、襷をはずして下座に座った。
「これが板前の太一でございます」
 紹介されなくとも、昌行は太一を見知っていた。とは言っても、顔と名前を知っている、というだけで、口をきいたことはなかった。
「お上のご用だと思ってくれ」
 昌行は穏やかな口調でそう言った。
「はい」
 太一は頷いた。
「夕べのことだが、腹を痛めた二人にだけ何か別に作ったりはしなかったのかい」
「そういうことはございませんでした。大勢様でしたので。錦織屋様の旦那様のものだけは別あつらえましたが、ほかの方は皆同じものにいたしました」
「近頃めっぽう暑いが、傷むようなものはなかったかい」
「ございません。皆、よく火を通したものばかりでした。火が通っていないのは漬け物ぐらいで」
「何で、お供の二人にだけ、いい酒を出すことになったのかね」
 太一は言葉に詰まり、主人の顔を見た。
「いや、それが、実はですね」
 主人は困ったような笑い顔を見せた。
「あの酒は、錦織屋様のために出したものでして」
「ほう、それがなんでお供の口に」
「夕食の後、寝酒にでも、というつもりでお持ちしたのですが、旦那様は召し上がらずに、お供の方に差し上げてしまわれた、ということでして」
 昌行は主人の顔を見つめた。
「そうなると」
「はい」
 主人の顔に汗がにじんだ。
「もし旦那が飲んでいたら、今頃は旦那がうなってたというわけか」
「そういうことになります」
「そりゃあ大事だな」
 昌行は、大きく息を吐いた。
「二人で分けて飲んでも起きられねえんだから、一人で飲んだらどうなったか」
「はい」
 主人は膝を揺すっていた。
 昌行は太一の方へ向き直った。
「その酒は、誰が用意したんだね」
「番頭さんです。番頭さんが自分で用意して、自分で持っていきました」
 昌行は番頭はよく知っていた。実直で評判の男だった。
 今度は主人に尋ねた。
「もう一つ聞かせて貰おう。お供の二人がその酒を飲んだときに、その場にはほかに誰かいたろうか」
「実は……。おツタがおりました」
 主人は昌行の顔色をうかがいながら答えた。
「なるほどな。おツタは、錦織屋の旦那のためにそこにいたのかい」
「は、はい……」
 おツタは安孫子屋の抱える宿場女郎だった。
 表向きは、遊郭として認められたところでのみ置くことができることになっていて、宿が女郎を置くことは禁じられていた。
 しかし、宿場に女郎がいるのは当然のこととなっていて、現実には、旅籠が遊郭を兼ねていた。
 昌行には、安孫子屋の腹のうちが、手に取るように分かった。禁令に背いていることは確かなので、昌行は、それをとがめ立てすることができる。そうなったら、内聞に済まして貰うために、いくらかの金を包もうと、昌行の出方を探っているのだ。
「ま、やぼなことは言わねえでおきましょう」
 そう言うと、主人の顔には安堵の色が広がった。
 昌行は、主人よりも、太一の表情が気になった。どこか思い詰めたような様子があった。昌行にみつめられていることにも気づかぬようだった。
「後で、おツタさんの話もきかなくちゃならねえだろうな」
 主人は、
「はい」
と頭を下げたが、その横で、太一が拳を握りしめたのが、昌行の目に留まった。しかしそれには気づかぬ振りをして、太一に尋ねた。
「寝酒ということだったが、つまみはなにかあつらえたかい」
「茄子の塩もみだけでございます」
「初物、というわけかい」
「はい」
 茄子はまだ出回りはじめたばかりだった。
「お供の二人は、それを食ったのかい」
「はい、召し上がったようです」
「それじゃあ」
 昌行は主人を険しい目で見た。
「酒じゃなくて、茄子が悪かったのかもしれない」
「いやいや、そんなことはございません」
 主人は慌てて手を振った。
「差し上げる前に、この太一が味見をしております。それに、多めに作りましたので、残りは私と番頭で食べてしまいましたが、なんともありません」
「ご主人と番頭さんは、例の酒は飲まなかったのかい」
「はい、私どもがふだん飲める酒ではありません。安いのを少し飲みました」
 昌行は太一の様子をうかがった。少し、拳に込めた力が弱まったようだった。
「話は変わりますがが」
 昌行は、顔は主人に向けたまま言った。
