二十三夜

(第四回)

「兄貴だって、そこで難しい顔してましたよ」
 博に言われ、昌行は驚いた。
「そうだったのか」
「そうだったのかじゃないでしょう。何も憶えてないんですか」
「面目ねえ。そもそも、たまに飲むからいけねえんだな。いつも飲んでりゃあ、夕べみてえなことにはならねえはずだ」
「いつも、夕べのことは憶えてないってことになるんじゃないんですかね」
 博の声は厳しかった。シゲもあきれていた。
 昌行は、自分でもう一杯茶を入れて飲んだ。
「朝飯はどうするかね」
 シゲが尋ねると、昌行は首を振った。
「何も食う気がしねえ」
 そう言ってまた茶を飲んだ。
 博は、苦笑したが、すぐに笑いを消して、こう言った。
「それで、考えたんですが、いのさんに幽霊になって貰うってのはどうでしょう」
「幽霊?」
 昌行は、二日酔いの少し血走った目で博を見た。

 代官所で東山に相談すると言って、昌行が出掛けてしばらく後、博は、街道を、渡し場の方へ向かっていく侍に目を留めた。
 岡田だった。
 博は、すぐに草履を履いて、岡田の跡をつけた。もし渡し場から舟に乗るのなら、快彦を切るのをあきらめたことになる。
 昨日とはうってかわって、冷え込みの厳しい日だった。曇り空から冷気が降ってきているようだった。
 岡田は、博に気づかず、渡し場に来た。
 しかし、舟には乗らなかった。ただ、川辺で、川下の方と、利根川の向こう岸に、交互に目をやっている。
 博はしばらくその様子を見ていたが、思い切って声をかけてみた。
「どなたかお待ちなんですか」
 岡田は、驚いて博の顔を見た。 目を大きく見開いている。
「いや。そういうわけではない」
 それだけ答えると、また、川下に目をやった。河岸で荷を運んでいる男たちが見えた。
 博は横に並んで河岸を見た。快彦の姿も見える。
「いのさんが来たのも、こんな寒い日でした」
 博は襟をかき合わせ、穏やかな口調で話し始めた。
「ここで渡し舟がひっくり返りましてね。あの河岸まで流されたんです。うまいぐあいにうちの連中に助けられて、それからそのまま居ついてしまいました」
 岡田は、聞いているのかいないのか、無言のままだった。
「こんな冷たい水に落ちたら、死んでも不思議はないのですが」
 博がそう言ったとき、背後で叫び声が起こった。
 二人が振り向くと、渡し舟の上で、女が立ち上がって何か叫んでいる。舟が揺れるので、ほかの乗客は、女を座らせようとしていた。
 女は、
「子供が」
と叫んでいた。
 川を見ると、子供が流されている。
 博はすぐに川に駆け込んだ。水量が減っているとはいえ、流れに押され、思うように進めない。やっと博の手が子供に掛かったとき、もう一本の手が伸びて、一緒に子供を引きあげた。博の横に岡田が立っていた。
 岡田は、博が川に入ったのを見て、すぐに大小を岸に投げ捨て、自分も続いたのだった。
 岡田が子供を抱き、博が岡田を抱えるようにして、岸に戻ると、母親らしい女が走ってきて子供を受け取った。
 濡れて冷え切った子供を抱きしめ、博と岡田に何度も何度も頭を下げた。
 母親に続いて舟に乗ろうとして、足を踏み外したということだった。
 助けてくれた二人のうち、一人は侍ということで、消え入らんばかりに恐縮している。
 博も岡田も、早く体を乾かしたかったので、伏し拝む女を後にして川から離れた。
