二十三夜

(第三回)

 博は、土手から河岸を見下ろしていた。
 達也たちが荷を積み替えているのが見える。
 銚子から上ってきた醤油のようだった。樽がいくつも積み上げられている。
 少し、風があった。
 土手の上では、凧揚げをしている子供たちもいた。
 何事もない、平穏な様子だった。
 博はもう一度河岸を見渡し、それから、店へ戻ろうと振り向いた。
 しかし、足は踏み出さなかった。
 見覚えのある顔が上ってきていた。昨日の侍である。小者は連れず一人だった。
 侍は、博に目もくれず、土手に立つと、河岸を見下ろした。
 何をするでもなく、ただ腕を組んで見下ろしている。
 その視線の先に快彦がいるのは、確かめなくとも分かった。
 侍の様子からは、殺気も悪意も感じられなかった。
「もし」
 博は思いきって声をかけた。
「井ノ原さんのお知り合いだそうで」
 侍は、驚いたように目を見張って博を見た。
「昨日、近藤屋でお目にかかりました」
「ああ、井ノ原殿が住まっておられる……」
 侍の目に浮かんだのは、困惑の色だった。
「はい、算盤をあずかっております、博と申します」
「岡田と申す」
 博は、相手が思いの外穏やかなので、思い切って尋ねてみた。
「井ノ原さんとは、どのような関わりがおありでしょうか」
 岡田と名乗った侍は、無言で博を見た。
「いや、なに、穿鑿しようというのではございません。ただ、井ノ原さんは、昔のことを何も覚えていないということでしたので」
「覚えていない?」
「はい。それで、手前共のところでお世話することにいたしました」
 博は、渡し舟が転覆して快彦が流された時のことを簡単に話して聞かせた。
 その場に居合わせたわけではないが、どこからどこへ流されたのかは分かる。
 指で、渡し場から河岸までを示しながら話して聞かせた。岡田はその話は聞かされていないようだった。
「この川を流されて……」
「はい、冷え切っておりますから、下手をすれば命にかかわるところでした」
「死人は出なかったのか」
「はい、幸いなことに」
「そうか……」
 岡田は川を見つめた。
 利根川は、空の色と、高瀬舟の白帆を映して、ゆったりと流れている。
 荷の積み替えが終わり、男たちは河岸の板の上を戻り始めた。
「井ノ原殿は」
 ややあって、岡田が口を開いた。
「侍を捨てるお積りだろうか」
「そのようです」
 博が答えたとき、河岸の男たちが、博と岡田に気づいたようだった。
 快彦がこちらを見上げ、二人の所へ来ようとすると、剛太が、その袖をつかんで後ろに引いた。達也と智也は快彦の前に立ち、じっと岡田をにらんでいる。
 もし、岡田が土手を降りていったら、飛びかかりそうな様子である。
 岡田は、くるりと向きを変え、川とは反対側へ土手を降り始めた。
 博はしばらくその背中を見送っていた。
 岡田はやや俯き加減に去っていった。

 博が近藤屋に戻ると、シゲが流しから顔を出した。
「河岸に行ったのかね」
「ああ」
 博は、そう答え、草履を脱ぎ、すそを払って板の間に上がった。
「あぶないやろ」
「大丈夫だよ。もうガキじゃないって言ってるじゃないか。それより、昨日のお侍に会ったよ」
「昨日の?」
「ほら、いのさんが連れてきた人だ。岡田様というそうだ」
「どういう人なんやろ」
 シゲも気になるらしく、前垂れで手を拭きながら出てきて、上がりがまちに腰を下ろした。
「なんだかよく分からねえなあ」
「仇討ちっちゅうのは本当なんやろか」
「そんなふうじゃなかったなあ」
 そこに昌行が帰ってきた。
 博が、岡田にあった話をすると、昌行も、仇討ちではないようだ、と、代官所へは届けが出ていないことを話した。
 三人で考えても、結局何も分からなかった。
「三人寄れば文殊の知恵っちゅうが、何もわからんな」
 シゲがそう言ったので、昌行は少し笑い、裏へ行った。
 興は少し暖かいのだが、離れの障子は閉まっている。
 キミが井戸で水をくんでいたので、そこへ行って声をかけた。
「姐さんの様子はどうだい」
 キミは、手を止めて答えた。
「今朝は、干し柿を少しだけ召し上がりました」
「そうか、少しでも食えりゃいい」
「はい。今はお休みです」
「じゃあ、後でまた顔を出すよ」
 井戸のしぶきが飛ぶ辺りには、薄く氷が張ったままだった。
 昌行は、足の下で氷が割れるのを感じながら母屋に戻った。

