ひるね日記 2001年 7月

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「ネバーランド」と「1999年の夏休み」(7.29)

 わたしはまだ、「ネバーランド」の原作を読んでいません。とりあえずドラマ放映中は読まないで、ドラマの世界にひたりたいかな、と(笑)。(感想では結構つっこんでますが、ドラマ、楽しく見ています(^^))
 けれども、娘が原作を読んで、ちらちらと原作の話をしてくれました。それに因りますと、なんでも原作「ネバーランド」はもともと「トーマの心臓」や「1999年の夏休み」のような雰囲気を目指した小説らしいですね(?)。なんかそれ、わかるような気がします。
 映画「1999年の夏休み」はわたし自身も、一度見てすごく印象に残り、このHPに載せた「ぼくたちの怪談」を、「なんとなくあんな雰囲気の学校……」って思いながら書いたことがあるくらいです。萩尾望都などの少女マンガが好きだった人ならきっと気に入ります。(小説「1999年の夏休み」も、映画の脚本を書いた岸田理生本人が書いていて、いい作品でした)
 健くんの出るドラマが「夏休みを家に帰らないで寮で過ごす少年達の物語」なんだって知ったときも、すぐに「1999年の夏休み」を思い出しました。

 というわけで、今回の日記が「1999年の夏休み」の話になったのは、「ネバーランド」からのつながりかな、と思われたでしょうが、実はそうではなくて(笑)。
 実はわたし、先日からこの日記で、ひつこく『中井英夫の「虚無への供物」と寺山修司』について書いてるんですが(笑)、調べものをしようと「虚無への供物」サイトを検索していたら「1999年の夏休み」サイトに辿りついた、ということがありました。
 それはどういうことか説明すると、「虚無への供物掲示板」というところを見つけて読みに行き、その掲示板のホームページを見に行ったら、そこは「1999年の夏休み」サイトだったのですね。要するに、もともと「1999年の夏休み」サイトだったところに、派生して「虚無への供物」コーナーができていたということです。
 わたし自身が「虚無への供物」ファンで、「1999年の夏休み」もいい作品だと思っていますから、はじめは、世の中こういう傾向の作品を好きになる人は同じ人ってことかな? と思いましたが、よく読むと、「虚無への供物」と「1999年の夏休み」にはもっとはっきりしたつながりがありました。それは、深津絵里つながり(笑)。
 「1999年の夏休み」の主要キャストのひとり深津絵里ちゃんが、「虚無への供物」がドラマ化されたときも主要キャラを演じた、というのが、この2作品の大きなつながりとなっていたのでした〜。
 「あらら面白い」と思って、今度はそこの「1999年の夏休み」の掲示板を見に行きますと、「1999年の夏休み」ファンの皆さんが、「ネバーランド」のお話をなさっていました。皆さん、ドラマ「ネバーランド」の建物とか雰囲気が「1999年の夏休み」に似てるということで、結構好意的にお話なさってくださってました。なんか思いがけないところで「ネバーランド」の話題に出会えてうれしかったです(笑)。

 ひるねくらぶ掲示板でも「1999年の夏休み」のことが話題になったことがありましたが、「1999年の夏休み」は、今度8月22日にDVDが発売になるそうです。
 あと、恩田陸さんのなにかの小説に「塔晶夫」という名前が出てくるとか? その「塔晶夫」さんこそ、わたしが今ずうっと書いてる中井英夫その人のことなんです。どういうふうなことで載ってるのかなあ?
 それとですね、「1999年の夏休み」の脚本を書いた岸田理生は寺山修司の「天井桟敷」にいた人なんですよ。
 ということで、「1999年の夏休み」には、中井英夫と寺山修司、ともに縁がつながっているうえに、「ネバーランド」でV6ファンともつながってくるし、面白かったので、それを今回の話題にすることにしたわけです。
バイバイ、FOCUS(7.25)

 ううううう。なんと、このまえ、7月16日に、あの事件の黒幕である人物が、脅迫などの暴力行為で逮捕されたということが、今日発売のFOCUSに報じられました。
  FOCUS、このことをちゃんと記事にしてくれて、剛くんの名誉を回復してくれてありがとう。FOCUS廃刊直前にその人物が逮捕されるなんて、FOCUSはほんとに、あの事件に因縁があったんだね。

 でもわたし、ずっと、いつかFOCUSがちゃんと後始末してくれるって信じてた。(笑)
 けど、このまえ、FOCUSが廃刊になると知ったときは、今さら記事にならないなと思った。あきらめた。もう、世の中の人だってだいたいが事件のことなんか忘れてるし、それでもいいか、しょうがないか、忘れ去られたほうがいいんだから、と思った。
 それでそのとき、「FOCUSもなくなっちゃうし、自分が気がついたことだけは全部書いておかなきゃ」と思って、去年の五月に書いた小説「パズル」にひとりでこっそりあとがきをつけた。(笑)(小説「パズル」は「聞いたもの」コーナーの去年のところに置いてあります)

