僕と繭子は、並んで温室に向かった。
屋敷のまわりは草が伸び放題だった。いや、見回せば、屋敷全体がちっとも手入れされていなくて、どこもかしこも傷んでいた。
「荒れてしまったでしょう」
僕の表情に気づいたのか、繭子が言った。
「英郎さんは人嫌いだし、家のこともまるで気に留めません。……蝶のことしか頭にないんです」
「……」
「それでわたしも、なにも気にならなくなってしまいました」
そう言う繭子は、どういうわけか足袋を履いていなかった。繭子は素足に黒塗りの下駄を履いて、雑草を踏んだ道を歩いていた。ちらちらと着物の裾からのぞく白い小さい足が、確かになにも気にならなくなってしまった人のようで、しどけなく、なまめかしかった。
「あ」
なにかにつまずいて、繭子がよろけた。僕は繭子の体を支えた。繭子は僕にしがみついた。しばらく僕たちはそのまま立ち止まった。
やがて、繭子はハッと振り向いた。
「?」
僕は不思議に思って繭子の振り向いた方を見た。
「あのお婆さん」
繭子がつぶやいた。
「見張ってるの、わたしを」
僕は目を凝らしたが、誰もいるようではなかった。しかし、繭子は言った。
「いつも、いつも……。でも」
「……」
「もうわたし、ちっともかまわないわ」
そして繭子は僕の腕を離した。
巨大な円筒の温室は、もう僕たちの目の前だった。
繭子は黙って僕の先に立ち、その扉を開けた。
扉の中は、外とは別世界だった。濃い緑に包まれた、むせかえるような熱気、湿気、臭気。外は秋の寒さだったのに、ここは曇りガラス越しの光がなまあたたかかった。
通路の両脇には面白い形の実のなった植物が茂り、上を見れば、東南アジアの密林そのままに、高さが30メートルもあろうかという、太い葉脈の葉をつけた高木が枝を生い茂らせている。
足元に腐食した落ち葉が積もっているので、下駄の繭子は歩きにくそうだった。ぼくは、繭子の手を握った。
僕たちの歩みと共に、人の気配に驚いたらしい原色の蝶が、樹や花の陰から現れてはあたりを舞った。
それは、美しいと言うよりも、誰かの夢に入り込んだかのような、不思議な気分にさせられる光景だった。僕は、繭子の手を握った手に力を入れた。蒸し暑い温室の中で、僕たちの握りあった手はじんわりと汗をかきはじめた。
「……ほんとうのジャングルみたいだ。すごいね」
かすれた声で僕は言った。
「この木がなければダメなのですって」
繭子も、かすかな声でそれに答えた。
「この樹の葉だけを食べて育つ蝶の幼虫がいるのですって」
そのあたりからは、どういうわけか急に木の根もとの落ち葉が掃き清められていた。床面は、植物を植えるために土がむき出しになったところと、コンクリートで打った通路が入り交じっていた。
僕はふと、温室の壁面に、鉄筋の階段がついているのに気がついた。
「階段があるんだね」
階段は、温室の壁面を大きくぐるりと巡るようにして、一番上の方にまでついていた。そして、よく見ると、天井近くには、温室の上部を突っ切るような細い通路があるのだった。
「あんな高いところに」
僕が言うと、
「樹や幼虫の手入れをするためですわ」
繭子が言った。その声がかすかに震えていた。
「……英郎さんは、蝶のためならなんでもするんです」
「あそこからだと、どんなふうに見えるんだろう」
「……」
「これだけの温室だ。上から見下ろしたらさぞや壮観だろうね」
「……」
僕は、興味が湧いた。一度だけ、その光景を見てみたくなった。
僕は、繭子に、ちょっとだけ上に上ってみると言って階段を上り始めた。
しかし、僕が階段を上り出してしばらくすると、繭子もあとをついて来た。足元があぶないから下においでと声をかけると、繭子は一度止まり、下駄を揃えて脱いで、裸足になって階段を上り始めた。それを見ると僕は、引き返してまた繭子の手を握った。僕たちはまた、ふたりして階段を上り始めた。
僕と繭子はなにも言わずに長い階段を上り続け、そしてとうとう、温室の中を見下ろす階段の行き止まりにたどりついた。
目の前には、温室の上部を突っ切る、細い鉄柵のついた通路があった。その通路を歩いたら、ジャングルの上を綱渡りするような感覚がしそうだった。
僕はもともと高所を怖がるたちではなかった。むろんほんとうの綱渡りならごめんこうむるが、これはちゃんと柵のついている通路なのだから不安はなかった。その通路を中央まで行ってみたくなり、僕は繭子の肩から手を離した。しかし、僕がその通路に足を踏み出すと、繭子が後ろから小さい、必死な声を出した。
