窓
「剛。聞いてんのかよ。剛!」
突然声をかけられ、俺ははっとして顔を上げた。
「なんや剛くん、どうしたん」
目の前に、見慣れた顔がふたつあった。クラスメートの三宅健と岡田准一だ。
俺はびっくりして、ふたりをみつめた。
そんな俺を見て、
「剛くん、寝てたんか」
岡田が言った。
「……寝てなんかいねえよ」
俺が言うと、
「だって俺たちが何度呼んでも気がつかなかったんだよ」
「そうや」
口々にふたりが言う。そうだったかな。寝てたつもりなんかないのに。
俺はなにかを振り払うように首を横に振った。それから、あたりを見回した。
いつもの教室だ。まだ授業がはじまらないのか、教室のなかのクラスメート達はてんでにばらけて話したりふざけたりしていた。
教室のなかはうす暗かったが、窓の向こうには、見慣れた中庭の木々が見えた。外では、初夏の気持ちいい風が木の枝を揺すっているようだ。
それでも、俺は、なんだかいつもと違う気がした。
「どうしたんだよ、剛」
俺の顔を見て、どこか不安そうに、三宅が尋ねた。
「なんだか変だよ」
そう言う三宅の隣で、岡田は黙ったまま、片眉を上げるようにしてじっと俺を見ていた。俺はふたりを見た。ふたりも俺を見る。
「……なあ」
ためらいながら俺は尋ねた。
「俺、さっきまで、どうしてた?」
やっぱり寝ていたんだろうか。自分のことをよく覚えていなかったのだ。すると、俺を見ていたふたりが、急に眉をひそめて顔を見合わせた。まるで、俺がおかしなことを言い出したとでもいうように。
そんなふたりを見て、俺はむっとした。三宅と岡田だから気を許して聞いてみたのだ。こんな顔をされるなら聞かなきゃよかった。
そのとき、突然前のドアが開いた。風のように教室に入ってきた男を見て、俺はドキッとした。
それは、痩せて背の高い男だった。鋭い顔つきをしていた。
男が教室に入ってきたのを見ると、三宅も岡田も自分の席に戻った。ふたりだけではない。クラスの誰もが黙って自分の席に着いた。俺はとまどいながらも、そのまま自分の席に座っていた。
男は教壇に立つと、そこで動きを止めた。そして、俺を見た。そう、俺ひとりの顔をじっとみつめたのだ。
……なんでそんなに俺を見るんだ。俺は腹が立ってその顔を見つめ返そうとした。だが、俺はそうできなかった。俺は目を閉じて胸をおさえた。どうしたのか、気分が悪い。
誰かが号令をかけ、クラスの皆が起立した。
授業が始まった。男は俺を見つめていたことなんか忘れたように、教科書を広げ、後ろを向いてなにか説明しながら黒板に字を書き始めた。
気分が悪いまま、俺は周りを見回した。みんな黙ってノートを取っている。
「おい」
俺は、隣の生徒に声をかけた。生徒がこちらを見た。
「……誰だ、あいつ」
教壇の男を顎で指しながら問うと、そいつは俺を妙な顔で見たあと、
「坂本先生だろ」
と言った。あたりまえのように。
俺は、黒板に字を書く男をみつめた。
先生、だって?
なにを言われたのかよくわからなかった。だって、俺は、あんな教師を見たことがなかったからだ。
すると、そんな俺の気配を感じたかのように、前の方に座っていた三宅がこちらを振り向いた。窓際に座っている岡田も俺を見たのがわかった。
「……剛!」
小さな声で三宅が俺を呼んだ。俺は身構えながら三宅の方を見た。三宅は心配そうに俺を見た。もしかして、三宅はなにか知ってるのだろうか。なにが起こっているかわかっているのだろうか。
俺が見ているうちに三宅は急いでノートになにか書き、ちぎって折り、俺に投げた。
俺はそれを拾って広げた。それにはこう書いてあった。
「剛、黒板を見て。早く」
俺はハッとして黒板を見た。みんなが写していた文字が書いてあるはずの黒板。
俺は驚いた。黒板がゆらめいている。黒板にはなにかが渦を巻いており、その中央は真っ暗だった。いや、よく見ると、なにか星のようなものが光っていたかも知れない。坂本が書いた文字はどんどんと、その中心点に向かって吸い込まれていくのだった。
俺は呆然とした。三宅がまた心配そうに俺を振り返ったのが見えた。あれはなんだと尋ねようとしたとたん、俺の名前が呼ばれた。
「森田!」
坂本が俺を見ていた。
「わかったか?」
坂本が尋ねた。
「……なにがですか?」
「わかったか? おまえは……」
坂本はなにか言ったのだろうか。俺には、その言葉もどんどんと遠くなって、全く聞こえないのだった。
俺は救いを求めるように、クラスの中を見回した。全員が、答えを待つように俺を見ているだけで、誰もなにも言わなかった。みんな同じような表情のクラスメイトのなかで、三宅の心配そうな顔、岡田の射抜くような視線だけが、他の表情と違っていた。
突然、自分が大事なことを忘れている気がした。だが、なにを忘れているのかちっともわからない。
坂本は黙ってじっとそんな俺を見て、それから言った。
「これで授業は終わりだ」
坂本は教科書を閉じた。
そして、坂本は確かにこう言った。
「待ってるぞ」
……誰を?
