探偵物語・5

夜行バスで来た娘

前編

「追われてるんです。しばらくどこかに隠れていたいんです」
 それが最初の言葉だった。
 犯罪がらみなら井ノ原刑事を紹介するしかないのだが。俺の脳裏に、目を細くして笑う、嫌みな顔が浮かんだ。
「追われているというのは、誰に」
 とりあえず尋ねてみた。
「おにい……兄に追われてるんです」
 俺は相手の表情をうかがった。相手は若い女だった。二十歳そこそこだろうか。ジーンズ地のバッグを抱きしめ、低いテーブルを隔ててソファーに座っている。ジーンズの上下にお下げ髪という、純朴な少女を絵に描いたような姿だった。髪を染めることもしていない。
「家族の中でのもめ事ですか」
 少女は頷いた。
 俺はコーヒーカップを取り上げ、少し香りを楽しんでから一口飲んだ。
 自慢の、オリジナルブレンドだ。
 空き腹にコーヒーがしみていった。朝一番の客だった。俺はまだ朝食も取っていない。
 チャイムが鳴ったのは、コーヒー・ミルをセットしている時だった。
 鳴らしたのは、俺の前にいる少女。
 俺は彼女を招き入れ、豆の量を倍にして、彼女の分もコーヒーをいれた。
 コーヒーカップをテーブルに置き、俺が腰を下ろすまで、彼女は、黒いバッグを抱きしめるようにして、ソファーでじっとしていた。
 そして、依頼の内容を尋ねたところ、帰ってきたのださっきの言葉だ。
 俺はカップを置き、
「ボディーガードは引き受けていないのですが」
「隠れるところを探してほしいんです。それから、兄がわたしを捜しに来てないかどうかさぐってほしいんです」
 俺は彼女にコーヒーを勧めた。少し落ち着いて話をしてもらわないことには、引き受けるかどうか判断できない。
 彼女は勧められるままにカップを取り、唇をカップに当てた。
「おいしい……」
「ありがとう。オリジナルなんだ」
 わざと砕けた調子で礼を言い、メモ帳を手にして話を聞く態勢をととのえた。 名前を聞くと、彼女は名刺を取り出した。「水谷美枝子」という名と、携帯の電話番号、メールアドレスが書かれている。
 俺もあわてて名刺を出した。
 相手は、名刺を受け取ると、自分から話し始めた。
「二年前に両親が亡くなって……。交通事故で。最初は別に何もなかったんですけど、一年ぐらい前から、どうしても兄と一緒に暮らすのが嫌になってしまって。それで出てきたんです」
 兄との間に何があったかは、聞かない方が良さそうな気がした。
「ここへ着いたのは今朝?」
「はい」
「電車で?」
「いいえ。バスで来ました」
 行く当てがない、ということは計画的な家出ではなく、急に思い立ってバスに乗ったということだろう。
 俺は、これからのことに話の向きを変えた。
「隠れたい、ということだったけど、とりあえずホテルに泊まるぐらいしかないと思うけど」
「はい。わたしもそう思います。でも、女の子一人じゃ泊めてくれないっていう話を聞いたことがあって。それに、家出と間違えられて、警察に連絡されると困るし」
 家出と間違えるも何も、家出そのものではないか。そう思ったが、口には出さなかった。
「なるほど。わかりました。わたしの名前でホテルを借りることはできます。しかし、お金がかかりますよ」
「それは大丈夫です。お金ならあります」
 気のせいか、バッグを抱きしめている腕に力が入ったようだった。
「それから」
と、俺はもう一つ気になっていたことを尋ねた。
「しばらくの間隠れていたとし、その後はどうします?」
