探偵物語・1

君子の来た夜

(くんしのきたよる)

前編

 世の中に夕焼けほど美しいものはない。
 そう思うことがある。
 オレンジ色の夕陽と、その光を横から受けて金色に輝くすじ雲。
 朝日を見ることはないが、晴れてさえいれば、夕陽をながめることのできる部屋だ。
 俺の部屋は、なぜか、南側ではなく、西側に、三畳ほどの広さしかないルーフ・バルコニーがある。おかげで西日はたっぷり浴びることができる。
 もっとも、だから家賃が安いのかもしれないが。
 夕焼けが見えるのはいいが、五月末ともなると、西日に照らされるのはやりきれなくなることもある。
 俺が、夕陽を見ながら家賃のことを考えていると、チャイムが鳴った。来客だ。
 俺は、ドアに顔を寄せ、のぞき穴から外を見た。サングラスをした女が立っていた。
 女は、ドアに貼ってある「坂本探偵事務所」というプレートを見つめていた。
 ロックをはずし、
「どうぞ」
と招き入れると、少し頷いて、無言で中に入った。
 地味なグレーのスーツ姿だった。サングラスをかけているので目元は見えなかったが、まだ四十歳にはなっていないようだ。つい数年前までは、いわゆる「いい女」の見本のようなスタイルだったんだろうと思わせる体型だった。
 手には、茶色のハンドバッグのほかに、バラの花の模様の、デパートの紙袋を持っている。
 買い物帰りに見せたかったのかもしれないが、保護者会に行くような格好と、デパートの紙袋とでは不自然だ。そこまで気が回らなかったのだろう。
 俺は、お茶もコーヒーも出さず、名刺を差し出した。相手はできるだけ早く用件を済ませてしまいたいはずだ。
 相手は名刺を受け取ると、すぐに、紙袋からバッグをとり出した。
「これをある人に渡して頂きたいのですが」
 俺と彼女の間にある、低いテーブルに置かれたのは、黒い合皮のショルダーバッグだった。会社員が持ち歩くようなタイプの物だ。
「あらかじめお断りしておきますが、法に触れるようなことならお引き受けできません」
「それは大丈夫です」
「中を見せていただいてかまいませんか」
 女は頷いた。俺は、バッグのファスナーを開けて、中を調べた。写真週刊誌とタバコ、ガスがほとんど減っていない使い捨てライター、ボールペンのほかに、小さなアドレス帳が入っていた。
 それを開いてみると、ところどころに、会社名と住所が書いてあった。
 そして、裏表紙の内側に、住所と、前田哲郎という名が記されていた。地名からすると、地下鉄で三駅目あたりにあるアパートかマンションだ。電話番号は書いてないが、自分のアドレス帳に自分の電話番号を書くやつはいないだろう。
 俺がそれを見ていると、女もそれをのぞき込み、
「その方に渡していただきたいのです」
と言った。
「ずいぶん簡単な仕事ですね。ご自分では渡せない事情がおあり、ということでしょうか」
「わたしは、見張られて……。いいえ、ちょっと事情がありまして、直接その方にお目にかかることはできないんです。お願いできないでしょうか」
「宅配便を使えば簡単でしょう」
 女は首を横に振った。
 探偵事務所に仕事を頼みにくる者は、男でも女でも、何か不安を抱えている。しかし、この女は、不安だけではなくおびえも抱えているようだった。
 俺は、アドレス帳をバッグに戻した。その時、俺の脳裏に、三人組の顔が浮かんだ。
「私の知り合いが、『どうにかする会社』という便利屋をやっておりますが、そちらに頼んでみてはいかがでしょう。私に依頼するより、安上がりですが」
「これ以上、他の人の目に触れさせたくありません」
 俺がやるしかないようだった。
「相手の方には、あなたから、ということは分かるのでしょうか」
「たぶん……」
「くどいようですが、犯罪がらみは困ります」
「それはありません。むしろ、正義のためなんです」
「正義のため」
「はい。お願いします」
「このバッグを渡すだけでも、仕事として請け負うからにはそれなりの報酬をいただくことになりますが」
「十万円でいかがでしょう」
 女が口にした金額は、俺が言おうとした額の十倍だった。俺は、うわずりそうになる声を力ずくで押さえつけ、こう言った。