だが、坂本はなにもなかったかのように教科書をかかえ、教室を出ていった。俺は怪訝な気持ちで坂本を見送った。それから視線を戻すと、すでに黒板にはなにも書かれてはいなかった。
教室はざわめきだした。坂本がいなくなると、気分は治ってきた。それと共に俺はいらだってきた。わけがわからない。俺は立ち上がると、ひとりで教室を出た。
あわてたように三宅が追ってきた。
「剛、さっきのことだけど……」
しかし、俺はそれを無視した。俺が歩き出すと、三宅はあわてたように俺のあとを追ってついてきた。なんだかうざい。俺は足を速めた。すると、三宅も足を速める。とうとう俺は走り出し、振り向きざまに怒鳴った。
「ついて来んなっ」
三宅の困惑した顔が見えた。
ふいに建物がぐらぐらと揺れるような感覚に襲われた。こんなところを早く出たくなった。窓の向こうの景色を見ると、ここは二階くらいなんだろうと思えた。いつもの学校のはずなのに、俺は、ここが何階かも忘れているのだ。
学校を出ようとしても、階段がどこにあるかもわからなかった。そのことに気がつくと背中がひんやりとした。俺は焦って階段を捜した。
だが、やがて俺は、暗い小さな階段の入り口を見つけた。もしかしたら階段は最初からそこにあって、俺が階段だと気がつかなかっただけのことかもしれない。
俺はすぐにその階段を駆け下り始めた。すると、うしろから三宅と岡田の叫び声が聞こえた。
「剛、下りちゃだめっ」
「止まれっ」
だが、俺は足を止めなかった。なんだか、なにもかも信用できない気がした。俺は夢中で階段を下り続けた。
そうして長い間階段を駆け下り続けてから、俺はやっとあたりが妙なことに気がついた。
あたりがひんやりと暗い。まるで井戸の底のようだ。
「……おい!」
誰にともなく、俺は声を出してみた。だが、返事はなかった。
「健! 岡田! いるのか!」
俺はとうとう上を向き、三宅と岡田に向かって叫んだ。もしかしたらふたりはまだ、俺を追ってきているかも知れない。だが、返事はなかった。俺は急に怖くなった。
だがそのとき、声が聞こえた。上からだ。その声は、よく気をつけないと聞こえないくらい小さかった。
「……待ってるから!」
三宅の声か岡田の声か、それとも違う誰かか、それもわからなかった。だが声は、そう言ったように聞こえた。
とにかく上に戻ろう、俺は思った。
そして、俺は階段に足をかけた。つもりだった。しかしいつのまにか、上へ戻る階段はなくなっていたのだ。
俺は階段を踏もうとして、空を踏んだ。
「……うわっ」
落ちる! ……落ちる……!
だがそのとき、なにかが強く俺の腕を掴んだ。
その感触は、人の手だった。誰かが俺の腕を掴んだのだ。
力強い腕が俺を掴み、それから精一杯の力で俺をどこかに放り投げる。そんなことを思いながら、俺は気を失った。
はっと気がつくと、俺は倒れていた。
落ちたときに打ったのだろうか、体中が痛い。俺はその体をどうにか動かして、立ち上がった。
ここも、さっきの暗闇と同じようにひんやりしていた。だが暗闇ではなく、薄暗かった。
立ち上がり、俺は左右を見回した。
学校の中に似ていた。でも、学校とも違う気がした。
俺は、よろよろと歩き出した。……どこへ?
