朝顔

(第一回)

「おっ、珍しい船だな」
 快彦の声に、河岸にいた男達は、一斉に川上に目を向けた。
 見慣れた高瀬船とは違う造りの船がゆっくりと下ってくる。
 やや小ぶりな屋形船、というおもむきの船だった。
「何だろうね」
「船遊びってやつか」
 智也と達也にとっても見慣れぬ船のようだった。
 船は近藤屋の受け持つ河岸の前をゆっくりと過ぎていき、少し下流の河岸に寄せた。
「お待ち申し上げておりました」
 河岸では、羽織を着た男が頭を下げている。
 安孫子屋という、取手で最も大きな旅籠の番頭だった。
 船の中から、白い浴衣の男が姿を現した。
「さ、どうぞこちらへ」
 番頭が手を伸ばしたが、男はその手を借りず、さっと河岸に身を移した。意外に軽い身のこなしだった。
 日の光がまぶしいらしく、扇子を広げて額にかざした。
 番頭の後ろにいた小僧が、急いで傘を広げて男の上にさしかけた。
「おや、済まないね」
「お疲れさまでございます。どうぞこちらへ」
 番頭に導かれ、男はおとなしく歩き出した。雪駄の裏の金具がカチカチと音を立てる。
「何だろうね、ありゃあ」
 剛太は背伸びをしながら男を見送った。船からは、船頭の手で行李が降ろされ、船から下りてきた男達が担いで歩いてついていく。
 船頭達も、他の船は裸の男も少なくないのに、おろしたてらしい半纏をまとっている。
「お大尽ってやつなんだろうなあ」
 盆をひかえ、日差しは強かった。
 東の空には入道雲が見える。
 梅雨が過ぎ、利根川は、冬よりも深さを増していた。川を上る船が、取手で荷を積み替えることは少なくなっていた。
 船によっては、生け簀が作ってある。
 調子沖で取れた魚を、生きたまま江戸へ運ぶためである。
 昼を過ぎ、日が少し傾いたとはいえ、草いきれで蒸し暑かった。
 風が吹き、男達は大きく息をついた。

「安孫子屋に、結城のお大尽が来てるそうだ」
 夕食の席で、昼間見た男のことが話題になると、昌行が聞き込んできた話を披露した。
「なんでも紬(つむぎ)問屋の旦那でな、鹿島の方へ遊びに行く途中で寄ったそうだ」
「ほう、旦那か。豪気なものだなあ」
 快彦が、そう言ってみそ漬けをつまんだ。
 日が落ち、少しは暑気がなりを潜めたが、それでも炊きたての飯を食べると汗が出た。
「明日はうどんにしてくれよ。冷てえのがいいや」
 剛太が、給仕をしていたシゲに声をかけたが、シゲは飯びつの横に座ったままぼんやりしていた。
「おシゲさん。ねえ、おシゲさん。暑さでぼけちまったのかよ」
 重ねて剛太が声をかけると、シゲは、ハッと顔を上げ、剛太ではなく、昌行の方を見た。
「店の名前は何ちゅうのやろ。結城の問屋って」
 昌行は、唐突な質問に驚いた。博も箸を止めてシゲの顔を見た。
「たしか……」
 昌行は少し考えた。
「紬問屋らしい名前だったなあ……。ニシキ……、そうだ錦織屋だ」
「ほう、いかにも、という名ですね」
 博が感心したように言った。
「そうかね、錦織屋ちゅう問屋なのかね」
 シゲがそう言うと、
「問屋じゃないよ。うどんだよ。明日は冷やしたうどんだよ、うどん」
と、剛太が業を煮やして声を張り上げた。

 翌朝、昌行はいつものように離れに向かった。
 佐知は障子を開け、団扇を使っていた。
 昌行の顔を見ると、佐知がつぶやくように言った。
「今年は暑いねえ」
 白地に朝顔を染め抜いた浴衣をまとっているが、その生地に負けないほど顔が白かった。
「そうですねえ」
 昌行は空を見上げたが、去年に比べて特に暑いようには思えなかった。
「何か、精の付く物でも召し上がって……」
 昌行はやっとそう言ったが、佐知は力無く首を振った。
「この陽気じゃ、こってりしたものはちょっとね」
 キミは、濡れ縁の横で、朝顔に水を遣っていた。
「花が咲きそうですね」
 昌行は話題を変えた。
 佐知も身を乗り出して朝顔を見た。
 朝顔は、細い竹に巻き付いて蔓を伸ばしている。
 その蔓に、小さなつぼみがついていた。

