山岸可奈は、今日も黙って教室に入った。
可奈の席は窓際のまんなかへんだった。女の子達のグループが教室のうしろで固まっておしゃべりしていたが、可奈が脇を通っても、その女の子達は誰も可奈に「おはよう」と声をかけなかった。
可奈は黙ってランドセルをおろし、それから席に座った。そのとき急に、うしろから、さっきの女の子のグループのわきたった声が聞こえた。
「森田くん、三宅くん! おはよう!」
クラスの男子の森田剛と三宅健がふたり連れだって教室に入って来たのだった。女の子のグループが、わけもなくくすくすと笑いながらふたりに声をかけた。
「おはよう、森田くん!」
「おはよう、三宅くん!」
「おはよー!」
その挨拶に「おはよ」といちいち笑顔で返事を返す三宅と違って、森田は「おはよーっす」と誰にともなく返事を返しただけで自分の席に向かった。森田の席は可奈の隣だった。だが森田が席にランドセルを置いてから自分を見ても、可奈はなにも言わないで下を向いていた。
「なに、あの人」
うしろで女の子たちが言い合っているのが聞こえる。自分のことだ、と可奈は思った。
「ほんとにやな感じよねー」
そのとき、前の方で話していた女の子のひとりが可奈に気づき、ふいに可奈に近づいて話しかけてきた。
「山岸さん、おはよう」
それは、さっき登校してきた三宅健といっしょにクラス委員をしている、小野こずえという女の子だった。可奈は顔を上げた。
「ねえ、山岸さん。きのうの夜、山岸さん、土手の道を犬を連れて散歩してなかった?」
それを聞くと、もうランドセルをかたづけて森田のところにやって来ていた三宅が驚いたように可奈に言った。
「へえ知らなかった。山岸さんも犬飼ってるの? どんなの?」
三宅は犬が大好きらしく、よく犬の話をしていた。可奈も犬を飼っていると聞いて興味が沸いたようだった。
「犬よねえ、あれ」
最初に声をかけた小野こずえが、あやふやな調子で可奈に尋ねた。
「なんだかよろよろして変な歩き方だったけど、犬でしょう。違う? もしかしてなにか、違う動物だった?」
特別な悪気はないようだった。ほんとうに尋ねている口調だ。だが、可奈は黙っていた。
「山岸さん、黙ってないでなんとか言ったら」
うしろから、別の女の子の声が飛んできた。可奈は唇を噛んだ。
「……それ、あたしじゃない。そんな動物飼ってないもの」
うつむいて可奈は小野に言った。
「……小野さん、見間違えたんじゃないの」
「え、そう?」
可奈の返事に、小野はとまどったような声を出した。
「違ったの? 山岸さんだと思ったんだけど、暗かったし……」
すると、後ろのグループから、また声が飛んできた。
「嘘よ、それ。小野さんごまかされちゃだめよ。三宅くんも森田くんも。山岸さん、嘘つきなんだから」
「……どういうこと?」
小野が、そう言った女の子に尋ねた。その女の子は可奈を横目で見ながら答えた。
「あたし、山岸さんが引っ越してきた日、見たんだもん。トラックから降りた山岸さんがすっごく汚い犬を抱いてるのを」
「……」
「あんまり妙な犬で覚えてたから、次の日山岸さんが転校してきてすぐわかった。あの変な犬抱いてた人だって。それで、あなた昨日すごく汚い犬抱いてたでしょ、よくあんなのさわれるわねって言ったのに、山岸さん、そのとき、そんなこと知らないって言ったのよ。でも絶対にそれ、山岸さんだったんだから」
「そうなんだって」
そのグループの女の子達はみんなその話を知っていたらしく、みんなでうなずきあって可奈を見た。
「信じられない」
「なんで嘘なんかつくの」
「正直に言えばいいのに」
可奈は黙った。森田も三宅も自分を見ているようだった。そのときうしろのドアから、クラスの男子がふたり、息を弾ませて教室に駆け込んできた。
「なにやってるん、剛くん、健くん。このままじゃ2組に負けてまうで!」
そう言ったのは、大きな瞳のくりくりした岡田准一で、
「さっきランドセル置いたらすぐ来るって言ってただろう! 早く来いよ!」
そう言ったのは、クラスでも兄貴分の井ノ原快彦だった。
「あ、そうだった」
「今行く!」
言われて思い出したらしく、森田と三宅はすぐに教室を飛び出して行った。