 夕食には、昌行の発案で、酒がついた。
 酒を飲ませて快彦にしゃべらせようという魂胆だった。
 無言で膳に向かった快彦だったが、やはり、酒を見ると少し表情が軟らかくなった。
「こう寒くっちゃ、飲まないといられないよな」
 昌行はそう言って、徳利を手にし、まず、快彦に差し出した。快彦は無言で受けた。
 それぞれ、箸をとって食べ始めたが、どことなくぎこちなかった。
 話を切り出すきっかけがない。
 しばらく無言で飲み食いしていたが、快彦は、大根の酢漬けを口に入れて、不思議そうな顔をした。
「甘い……」
 そう呟いて、小鉢の中を見た。薄切りの大根の中に、焦げ茶色の細い物が入っていた。
 それだけを箸でつまんで食べてみると、軟らかい甘みが口の中に広がった。
「わからんかね」
 快彦が戸惑っているので、シゲが少し嬉しそうに言った。
「干し柿や」
「なるほど、そう言われればそうだ」
 干し柿が余っていたので、シゲが使ったのだった。
「今まで食ったことなかったかね」
 シゲの問いに、快彦は頷いた。
「こういうのは初めてだ」
 そう言ってまた一口食べ、杯を干した。すかさず、昌行が注ぐ。
「お武家だった時には、どんなもんを食ってなすった」
 昌行は、自分の杯にも注ぎながら、そう尋ねた。
「江戸におったが、そう珍しいものはなかった。俺などの俸禄では、ろくなものは食えん」
 そう言って、快彦はまた杯を干した。今度は、隣にいた達也が徳利を差し出した。
「どっかのご家中だったのかい」
 注ぎながら、達也が尋ねる。
「まあな。まあ、よいではないか、昔のことは」
 そう言いながら、今度は、塩引きの鮭の切り身を箸でむしった。
「これは、この辺りで捕れたものか」
 話題を転じようというつもりのようだった。
「江戸でも、鮭は上ってきたかい」
 しかし、智也が、話を江戸に持っていった。
「いや、大川を上ったという話は聞かなかったな」
「へえ、じゃあ、江戸じゃ生きのいい鮭は食えなかったんだね」
「うむ。いや、待てよ。多摩川には上ったような気がするな」
「お武家でも釣りはするだろう」
「ああ、好きなのがおったな。海に夜釣りに行く者もあった」
「へえ、何が釣れるんだい。鰹とか鮪とかも釣れるのかい」
「いや、いや、そんなものは、船で沖へ出てとるものらしい」
 釣りの話になって、智也は身を乗り出したが、博が話を転じた。
「あの岡田様という方も、釣りをしましたか」
「いや、あの男はそういう道楽は好まぬようだったな」
 快彦は、さらりと答えた。
 博は、本題にはいるところだと思って昌行を見たが、昌行が手酌で気持ちよく飲んでおり、快彦の話には興味がないようだった。
 仕方がないので、博が尋ねた。
「あの方は、どういうことで、いのさんを探してたんでしょうか」
「うむ、それはだな」
 一同が快彦に注目した。さすがに昌行も、徳利を傾けるのを中止して快彦を見た。
 空になった徳利を下げようとしたシゲも座り直した。
 快彦は、皆の顔を見回してこう言った。
「聞きたいか」
「聞きてえ」
 すかさず剛太が答えた。すると快彦はこう言った。
「ま、もう少し飲んでからだな」
 