わからない。けれども、どこかに行かなければならない気がした。
歩き出すと、そこはただ、どこまでも薄暗い四角い廊下だった。どこにもなんの飾りもなかった。廊下の窓には全部黒いカーテンがかかっていて、外は見えなかった。
廊下にはなんの目印もなく、ただまっすぐで、ところどころでくっきりと直角に曲がった。廊下の角を右へ左へと曲がって歩くうちに、俺は、自分がどこをどう通ってきたのかがわからなくなった。
それからずっと、俺は廊下を歩き続けた。
歩くことは苦痛だったが、歩みを止めるのは不安だった。
どれくらい歩き続けたのか、俺は数え切れないくらいの廊下の角を曲がった。そのどれもがその前の角とどこも違わず、どの廊下とも同じだった。
だが、あるときふと、俺は、そこがいつもの廊下と違うことに気がついたのだった。
それが何故いつもと違うのか、最初、俺はそのわけがよくわからなかった。だが、歩くうちに、俺はそのわけに気がついた。……その廊下の奥には、扉があったのだ。
扉。廊下の奥の薄暗がりの。
俺が扉に気がつくと同時に、今まで、いつまでもただ単調に薄暗かった廊下に、それまでにない空気が流れ込んできた。廊下は急に暗さを増した。
俺は胸を押さえた。
今まで続いていた苦痛、すでに慣れきっていた体の苦痛が、急にぐんぐんひどくなった。体が、指の先から硬直しはじめるような気がした。
……怖い。
しびれるように恐怖が湧いてきた。
俺は、はじめて足を止めた。はあはあと肩で息をしながら、俺はうまく動かなくなってきた体の向きを変えようとした。あの扉から離れなくちゃならない。せっかくここまで来たんだ。なにかがみつかるのももうすぐのはずなのに、あんな扉に近づいたら、なにもかもぶちこわしだ……。
しかし、どうにか体を後ろに向けたとき、俺はギョッとして叫び声をあげそうになった。
俺のすぐ後ろに、誰かが立っていたのだ。
それは、見たことのない、色の白い男だった。いつから俺の後ろに立っていたのか。男は暗い廊下の中に気配もなく立ち、俺をみつめていた。
「どこに行く気?」
俺を見て笑いながら、男が尋ねた。
「……」
俺は、答えられなかった。
男は、顔立ちも声も優しかった。だが、俺はそんなことでだまされやしない。
「あの扉を開けてごらん」
男が優しい声で言った。
「……」
俺が黙っていると、男は俺をみつめた。大きな茶色の瞳だ。色の白さもこの瞳も、なんだか人間じゃないみたい。そう考えつくと、俺ははっとして、もう一度男を見つめた。
俺がこわばったまま動かないでいると、やがて、俺をみつめる男の瞳が曇った。
「どうしたの。どうしてあそこに行かないの」
「……」
俺は思いきってそいつを無視することにした。こいつは人間じゃない。幽霊かなにか、そんなものなんだ。気にするな。こんなものはいない。気にするな。そのまま歩け。扉から離れろ。
急ぎ足で、と言ってもどうにも体が思うように動かないので、ちっとも早くはなかったが、俺はそいつのそばを通り抜けようとした。すると突然そいつは動いて、俺の行く手をふさぎ、怒鳴った。
「だめだ! そっちに行くな!」
驚いて俺は足を止めた。大きな茶色の目が俺を見据えていた。
「戻っちゃだめだ!」
すごい迫力だ。それで俺は簡単にびびった。言うことを聞かないとなにをされるかわかったもんじゃないという気がした。だって、体中痛くて自分の体さえうまく操れないんだから、こんなヤツ相手にどうしようもないじゃないか。
俺は、しかたなく、のろのろと体の向きを変えた。そして、ますますのろのろと、扉に向かって歩き出した。
男は、ついては来なかった。
「……待ってるよ」
うしろで男がそう言ったのが聞こえた。意味は分からない。だが、その声はまた、優しい声にもどっていた。
情けないくらいのろのろとだけど、歩いているんだから、扉は近づいてきた。
扉は見るだけで恐ろしかった。
……ああ、だめだ。
……やっぱりだめだ。この扉だけは。ここにだけは入りたくない。ここを開けたら、なにもかも終っちまう気がする……。
ここで立ち止まったら、またあの幽霊男が現れるのだろうか。俺は、ぎょろぎょろと目だけで左右を見回した。あいつはいないようだった。
今だ。早いうちにここを逃げだそう。
しかし、体はいよいよ自由にならなくなってきた。俺は再び、ぎくしゃくと後ろ向きになろうとした。するとまた、声が聞こえたのだった。
「……だめだよ」
さっきの男とは違う声だった。やはり誰かいたと思うと、振り向くのが怖かった。しかし、その声はどこかで聞いた声のような気がした。俺はおそるおそる体を動かし、振り向いた。新しい人影を見て俺は驚いた。この男を確かに見たことがある。
相手を凝視してしばらく考えているうちに、俺の心にひとつの名前が浮かんだ。
……井ノ原。
名前を思い出すと、あとはするすると思い出した。
そうだ、こいつは井ノ原という名前だ。俺たちのクラスの担任だったじゃないか! ……なんでそんなことがすぐにわからなかったんだろう!
