探偵物語・1

君子の来た夜

(くんしのきたよる)

後編

 アドレス帳が出てこなかったということは、あれはどこかほかの場所にあるということだ。やはり、最も重要だったのは、あのアドレス帳なのだろう。どこへ行ったのか。
 俺は、駅前の本屋で、前田の部屋にあったのと同じ週刊誌を手にし、裏表紙に書かれている住所を脳の中にメモした。
 中堅出版社の出している雑誌だ。最近は、政界の腐敗追及に力を入れている。
 本屋を出てから、頭の中の住所を手帳に書き写し、長野輪業に向かった。
 後輪のブレーキの修理のためだ。
 店は事務所のすぐそばにある。二代目の若い店主が仕切っていた。歳は、確か俺より一つ下のはずだ。自転車のメンテナンスのほかにも、いろいろなことで世話になっている。
「ディスクに当たるところがすり減ってますね」
 店主はそう言った。ブレーキのカバーをはずして一目見ただけだが、すぐ分かるらしい。
「時間はかかるの」
「少しかかります」
「じゃあ、後で取りに来る」
 俺はそう言い置いて、駅に向かった。駅ビルの一階の立ち食いそばで、かけうどんといなり寿司で腹ごしらえをしてから地下鉄に乗った。
 二回乗り換えて、目指す出版社についた。
 受付を通して、週刊誌の編集長に、前田からアドレス帳を預かっていないか、と尋ねると、応接室に通された。
 編集長は、スリーピースの上着を脱ぎ、ベスト姿で現れた。えび茶のネクタイをゆるめ、いかにも編集者といういでたちだった。
「あんた、前田さんに頼まれて来たのかい」
「はい」
「やっこさん、みっともなくて顔を出せないんだろう。返すよ、ほら」
 編集長は、見覚えのあるアドレス帳を投げて寄越した。
「何が極秘資料だよ。どれもこれも関係ないとこばっかりじゃない。もう来なくていいって言っといて」
 それだけ言うと、出て行ってしまった。
 茶も出ない。乾いたままののどをなだめながら、再び地下鉄に乗り、長野の店へ戻った。
「直ってますよ」
「ありがとう」
 俺はそういったが、すぐには受け取らず、店の奥の椅子に腰を下ろした。ほかの客はない。椅子のわきには、魔法瓶と急須がある。俺は、自分で急須に湯を入れ、わきにあった湯飲みに茶を注いだ。
「のどがかわいちまったよ」
「あったかくなったからね」
 長野は手を洗っている。
「最近、バイクとか自転車の宅配がはやってるけど、そういう客は多いの」
「いますねえ。みんなスポーツタイプで。狭いところも入れますからね。渋滞も関係ないし」
「人目をはばかるような仕事も受けるのかな」
「どうでしょう。会社の書類を運ぶのが専門みたいですよ。必ず伝票を切るから、記録が残るし。何かあったんですか」
「いや、あんまり仕事がないから、アルバイトにやってみようかと思って」
「ははは。よっぽど体力がなくちゃつとまりませんよ」
「そうだろうな」
 俺は、代金を払って外に出た。
 事務所に戻り、アドレス帳を検分した。
 それから、近くの図書館へ行った。
 閲覧室で、ここ一週間の新聞をまとめて読み直す。
 読んで楽しい記事はない。ゴミ処理場の入札に関する談合疑惑、北方領土交渉の裏取引疑惑、警察の事件もみ消し疑惑。紙面は疑惑であふれそうになっていた。
 前田は、何か、大きな事件に関わる仕事をしていたはずだ。
 アドレス帳に書かれた会社名から考えれば、官公庁のビル建築の談合か、入札に関わる政治家の圧力というところだろう。
 新聞を返すと、閲覧室の椅子に深く腰を下ろし、俺は目を閉じた。
 女が渡したかったのは、バッグではなく、あのアドレス帳のはずだ。バッグは新品だった。中に入っていた週刊誌もタバコもライターも、女がカモフラージュのために入れた物だ。
 タバコは、タールの少ない軽い物だった。あの前田という男がそんな物を吸うとは思えない。俺に半金を渡す時、女はハンドバッグの中で一万円札を数えた。その時、ハンドバッグの中に、同じ銘柄のタバコが見えた。女が自分用のタバコを入れただけなのだ。使い捨てライターも新品だった。
 何よりも、アドレス帳を受け取った時の、前田の反応が教えてくれている。
 重要なのはアドレス帳なのだ。
 普通に考えれば、闇取引をしている企業名を、女が雑誌記者に教えてやろうとした、ということになる。
 では、女はどうやっての企業名を知ったのか。そして、なぜ直接渡さなかったのか。
 俺は事務所に戻り、インターネットで石橋という姓の政治家を一人ずつ調べ始めた。