あとに残った女子達は、可奈を見てまだうしろでなにかひそひそと話をしていた。
その視線を背中に感じながら、別にいいもの、と可奈は思った。わたし、ひとりきりでも平気だもん。
可奈はこの学校に転校してきてまだ一週間だった。可奈はもう誰ともしゃべらず、ただ身を固くしてじっと座っていた。
それから何日かして、学校帰りの森田剛は、近所の動物病院のドアを誰かが叩いているのを見かけた。それは小学生の女の子で、女の子は、「すみません、すみません」と言いながら、病院のドアを叩いているのだった。
立ち止まって見るとそれは、先日転校してきて森田の隣の席になった山岸可奈という女の子だった。森田はちょっとだけ、山岸可奈が必死で動物病院のドアを叩いているのを見つめてから、山岸可奈に声をかけた。
「なにやってんだよ、おまえ」
その声に可奈は振り向いた。しかしそれがはげちょろけのランドセルを背負った、隣の席の森田だと気がつくと、可奈は急に黙ってしまった。
「それ、おまえの犬?」
森田はすぐに可奈が抱いている犬に気がついた。だが可奈は、森田からかばうように犬を抱いたまま向こうを向いた。
「見せろよ」
犬を見せまいとする可奈の手をどけて森田が無理に見ると、可奈の抱いた犬は老いさらばえて毛がまばらにしか残っておらず、しかも背骨が妙に曲がってしまっていて、一見すると犬だかなんだかわからないほどだった。
森田は、クラスの女の子達が言っていた、可奈が嘘をついているという話を思い出した。この犬が、小野こずえの言っていた、「犬だかどうかちょっと見にはわからない動物」だろうと思った。
森田が犬から顔をあげると、いつもおとなしい可奈が、にらむように森田を見ていた。
「……汚いでしょう。よくさわれると思ったでしょう」
小さな声だが、怒った声で可奈が言った。森田はそれには答えず、病院を見て、
「誰もいねえみたいだな。呼んでもだめだよ」
と言った。
それを聞くと、可奈はどうしていいかわからないような顔になり、うつむいた。
「……これ、おまえの犬か」
森田がたずねた。可奈は、ためらいながらうなずいた。
「見せろよ」
森田は犬を抱き上げて自分の腕に抱いた。痩せた小さな犬は、森田の腕のなかでもぐったりとして動かなかった。犬はべろを出し、息とともに腹だけが動いていた。
「コロが……」
それを見ると、可奈は、今まで我慢していた言葉をやっと口に出した。
「コロが死んじゃう……」
そう言うと山岸可奈は泣きだしそうな顔になった。
「バカ泣くな」
森田が怒鳴った。怒鳴られて、可奈はびくっとしたように泣くのをやめた。
「隣町の病院ならやってるよ。すぐ連れてってやるから、ちょっと待ってろ」
森田は犬を可奈に返し立ち上がると、もう一度、
「絶対ここで待ってるんだぞ!」
と言って駆けだした。
可奈がそこにいると、森田はほんとうに2,3分でやってきた。ランドセルを置いて自転車に乗ってきた森田は、自転車から降りないまま、可奈に怒鳴った。
「乗れよ!」
可奈はあわててコロを抱えて自転車の荷台に座った。可奈が座るとすぐに森田が自転車を漕ぎだし、また怒鳴った。
「しっかりつかまってろよ!」
可奈は夢中で片方の手で森田につかまった。そして、もう片方の手ではコロをなるべくやさしく抱いた。コロは可奈の腕の中で目をつぶり、じっとしていた。
「コロ、コロ……」
可奈は、つぶやいた。
「コロ、ごめん。コロ、ごめん……」
森田の自転車は坂を上り、隣町との間にある幅の広い鉄橋を渡った。そこから見えるのは、可奈が前住んでいた田舎町とは全く違った風景だった。鉄橋の下には大きな川が流れているのが見え、川沿いには工場が建ち並んでいた。自転車の脇をトラックがびゅんびゅん通るのが怖かったが、目の前の森田は可奈を乗せて力強く自転車を漕いでいた。可奈は、黙ってコロに顔を寄せた。
「もう少しだからな」
森田が言った。鉄橋を渡りきって下り坂を緑の並木のある通りに曲がり、しばらくして、クリーム色の建物の前で森田は自転車を止めた。
「ここだよ」
建物のドアに、「長野動物病院」と書いてある。コロを抱いた可奈はそのドアに飛び込んだ。