俺は、さっき教室で見た、あの……、坂本とかいう教師なんか知らない、でも井ノ原ならよく知っている。
井ノ原は新任の若い教師だったので、俺たちはずいぶん井ノ原をからかったりバカにしたりしていた。それでも井ノ原はやさしい男で、生徒と口げんかしながらもけして本気で怒らなかった。俺はそんな井ノ原が嫌いじゃなかった。
「……い・の・は・ら」
どうにか声に出して、俺は相手を呼んだ。井ノ原が俺をじっと見返した。そうだ、確かに井ノ原だ。
知った相手だったので、俺はほっとした。俺は井ノ原に、今日俺に起こった理不尽なできごとを話したくなった。きっと井ノ原ならそれをわかって、今目の前に迫った恐怖から、俺を助けてくれるだろう。
俺は、井ノ原に、どうにか話し始めた。
「い・の・は・ら・お・れ・きょ」
ちくしょう、舌がもつれてうまく話が出来ない。
「……と・・て・・も・・へ・・ん・・な・・」
これだけしゃべるのも時間がかかった。これではとても、井ノ原に、今日俺に起こったできごとを全部話して聞かせることなんてできない。
しゃべれないとだんだんに俺は自分がもどかしくなり、また、さっきから起こったたくさんの妙なことを思い出すと、俺は悔しくて涙が出そうになった。井ノ原は、黙って俺が何を言うのか待っているようだった。俺は、顔を上げて、向こうの扉を見るようにした。
「あ・・れ・・」
行きたくない。あの扉に入りたくないんだ。入ったらきっと恐ろしいことが俺を待っている。そう言いたいけれども、俺にはこう言うことしかできなかった。
「・・こ・・わ・・い。 だ。・・か。・・・ら」
そのとき俺は、井ノ原も、泣くみたいな顔をしていると思った。
俺の言ったことがわかったんだ。
俺の胸に希望が湧いた。井ノ原が俺を助けてくれる。俺を連れて、明るい外に連れ出してくれるに違いない。
だが、次の瞬間、井ノ原はもう、無表情になっていた。いや、最初から無表情だったのかも。安心した俺が勝手に見間違えたんだ。井ノ原は、冷たい声で言った。
「だめだよ」
俺は驚いて井ノ原を見つめた。
「怖くてもだめだよ」
そう言うと井ノ原は、はっきりと、その扉を指さした。
「行くんだよ、あそこに」
俺は、まじまじと井ノ原を見た。そして、やっとわかった。
……ああ、そうだ。こんなところに井ノ原がいるわけがない。
こいつも、きっと井ノ原じゃないんだろう。さっきのヤツみたいに人間じゃないんだろう。
俺はもう一度井ノ原に似たものを見た。それから、ゆっくりと首を回して扉を見た。
「……わかったよ」
と俺は言いたかった。
「わかったよ。どうしてもあそこに行けって言うんだな。じゃあ、言うとおりにしてやるよ」
憎々しく、そう言ってやりたかった。
だが、むろん、俺の口はもう、そんなにたくさんのことは話せなかった。
俺は黙ったまま、どうにか足を動かして向きを変えた。最後に俺は、目の端で井ノ原に似たヤツを睨もうと思った。だけどそれももう、たいへんな苦痛だった。
やっと目の端で捕らえた井ノ原は、我慢するような顔で俺を見ていた。そして、口を開き、なにか言おうとした。だが、その言葉はもう、俺の耳に届かなかった。
のろのろと、ぎくしゃくと、自棄になって、扉までの短い距離を、俺は歩いた。もう、数センチずつしか足が動かないし、それだけでも体中がミシミシ言うくらい痛いんだ。泣こうという気もないのに、苦痛で涙が出てしまうくらいに。
扉が目の前になった。俺はおそるおそる手を伸ばした。
俺はそっと扉に触れた。その手から、生き物に触ったような不思議な感触が伝わってきた。ぞっとして、俺は扉から手を離した。
全身から冷たい汗がふつふつと出てくる。やっぱりあんな奴らの言うとおりにしちゃいけなかった。逃げるんだ。逃げるんだ。逃げるんだ。逃げるんだ。ここに入るくらいなら、あいつらにどうされたってよかったじゃないか。どうして俺はもっと逃げようとしなかった。ああ、俺はなんでこんなところに来てしまったんだろう……。
けれどもいつのまにか、俺のなかには、別の感情も湧いてきていた。
あきらめ、だろうか。それとも、他のなにか……?