「危ない! 博さん、やめて」
見ると、繭子は青ざめた顔で僕をみつめていた。繭子はひとりではそこに立っていられないようだった。
「怖い?」
僕が尋ねると、繭子は小さく首を縦に振った。
その真剣な様子がおかしくて、僕は笑った。
「ちょっとだけ待ってて。なにも怖いことなんかないから」
僕は歩き出した。
しばらく行くと、木の先端が近くなった。こんな南国の高木を上から見るなんて、滅多にできる経験ではなかった。しかしそのとき、黒地になにかの模様の浮き出た蝶が急に舞い上がってきて、僕の目の前を横切った。突然だったので、僕は驚いて少しよろけた。
「……博さん!」
繭子の声が聞こえた。
「だめ! 早く戻って! ……蝶が……!」
繭子の声はうわずってきて、よく聞こえなくなった。
「え?」
僕は繭子のほうを振り向こうとした。
そのときだった。繭子の叫び声に反応したかのように、目の前の木の、肉厚の葉の群れが、生きているようにざわざわと動き出した。
不審に思って見つめると、次の瞬間、樹の陰から、数百匹もあるような蝶の群れが、いっせいに飛び立ってきて僕を取り巻いた。
「うわ!」
蝶に襲われるような気がして、僕は目をつぶりあわてて鉄柵につかまった。繭子の叫び声が聞こえた。
「博さん……!」
しかし、蝶たちは、無断闖入者を検閲するようにひととおり僕の周りを舞っただけで、すぐに温室のあちこちめがけて飛び散っていってしまった。
僕はほっとして、温室の木々や花の中を舞いだした黒地の蝶を見下ろした。その蝶はいろんな蝶の中に混じってもひときわ大きく、目を引いた。
気がつくと、駆け寄ってきていた繭子が僕の腕につかまって震えていた。
「どうしたの、こんなに震えて。ただの蝶じゃないか」
僕が言うと繭子は顔を上げた。うるんだ瞳が、いまにも泣き出しそうに僕を見つめる。
「怖かった……」
繭子がつぶやいた。僕は、そっと繭子の肩に手を置いた。
「ごめん、驚いたんだね」
「……博さんがもしここから落ちたらと思うと……、ほんとに怖かったの」
繭子の肩は小刻みに震えていた。
落ち着かせようと、僕は繭子を抱きかかえて座らせた。
そのとき、繭子の、かすかなつぶやきが聞こえた。
「だって、英郎さんはここから落ちて死んだのですもの……」
僕ははっとした。
「そうだったのか……」
確かに、それなら繭子がこんなにまで怯えるのもあたりまえだった。
「博さん……」
繭子の白い小さな手が、僕のシャツの袖を爪を立てるようにして固く掴み、繭子は、涙を浮かべた黒い瞳で僕を見つめた。そして、さっきまでのよそよそしさとは別人のように、苦しげな声で僕に言った。
「博さん。……わたし、ずっとあなたに会いたかったの。会いたかったのよ……」
「……」
「どうして会いに来てくれなかったの。十年も……」
「……」
「十年もよ。ねえ、どうして」
僕は、しかたなく返事をした。
「繭子。どうしてって、そんなこと、あたりまえだろう」
「……」
「英郎と結婚してしまった君に会いに、僕がおめおめとここに帰ってこられるわけがないじゃないか」
「そんなこと……」
繭子の口元がゆがみ、繭子の瞳からは、大粒の涙があふれだした。
「そんなこと……」
「そんなことって」
僕は言い返そうとした。僕を捨て、英郎と結婚したことは、僕に対する繭子の重大な裏切りだ。それを、「そんなこと」などと誰が言えるだろう。しかし、繭子は僕の言葉など耳にも入れずに言い続けた。
「……そんなこと、関係ないわ。たとえ英郎さんと結婚しても、わたしが好きなのは博さんひとりよ。そんなこと、あたりまえでしょう」
「……」
「博さんはあのとき、いつかわたしを迎えに来るから待っているようにと言ってこの屋敷を出て行ったわ」
「……」
「うれしかった。わたし、博さんがここに来るまで、誰からも相手にされない子どもだったんだもの。いつも、バカだの汚いだのって言われてた」
「……」
「でも博さんだけは違った。博さんがやさしくわたしを見て話しかけてくれたから、わたしは変われたの。みんなに嫌われる芋虫みたいだったわたしが人間らしくなれたのは、みんな博さんのおかげなのよ。だから、博さんはわたしのたったひとりの大事な人」
「……そんならなぜ、君は英郎と結婚してしまったんだ……」