 翌日、喫茶店のモーニングセットで朝食を済ませると、俺は警察に向かった。
 張り込みに飽きたのか、井ノ原は署内にいた。前田に会わせてくれないか、と尋ねると、井ノ原は鼻の先で笑った。
「弁護士でもないのに、留置所の容疑者に会えるわけねえだろう。それに、もう前田はいねえよ」
「身柄を送検されたんですか」
「いや、いくら調べても証拠が出てこないんだ。特捜部のリストにも載ってないしね。誰かが部屋を間違えて隠したのかもな」
「釈放したんですか」
「ああ。昨日帰した」
 いつもなら俺をにらみながら話すのに、今日に限って目をそらしたまま答えている。
 おおかた、泳がせる作戦に切り替えたのだろう。
 俺は、丁寧に礼を言って署を後にし、前田のアパートに向かった。
 前田は部屋にいた。ノックするとすぐにドアが開いた。
 俺の顔に見覚えはあるようだが、バッグを運んできた男だとは思い出せないらしい。
「おととい、こちらにうかがった坂本です。これを持って参りました」
 そう言って、俺はアドレス帳を出して見せた。
「編集部に行ったのは、あんただったのか」
「はい。編集長が返してくれました」
「返しに来てくれたのか」
「はい。それと、石橋君子さんについて教えて頂きたいのですが」
 前田は、手をふるわせながらアドレス帳を受け取り、少し迷って、俺を中に入れてくれた。
 靴を脱ぎ、奥の和室にはいると、家宅捜索の後よりは少し片づいていた。といっても、物が片隅に寄せられ、布団が敷いてあるだけだが。
 布団のわきには低いテーブルがあり、コップとウィスキーのボトルがあった。
「飲むかい」
 前田は、ボトルを傾け、コップに琥珀色の液体を注ぎながら言った。
 俺は首を振った。
「石橋君子さんと前田さんとはどういう関係なんでしょうか」
「そんなことを聞いてどうする」
 前田はコップをあおった。口の端からあごに向かってウィスキーの細い筋ができた。
「ちょっと気になったものですから。代議士の奥さんですよね」
「ああ」
「代議士の奥さんが、どうしてあなたにそのアドレス帳を」
「中を見たかい」
「はい」
「どう思った」
「談合か何かの極秘情報かと」
「俺も君子もそう思ったんだ。でも、君子はだまされてたんだな」
「誰に」
「旦那にだよ。衆議院議員の石橋にだよ」
「どういうことなんでしょう」
「分かってるくせに」
「ただ、あなたと君子さんの関係は分かりません」
「察しがつくだろう」
 そう言って、前田はまたボトルを傾けた。
「俺は昔、君子とつきあってたのさ。学生の頃だけどな。ところが、君子は、親の借金を棒引きにして貰うために、石橋の妻になった。信じられないだろう。そんなことが現実にあるなんて。俺も信じられなかったさ。でもそうなんだ。その頃は、石橋はまだ国会議員じゃなかった。建設省の役人だった」
 前田は血走った目で俺を見た。
「あんただって若かったことがあるんだろうから、俺たちの気持ちが分かるだろう」
 俺は黙っていた。
「前田は、君子を通して、君子の実家に、新しい鉄道の路線を教えた。君子の親はあらかじめそこの土地を買い、何倍もの値段で国に買い取らせた。それで借金が返せたわけだ。そんなことが続いてりゃあ、バブルにもなるわな」
 前田はよろよろと立ち上がり、キッチンから、コップと、氷を入れた袋を持って帰ってきた。
 新しいコップに氷のかけらを入れ、ウィスキーを注いだ。
「国会議員になってからも相変わらずだ。俺はなんとかしてヤツの尻尾をつかみたかった。調べているうちに君子にあったのさ。二十年はたってねえな。十五年ぶりぐらいだった。あんたも飲みなよ」
 そう言って、コップを俺につきだした。俺はちょっと頭を下げて受け取り、一口飲んだ。辛いようなウィスキーだった。せめてスコッチにして欲しいところだが、前田にも懐事情があるのだろう。
「君子は泣いてたよ。石橋と別れたいって。あの石橋ってやろうは、若くてきれいな女なら、見境なしなんだ。愛人がいるってさ。今までがまんしてきたけど、もういやだ、別れたいって。でも、それはできないんだ。実家のことがあるからな。それで、俺の力を借りて、石橋に復讐したいって言って……」
 そこまで話して前田は黙り、がくりと頭を垂れた。
「石橋議員を陥れるために、あなたに情報を提供しようとしたんですね」
 石橋は頭を起こし、
「そうなんだ。でも、石橋にばれてたんだな。わざと嘘の情報を手に入れるように仕組んだんだろう。おかげで俺は編集長に怒鳴られたよ。昨日、釈放されてから電話したんだ。どうなりましたって。そしたら、もう二度とお前には書かせないって……」
 お互い、身分保障の全くない自由業だ。俺は、前田の挫折感が理解できるような気がした。
「君子さんには連絡してみましたか」
「できるわけねえだろう」
 前田は大きな声を出した。そしてすぐ泣き声になった。
「石橋にばれてたんだ。きっと今頃、ひどい目にあわされてるんだろう。俺のせいだ。俺が近づきさえしなけりゃ……」
 前田はそう言って目をぬぐった。俺は、仕事の依頼に来た時の、何かにおびえたような女の様子を思い出した。
「俺も終わりだよ。一度しくじったら、もう誰も使っちゃくれない。おまけに、覚醒剤の売人の濡れ衣を着せられて、どこにいっても刑事の尾行つきじゃ、仕事にならねえ」
 そう言いながら、震える手でボトルを手にした。
「お邪魔しました」
 俺はそう言って立った。