……もう、いい。
俺はそう思ったのだ。すると、苦痛がほんの少し軽くなったような気がした。
もういい、わかってる。この扉を開く以外に、俺に行くところはない。
俺は、再び扉に手を掛けた。手の感覚はすでになくなっていた。扉は引き戸だった。今の俺の力でこの扉を引けるだろうかと思った。しかし、俺が渾身の力を込めて引くと、それは開いた。
はじめ、中は暗く、なにも見えなかった。
だが、なにかがあるのは確かだった。……なにが?……
俺は、ぎくしゃくと、扉の中に足を踏み入れ、壁を指でたどりながら先に進んだ。
いつのまにかうしろの扉は閉まったようだった。暗い部屋。暗いけれども、なにかがある。俺は操られるようになかに進んだ。
やがて俺は、部屋の上のほうになにかが渦を巻いているのに気がついた。
それは、教室の黒板に見えたものと同じだった。
まるで夜空の銀河みたいにそれは渦を巻いていた。長い間俺はそれを見上げていた。なんだかとてもきれいだった。
だが、それはやがてまわりの空気に溶け込むように薄れ、見えなくなった。
渦巻きが消えてしまうと、あとはもう、なにひとつ見えない暗闇となった。
急に、心臓をぎゅっと掴まれた気がした。
自分がどうしたのか、いままでどこを彷徨っていたのか、それがおぼろげにわかってきたのだ。
暗闇の中にいるのは俺ひとり。もうここには誰もいなかった。
……そのときだった。
俺は、はっとして顔を上げた。
なにかが起こった。
顔を上げると、そこにごく細い光の線が見える。
最初それはただのバラバラな光の線だった。
しかしすぐに線はつながり、見る間にぐんぐんと光の面が広がってきた。
俺は呆然とそれをみつめた。
部屋が開く。……そうだ、まるで箱が開くように、部屋の壁がゆっくりと四方に開いていくのだ。
そして開いたところからは、あふれるほどの光が降りそそいでいた。まぶしい。
今や、部屋に天井はなかった。壁もなかった。窓から見えた木々がすぐそこにあった。風が吹き抜けてきて、髪が揺れた。
俺は、身動きできずに棒のように突っ立ったまま、その景色を眺め下ろした。
木々の合間を歩いている女性がいた。よく見るとおふくろみたいだった。緑の合間をひとりで歩いているおふくろは、とても若く、幸せそうに見えた。まるで、これから恋人に会いに行くかのように。
世界が今、俺の目の前で生まれていくようだった。
長い間外の景色に見とれていた俺は、やっと気がついた。部屋の奥に(部屋の壁はなくなったのだが、床はそのままちゃんとあったのだ、)白いベットがあり、それを取り巻くように数人の男達が立っていた。
最初に、後ろにいる人影が三宅と岡田なのがわかった。それからベットの両脇にいるのが、人形のように色の白い男と、井ノ原なのに気がついた。
だがもうひとりいる。真ん中に、俺の一番近くにいる男。
はじめ逆光で顔がよく見えなかった。
しだいに目が慣れ、やっと男の顔が見えてきた。
ああ。
わかった。
あの、坂本という教師だ。
三宅と岡田は制服、井ノ原は見慣れたスーツ姿だったが、色の白い男と坂本は、白衣を着ているようだった。
5人は、俺の方を向いて立っていた。
「待ってたよ」
誰かが言った。……井ノ原?