僕はついに、心に秘めた苦しい問いを繭子に問うた。繭子はじっと僕を見ながら、困惑したように答えた。
「だって博さんとわたしは、住む世界が違うから」
「なんで。僕たちはふたりとも身よりのない……」
「だってそうだもの。博さんはいつも、ここから外へ出ようとしていた」
「……」
「わたしいつも怖かったの。博さんはそのうちわたしになんか興味を失うと思ったから。英郎さんもそう言ったわ。博みたいに頭のいい人間は東京から帰ってきたりしない、おまえみたいな一文無しの田舎娘と結婚したりはしないって。それを聞いてわたし、その通りだと思ったわ。……それから英郎さんはわたしに、おまえは一生この屋敷で暮らすしかないんだ。俺と結婚するしかないんだって言った」
「……」
「それにね、そのとき英郎さんは、わたしが英郎さんと結婚したら、自分はもう博さんからお金を返してもらわなくてかまわないと言ったのよ」
「……金……?」
「そうよ、博さんのご両親が英郎さんのお父さんに借りていたお金がある上に、博さんの養育にかかったお金だの、高校へ通わせてあげたお金だの、英郎さんが博さんから返してもらわないとならないお金は、利子をつけたらたいへんな金額になるんですって。わたしが英郎さんと結婚したら、博さんはそれを返さなくてよくなると英郎さんは言ったの。わたしみたいななにもできない人間が、英郎さんと結婚するということだけで博さんのためにそんなことができるなんて……。博さんが東京で成功したいと思っているの、わたし、知ってたわ。成功するためには、お金を返すことなんか考えていてはとてもできないってこともわかってたわ。ね、だから……」
僕は驚愕して繭子をみつめた。だが繭子は、どこか得意そうに微笑んだ。
「だってわたし、博さんのことが好きだったんだもの、あたりまえだわ」
「繭子……」
あまりに複雑な思いに、僕にはそんな繭子を痛ましく見返すことしかできなかった。
「博さんと結婚できなくても、博さんのためになれば、わたし、それでよかったの。繭子は博さんを好きだという、それだけでよかったの」
「繭子……。だって結婚というのは……」
僕は喉から声を絞り出した。しかし、繭子はただ、僕の反応に困惑したように僕をみつめるだけだった。
蝶が幼虫から成虫に変わるように、子どもから少女へと、繭子は美しく成長した。
僕はふと、英郎はそんな繭子に気がつくと、美しい珍しい蝶を自分だけのものにしておきたくなるのと同じ気持ちで、繭子をこの屋敷に閉じこめておきたいと思ったのではないかと思った。
英郎が言ったという、僕の両親の借金というのは、嘘かも知れないし、ほんとうかも知れないが、それにしても、両親とのつつましい暮らしを思い出せば、たいしたものではないことは確かだった。
それに僕の養育費ときては。……この屋敷に来てからの生活は、僕のほうが給金を支払って欲しいくらいのことだった。
高校へ通うための金だって、大学を続けながら、少しずつ返せない金額ではなかっただろう。
僕は唇をかみしめた。
繭子を異性と見るようになってから、僕はこの繭子の幼さに気づかなくなってしまっていたのだ。
この屋敷で生まれ育った繭子は、僕の想像以上に幼く無知で、世間知らずであったのに、僕自身もあまりに若く、性急だったから……。
「それがいいと思ったのよ、そのときは。……わたしなんかが博さんの役に立つのなら」
繭子は目をそらし、つぶやいた。しかし、そういう繭子の声には、後悔の色がにじみ出ていた。
「でも、それから、博さんはここに帰ってこなくなってしまった。手紙一通来なかった。そんなことになるなんて思わなかった」
「……」
「わたし、ずっとおそれていたとおり、ほんとうに博さんに見捨てられてしまったの。それだけを怖がってたのに。そんなに簡単に。なんの言い訳もできないうちに……」
「……」
「そうなってわたし、博さんのためになるならそれでいいと、本気で思ってたわけじゃないとわかった。……わたし、博さんにありがとうと言われたかったのかもしれない。そして、もっと博さんの愛を得たかったのかもしれない。博さんがけしてわたしから去らないように……」
「……」
「でももう、遅かったの。博さんは二度とここに来なかった。博さんがどこにいてなにをしてるのか、そんなことさえわたしにはわからなかった。……知るすべもなかった」
「……」