「まあ、そんなところです。まず半金をいただきます。残りは、仕事が終わってからいただくことになります。それでよろしければ」
「お願いいたします」
 即答だった。もう少しふっかけてやれば良かったと思ったが、一度口にしたことを翻すことはできない。
「こちらからの連絡方法は」
 そう尋ねると、女はすぐに、ハンドバッグから、携帯電話の番号が書かれたメモ用紙を出した。
 俺はそれを受け取り、俺も、携帯の番号を教えた。
「私からの連絡は、この番号か、事務所の番号か、どちらかかからになります」
 女は頷いた。
「では、半金を支払っていただけますか」
 女はまた無言で頷き、ハンドバッグの中で金を数えた。指先は見えないが、ハンドバッグの中が少し見えた。女は、一万円札を五枚出してテーブルに置いた。
「領収書は」
「いりません」
 そう言って、女は席を立ちかけた。
「ちょっとお待ち下さい。お名前をお聞かせいただけませんか」
 女は少し迷ってから答えた。
「キミコです」
「字は」
「聖人君子のクンシと同じ字です」
「名字は」
 女はまた少し考えた。
「石橋です」
「前田さんに、バッグを渡す時に、あなたの名前を出してもかまいませんか」
「それは……。そうですね、かまいません。どうせわかることですから」
「わかりました。やってみます」
 そう言って、女を送り出し、ソファーに腰を下ろしてバッグをもう一度見直した。
 まだ新しいバッグのようだった。アドレス帳も、使い込んだ様子はなく、表紙の角が剥がれかかっていたりはしていない。
 アドレス帳に記されたているのは、会社名ばかりだった。建築関連の会社が多い。どれも、同じボールペンで一度に書かれたようだった。崩れたところのない、端正な字だった。
 俺は、メモ帳に、前田哲郎なる人物の名前を住所を書き写し、それから、地図を出して住所を確認した。思った通り、地下鉄で三駅目だ。紙袋にバッグを入れて持ち、外に出た。
 空はすっかり暗くなっている。
 俺は、事務所兼自宅を出ると階段を下り、駐輪場に向かった。そう遠くないので、俺は、愛車の十段変速スポーツサイクルで行くことにした。そうすれば、少しでも経費を浮かすことができる。
 自転車で、橋を渡り、環状線の高架の下をくぐった。駅の東口の近くの牛丼屋で夕食をすませ、地下鉄の上を走る幹線道路を北へ向かった。
 十五分ほどで目的の駅に着いた。
 記憶の中の地図と、電柱の住所表示を頼りに大通りを横切る。
 裏通りにはいると、ところどころに車が止めてあった。それに気をつけながら角を曲がり、路地にはいると、目的の建物はすぐに見つかった。二階建てのアパートだった。
 周りには狭い道しかないせいか、静かだった。自転車を止める時、後輪のディスクブレーキが、曇りガラスをひっかくような音を立て、俺の心拍数を一・五倍にした。
 いよいよ修理が必要なようだ。
 部屋は二〇二号室。
 俺は、階段を上り、部屋の前に立った。
 中は明るかった。チャイムなどというしゃれたものは見あたらないので、ドアをノックした。
「ごめんください」
「はい」
 すぐに返事があって、ドアの向こうに人の気配がした。しかし、ドアは開けてくれない。
「どなた」
「わたくし、坂本と申しますが」
「新聞ならいらないよ」
「そういう者ではありません。ある方から、前田さんに物を届けてほしいと頼まれまして」
 ドアが開けられた。
 現れたのは、四十過ぎの男だった。無精ヒゲが目立つ。俺を見る目には警戒の色があった。
「前田哲郎さんですね」
「ああ」
「これを渡すよう、頼まれました」
 俺は紙袋から、バッグを出して見せた。
「誰に」
「石橋さんという方です」
「石橋……君子か、そうか」
「はい」
 前田は、バッグを引ったくると、中を開けた。そして、真っ先にアドレス帳を取り出した。パラパラとめくってみてから、顔を上げて俺を見た。少し上気していた。
「ありがとう。確かに受け取った」
「それでは、これで失礼します」
「ああ、どうもありがとう」
 男の顔を喜びが駆け回っていた。誰かに言わずにはいられなかったのだろう。
「内閣がひっくり返るくらいの騒ぎが起こるぜ」
と、笑って言った。
 俺は頭を下げてドアを閉め、アパートを後にした。