 翌朝、昌行はだいぶ日が昇ってから起きてきた。
 男たちはとっくに河岸へ出ていた。
 昌行は、帳場に座っている博の横にあぐらをかき、流しへ向かって、
「おシゲさん、茶を入れてくれ」
と声をかけて、頭を掻いた。
「少しばかり、飲み過ぎたようだな」
「少しばかりじゃないでしょう」
 博は冷たく言った。
「ただの飲み過ぎです。それよりも、どうするんです」
「どうするって?」
 昌行は、ノロノロと、煙管に煙草を詰め、火鉢に顔を近づけて吸い付けた。
「いのさんのことですよ」
「いのさん? ああ、で、あの岡田って人は、何だったんだっけ」
「憶えてないんですか」
「うーん。釣りの話と、凧揚げの話はしてたな」
「その後ですよ」
 昨夜は、釣りの話の後、凧揚げの話になり、江戸の正月の話になり、深川の芸者の話になり、吉原の話になり、それから肝心の、岡田という侍との関係について話し始めたのだった。
 シゲが茶碗と急須を盆に載せて持ってきた。
 昨夜は、シゲは途中で寝たので、最後までは聞いていない。シゲの寝た後は、男たちが、自分たちで囲炉裏で燗をつけて飲んだのだ。
 茶を入れると、シゲもその場に座って、博の話を聞く構えになった。
 博は、昌行が茶を一杯飲み干すのを待って、話し始めた。
「いのさんは、さる藩の江戸屋敷にいたそうです……」
 藩の名前は言わなかった。さすがにそれは口に出せないようだった。
 快彦は勝手掛(かってがかり)で、藩から商人への支払いを受け持っていた。
 父母はすでになく、気ままなひとり暮らしで、平穏な日々を送っていた。
 しかし、ある日、帳簿を確認していて、特定の商人への支払い額と、快彦が直接渡す額とに食い違いがあることに気づいた。
「凡人なら気づかぬところだが、たちどころに見抜くところがさすがに俺だ。ま、慧眼(けいがん)というところだな」
 酒の回った快彦は、そう言って自慢していた。
 蔵から出される金が五十両であるとすると、快彦の手を経て渡されるのは四十両。
 しかし、受け取りに来る番頭は、四十両の受け取りを置いていく。
 それに気づいてから、快彦の探求が始まった。
 そして、突き止めたからくりは、蔵奉行と商人との結託だった。
 商人は、表からは、四十両の勘定書を差し出すが、裏から、蔵奉行に五十両の勘定書と受け取りを渡し、蔵奉行はそれに基づいて、蔵から五十両出す。
 しかし、快彦には、表からの勘定書通り、四十両だけ渡す。快彦はそれに基づいて、四十両支払い、受け取りをもらって置くが、蔵奉行が、後で、五十両の受け取りとすり替えるのである。蔵から出た金については、帳簿の上では、不明な支払いはないことになる。
 そして、浮いた十両は、蔵奉行の懐に入っていた。
「俺は、蔵奉行のところに乗り込んで、直談判したのだ。目付に訴えるという手もあったが、それでは事が大きくなる。金を戻し、今後不正はせぬと誓ってもらえればよかったのだ」
 そう言って、快彦は杯を置き、腕を組んだ。
 皆は黙って快彦の顔を見た。
「奉行はあっさり認めた。しかし、一存では何もできぬ、と言ったのだ。俺はカッとなって……」
 剛太がごくりと唾を飲み、尋ねた。
「切ったのかい」
「いや、切りつけはせん。江戸家老に訴えて出る、と言ったのだ。ところが、驚いたことに、江戸家老も同じ穴のムジナだったのだ」
 そこで快彦は、手酌で一杯飲み、話を続けた。
「家老は俺を丸め込もうとした。俺は断った。すると、家老は、蔵奉行と謀って、何もかも、お鍵掛(かぎがかり)に押しかぶせてしまった。勝手に蔵を開けて金を引き出したことにしてしまったのだ。そして、自分は知らぬ顔、だ。俺が何と言おうと、みんな家老のいいなりだ。結局、悪いのはお鍵掛ということになった。まあ、確かに蔵奉行の悪事を知らなかったはずはないから、悪事を見過ごしたという罪はあるかもしれん。家老と蔵奉行に陥れられて、申し立ては聞き入れられず、腹を切った。いや、切らされた。俺はそれでもう何もかも嫌になって脱藩して旅に出たのだ。それでこの土地へ来て、川に落ちたわけだ」
 そこまで聞いて、ここへ来たわけはわかったが、岡田という侍のことは分からなかった。そこで、博が尋ねた。
「あの岡田という方は、同じご家中だったわけですね」
「そうだ」
 快彦は頷いた。
「あれは、腹を切ったお鍵掛の一人息子だ。家老に言われて俺を切りに来た」
「何で。いのさんは悪くないじゃねえか」
 達也が、抗議するように言った。
「家老に何か吹き込まれたようだ。俺が陥れたと思っているらしい。確かに、俺のしたことがきっかけで腹を切らされたのだから、恨んではいるだろう。脱藩という罪もあるしな」
「どうすんだよ」
 剛太はいらいらしているようだったが、当の快彦は落ち着いていた。
「どうしようもないな。俺を切らなければ、岡田は藩には戻れんだろうし」
「切られるつもりなのかよ」
「それは嫌だな」
「あの人は腕は立つのかい」
「いや。同じ道場に通っておってな。何度か手合わせしたことがあるが、俺の方が少しは上だ」
「じゃあ、返り討ちにしちまえば」
「そんなことはしたくない」
「どうすんだよ」
「どうすればよいか分からないから困っているのだ。岡田も困っているようだった」
 そこで、博が疑問を口にした。
「どうして、すぐに切りつけなかったのですかね」
「それなのだ」
 快彦は、博の顔を見て言った。
「あいつも迷っているのだ。父親が何をしていたか、うすうす気づいているらしい。ほんとうのところが知りたい、と言っていた。何もかも家老の言うとおりだとは思っていなかったのだな。俺は、知っていることは全部話した。後は岡田の考え一つだ」
 皆、そこで腕を組んで考え込んでしまった。

(続く)


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