二十三夜

(第一回)

「忙しいときはいいが」
と、快彦は、炭をつぎながら言った。
「暇だと、寒くてやりきれねえな」
 四人は、簡単な小屋の中にいた。
 次の船が着くまですることがない。
 陽気のいいときには、釣りをしたり、土手に寝そべったりしていたが、寒いと、そんな気にはなれない。
 智也も達也も、快彦の言葉にうなずいた。
 次の船が来るまで、小屋の中でじっとしているしかない。
 小屋の中には、七輪が置いてあり、角の赤くなった炭が、かすかにパチパチという音を立てていた。
 剛太は弁当を取りに戻っている。
 空はどんよりと曇っていた。利根川を渡ってきた風が、小屋の中に吹き込んだ。
「ううっ、冷てえ風だ」
 そう言って、快彦は半纏の前をかき合わせた。
 十一月の半ばになっていたが、河岸の男たちは、裸足に草履履き、薄い股引に半纏一枚といういでたちだった。
 寒くなると川の水量が減り、大きな船は上れなくなる。そこで、取手近辺で、小さな船に荷を積み替えることになる。
 仕事は増えれば、体を動かしていることが多くなり、体を動かしていれば寒さを忘れるのだが、暇になると寒さがこたえた。空気が乾燥しているので、皆、唇のところどころが白くなっていた。皮が薄くむけているのだ。
 三人が、背を丸くして、七輪に覆い被さるようにしていると、剛太が風呂敷包みを下げて戻ってきた。
「お待ちどう」
 そう言って小屋に入ってきた剛太は、風呂敷のほかに徳利を下げていた。一升はいる貧乏徳利だった。
「おっ、酒か」
 快彦の目は、徳利を見て光った。
「そうだよ」
 剛太がそう答えると、快彦はさっと徳利に手を伸ばした。暖かかった。
「燗がしてあるのか。ありがたい。こう寒くては、一杯やらんと体がもたん」
 そう言って、栓を抜き、鼻先を近づけた。甘酸っぱいにおいがした。
 首を傾げながら、湯飲みを取り、徳利を傾けると、白い液体が流れ出た。
 それを見て剛太は笑いながらこう言った。
「酒は酒でも、甘酒だよ」
 快彦は、無言で湯飲みの中身を飲み干した。薄めた粥のようなものがのどを通っていった。
「うまいかい」
 達也が、これも笑いながら聞くと、快彦は、
「甘い」
とだけ答え、湯飲みを置いた。

 甘酒は、植草屋の隠居が持たせて寄越したものだった。
 造り酒屋なので、半ば商売で作っている。
 薄める前の甘酒を、健吉が、小さな樽で運んできた。
 それをシゲが湯で薄め、徳利に詰めて持たせたのである。
 健吉が樽を運んできたとき、昌行は離れにいた。
 秋までは、朝飯が済むとすぐに顔を出したのだが、冷え込むようになってからは、少しでも気温の高い時に声をかけるようにしていた。
 昌行が声をかければ、佐知は必ずキミに障子を開けさせた。しかし、障子を開ければ、冷気が佐知を襲うことになる。
 佐知の具合は良くなかった。
 今年はひときわ残暑が厳しく、佐知は日に日に痩せていった。
 涼しくなっても持ち直さず、秋には、ひどく咳き込むことが多かった。
 座敷にいて、佐知の咳き込む声が聞こえると、昌行はいてもたってもいられなかったが、かといって、昌行にできることは何もなかった。
 せめて背をさすってやりたいと思ったが、そんなことができるわけもない。
 そして、時折霜が降りるようになると、頻繁に血を吐いた。
 しかし、キミの話では、このごろは、血を吐くことさえほとんどなくなったということだった。
 昌行が濡れ縁に腰を下ろすと、半分だけ開けた障子の向こうから、佐知が横になったままこう言った。
「もう、来ない方がいいよ。ひどく咳がでるんだ。うつったらいけない」
「なあに、あっしなら心配いりません」
 昌行はつとめて明るく言った。
「おかげさんで、風邪一つひかずにおります。姐さんも、今日は少し顔色がいいようですよ」
 しかし、それは嘘だった。もう一月(ひとつき)近く、顔に血の気が戻ったことはない。
 佐知は少しほほえんだが、何も言わなかった。
 そこへ、シゲが甘酒を持ってきた。
 剛太に持たせた残りが、行平鍋(ゆきひらなべ)に入れてある。
「これを飲めばあったまりますよ」
 シゲは、佐知にそう言って、キミを呼んで手渡した。キミは、鍋の底に手を当てて、まだ暖かいのを確かめ、佐知に、
「すぐに召し上がりますか」
と尋ねたが、佐知は首を横に振った。枕の上で、ほつれ毛がかすかに揺れた。