 午後。
 俺は地図を見ながら、丁字路の角に立っていた。
 俺の立っている道は、一方通行の狭い道だった。それが交差する道も一方通行で、向かって左から右へしか走れない。
 そして、俺の立っているのと反対側の左の方に、車庫の自動シャッターが見えていた。
 そこが石橋の屋敷だった。屋敷と表現するのがピッタリの、石塀に囲まれた旧家だった。あの女は中にいるはずだ。
 三十分後、シャッターが上がり、黒塗りのセダンが見えた。後部座席の左側には見覚えのある女の顔があった。今日はサングラスはしていない。
 俺は地図を広げ、それに視線を落としながら歩き出した。そして、そのまま車の前に出た。
 車は止まった。しかし、クラクションを鳴らすようなことはしなかった。さすが鷹揚なものだ。
 俺は地図をおろし、初めて車に気がついたような振りをした。そして、わびる格好で頭を下げ、後部座席を見た。女と目があった。
 俺はゆっくりと道の右端に寄った。女は顔は正面に向けたままだったが、横目で俺を見ながら通り過ぎていった。

 夕方。
 夕食にはまだ早いが、インスタントラーメンを作ろうとして鍋を火にかけたところに、女が現れた。昼間とは違ってサングラスをしている。
「残金の支払いに参りました」
 ソファーに腰を下ろすと、氷のような声でそう言った。
「領収書は」
「いりません」
 女は、ハンドバッグから、白い封筒を取り出し、テーブルに置いた。だいぶ厚みがある。
 俺は封筒を手にして中をのぞき込んだ。俺が受け取るべき額の五倍以上の枚数が一万円札が入っているようだった。
 俺は、その中から五枚だけ抜き出し、あとは封筒ごと女に返した。女は封筒を受け取り、立ち上がりかけた。
「あなたは恐ろしい人だ」
 俺は正直な感想を述べた。女は座り直した。
「前田が何か言ってましたか」
「前田さんはあなたを信じています。わたしもあなたを信じたかった」
「何がおっしゃりたいの」
「ご主人は何もかもご存知なんでしょう。そうでなきゃ、前田さんのアパートに覚醒剤を隠す、なんてことはできっこない」
「何のことだか、さっぱりわかりません」
「秘密の情報を書き写すなら、少しは字が乱れたりするでしょう。ところが、余裕を持ってアドレス帳に書き込んだとしか思えない。ご主人と相談して用意した、偽の情報だったんでしょうな」
 女は無表情のまま言った。
「何か証拠がありまして」
「いいえ、何も。前田さんは、もう雑誌記者としては働けないようです。前田さんよりもご主人が大事だったんですね」
 女は立ち上がり、俺に背を向けた。ドアに向かって歩き始めた女に、俺は声をかけた。
「たしか、聖人君子のクンシと同じお名前でしたよね。恐ろしいクンシですなあ」
 女は立ち止まり、背を向けたまま言った。
「わたくし、石橋の妻ですから」
「これ以上、前田さんに何かしたりしないでしょうね」
「さあ」
 女は出て行った。
 鍋では湯が沸き立っていた。俺はガスレンジの火を止めた。
 そして、事務所を出ると、愛車にまたがり、前田のアパートに向かった。
 道がわかっているので、信号の少ない裏通りを飛ばして十五分。路地の入り口には、見覚えのある車があった。