 今度のFOCUSを読むと、事件の黒幕は山口俊夫という人で、あの事件の時、この人が、わたしが小説で「アボガド社長」としたビイアンドビイの沢村進社長を裏で指図していたらしいです。妃は沢村社長の愛人だと報道されたこともあったけど、実はこの山口という人の愛人で、沢村はすべてこの上司(? 親分?)のためにやったらしい。
 そのほか細かいところはわたしの想像とは違うところもあったけど、そんなの、スポーツ新聞や写真週刊誌の記事だけで推理したわたしにわかるはずないって!! 今までの記事に「山口俊夫」なんて名前のかけらも出てこなかったんだから。FOCUSさんのほうは莫大な取材費払って調べてんのに、こっちは乏しい資料をもとに自分の頭ひとつで考えてんだかんね。
 ようするにこの事件は、向こうが暴力団的自分勝手な論理で殴り込み、告訴してきたということ。それはもう、理屈じゃない、そういう人も現実にいるんだということ。逆に、向こうがごく普通の良識を持つ人間だと勘違いしてしまうと、なにがなんだかわからなくなって、事件の本質がなにも理解できなってしまう、そういうようなものだった、と……。

 それでも最初から、向こうの話があまりにもめちゃくちゃなので、普通に事件を知った人は、まず全員が「これは妃側の売名だ」と言っていました。妃のセミヌードの写真を載っけてたサイトでも、「妃よ、事件は森田にふられた腹いせか」とかコメントつけてました(笑)。
 わたし自身は小説を書いたあとは自分の考えたことに自信があったし、読んでくれた人もわかってくれると思っていました。「読めて嬉しかったです」というメールをいただいたときは、わたしもほんとにうれしかったです。
 ただ、読んでも信じて下さらないかたも中にはいて……。
 ファンじゃない人だって犯罪なんかなかったことだけは感じ取ってるのに、どうしてファンが心を強く持って信じ切れないのか。アンチの人にはなにを言われたってしょうがないと思うのですが、「ファン自らが何故・・」と、そのことはほんとうに嫌でした。

 そんなこんなで、小説をアップしてからは、もうやるだけやったし、これ以上気にするのもやだからあんまり関連のことは見ないようにしていたわたしですが、夏になってなかなか不起訴が発表されないとき、ちょっと落ち着かない気分になりました。そのときに、Yahooの掲示板に事件関連のスレッドが立っているのに気がつきました。

 そのスレッドを見ると、ファンやアンチの人の他に、ごく普通の理性的な男の人たちも参加しているようでした。しかし、みんな情報を断片しか知らないために誰もたいして有効な発言ができていないという状況でした。
 ほんと言うと、わたしはすごく気が弱いので、剛くん擁護をひとこと書いたらアンチの人からどどどっと反論(というか、罵詈雑言というか)が来そうな場所に書き込むのは怖い、と言う気持ちもありました。一生懸命まともなことを書いても全く理解されずに傷つくだけかも知れないし……。
 でも、確かに中には真面目に考えてくれそうな人もいたので、やっぱりひとりでも多くの人にわたしが知ったことを知って欲しい気持ちのほうが強く、そこに書き込みしました。
 とりあえず、「FOCUSの殴り込み事件の記事だけは信用できるけど、FLASHや東スポはFOCUSの取材に驚いたビイアンドビイ側の自分に都合のいいリーク記事だから問題にならない」という点に絞って書きました。すぐに皮肉っぽい反論がついたので、次に反論へのお答えという形でビイアンドビイの言ってる矛盾について書きました。とりあえずそれで満足して、しばらくしてから、不起訴がはっきりした日に、最後にと思って自分で書き込んだ文章がメモに残っていたので、ちょっと載せます。
 わたしは、殴り込み事件のときからずっと泣いていたというKさんは、この事件の大きな被害者のひとりだと思っています。事件について語るのはいつも事務所の社長とか友人とかで、彼女自身はほとんどマスコミに顔を出すこともありませんでした。彼女がいつも落ち込んだ状態だというのはほんとうなのではないかと思います。
 でもそれは、ほんとうにこんな事件があったせいではありません。前の書き込みでも書きましたが、被害に遭っていたされる3月の初め頃、彼女が心配事をかかえている状態だとは周りの人は誰も気がつきませんでした。彼女は普通どおりだったのです。それが、彼女が今のような状態になったのは、ありもしない事件の被害者にされて恐喝のネタにされ、そのあとは記事をマスコミに売られ、たくさんの人に「こんなことまで使って売名する女」と思われてしまった心の傷からだと思います。
 むろん、彼女にも真実を言うチャンスはあったと思います。しかし、去年事務所を移籍したばかりの知り合いもいない事務所、しかも殴り込み事件でわかるように、ヤクザめいた男達が出入りする事務所の中では、彼女は恐ろしくて人の言いなりになるしかなかったとも考えられます。また、彼女は、あまり外部と接触できないように、事務所に囲い込まれていた可能性もあります。