 次の日は時々強い風が吹き付けた。
 日光の方から吹いてくる西風で、利根の流れに沿って、上流から下流へ吹き付けた。
 関宿から下ってくる船には好都合だったが、佐原の方から上ってくる船は、風の弱まるのを待たなくてはならなかった。
 船が上ってこないと、暇になる。
 男たちが、小屋で丸くなっているのにも飽きて外にでると、土手の上で凧(たこ)を揚げている子供たちがいた。
 手作りの四角い字凧に混じって、彩りの鮮やかな絵凧も混じっていた。
 下総の名物である、唐人凧(とうじんだこ)も一つあった。長短の楕円を十字に組み合わせたような形をしている。面長な顔の下に、長くのばした舌と髭が描いてあった。
 上総から下総にかけては、凧作りが盛んだった。土地によっては「凧」ではなく「トンビ」と呼んでいる。
 男子が生まれると、初節句に、無事な成長を願って凧をあげる地域もあった。
 利根川の土手で子供たちのあげている凧は、風に乗って空高く揺れていた。
 晴れているので、青い空の中に、凧がくっきりと浮き上がって見えた。
「おお、よくあがってるな」
 快彦が感心して言うと、達也は、
「いや、まだまだだ」
と厳しい声で言った。
「まだまだ、と言うと」
 快彦が尋ねると、達也は、
「みんな、傾き加減がよくねえ。もう少しあがるはずだ」
 智也も同調した。
「うん。俺ならもっと高くあげられる」
「凧揚げにも腕の差が出るのか」
「出るよ」
 智也は意外なほど強い口調で言った。
「よし、智也。明日からは凧だ」
「おう」
 快彦は、まじまじと達也と智也の顔を見た。
「凧をあげるのか」
 二人は強く頷いた。
「二人とも凝り性だからなあ」
 剛太は笑っていた。

 翌日から、暇になると、達也と智也の凧揚げが始まった。
 凧はすでに作ってあった。以前にも凝ったことがあるのだという。
 二人とも、手作りの大きな四角い凧だった。
 太めの竹ひごと障子紙で作ってある。紙はだいぶ焼けて茶色に近い色になっていた。糸もだいぶ黒ずんでいる。
 墨で、達也の凧には山の絵、智也の絵には魚が描いてある。
「何だ、この魚は」
 快彦が尋ねると、智也は憮然として答えた。
「鯉だよ、鯉」
 快彦はもう一度見直したが鯉には見えなかった。確かにヒゲはあるが、どちらかといえば、ナマズに見える。
 その日はさほど風はなかったのだが、苦戦する子供たちに混じって、達也と智也は高々とあげて見せた。
 見ていると、簡単そうに見える。しかし、子供たちとはあがり方が全く違っていた。  真剣に凧を揚げている二人を、快彦は笑いながら見ていた。
 それが気に入らなかったのか、達也が、
「いのさん、あげてみるかい」
と、声をかけた。
「おう」
 快彦はすぐに糸巻きを受け取った。ぐっと腕が引っ張られるような感じがした。
「どんどん糸を出していいぜ」
 達也にそう言われるまでもなく、快彦は糸を繰りだした。糸を出せば出すほど、凧は高くあがると思ったのである。
 ところが。
 思ったほど高くはあがらず、少しでも風が弱まると、ふらふらと低くなってしまう。
「だめだ、だめだ」
 達也は、糸巻きをひったくり、手を高くかざすと、くいっ、と糸を引いた。引かれた分だけ凧が揚がる。
 達也は少し糸を巻き戻し、凧の様子を見て、それから糸を繰りだした。
 ただ繰り出すのではなく、くいっと引いて、凧が揚がった分だけ繰り出す。それを繰り返すと、凧はどんどん空高く昇っていった。
「うまいもんだなあ」
 快彦は感心して空を見上げた。
 薄く雲の張った空に、凧のところだけが陰になったように見える。
 智也も負けじと凧を操っていた。
 風を受け、二つの凧が天を目指して昇っていった。
 土手で凧を揚げていた子供たちも集まってきた。口々に、
「すごい、すごい」
と賛嘆の声を上げている。
 風はやまない。
 二人は得意になって糸を繰りだした。凧はもはや黒い点のようになっていた。
 土手の上で、大人も子供も、ほとんど首が痛くなるほど上を向いて凧を見ていた。
 その時、ひときわ強い、風が吹き抜けた。
「ああっ」
 悲鳴を上げたのは達也だった。
 見ると、達也の持つ凧糸が、ゆっくりと下へ落ちていく。
「切れちまったよ」
 達也は悲痛な声を上げた。
 見上げると、小さな黒い点が、下流へ向かって空を泳いでいく。
「糸が古かったから……」
 そう言って、達也は力無く糸を巻き戻し始めた。それを見て、智也は、
「上の方は、風が強すぎるんだ」
と言って、これも糸をたぐり始めた。
 達也のあげていた凧は、すぐに見えなくなってしまった。
「糸の切れた凧か……」
 快彦はつぶやいた。