「あの旦那は二晩(ふたばん)こちらに泊まった。最初の晩も、おツタさんはいたのかい」
「はい、お相手をさせました」
 昌行は、視界の隅で、太一が一団と強く拳を握ったのをとらえていた。

 船はさほど揺れもせず、利根を下っていった。
 乗っているのは、錦織と快彦たちのほかには、船頭が一人、舵取りが一人のほか、まだ幼さの残る水夫(かこ)が一人の六人だった。
 快彦と剛太は、荷を積み終えると、改めて錦織の前へ挨拶に出た。
 錦織は、畳の敷かれた船室で、あぐらをかいて扇子を遣っていた。
「急なことでたいへんだったろうね」
 気さくな口振りに、二人は思わず顔を見合わせた。
「河岸で働いてるんだってね」
「はい」
 快彦が答えた。
「道理でよく焼けてるねえ。どっちが前だかわかりゃしない。ま、荷物運んでくれりゃあいいからね。用があったら呼ぶから。休んでていいよ」
 そう言われ、荷の積んであるところへ戻ったが、意外の念に襲われていた。
「やけに軽い物言いをする人だな」
「お大尽だっていうのにね」
 快彦と剛太はそう言いながら、腰を下ろした。
 そして、快彦は、自分の体を見直した。
「確かに俺も焼けてるな」
「ああ、いのさんもすっかり河岸の男だ」
 河岸で働く男達は誰も彼も真っ黒に日焼けしていた。背中も胸も茶色になるほど焼けているのも珍しくなかった。
 二人は川岸に目をやった。
 木も草も、生い茂ろうという勢いに満ちていた。
「さすがに、大店の旦那は日向で働くなんてことはないんだろうな。色が白かったな」
「ほんとだね、博兄ぃみたいだった」
「そうだな。あの人はずっと帳場にいるからな。河岸に出てきたのを見たことがない」
「うん。博兄ぃが川に出るのは、盆と暮れだけなんだってさ」
「なんだそりゃあ。つけの勘定から逃げるのか」
「まさか。何でも川が好きじゃねえらしいよ」
「それなのに、河岸の仕事をしてるのか」
「だって、ずっと近藤屋で育ったんだもん」
 快彦は剛太の顔を見た。
「ずっと気になってたんだが、博兄ぃってのは、どういう人なんだ」
「どういうって?」
 剛太も快彦の顔を見た。
「長くいるようなのに、控えめだ。前の旦那の縁者か何かなのか」
「違うらしいよ」
 そう言って剛太は川岸へ目を戻した。
「博兄ぃはね……」
 迷いながら剛太は話し始めた。
「捨て子だったんだって」
「捨て子?」
「うん。暮れの寒いときに、店の前に置き去りにされてたんだって。それで、おシゲさんが、自分が育てるからって言って、引き取って育てたんだって」
「そうだったのか」
 快彦は腕を組んだ。
「知らなかったのかい」
「知らなかった。今初めて聞いた」
「まあ、あんまり人に聞かれたくない話だろうしね」
「まだ赤ん坊だったのか」
「ううん。四つぐらいだったって。自分の名前が博だってことは言えたっていうから」
「そうなのか。しかし、博という名からすると、侍か学者の家柄の者のようだが」
「そうだね。俺なんかとは生まれが違うような気はするよね」
「おシゲさんは、その前からいるわけだから、随分古いんだろうな」
「もう三十年ぐらいいるっていうよ。うちの店じゃ一番古いよね。次が博兄ぃで、次が旦那だ」
「博兄ぃが店を継いでもよかったんじゃないのか」
「でも、川が嫌いだから。それに、人にあれこれ指図するのも好きじゃないみたいだしさ。昌行兄貴が跡を継いで旦那になったのさ」
 鯉か何か、魚が跳ねた。その水紋を追い抜いて船は下っていく。
「ついでだから教えてくれ。おシゲさんは、上方(かみがた)の人のようだが、どうして近藤屋に来たのだ」
「それは俺も知らねえ。俺なんかが生まれる前からいるんだしさ。姐(あね)さんなら何か聞いてるかもしれないね」
「ふうむ。いろいろなことがあったのだろうな。あの二人、親子のような親子でないような不思議な二人だと思っておったが」
「何だよ、急に侍口調にもどったじゃないか」
「ははは、身に染みついたものは、なかなか消えないな」
「いのさん、自分のことはどうなんだよ」
「どう、とは何が」
「何か思いだしたのかよ」
「ああ、俺のことか。そう言えば、昔のことを思い出せない、ということさえ忘れていたなあ」
「何だよ、それ」
 岸部では、芦(あし)が風にそよいでいた。