 フェミニストの男性諸氏が彼女に同情するのも無理はないと思います。でも、リアルに考えて、彼女の陥ったつらい状態というものは、上のような状態だと思います。真実を見極めようという気持ちがないかぎり、彼女への美しい同情心も、ピントのはずれた同情心に終わってしまいます。

 また、世間に植え付けられた事件容疑の印象をぬぐわなければほんとうの解決ではないとのご意見(注・すぐ前に、そういうことを書いてくれた人がいた)は、ごもっともと思います。ちょっと新聞の下の広告だけを見た印象では、たいていの人が「女優の売名行為でなんかあったけど、ジャニーズ事務所の力でうやむやになったのかなー」と思って終わると思います。この不起訴を受けてまた少しはなにか報道があるかもしれませんが、その点は「わかる人はわかるのだから」と割り切ってこれからをがんばるしかないでしょうね。
 『フェミニストの男性諸氏』、というのは、嘘記事を信じてるフリをして妃がかわいそうだとか言って攻撃してくるアンチの人のことですが(笑)。もしもFLASHや東スポの記事がほんとうのことなら、そりゃあ彼女はかわいそうですよ(笑)。そうとう頭悪いけど。でも、わたしもかなり同情してますけどね、彼女に(笑)。こんなふうに妃にも同情的に書いたから、これは、ファンに背後から攻撃されたりしたんだよね……。(まあいいや) 
ながながと古い話を書きましたが、実は、このあと、すごくいい書き込みがあったのです。
 それは、だいたいこんなものでした。(感動したので取って置いたの)
 第三者から言わせてもらうと、ここの掲示板はアンチ森田の人の方が熱くなってるし、アンチな人は、前から言ってることがめちゃめちゃだ。

 自分としては、ある人に対して一生懸命働きかけるなら、自分の好意を元に動いたほうがいいと思っている。だから、森田くんを大好きなファンの皆さんが、自分が大切に思っている人を弁護しようと頑張るのはとてもいいことだと思うし、ただ森田君は無実だろうと思う人が、その意見を公に堂々と発表するのもいいことだと思う。そんな人の好意を非難するべきではない。だが、その人が嫌いだという理由で無茶な論理を通そうとするのはかっこ悪い。やっていてむなしくはないだろうか。人にネガティブに働きかけるのは自分のレベルを低くする元だと思う。
 どうですか、すっごいいいこと書いてくれてますよね〜。マジ、泣けました。こういうこと書いてくれる人もいるところに、思いきって書き込みしてよかった。(はっきり言ってほか8割はゴミみたいな書き込みでしたが)

 あらー、いつも話がまとまらないなあ〜。
 とにかく、今日のFOCUSはよかった。これで、さわやかにFOCUSにお別れが言えます。バイバイ、FOCUS。
 それにしても、剛くんはほんとにずっと偉かったよね(^^)
  

続々・人形たちの夜 〜寺山修司と「虚無への供物」〜(7.24)

 前回までのことで書いておくべきこと、2点。

@再び「どういうわけかわたしは中井英夫と寺山修司についてどこでも一度も聞いたことがない」について。
 わたしはバカです。昭和53年購入以来何度読み返したかわからないわたしの「虚無への供物」(講談社文庫版)を見直したところ、最後の中井自身による年譜の中に、自分が発掘した短歌の新人として「寺山修司ら」とはっきり寺山の名前が載っていました。どうして塚本や春日井の名前は覚えていて寺山も中井が発掘したということを忘れていたのか。
 こんな日記たいして気にして読んでるかたはいないでしょうが、あんまりアホなことを書いたことを深く、深くお詫びします。(言い訳。ここ数年は、虚無への供物、読み返していませんでした……)