診察時間中ではないのか、待合室には誰もいなかった。だがふたりがドアを開けた気配に気づいて、奥の診察室からやさしそうな男の人が出てきて尋ねた。
「どうしたの?」
まだ若そうだが、白衣を着ているのでこの人がお医者なのだろう。
「コロが、コロが」
可奈がそれだけしか言えないでいると、
「どれ」
若いお医者はそっとコロを受け取ってしばらく眺めた。
それからお医者はコロを抱いて診察室に入り、コロの様子を見たが、やがて、
「抱いててあげて」
とコロを可奈に返した。
渡されて、可奈はコロを抱いた。
「すごく年を取ってるね。ずいぶん大事にしてきたんだね」
お医者が言った。可奈がなにも言えないでいると、コロが目を開けて可奈を見た。なんだか子犬に戻ったみたいにかわいかった。
可奈を見て、アウン、とコロが鳴いた。
それからコロは目を閉じた。息とともに動いていたコロの腹も、急にぱったりと動かなくなった。
「コロ!?」
驚いて可奈は叫んだ。
「コロ!」
お医者はコロにさわって、悲しそうに首を横に振った。
「よくここまでがんばったと思うよ」
「コロ……」
動かないコロを抱いて、可奈はどうしていいかわからなくなった。
「コロ、ごめん……」
可奈は何度もごめんを繰り返した。
「コロ、ごめん。ごめんなさい……」
「なんで謝るの?」
医者がやさしく尋ねた。可奈は顔を上げられずに泣きながら言った。
「わたし、嘘を言ったの。コロのこと知らないって嘘を言ったの」
医者は、話がよくわからないように首を傾げて可奈を見た。森田も黙って可奈を見ていた。
「わたし、コロにひどいことをした。コロはずっと散歩に行きたがってたのに、わたし、誰にも見られたくないから明るいうちは外に出なかった。夜になってやっとちょっとだけ散歩に出たの。わたし、もっとずっとコロといっしょに散歩してあげればよかった」
泣きながら可奈は言った。
「コロ、ごめんね。コロ、わたしのこと怒ってる……」
だがお医者は首を横に振った。
「大丈夫。そんなことないよ。コロちゃんは君を大好きだったんだよ。君が泣いたらコロちゃんも悲しいよ……」
痩せた小さいコロはきれいなバスタオルにくるまれた。お医者はなにもしなかったからと言って、お金を取らなかった。小さなコロは、森田の自転車のかごに入ってしまった。それを見ると、森田と可奈はふたりとも自転車に乗る気にならなくて、歩き出した。
「コロ、ごめん……」
可奈は何度もかごのなかのコロに言った。いろんな気持ちがうずまいて涙が出た。でも、今、その気持ちを言いたかった。可奈は、森田を見ないで、自分に言うように小さな声で言った。
「こっちの学校は大きくて……、クラスのみんなもはきはきしてて、前の学校といろいろ違ってて……、でもわたしお母さんに心配かけずにしっかりやろうって思ってたの。みんなとなかよくしたかったの。すごく、すごくみんなとなかよくなりたくって……、それなのに、コロのこと汚いって言われたとき、嘘をついたの。……わたし、嘘つき。大事なコロのことあたしの犬じゃないって言ったの。ひどい嘘つき……」
ふたりは鉄橋を渡り、来るときは上った坂を下った。可奈は泣きやんだ。学校の近くの風景になった頃、やっと森田が口を開いた。
「……医者も言ったろ。その犬、怒ってねえって」
「……」
「なんとなくさ、オレ、おまえが嘘ついた気持ちわかる気がするよ。おまえ、転校してきたばかりなんだもんな。……オレ、隣の席だったのに……、なにも声かけてやんなくてごめんな」
可奈は唇を噛んだ。また泣きそうだった。
だが、ふたりが最初の動物病院の近くに来たとき、いきなり元気な声が聞こえてきた。
「ごーお! どこに行ってたんだよお!」
そう言って二人の目の前に飛び出してきたのは、三宅だった。
「今日遊ぼうって言ってただろう。俺、ずっと剛のこと探して……。あれ? 山岸さん、どうしたの?」
三宅はめざとく可奈の泣き顔に気がついた。
「あのさ……、剛、なにがあったの?」
三宅は森田に尋ねた。
「うるせーな、話すとなげーんだよ」
そう言いながらも、森田は、コロのことを簡単に三宅に話した。
「そうか……。死んじゃったのか……」
三宅は気の毒そうな顔になって、可奈を見た。