 安孫子屋では、昌行が調理場に座っていた。
 目の前で、太一が茄子の塩もみを作っている。
 見送りからもどってきた番頭が、板の間に正座し、不安そうにそれを見ていた。
 昌行が、夕べと同じものを作らせ、同じ酒を用意するように言ったのだ。
「酒は冷やのままだったんだね」
「はい」
 番頭が答えた。
 まもなく、太一が、小鉢と箸を載せた膳を運んできた。番頭は、すぐに立って酒を用意した。
「じゃ、頂くよ」
 昌行はそう言って杯をとった。番頭が酌をしようとしたが、それを断り、手酌で一杯口に含んだ。特に変わったところはないように思える。
 次に箸をとって茄子を口に運んだ。まだ味がしみていないが、茄子の歯触りと塩気が快かった。
 番頭と太一が不安そうに見ている。廊下の向こうからは、女中達が様子をうかがっているようだった。
 ゆっくりと酒と茄子を味わいながら、安孫子屋に来てから調べたことを一つ一つ思い出した。
 昌行は、主人と太一に話を聞いた後で、腹を痛めた二人を見舞っていた。
 何か、錦織屋の主人が人に恨まれるようなことがないかと思ったのだ。
 二人は、お上のご用ということで、布団の上に身を起こし、聞かれたことには何でも答えた。
 ただ腹が下る、というだけで、ほかに苦しいことはないようだった。
 その二人は、昌行の、恨まれるようなことはなかったか、という問いには、お供として選ばれたほどで、よほどかわいがられているのか、
「うちの旦那様に限ってそんなことはない」
と、強い口調で言い切った。そして、夕べの酒を、旦那様ではなく自分たちが飲んでよかった、身代わりになれて光栄だ、とまで言った。
「そんなにいい旦那なのかね」
「そりゃあ、もう」
 と、一人は自慢するように言った。
「決して威張るようなことはなさいませんし、酒を飲んで乱れるようなこともございません。あんなにいい旦那様が恨みを買うはずがございません」
 もう一人がそれに続けた。
「こんなことになりまして、お役に立てず申し訳ないのに、お叱りになるどころか、過分のお見舞いをくださり、かえって骨休めになっていいだろうとおっしゃったくらいで」
「しかし、誰かが仕組んだとしか思えねえ。そいつのことは恨みに思ってるだろう」
「さあ、そういうご様子もお見せになりません」
「なにしろ、ほんとうによいお方でして」
 二人とも、自分たちの主人に心酔しているようだった。
「女の方はどうだい」
「その方面では、堅すぎるほどでございます」
「堅すぎる?」
「はい。決して遊ぶようなことはなさいません。かえって店の者が勧めるくらいですが、付き合いでも女遊びだけはなさいません」
「ほう、そうかね」
 昌行は、信じられない、という目で二人を見たが、二人の言葉に偽りはないようだった。
 飲みながら、二人に聞いたことを吟味し直す一方で、昌行は、太一の様子をうかがっていた。
 太一は、調理場を片づけている。別に、昌行の顔色をうかがう様子もなかった。
 二合の酒を飲み終え、茄子を食べ終えたが、別にどうということもなかった。
「今のところ、何ともないようだ」
 昌行がそう言うと、番頭は安堵の息を吐いた。
「そりゃあ、ようございます」
「夜中に腹が痛み出した、ということだから、しばらく待たなくちゃならないだろうな。しかし、このまま何ともないとなりゃ、ますます訳が分からなくなるなあ」
「そうですね」
 実直な番頭も、困っているようだった。
 食あたりが出たとあっては、旅籠の評判にかかわる。しかし、茄子の塩もみで食あたりするとは思われない。かといって、酒に当たる、というのは聞いたことがない。
「おツタさんは、もう起きてるかね」
 昌行が尋ねた。女郎の朝は遅い。昨夜、錦織の座敷に居合わせた者として、話を聞かなくてはならないと思っていたのだが、まだ寝ているのではないかと思って、言い出さずにいたのだ。
「はい、錦織屋様の見送りにも出たほどでございます。よほど、気に入られたんでしょうなあ」
 番頭がそう答えたとき、太一の顔色が変わったのを、昌行は見逃さなかった。

(続く)


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