 街道を、駕籠を真ん中にした行列が練り歩いていた。
「まるで、ちょっとしたお大名だな」
 達也たちは、土手の上からその様子を眺めていた。
 駕籠に乗って揺られているのは錦織屋だった。
 その前後を、安孫子屋の番頭をはじめ旅籠たちが取り巻いている。
 錦織屋は、白い単衣に、透綾(すきや)の夏羽織を着ている。
「夕べは芸者をあげてどんちゃん騒ぎかな」
 快彦がうらやましそうな声でそういうと、顔見知りの船頭がこう言った。
「このあたりの仲買が集まって、にぎやかにやったらしいぜ」
「そうかい。くそう、うらやましい話だ」
「半分仕事で飲んでるんだぜ」
「それでもうらやましい話だ」
 あまりにも真剣な表情なのを見て、達也と智也は笑った。
「仲買に商売替えしたらどうだい。飲ませてもらえるかもしれねえぜ」
 達也がそう言うと、快彦は真顔で考え込んだ。
「そうだなあ」
 他の船頭達の話を聞くと、錦織屋は、駕籠で七福神を回り、ついでに、桑畑の様子を見たり、仲買の家に顔を出したりしている、ということだった。
「今日も取手に泊まって、明日発つそうだ」
 それを聞いて、快彦はまたうらやましそうな顔をした。
「そうか、今日も飲むのか……」
「いいかげんにしろよ」
 剛太が声を荒げるほど、快彦の顔は物欲しそうだった。

 夕刻。
 シゲは、湯気の立つざるを抱えて井戸に走った。
 キミに手伝わせて、どんどん水をかける。
 ゆでたての麺が、冷水を浴びて踊る。
 キミが、手早くうどんを返して、まんべんなく冷水を浴びさせた。
 シゲは休まず水を汲み上げてはかける。
 ざる一杯のうどんが、たちまちすっかり冷えた。
 しかし、シゲはそれに気づかず、水を汲み上げてはかけた。
「おシゲさん」
 キミが声をかけたが、シゲは気づかないようだった。
「おシゲさん、もういいんじゃない」
 その声に、シゲは我に返った。
「あ、ああ、そうかね」
「どうしたの」
 かがんでいたキミは、シゲの顔を見上げた。
「ちょっと考え事しとって……」
 シゲは、ざるを揺すって水気を切ると、
「さ、もうみんな帰ってくるやろ」
 と、無理に明るい声を出した。

 夕食時、男達は、無言でうどんをすすり込んだ。
 タレはゴマだれ、薬味は、裏庭のミョウガとシソの葉だった。
 冷たいうどんの喉ごしが快い。
 シゲの横には、冷水を張った桶でうどんが冷やしてあった。
「これならいくらでも食えそうだなあ」
 達也は、丼一杯食べ終え、シゲにお代わりを貰いながら言った。
「うん。うまいよ、これ」
 剛太も同意して、
「今日うどんが食えるのは、昨日俺が頼んだからだからね」
と、胸を張った。
「いや全く、剛太さんのおかげで、うどんが食えてありがたいこった」
 智也が、そうからかうように言いながらも、自分もシゲに、空になった丼を差し出した。
 昌行は無言でうどんをすすっていたが、博がその横顔をちらっと見てこう言った。
「これで冷や酒でもあればあなあ、なんて思ってる人もいるかもしれませんね」
「いやいや」
 昌行ではなく快彦が答えた。
「たとえ暑くても、燗でもいいぞ」
「全くだな」
 昌行が同意したが、どうせかなわぬ夢と思っているようだった。
「そう言えばさ」
 達也が話題を変えた。
「あの錦織屋の旦那なんてのは、いつも何食ってるんだろうね」
「ほんとだよなあ」
 智也が、うどんを一口すすってそれに乗った。
「ああいう旦那だと、こういうのは食えないかもな」
 そう言ってまたすすり込んだ。