 その日の夕食の時には、達也の凧が飛んでいってしまったことが話題になった。
「糸が古かったから……」
 達也は、土手で言ったのと同じ事を言った。いかにも無念そうだった。
「ほんとに高く揚がってたから、随分遠くまで飛んでいったろうね」
 剛太が言った。
「うん」
 達也は頷いて、白菜の漬け物をほおばった。白菜の芯の部分はまだ歯ごたえがあり、シャリシャリと音を立てた。
「銚子まで行ったかもしれねえな」
 智也は、少し吹き出した。
「銚子までは行かねえだろう。途中で川にでも落ちて、河童がおもちゃにしてるんじゃねえのか」
「いや、俺の凧なら、銚子まででも飛ぶ」
 達也は本気でそう思っているようだった。
「河童といやあ」
 黙って話を聞いていた昌行が、話を変えた。
「いのさんが流されて来た時も、河童の話があったっけな」
「そうそう。最初はいのさんのことを河童だと思ったよ」
 達也は、快彦を引き揚げたときのことを思い出した。
「あの後で、ほんとに河童を見たもんな」
 智也が言うと、剛太も頷いた。
「ま、そう言うことにしておこう」
 昌行は信じていないようだった。
「河童だの、幽霊だのは、この目で見ないことには、ちょっと、な」
「嘘じゃねえよ。河童がいたんだよ」
 智也が、むきになってそう言った。
「幽霊はいねえかもしれねえけど、河童はいるんだよ」
 すると、それまで黙って聞いていた博が口を開いた。
「幽霊はいるよ」
「見たのかね」
 快彦が身を乗り出した。
「うん」
 博は、ただそう言って、後は続けず、碗を取り上げて味噌汁をすすった。
 皆は、幽霊の話が聞けるのかと思って博の顔を見たが、何も言わない。
 給仕をしていたシゲも、無言で、博の顔をじっと見た。
「まあいいや」
 昌行は、今度は快彦の顔を見た。
「どうだい、いのさんは、少しは何か思いだしたかい」
「そうだなあ」
 快彦は大袈裟に腕を組んで見せた。
「先ほど河童の話が出たが、もしかするともとは河童だったのかもしれんなあ」
 すかさず剛太がまぜかえした。
「たしかに、いのさんは河童みたいな顔してるよね」
「そうか」
「うん」
「そう言われると、ますます自分が河童だったような気がするぞ」
「ほんとに河童だったりして」
 そこで快彦は座り直した。皆が、どうするのかと注目すると、
「実を申せば、拙者は河童なのだ。この家の守り神として使わされたのだ。どうだ、この守り神にお神酒(みき)を供えんか」
と、もっともらしく言ったが、シゲは冷たくこう言った。
「河童に飲ませる酒はないで」

(続く)


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