 アパートについた時、今度はいやな音を立てずに自転車を止めることができた。
 二階への階段を駆け上がろうとした時、上から声をかけられた。
「どうした、探偵さん」
 井ノ原だった。暴力団風の男が二人、その後ろでもがいている。二人の男は、それぞれ、警察官に両腕を捕まれていた。手錠もはめられている。
「どうしたんですか」
 俺が愛想笑いをしながら尋ねると、井ノ原は上機嫌で答えた。
「ヤクを取りに来やがった。前田がおとなしく渡さねえもんだから暴れてな。地道な張り込みが報われたよ」
 警察官は俺と井ノ原の横をすり抜け、二人を連行していった。
「前田って人は、関係してたんですか」
「いや、それはない。前田のアパートに押し込んでおいただけなんだな。よくあるんだ。全く関係のない所に、勝手に隠しておくってのが。俺は始めっから、そうにらんでたんだ」
「さすがですねえ。で、前田さんは」
「部屋にいるよ。けがもしてねえ。あの男の事情聴取は明日だ」
 そう言って、井ノ原は鼻歌を歌いながら階段を下りていった。
 俺は、前田の部屋の前に立った。
 ドアは開けたままだった。
 前田は、引くテーブルを前に、首をうなだれて座っていた。俺は少し迷ったが、中に入り、声をかた。
「前田さん。大丈夫ですか」
 ゆっくりと首をあげ、前田は俺を見た。
「ああ。あんたか」
「脅迫されたんですか」
「ああ。これ以上かぎ回るなって」
「警察には本当のことを言わなかったようですね」
「君子に何かあったら……。そう思うと、言えない。あいつ、ひどい目にあわされてないだろうか」
「きっと……きっと無事ですよ」
 俺は、それだけ言うと、その場から離れた。
 事務所への帰り道。
 自転車をこいでいるうちに、誰か、信じられる人間の顔を見たくなった。
 手元に金があることだし、インスタントラーメンは、やめておこう。
 何を食おうか考えているうちに、最近近所にできたギョーザ専門店の看板を思い出した。まだ入ったことはない。とりあえずそこへ行ってみよう。誰がやっているのか全く知らない。
 知らない人間になら、裏切られることもないだろう。
 そうだ、長野を誘ってみようか。いつか、情報を提供してくれた時の礼をまだしていない。金を受け取るようなヤツじゃない。餃子とビールをおごってやろう。
 いや、あいつならラーメンの方がいいというかな。でも餃子にしておこう。
 俺は、自転車を止めて長野に電話をかけた。
 長野も、その店は気になっていたと言っていた。店で落ち合うことにして、俺はまた自転車をこぎ始めた。
 夜の風は心地よかった。

(第1話・終わり)


【次回予告】
 初夏の日差しは、かすかな痛みを思い起こさせる。
「息子を捜していただきたいんですの」
 美しい未亡人からの依頼を受けた俺は、若い三人を使って電気街での捜索を開始した。
 まるで遠い日に見た青春映画のように、せつないかおりがこの事件の全編を包む。
 この事件をつづった俺のメモに記されたタイトルは、「エレクトリックシティ・ブルース」。
 甘くほろ苦い事件だった。


「探偵物語」目次

メインヘ