 歩きながら、袂やすそを絞ったが、体が凍りそうだった。岡田も同じはずだ。
「うちへおいでください。近くですから」
 岡田も、宿へ戻るまで濡れたままではいられないので、素直について来た。
 シゲは、博が濡れて帰ってきたので仰天した。
 博は、つとめて軽く、
「川にはまっちまってね」
と言ったが、
「引き込まれたんか」
と、自分が震えている。
「そんなんじゃないよ。ここで脱ぐから、干しといてくれ」
 そう言って、岡田を促して板の間で着物を脱ぎ、座敷に入って障子をたてきった。
 手拭いを出して岡田に体を拭かせ、自分も拭いた。どてらを二つ出して、それぞれ羽織るり、火鉢に炭をたした。
 二人は、火鉢を挟んで座った。
「えらい目にあいましたね」
「全く」
 裏庭から、シゲがキミに手伝わせて、着物を干している声が聞こえてくる。
 綿が入っているので、重くて大変らしい。
 しばらくすると、シゲが、まだ少し残っていた甘酒を温めて持ってきた。
 まず岡田に差し出すと、
「かたじけない」
と、礼を言って受け取った。
 シゲは、次に博に渡しながら、
「川に近寄ってはいかんというのに」
と、叱るような口調で言った。
「だいじょうぶだよ。引き込まれやしないよ」
 博は苦笑しながら受け取った。
 甘みととろみで、体が中から暖まった。
 シゲがいなくなると、岡田が尋ねた。
「母御」
「まあ、母親と言ってもいいかもしれません。私は、この家の前に捨てられていて、あのおシゲさんに拾われたので」
 博は屈託なくそう言って、話を転じた。
「お宿に知らせにやりましょうか。お供の方に着替えを持ってこさせては」
「あれは今、江戸に行っておる」
「江戸へ? ご家族の所へですか」
「まあ、そいうことだ」
「では、おシゲさんに取ってきて貰いましょう」
 博はそう言って、岡田の宿を聞くと、出ていって、シゲに着替えを取りに行ってくれるよう頼んだ。
 シゲが出掛けると、自分の茶の用意を盆に載せて戻り、茶を淹れながら尋ねた。
「岡田様は、ご家族は」
「母と姉がおる」
「心配なさっておいででしょう」
 岡田は無言で頷いた。
「実の親でなくても、おシゲさんは私のことを心底案じてくれています。実の親ならなおさらでございましょう。まあ、いつまでも子供扱いされるのも困りますが。もうガキじゃないのに」
「それで、川に寄るな、と」
 岡田が半ば尋ねるように言ったが、博は、それには答えず、湯飲みを置くと、火箸で炭の場所を変えた。重なっていた炭が横並びに変わり、その分だけ暖かくなったような気がした。
 博はその上に新しく炭を足し、それから言った。
「あれは……。私の実の母親を恐れているのです」
「実の母御がいるのか」
 博は少し迷った。しかし、相手に全く敵意が感じられず、むしろ好感を抱いたので、思い切って話して聞かせた。
「私は暮れの寒い日に、この店の前に置き去りにされていました。五つでした。それをあのおシゲさんが拾って育ててくれたのです」
 博は、自分の名と、五つという年齢だけはしっかり憶えていた。おそらく、置き去りにされる前に、母親が何度も念を押して憶えさせておいたものらしかった。
「その日の夜のことでした。これは今でも忘れられません。私とおシゲさんは、流しの横の三畳間で一緒に寝ることになりました。さあ寝ようと、灯りを消そうとしたときに、部屋の隅に母親が立っているのが見えました」