 美枝子はうつむいた。
「一週間ぐらいしたら……。親戚の誰かに間に入ってもらって……」
「うまくいかなかったら」
「その時に考えます」
 俺はもう一口コーヒーを飲んだ。美枝子は不安そうに俺を見ていた。
「わかりました。ホテルを借りるのは引き受けましょう。しかし、お兄さんが捜しているかどうか調べるのはやっかいですね。へたをすると、あなたの居場所を知られることになります」
「知られたら、また逃げます」
「そうですか。では引き受けましょう。期間は一週間」
 ちょうど、浮気調査でかなりの収入があったばかりだったので、料金は格安にしておいた。
 料金を受け取り、領収書を渡し、
「朝食は?」
と尋ねると、
「まだです」
と首を振った。
「トーストでよければごちそうします。どうせ、ホテルは午後にならないとチェックインできないし」
「ありがとうございます」
 美枝子は素直に俺の申し出を受けた。
 俺はまたコーヒーをいれ、トーストとハムエッグを用意した。
 その間、美枝子はカーテンの隙間から外を見ていたりした。
 俺の見るところ、身なりは質素だが、育ちはよさそうだった。俺のコーヒーを飲んで「おいしい」と言ったが、コーヒーの味がわかる娘など、そういるものではない。朝食をごちそうするという申し出をすぐに受けたのも、人の好意に慣れていることを示している。
 向かい合って食事をしながら、住んでいる所など、差し障りのなさそうなことを聞いた。両親の亡くなった後、兄との二人暮らしだという。美枝子は二十二歳。兄は五歳年上で、父親の仕事を引き継いでいるという。食べ方にも品がある。
 俺の推理は当たっているようだった。
 食事が済むと、俺はホテル探しを始めることにした。美枝子は買い物をしたいというので、午後、落ち合うことにした。
 一緒に事務所を出て、地下鉄の駅まで案内して別れた。
 ホテルの当てはあった。
 知人がフロントで働いているシティ・ホテルがある。
 事務所から歩いて十五分のところにある。
 ことは簡単だった。親戚の娘が都会見物に来る、ということにして、俺の名義で、シングル・ルームを一週間借りることができた。
 ホテルを出て、事務所へ戻ろうと歩き始めると、嫌な顔に出会ってしまった。
「おいおい、ホテル住まいかよ」
 細い目を思い切り見開いて見せている。井ノ原刑事だ。
「違いますよ。仕事ですよ」
「ほほう。浮気の調査か」
「ええまあ、そんなところで」
 俺はさっさと別れたかったが、相手は俺を引き留めた。
「変な電話があってな」
「はあ」
「妹が家出してこっちに来てるはずだ、っていうんだ」
 俺は背けていた顔を井ノ原刑事に向けた。刑事は言葉を続けた。
「捜索願は出さないけど捜してくれないかっていうから、断った。探偵さんを紹介してやりゃあよかったな」
「そりゃあ、ぜひ紹介していただきたかったですなあ。家出人捜しは得意なんですよ。その人は、どこに住んでいるんですか」
 刑事が口にしたのは、美枝子の家があるところだった。
「で、家出した妹というのはいくつなんです」
「二十一だとか言っていたな。何でそんなことを聞く」
「つい、気になって」
「またかけてきたら、お前さんのところを教えてやるよ」
「ぜひお願いします」
 それで別れた。
 話ができすぎていると思ったが、偶然というのはこういうものなのだろう。
 事務所まで歩いて戻ったが、嫌なやつにあったためか、何かすっきりしないものが心に残った。