 三十分後には事務所に戻った。
 上着を脱いで、女に電話をかけた。ところが、聞こえてきたのは、
「おかけになった番号は、現在使われておりません」
というテープの声だった。
 俺はため息をつき、冷蔵庫からビールを出した。今日は二本飲んでもいいだろう。

 翌日、午前中に、俺はまた、自転車で、前田哲郎を訪ねて行った。
 報酬の残金を支払って貰うためには、女の連絡先を教えて貰わなくてはならない。
 すでに受け取った五万円だけでも多すぎるような仕事なのだが、十万で契約したからには十万の報酬を得なくては気が済まない。
 普通の勤め人なら、日中は留守だろうが、昨夜見た様子では、毎朝スーツで出勤するような人間には見えなかった。
 アパートにつき、ドアをノックしたが、返事はなかった。
 まだ寝ているのかもしれない。
 試しに、ノブを回してみた。鍵はかかっていなかった。ドアを開けた。
「ごめんください」
 やはり返事はなかった。しかし、畳のすれる音と、かすかな息づかいが聞こえた。
 入ってすぐは簡単なキッチンになっている。その奥の部屋にいるらしい。
 昨夜ちらっと見た時に比べると、だいぶ散らかっている。週刊誌が畳の上に散乱していた。
 俺は、見えない前田に声をかけた。
「いらっしゃるんでしょう、前田さん」
「誰だ」
 やっと返事があった。聞き覚えがあるような気がしたが、昨日の夜に聞いた前田の声とは違っていた。俺はできるだけ明るい声で答えた。
「昨夜うかがった坂本です」
 そう答えたとたん、キッチンと部屋の境目に男が現れた。
「何でお前がここに来たんだ」
 そう言って俺をにらんだのは、最も会いたくない男だった。俺は思わず逃げたくなったが、そんなことをすれば怪しまれる。
 俺は驚いて目を見開いた。しかし相手にはそんな様子はない。いや、見開いているのにそうは見えないだけなのかもしれない。俺は、そんなことを考えながらやっとこう言った。
「それはこっちのセリフですよ、井ノ原さん」
「ちょっと一緒に来て貰うしかないな。任意同行、協力してくれるな」
 俺は観念して頷いた。
 井ノ原は、靴を履いて外に出た。俺はその後に続く。
 階段を下り、路地を抜けると、路地の入り口が見えるところに、車が止めてあった。井ノ原は、その車の窓をたたいた。中からは、見覚えのある中年男が出てきた。
 井ノ原は、その男には丁寧な口をきいた。
「ちょっと代わってください。どういうわけか、探偵が来たんです。俺がちょっと聞いてみます」
 相手は頷いてアパートへ向かった。
 井ノ原は、俺を先に後部座席に座らせ、それから俺の隣に滑り込んでドアを閉めた。
「何かあったんですか」
 精一杯友好的な声で尋ねたが、
「何かあったから俺たちがいるんだろう」
と、バカにしたような返事が返ってきた。
「で、探偵さんは何しに来たんだ」
「ちょっと野暮用で」
「お前、昨日の夜も来ただろう」
「どうしてそれを」
「やっぱりな。警察をなめるなよ。ちゃんと聞き込みしてあるんだ。自転車に乗ってて、ひょろっとしてて若いんだか老けてんだかわからねえ男と言ったらお前さんぐらいのもんだ。探偵じゃ食えなくなって、デリバリーのアルバイトか」
「まあ、そんなもんです」
「けっ。いよいよ売人に成り下がったか」
「バイニンって何ですか」
「お前が昨日何を持ってきたかぐらい、わかってんだよ。少しはかくして持って来るぐらいの知恵がないのか。でかい紙袋で運んだそうだな」
「だって、あんなもの」
「あんなものか。おい。末端価格で五百万以上だぞ」
「何か、勘違いしてるんじゃ……」
「何が勘違いだよ。お前が運んだブツはな、ちゃんとさっきの家宅捜索で見つかったんだ」
 部屋が散らかっていたのは、家宅捜索の結果だったのだ。
 それにしても、話がかみ合わない。
「俺が運んだのは、ショルダーバッグですよ」