 その姿は、シゲにも、博にもはっきり見えた。
 ぐっしょりと濡れそぼった着物を着て、髪は崩れて顔に張り付いていた。
 しかし、その体を通して、壁を見ることも出来た。半ば透明だったのである。
 シゲは、すぐに博をしっかりと抱きしめた。
 博には、それが母親であることが分かったが、恐ろしく、シゲの胸に顔を押し当ててしがみついた。
「私のことが心残りだったのでしょう。迎えに来たのではないかと思います」
 目を閉じた博の耳に、シゲが、博を抱きしめながら、震える声でこう言ったのが聞こえた。
「連れてったらあかん。連れてったらあかん」
 シゲにも、母親が何のために現れたのか分かったようだった。

「その後のことは憶えていません。子供でしたから、余りにも恐ろしくて眠ってしまったのかもしれません。しかし、その時の母親の姿は忘れられません。たぶん、利根に身を投げたのでしょう。おシゲさんは、今でも、私が川に近づくと、母親に引き込まれるのではないかと心配しているのです。私も、川を見ると、あの時のことを思い出しますので、子供の頃から、川には近づかないようにしていました」
「そのようなことが……」
 岡田には信じられないようだった。
「おそらく信じていただけないでしょう。しかし、嘘偽りではございません。肉親の情というのは、時には恐ろしいものなのだと思います」
 二人で無言で茶をすすっていると、昌行の声がした。
「誰もいねえのか」
 博が出ていくと、
「なんだ、寝てたのか」
と驚いたが、博が小声で、川に入ったことを話し、岡田もいることを告げると、上がりがまちに腰を下ろしたまま腕を組んだ。
「あのことは話したのか」
「まだです。東山様の方は、どうでした」
「うまいことやってくださるそうだ。ちょうどいい、俺から頼んでみるよ」
 そう言うと、昌行は裾のほこりを払い、座敷に入っていった。
 岡田は、昌行を見て座り直した。昌行は、相手が武士なので、自分が上座に座るわけにもいかず、敷居ぎわに正座した。
「ここのあるじの昌行でございます」
「岡田でござる」
 昌行は、じっと岡田の顔を見た。きまじめそうな若者だった。
「実は、岡田様に、お願いがございます」
「願い?」
「はい。いのさん、いや、井ノ原さんから、おおよそのところはうかがいました。わたくしどもは、もう一年近くいっしょに働いておりますが、人を陥れるような方ではございません」
 岡田は無言で先を促した。
「おそらく、なにか裏があるのではないでしょうか。わたしどもは、なんとか、お見逃しいただけないかと思っております」
「見逃す……。井ノ原殿を」
「はい。しかし、井ノ原さんを討たねば、藩へは戻れないとか。それでは岡田様のお立場がございますまい。そこで、井ノ原さんは、もう死んでいた、ということにしていただけないかと思っておるのですが、いかがでございましょう」
 岡田の視線が厳しくなった。
「お聞き及びかと思いますが、井ノ原さんは、冷え込みの厳しい時に川に落ちて流されました。その時に亡くなっていた、ということにしていただきたいのでございます。幸い、その時の着物と脇差しは残っております。それを証拠としてお持ちになってはいかがでしょう。代官所からも、水死体で見つかったという証明の書面を出していただけることになておりまして。いかがでございましょう」
 昌行は、岡田の表情から諾否を読みとろうとしたが、岡田は厳しい顔つきのままだった。
 しばらくの沈黙の後、岡田が言った。
「そのことは、井ノ原殿のお望みか」
「とんでもない」
 昌行は大きく手を振った。
「井ノ原さんにはまだ話しておりません。いま、代官所へお願いに参って来たばかりでして」
「そうか」
 岡田は、後は何も言わなかった。返事をせかせて機嫌を損ねては、と、昌行はおして頼むようなことはしなかった。
 やがてシゲが岡田の着替えを抱えて戻ったので、岡田はそれに着替え、濡れた着物を持って帰って行った。
 岡田が帰ると、昌行は離れに向かった。
 物音がせず、キミの姿も見えないので、
「昌行でございます」
 そう声をかけて、そっと障子を開けると、佐知が寝たままこちらに顔を向けた。
 その顔色は、日増しに白くなってきていた。
 昌行が何も言えずにいると、佐知が、か細い声で言った。
「博が川に入ったんだってね」
「はい。なんでも、子供を助けたとか」
「お武家さまが一緒だったって、おキミちゃんが言ってたけど」
「はい。一緒に助けたそうです」
 井ノ原の事を話すわけにはいかなかった。少しでも心を悩ますようなことは、佐知から遠ざけておきたい。
「風邪を引かないようにしないとね。あたしみたいになったら大変だ」
「なあに、姐さんだって、あったかくなりゃあよくなりますよ。今日は顔色がいいようですよ」
 佐知は無言で少しほほえんだ。そのほほえみが、かえって昌行の胸をしめつけた。

 その日の夜、夕食後、昌行と博は、座敷に快彦を呼んだ。
 そして、快彦はすでに死んでいたことにする、という企てを話した。
「これなら、いのさんもあの岡田さんも両方とくになる。どうだろう」
 昌行は、喜んでもらえるものと思っていたが、快彦は首をひねった。
「どうだい」
 博は、少し驚いて尋ねた。快彦は腕を組んだ。
「たしかに誰も損はせんが、どうも気に入らない」
「何が」
 昌行と博が声を合わせて言った。
「岡田は、俺を切るつもりで探し回っていたはずだ。それなら、死んだことにするなどという姑息な手を使わず、堂々と立ちあいたい」
「しかし、それではどちらかが」
 博が快彦に詰め寄った。
「たしかに、どちらかが命を落とす。岡田もそれだけの覚悟はあるはずだ」
「しかし、いのさんは悪くないわけだし、岡田さんの本当の仇は、のうのうとしてるんでしょう。そいつらの思うつぼでいいのかい」
「それはそうだが、まあ、どうにもならん」
 博は茫然と快彦の顔を見た。
 昌行はため息をつくと、
「まあ、考えて置いてくれ」
とだけ言った。

(続く)


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