 昼食後、駅で美枝子と待ち合わせをした。
 買い物をする、ということだったが、それらしい荷物は持っていなかった。
 親戚ということにしてしてあるので、人前では、「美枝子ちゃん」「昌行さん」と呼び合うことにした。ホテルで怪しまれては困る。
 散歩には言い陽気なので、ホテルまで並んで歩き、兄が警察に相談したらしいということを話した。
 美枝子はそれほど驚いた様子はなかった。予想していたことらしい。
 ホテルの前に着くと、美枝子はしばらくその外観や、周りの様子を見て、納得したのか、頷いた。
「昌行さんは、こういうところによく来るんですか」
「仕事でならね」
 ロビーに入り、チェックインを済ませ、美枝子を部屋に送り届け、外に出た。
 ホテルを出て左右を見回した。また何か嫌なことがあってはたまらない。
 その時、俺の視線を避けるように、建物の陰に隠れた人間がいたような気がした。
 俺はゆっくりと、その建物の方へ歩いていった。陰には、一人の男が立っていた。地味な紺のスーツを着て、広げた地図を見ている。
 俺は遠回りして事務所に戻った。途中で後ろの様子をうかがい、その男があとをつけてくるのを確認した。

 翌日の朝、事務所の電話が鳴った。
 受話器を取り、名乗ると、若い男が、水谷と名乗った。
「妹を捜して欲しいんです。家出して、そちらにいるはずで……」
「恐れ入りますが、どうやって私の所をお知りになりました」
「電話帳で見つけました」
「刑事さんからの紹介ではないのですか」
「刑事? いいえ」
「警察には相談なさいましたか」
「捜索願を出さないとだめだと言われまして。おおごとにはしたくないものですから」
「なるほど、わかりました。大まかな事情をはなしていただいて、その上で引き受けるかどうか返事を申し上げますが、それでよろしければ」
「お願いします」
 俺はメモを取る用意をした。
 妹の名は美枝子。二十一歳。間違いない。住所も、あの美枝子に聞いた話と一致する。
「それだけの情報では、難しいですなあ。今、かかえている仕事もありまして。もし目星がつきそうなら、こちらからご連絡いたします。その時に細かい条件についてお話しいたしましょう」
 そう言って、電話番号だけ聞いて電話を切った。
 あまりにも不自然だった。
 電話帳で見つけたというのは嘘に決まっている。
 依頼者は、電話帳で最初に見つけたところに電話をすることが多い。そのため、できるだけ前に掲載されるように、「あ」で始まる名をつけている探偵事務所も少なくない。
 「坂本探偵事務所」というのは、たしかに電話帳には載っている。しかし、数多い探偵事務所に埋没してしまっていて、決して目だつことはない。
 俺をねらって依頼してきたに違いない。
 ホテルからの帰りに、尾行されているような気がしたことと思い合わせ、俺は、胸の奥が少し冷たくなったような気がした。
 すぐに美枝子に電話をすると、ホテルにいた。
 話したいことがある、ということを伝え、俺の方から出向いた。
 少しは顔を出さないと、ホテルのフロントにも怪しまれる。
 フロントで美枝子を待ち、近くの喫茶店へ行った。
 兄から電話があったことを伝えると、美枝子は、「やはり」という表情をみせた。予期していたようだった。
「君がうちにきたことを知っているとしか思えない」
「誰かが知らせたのかもしれません」
「誰かって?」
「うちの誰かが。わたし、見張られてるのかもしれない」
 何か、俺には言えない事情があるようだった。
 俺は、あえて深入りはしなかった。
 話が済んだので、ホテルまで送っていった。
 送るほどの距離ではないのだが、また尾行されるかどうか確認したかったのだ。
 ホテルの前まで来たときに、俺はいきなり後ろから突き飛ばされた。
 よろめいた俺の背中に、女の声がぶつかった。
「この浮気者」
 踏みとどまって振り向くと、裕子が立っていた。相木弁護士のところで働いている女だ。
「こんな時間から二人でホテルに入るなんて。あたしというものがありながら」
「勘弁してくれよ。そんなんじゃないんだよ」
 ふざけているのはわかるが、度が過ぎる。美枝子は最初は驚いたようだったが、今は笑っていた。完全に誤解しているようだ。
「わたし、昌行さんの親戚なんです。美枝子と言います。大丈夫ですよ、一緒に部屋に入ったりしませんから」
 そんな挨拶までしている。
「いや、あの、そういうことじゃなくて」
 裕子は、俺が説明する隙を与えず、営業用の笑顔を見せて、
「あら、ごめんなさいね。わたくし、こういう者です。よろしくね」
と名刺を出して美枝子に渡し、俺に向かっては、
「じゃ、後でね」
と言い捨てて立ち去った。後でも何もないものだ。
 美枝子は、裕子からもらった名刺を興味深そうに見ている。
「ただ仕事でつきあいがあるだけだから」
「弁護士さんのところで働いてるんですね」
「ああ、その関係で知ってるだけ」
 美枝子にはどうでもいいことだろうが、誤解はといておきたかった。
 その日はもう、尾行されているような気配はなかった。
 美枝子のいるところで裕子とでくわしたのは、全くの不運のように思われたのだが、そのことが意外な情報をもたらした。
 その翌日の夕方、裕子から電話があった。
「うちに来たわよ、あの女の子」
「あの女の子って?」
「ほら、昨日、ホテルに一緒にいた女の子」
 人が聞いたら誤解するような言い方だ。
「ああ、美枝子ちゃんか。どうしてまた、そっちに行ったんだろう」
「法律のことで、確かめたいことがあるからって。予約の電話があったときに、びっくりしちゃった」
「どんな相談だった」
 裕子は少し笑った。
「探偵さん、情報っていうのはね、ただじゃ手に入らないのよ」
 俺は裕子に聞こえないようにため息をついた。
「夕飯、でいいかな」
「いいわよ。何をごちそうしてくれるの」
 ファミリー・レストランというわけにもいくまい。
 何かの専門店で安い店。俺は近所の餃子屋を思い出した。
「中華料理でどう。餃子専門店が近くにあるんだ」
「おいしいんでしょうね」
「まあまあだ」
「どうせ安い店なんでしょう」
 俺は、受話器をたたきつけたくなるのをじっと我慢した。

(続く)



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