「ああ、そのバッグの中に白い粉がたんまり入っていただろう」
「白い粉……。いや、雑誌とかタバコとか……」
「何しらばっくれてんだよ」
「本当ですよ」
「本当に知らねえのか」
「だから、何を」
「あの前田が、覚醒剤の売人だってことをだよ」
「昨日バッグを届けに来ただけなんですから、知りませんよ」
「どうも変だな。じゃあ、そのバッグの話を聞かせて貰おうか。誰に頼まれた」
「それは言えません。守秘義務がありますから」
「ほう、捜査に協力できないという訳か。なるほど。じゃあ、ちょっと署まで来て貰うしかないな」
 そう言って俺をにらんだ。細いが故に、妙な迫力のある目だった。
「分かりました。洗いざらいお話ししますよ。勘弁してください」
 俺はわざとため息をついて見せてから、バッグを持って来た女の話をした。もちろん、女の名前は偽名にした。依頼人の身元がばれないようにするのは、探偵として最低のモラルだ。
「じゃあ、その女の連絡先を教えてくれ」
「それはできません」
「ほう、探偵の守秘義務か。偉いもんだ。しかし、捜査に非協力的だとなると、探偵の営業許可の方は……」
「わかりました、わかりましたよ。これです」
 俺は、内ポケットを探って、女がくれた紙を井ノ原に渡した。
 井ノ原は、
「いや、実に協力的な市民だ」
と笑って、電話を取り出し、メモの通りに番号を押した。そして電話を耳に押し当てたが、すぐに、野良犬のような目で俺をにらんだ。
「おかけになった番号は、現在使われておりません」
 電話からは、俺が昨夜聞いたのと同じ声が聞こえている。
 井ノ原は、もう一度、番号を唱えながら親指で携帯電話の数字を押した。しかし、結果は同じだった。
「俺もだまされたんですよ。だから、前田っていう人に聞けば、その女の連絡先が分かると思って来てみただけなんですから。ところで、覚醒剤の売人っていうのは、ほんとうなんですか」
 そう尋ねると、井ノ原は、車の周りを見回し、
「誰にも言うなよ」
と言って、俺の耳に口を寄せた。人が見たらどう思うか。俺の耳に井ノ原の息がかかる。鳥肌が立ったが我慢した。
「タレコミがあったんだよ。前田の部屋に覚醒剤が隠してあるって。確かな筋から。それで、今朝、家捜ししたら、たんまり出てきた」
「前田って人は」
「逮捕に決まってるだろ。不法所持なんだから。しかし、覚醒剤を押収したことは公表してない。ほかの売人が受け取りに来るのを待ち伏せして捕まえようっていう作戦なんだよ」
 よっぽど人に話したかったらしく、井ノ原はそんなことまで得意げに教えてくれた。
「アドレス帳なんかは見つかったんですか」
「そういうものは出てこなかったな」
「しかしまあ、大事件ですね」
 俺は感心して見せた。
「俺に取っちゃあ、こんなヤマ、たいしたことはねえよ」
「そうですよね。井ノ原さんに取っちゃ物足りないくらいでしょう。で、前田って人は、仕事は何をしてる人なんですか」
「表向きは雑誌記者だったんだよ。何って言ったかな、あ、そうそう、フリーランス・ライターとかいう肩書きだったな。昔はそう言うのをトップ屋っていったんだそうだが」
「はあ、マスコミの仕事をしてたんですか」
「マスコミを通じて、逆に情報を手にいれてたのかもしれねえな。今時のやくざは、頭の働くのが多いから」
「なるほどねえ。で、わたしはこれからどうなるんでしょう」
「帰っていいよ」
 井ノ原は、あっさり答えた。
「考えて見りゃあ、お前さんに、売人になるような度胸はねえだろう。帰してやるけど、その代わり、このことは誰にも言うなよ」
「分かってますよ。それじゃ」
 俺は精一杯愛想笑いをして車から出ると、握り寿司にソースをかけてしまったような不愉快な気持ちで愛車にまたがり、地下鉄の駅に向かった。

(続く)



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