俺は男達のほうを見つめて立ちつくした。みんなの表情は見えないが、いつのまにか瞳から涙があふれてきた。
……俺はこの世界にいる。ひとりではなく、この男達といっしょに……。
俺は目を覚ました。
はじめ、俺の頭の中は混乱していたが、徐々にわかってきた。俺はいろんな管を取り付けられて、病院のベットに寝かせられているのだった。体中が痛かった。
やがて看護婦がやってきて、俺が目を覚ましたことに気がついた。
すぐに医者も駆けつけて来た。
それは、あの坂本という男だった。俺は驚いたが、なんとなく予感はあったような気もした。
やがておふくろも飛んできた。おふくろはなんだか痩せて、年取ったように見えた。夢の中で見たのと大違いだ。だが、おふくろは俺を見ると「よかった」と繰り返して、泣いた。
それから看護婦が、よその人のことでも話すように、俺に話をした。俺はバイクで登校する途中、飛び出した子どもを避けようとしてクルマにぶつかったんだと言う。
そして俺は、手術から一週間近くも意識を取り戻さなかったということだった。
「このまま目を覚まさないかと思った」
おふくろは泣きながらそう言った。俺はただそれを聞いていた。
坂本の他に、長野という医者も俺を診にやって来た。おふくろはふたりにしきりに頭を下げた。このふたりが俺の手術を執刀したらしい。ふたりは俺を見ながらなにごとか話していたが、やがて長野のほうが、おふくろに、もう大丈夫だから一度引き取るようにとやさしく言った。そのとき、俺は、長野というのが、あの色の白い男だと気がついた。
俺は日ごとに回復し、じきにベットも、集中治療室から、普通の病室に変わることが出来た。
見舞いが解禁になるとすぐに、担任の井ノ原とクラスメートの三宅と岡田がやって来た。井ノ原は相変わらず教師の癖にバカみたいなことばかり言って、三宅と口げんかした。それを聞いて笑うと体中が痛くなった。
「笑わせんなよ。こっちは大怪我してんだぞ」
「笑うのは体にいいんだよ、剛。なにがあってもハッピーフェイス、ね」
こっちは本気で痛いのに、三宅は気楽にそんなことを言う。
岡田も止めてくれればいいのに、脇でにこにこ笑っているだけだ。ちっとも頼りになんねえ。
三人はしょっちゅう見舞いに来るので、いつのまにか看護婦や医師の長野と仲良くなった。
長野は、いつも笑顔で気さくに誰とでも口をきいた。長野は俺にもなにかと声をかけてくれる、やさしい医者だ。
だが坂本というほうの医者は、年頃は同じでも、長野とはタイプが正反対だった。無口で、こわもてだ。さすがの井ノ原や三宅も、坂本が病室に入ってくるとおとなしくなった。
ある日坂本が出ていくと、三宅は俺に、
「あのお医者さん、怖くない? なんであんなに俺たちのこと睨むんだろ」
と言ったことがある。俺は答えた。
「あれは別に睨んでるんじゃねえよ。そういう顔なんだよ」
俺の主治医は、長野ではなく、坂本のほうだった。
季節は春から夏へと変わろうとしていた。
今朝も、坂本は、看護婦を連れて俺を診にやって来た。顔はちょっと怖いかも知れないけど、坂本はこまめに患者を見てまわった。
俺の脚を見て、坂本は、いつもの仏頂面で、もうすぐギプスが取れると言った。
天気が良かった。俺が窓の外に目をやると、坂本は気がついて、窓を開けてくれた。
風が入ってきた。気持ちがいい。
俺は思わず坂本に言った。
「先生の手、見せてくれる?」
なんと思ったのだろう。坂本は問い返しもせずに俺に手を差しのべた。俺はその手を取って、じっと眺めた。
もしかするとこの手が、俺が暗い闇に落ちないように腕を掴んでくれたのかも知れないと思ったのだ。だがむろん、あれが誰の手だったかなんて、わかるはずもない。
「……ありがとう」
そう言って、俺は坂本の手を離した。坂本はなにも言わなかった。
「森田くん、もうじきよくなるわよ」
回診記録をつけていた年輩の看護婦さんが、俺に声を掛けてくれた。
「はい」
俺は窓の外を眺めた。
「どうした、なに見てる」
坂本が尋ねた。
俺は坂本を見上げた。
「別に。きれいだなと思って」
「……ふうん?」
坂本がちょっと疑うような声を出して俺を見たので、俺は、冗談のようににやっと笑った。
そうだ、俺の生きる世界は美しい。いつまで見ても見飽きないくらい。
しかし、それでも、この世界には、恐怖と苦痛の夜もあるのだ。
だが俺にも今は、恐怖という扉の価値が、わかるような気がしていた。
なんかわかんない話でしたね〜。すみません。
えっとですね、実はわたしにもこの話で書きたかったことがひとつふたつあるのですが、ひとつには、患者というものはステキなお医者さんを好きになってしまうことがよくあるという……。(はあああ?)
(2001.9.2 hirune)
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