「英郎さんはわたしになにも知らさなかった。それまで雇ってたわたしの顔見知りの人たちも辞めさせてしまって、新しい人たちに替えてしまったわ。わたしはきれいなものを着て、ただ屋敷の中にいればよかった。わたしが働いていると英郎さんはとても嫌な顔をしたわ。自分が下働きの小娘だったことなんか忘れなきゃいけないと言った。屋敷の外に出てもいけないし、なんにもしちゃいけないの。……この温室を作らせてからは、英郎さんは温室にいりびたって、よくわたしを自分のそばに置いて置いたわ。そんなとき、わたしはぼんやり、英郎さんが蝶の世話をするのを見ながら、いつも、博さんのことを考えていたの。英郎さんと結婚してからわたし、いつも、博さんのことだけを考えていたわ。……頭がおかしくなるくらい……」
「……」
「そして、一ヶ月くらい前のこと。その日もわたし、英郎さんに連れられて、この温室にやって来たの。いつもどおり英郎さんはわたしを下に置いて、蝶の世話のために、ひとりでここに上ったわ。ところがどういうわけか、その日は、わたしも英郎さんのいるところまで上る気になったの。そのときに限ってなんでそんな気になったのか、自分でもわからないけど。わたし、今日みたいに下駄を脱いで、階段をひとりで一段一段ゆっくり上ったんだったわ」
「……」
「わたしがやっとここにたどりつくと、英郎さんは、ここから下を見おろしていた。ときおり、あの、黒いだんだら模様の蝶が舞っていたわ。わたしがこんなところまで来ることなんてはじめてだったので、英郎さんは驚いてわたしを見たわ」
「……」
「そのときわたし、気がついたの。よく見えない樹のてっぺんの陰に、蜘蛛の巣が張っているのを。そしてその蜘蛛の巣に、その、だんだらの蝶が一匹、かかってしまっていたの。英郎さんが一番大切にしてる、あの蝶が。だからわたし、それを英郎さんに教えてあげようと思った」
「……」
「蝶が蜘蛛の巣にかかっていることを教えると、英郎さんは血相を変えたわ。大事な蝶が蜘蛛なんかに食べられたらたいへんですもの。そして英郎さんが蜘蛛の巣を見つけようと精一杯手すりから身を乗り出したそのとき、わたし急に」
「……」
「そうよ、急に思ったの。英郎さんが亡くなったら博さんは帰ってくるんじゃないかって。叔父さんが亡くなったときも、おじいちゃんが亡くなったときも、博さんはちゃんとここに帰ってきてくれた。だから、英郎さんが死んだら、博さんはお葬式に来てくれるんじゃないか。そうしたら博さんにきっと会えるって。そう思ったのよ」
「……」
繭子は口をつぐんだ。
どれだけの時間が経ったろう。僕は、渇いた口を開き、話を促した。
「……それで?」
「わたし、後ろから英郎さんの背中を思い切り突き飛ばしたわ。自分もいっしょに落ちてもいいと思いながら、突き飛ばしたの。英郎さんはぐらりと傾いた。そしてすごく驚いた顔でわたしを振り返って……、次の瞬間には恐ろしい悲鳴を上げながら、下に落ちていった」
「……」
「英郎さんが落ちると、建物が揺れたわ。すると温室中の蝶が全部、樹の葉の陰から飛び出したの。すごかったわ。この温室中をいろんな蝶たちが飛び回ったのよ……わたし……、でも……、ああ……」
繭子はひどい頭痛がするように頭を抱え、うずくまった。
「……博さんに会いたかったんですもの。博さん……」
繭子の指がぎりぎりと腕に食い込んだ。
「やっと会えたわ。うれしい……」
繭子は僕の胸に顔を伏せた。
「ごめんなさい、わたし、やっぱり英郎さんと結婚してはいけなかったのね。わたし、博さんの言葉を信じなければならなかったのね。わたし、わたし……」
「……」
「ほんとにバカだったわ。……わたし、あんまり長い間博さんと会えなかったんで、すっかり頭がおかしくなっていたんだわ。でももう、全部終わったのよ。もう警察も来ないし、英郎さんもいない。……そして、博さんは帰って来てくれた……」
「……」
「博さん、もう離れたくないの。ずっとここにいて。いいえ、わたしをここからつれ出してちょうだい。ね、お願い……」
僕はしばらく黙り、じっと繭子の瞳を見つめた。
「繭子」
僕は言った。
繭子はまっすぐに僕を見つめている。
「繭子」
もう一度僕は言い、それから続けた。
「僕には東京に恋人がいる」
繭子の瞳が大きく見開かれた。
「長い間僕を支えてくれた人だ。もうじき結婚する」
「……」