 翌日の朝早く、剛太が大戸を開けたところへ、植草の隠居が飛び込んできた。
 その後ろには、いつものように健吉が従っている。健吉は、一升入りの徳利を抱えていた。
「昌行は起きてるか」
「はい」
 剛太の返事を待たずに、植草は座敷に上がり込んだ。
 男達は、朝食を終え、身支度をしているところだった。
 植草の表情を見て、みなの手が止まった。植草は、まっすぐ昌行の所へ行った。
「昌行、ちょっと頼まれてくれんか」
 煙管をくわえていた昌行は、植草が入ってきたのを見て、上座を譲り、座り直した。
「一体、どうしたことで」
 植草は座布団に腰を下ろし、肩で息をしながらこう言った。
「お前も知っておるだろう。あの、結城の……」
「錦織屋、ですか」
「そう、その錦織だ。お供がな、二人、急な差し込みで、動けなくなったそうだ」
「ほう、そりゃあ、気の毒に」
「それがだな、うちの酒を飲んでそうなったというのだ」
「植草屋さんの?」
「ああ、とんでもない言いがかりに決まっておる」
 植草屋は、憤懣やるかたない、と言う様子でそう吐き捨てた。
 帳場で聞き耳を立てていた達也たちは、顔を見合わせた。
「今朝、安孫子屋から使いが来てな。すぐ来てくれ、と言うんだが、息子は留守でな。そこわしが行ってみると、錦織屋さんのお供が二人、差し込みがひどくて動けないというのだ。食あたりかと思ったが、夕べは同じ料理をほかの客にも出してる。その二人にだけ出したのは、うちの酒だ、というのだ」
 昌行はあごに手をやって首をひねった。
「ほかの客は、酒を飲まなかったんでしょうか」
 そう言われて、植草屋は少し複雑な表情をした。
「それがだな。ほかの客には安い酒を出し、錦織屋さんにだけいい酒を出した、ということなのだ」
「なるほど、いい酒ですからね」
「まあな。それはよいのだが、それを飲んだ二人が夜中から苦しみだしたというのだ。とんだ言いがかりだ」
「ずいぶん重いんでしょうか」
「いや、ただ腹が下ってたまらぬ、というだけらしい。わしも見舞ってみたが、口は利ける」
「何か裏がありそうですね。わかりました、調べてみましょう。その酒はまだ残ってるんでしょうか」
「ああ、残っておった。残っておった分から、これだけ持ってきた」
 そう言って、植草屋は、横に座っている健吉に目顔で合図した。
 健吉は、
「これです」
と言って、徳利を昌行の方へ差し出した。
 昌行はそれを受け取ると、栓を抜いて匂いをかいだ。
 とくに変わった匂いはしない。少し掌にこぼして舐めてみた。いつも通りの上等の酒だった。
「うーん。妙なところはないようですが」
「あたりまえだ。あってたまるものか」
「おあずかり致します。一応、東山様に申し上げてから安孫子屋へ顔を出してみます」
「うむ。頼むぞ。で、頼みがあるのだが」
「は?」
 今のが頼みではなかったのか、と、昌行が植草の顔を見つめた。
「若いのを二人、貸して貰いたい。錦織屋さんのお供が二人動けなくなったが、今日は鹿島へ発たなければならんそうだ。で、わしに心当たりがある、と引き受けてきたのだ。身に覚えのないこととはいえ、うちの酒で具合が悪くなったと言われては、荷物運びの代わりを捜すぐらいのことはせんとな」
「いつまででしょう」
「明後日には帰ってこられるそうだ。どうだろう。忙しいとは思うが」
「いや、暇ですよ。もう、取手で荷を積み替えなくてもいい時分ですから」
 そう言って昌行は帳場の方へ目をやった。
 たまたま座敷に近いところにいたのは剛太と快彦だった。
「剛太、いのさん、聞いてたろう。行ってくれねえか」
「へえ、参ります」
 剛太は即座に答えた。
「お大尽の荷物運びか……」
 快彦は気が進まぬようだった。
「それなら俺が行くよ」
 後ろから達也が言った。
「今の話じゃ、お供でもいい酒が飲ませてもらえるっていうじゃねえか。うまいものを食わせてもらえそうだ」
「いや、行く。俺が行く。行かせてもらう」
 快彦は慌てた。
「仕事のえり好みなど、許されることではない。よろこんで行かせてもらおう」
 その時、流しの方からキミの声が聞こえた。健吉は流しの方へ目をやったが、それを見て、剛太は健吉をにらみつけた。
「何だ、怖い顔をして」
 植草に見とがめられ、剛太は慌てて表情を和らげた。
「いや、あの、大事な仕事のようなんで、気を引き締めただけです」

 剛太と快彦は、すぐに植草に連れられて出かけた。
 昌行は、シゲに夏羽織を出して貰うと、東山に会いに行った。
 あらましを語ると、東山は、
「で、その酒はどうする。誰かに飲ませてみるか」
と尋ねた。
「他人で試すというのも気が引けます。後で自分で飲んで試してみるつもりでございます」
 昌行がそう答えると、
「そうか。殊勝なことだ。が、酒が原因ではなかったとすると、役得だな」
と言って笑った。

(続く)


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