森田と三宅もついてきて可奈が自分の住む小さな貸家の前まで来ると、まだ仕事中のはずの母親が家の前の道に出てきていた。
「お母さん!」
可奈が呼ぶと、母親は振り向いた。
「可奈!」
可奈はまた叫んだ。
「お母さん、コロが死んじゃった!」
「あら、そんな、まあ……」
母親は、なんと言っていいかわからないようにそんなことを言って可奈を抱きしめ、それからまた言い続けた。
「……コロ、今日の朝、お母さんが出てくとき、とても鳴いたのよ。気になって早く帰ったんだけど……」
「お母さん、コロ死んじゃったの。隣の町の病院まで行ったんだけど、でも死んじゃったの……」
母親は、うんうんと頷いて、言った。
「可奈、お母さんいなくてごめんね」
「……」
母親はコロの体を受け取りながら、森田と三宅に何度も頭を下げた。
「こっちに来たばかりで、この子心細かったと思います。いっしょにいてくれてありがとうございました」
ふたりは頭を下げると、歩き出した。ふたりの後ろ姿を見ていた可奈は、突然、大声で呼んだ。
「森田くん!」
森田が振り向き、三宅も振り向いた。
「どうもありがとう!」
可奈は言った。
「コロのこと心配してくれて、ありがとう!」
森田がちょっとうなずいたのが見えた。
三宅が大きな声で
「山岸さん、元気出せよ!」
と言った。
次の日可奈は、どきどきしながら教室に入った。
また女の子達はうしろに集まってしゃべっていた。可奈はそこに近づいたが、誰も可奈を見なかった。無視されてると思うと、声をかけなきゃと思っても、可奈はなにも言えなくなった。
そのとき、小野こずえが可奈の肩を叩き、声をかけてきた。
「山岸さん!」
「小野さん……?」
すると、小野は、いきなり話し出した。
「ごめんね、わたしきのう、山岸さんの犬のこと、よろよろしてたなんて言って。さっき三宅くんに聞いたの。あのわんちゃん、死んでしまったんですって」
「……」
「とても弱ってたのね。ほんとにごめんね、変なこと言って……。わたしもこないだハムスターが死んじゃって、すごく悲しかったのに……」
「ううん……」
可奈は首を横に振った。
うしろのグループの女の子達が、妙な顔をしてこっちを見た。
「……いいの」
可奈は小野に言った。
「コロ、年取って毛も抜けてるし骨も曲がって、わたしが自分で、人に見られたら恥ずかしいって思ったの。でも、コロはわたしの大事な犬なの」
それから可奈は、女の子のグループにも頭を下げた。そして大きな声で言った。
「コロはわたしの犬なの。コロは年取っただけで、汚くなんかないの。それなのにわたし、恥ずかしいと思って嘘をついちゃったの。嘘言ったこと、ごめんなさい……」
そう言われても女の子達ははっきりとはなにも言わず、やっぱり妙な顔で顔を見交わしていた。
それで可奈が自分の席につこうとすると、森田の机のそばにいた三宅がにこにこしながら、可奈に手を振った。森田は振り向いて、
「山岸おはよう」
と言った。
「おはよう」
可奈も言った。
そのとき、校庭から駆けてきた井ノ原と岡田が大声を出してみんなを呼んだ。
「おーい、校庭で坂本先生がドッチやろうって言って待ってるぞ〜」
「今日はクラス全員でドッチ決戦するんやて! だから先生に、女子もみんな連れて来いって言われてるんや。ほら、外に出た外に出た!」
それを聞くとみんな教室を飛び出した。はじめは嫌そうな声を出したうしろのグループの女の子達も、井ノ原や岡田に追い立てられて、騒ぎながら校庭に出ていった。
可奈が校庭に出ると、男の子達と先生は、もうゲームをはじめようとしていた。
「おい、こっち入れよ」
森田が声を掛けてくれた。
青い空が気持ちよかった。このすうっと気持ちのいい天気までコロが運んでくれたような気がして、可奈はそっと心でつぶやいた。コロ、わたし、がんばるね。
自分で思いますが、剛くんが実に役にはまってないですね〜……。子どもの頃別マとか読んでるとよくこんな小学生ものがあった、そんな感じにしたかったんですけど、なんか違う……。それにしてもこのタイトル。なんか違う……(泣)。
(2001.4.9 hirune)
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