「だから僕はここにいるわけにはいかない。君を連れて逃げるわけにもいかない」
「……」
しばらくして繭子は、僕の腕を掴んだ指の力を抜いた。
「……わかったわ」
そう言ってから、繭子はおかしそうにくくっと喉を鳴らした。
「驚いたのね、博さん」
「……」
「今の話を聞いて驚いたんでしょう」
「……」
「博さんは昔から慎重で用心深かったもの」
そう言いながら僕を挑発するように見た繭子の瞳は、さっきまでとは別の輝きできらきらと光った。まるで鱗粉をまき散らす蝶のように。
「知ってる? この屋敷を知っている人は、みんなここを蝶狂いの旦那の住む蝶屋敷と呼んで不気味がっていたの。そしてね、英郎さんが亡くなってからは、わたしが夫を殺したんだと噂するようになったわ」
「……」
「下働き風情が玉の輿に乗って蝶のように着飾らせてもらいながら、どこぞに男ができて、邪魔になった夫を殺したんだろうと言うの」
「……」
しばらくの間繭子は、うふふふ、と声を出して笑い続けた。
「英郎さんはここから身を乗り出しているうちに、ひとりで落ちたんだわ。わたし、あのとき下から見ていたんだもの」
「……」
「でも、もう、どっちでもいいの。わたしが殺したんだろうと、英郎さんが自分で落ちたんだろうと」
「……」
「いいの。……博さん、来てくれてありがとう。なつかしかったわ。子どもの頃、裏の汚い使用人小屋で暮らしていた頃のこと、博さんに字を教えてもらったこと。わたし、結婚してからもいつもなつかしく思い出していたわ。それはほんとうよ」
「……」
「わたし、もう、お金のない生活は嫌だったの。ずっとわたしをさげすんできた連中に、わたしを奥様と呼ばせて頭を下げさせてみたかったの。だからいつもこっそりわたしを見ていた英郎さんに、ちょっと声をかけてみたの。結婚する気にさせるのはとても簡単だったわ」
「……」
「博さんわざわざ来てくれてありがとう。どうぞもう、お帰りになって。送らないわ。……わたしはまだここで、考えたいことがあるの」
そう言うと、繭子はふいっと僕から視線をそらし、もう僕の存在などないかのように、手すりにもたれて眼下を飛ぶ蝶に目をやった。
僕にはもう、話す言葉はなかった。
「繭子」
僕は言った。昔から僕は、その名前を好きだった。
「……さようなら」
繭子は答えなかった。
僕は振り返らずに階段を下りた。
階段を下りただけで気温は下がりはじめ、緑の中を抜けて温室から出ると、外の空気に僕は震えた。
僕は少し離れてから温室を振り返った。夕空の最後の光を浴びて、巨大な円筒は赤く輝いていた。
屋敷のほうに戻ろうとすると、そこには、急いで隠れようとして隠れ損ねた手伝いの老婆が立っていた。
「……あんれまあ」
老婆は、そう言って、呆けた顔で僕を見た。
「どうしたの?」
僕は尋ねた。
「なにね、あんまりおめえさまがたが戻らんもんでね。ようすを見に」
老婆はごにょごにょとそんな言い訳を言い、それから僕に、
「おめえさまひとりかね。奥さんはどうした」
と聞いた。
「……奥様はまだあそこに……」
温室を振り返ってそう答えかけ、僕ははっとした。
その瞬間に、温室中の蝶が樹から飛び立ち、繭子のまわりを覆うようにして飛び交っているのが見えたような気がしたからだ。
僕は温室を振り返ったまま呆然と立ちつくした。しばらくして老婆が怪訝気に尋ねてきた。
「おめえさん、どうなさった」
僕は自分を取り戻した。
「いや、なんでもない」
僕は首を横に振った。
「奥様は、まだしばらくあそこでひとりでいたいんだ。邪魔しないでやってくれ」
「……へえ」
老婆は面倒そうにうなずき、それから言った。
「蝶なんて、どこがいいんだかねえ」
「……」
枯れ葉がとめどなく降ってきた。
僕はもう一度だけ温室を振り返った。それから僕は車に乗り込み、夕闇に包まれた森の中の道を戻りはじめた。
いかがでしたでしょうか、博の単独出演の物語でございました。
実ははじめは、女の人は最後に死ぬのだろうというような気持ちで書いていましたが、書き終わった今は、そういうラストではなかったんだな、と感じています。
それにしても、蝶に取り巻かれたりしたら、まーくんだったら発狂してしまったかも(笑)。
2001.11.10 hirune
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