A文庫版の中井全集は、東京創元社から出ていました。今、中井の本を読みたいかたは、この全集が一番入手しやすいのではないかと思います。

 さて、だいたいにして、今回中井と寺山の関係(?)に興味を持ったのが、たまたま図書館で「寺山修司メモリアル」というムック(というのでもないのかなー。雑誌っぽいけど別に広告とか入ってるわけじゃないし。ちなみに読売新聞社より1993年発行)を借りて読んで、偶然に両者ともに「人形たちの夜」というタイトルの本があることを知ったためでした。
 最初は、この二冊の「人形たちの夜」に影響関係があるんじゃないか、じゃあどっちが先でどっちが後だ、と、それが興味の対象だったのでした。
 しかし改めて中井、寺山の年譜やふたりの書いた作品を見直すと、中井と寺山が出会ったのが、ちょうど中井が「虚無への供物」の構想を得て、まだ実際には書けずにうだうだと(?。少なくとも「虚無への供物」に対しては)していた頃であることがわかり、また、当時の寺山はなかなかの美青年だったうえに、詩歌、文章にたいへんな才能と趣味を持っており、当時すでに中井が「虚無への供物」で書こうとしたことを、すべて理解できる素養を持っていたことも気づきました。
 これらに気づいたときわたしは、これはもしかすると、「人形たちの夜」どころではない、寺山は「虚無への供物」成立に大きく関与している! そういう気がしたのです。
 前の日記にも書いたのですが、特に紅司さんのキャラは寺山に似ています。

 「寺山修司メモリアル」には、寺山修司の人となりを知る知人たちの話がたくさん収めてありました。
 そのなかに中井の話もあれば、かなりはっきりふたりにどういう交友があったのかわかったのですが、残念ながら中井の書いたものはありませんでした。
 しかし、塚本邦雄が寺山について書いたものがありました。
 塚本も寺山と同じく、中井が短歌雑誌編集長をしていた頃に見いだした歌人です。耽美的フィクション的な歌風で、寺山の歌に大きな影響を与えた人でもあります。年齢はおそらく中井と同じくらいで、寺山よりは10歳は年長だと思います。
 その塚本と寺山がどのように交友していたかがわかれば、寺山が中井にどのように対していたかも想像できるでしょう。まあだいたい、寺山が塚本に対するときと中井に対するときは同じように対していたと思えますから。
 そう思ってわたしは塚本の文章を読み、そして、驚きました。「あっ」と思いました。寺山が「虚無への供物」を書く際に、中井に何かヒントを与えた人物であるだろうことなんか、寺山の経歴をちょっと知っていればあたりまえだったじゃないかとまで思いました(笑)。

 ではここでちょっと、塚本の、若き寺山のことを書いた文章を引用させていただきましょう。
 「有名無実の、才能の中途半端な歌人・俳人を、彼は徹底的に蔑んだ。(略)私は、生涯、寺山修司に嗤われるような作品は書くまいと、ひそかに心に誓ったものだ。だが、(略)一度でもきらめき、燃え上がる傑作を書いたことのある人には、特別の尊敬と愛着を示した」
 先輩歌人を相手にしても全く舌鋒を衰えさせない意気高い青年詩人の面目躍如です。しかも彼は衆目一致せざるを得ない才能を持っているのですから、気の優しい先輩達は彼にメロメロです。
 「彼は当意即妙、丁々発止を好んだ。愚図と常識家がなにより嫌い、テーブルスピーチでメモを読みあげている連中をあざわらった。私及び私達歌人の何人かは、この年少の天才の暗示にかかるまいとして、時には警戒することもあった。だが逆に、彼の術中に陥って、彼の天真爛漫な笑顔を眺めているのも私自身は楽しかった」
 塚本には彼の笑顔は魅力的であったと(笑。関係ないか)。そしてこの文章には最後に、実に重要な一節があるのです。
 「(寺山は)私に電話をかけて来る時は、勤め先への場合は特に、偽名と声色を使っておどろかせ、電話口でけらけら笑い、「あんた、脛に傷があるから驚くんだよ」などと、にくにくしいことを言った。」
 ここです! 「虚無への供物」を読まれたかたならおわかりでしょう。読んでない人にはちょっとネタバレになってしまって申し訳ないですが、ミステリー・「虚無への供物」では、電話で声色を使うことに、とても重要な役割があるのです。
 先輩歌人塚本に声色で電話するような寺山は、中井にだって声色で電話して驚かせたことがあるに決まっています。そしてそれは、中井が「虚無への供物」を書く際に、大きなヒントにならなかったでしょうか……。
 中井と寺山につきあいがあったことはほぼ確か、そして寺山が先輩を先輩とも思わないような言いたい放題の上、電話で声色を使うような男だったことも確か。そして、そんなふたりのつきあいが、ちょうど中井が「虚無への供物」の構想を得てから実際に書き始めるまでの数年の間が一番深かったであろうこともまた、確か……。
 「電話の声色」のところを読んだとき、わたしは、寺山が最終的に一番演劇に夢中になった人間であることを思い出しました。
 彼は、自分の芝居の脚本、演出、美術、音楽まで、すべてひとりでやってしまうこともあった人間です。少年の頃から映画館に預けられたり、そこに来る旅回りの役者一座と寝起きをともにしたこともあり、演劇は彼にとってすごく身近、血肉に近いものでした。(だから電話で声色を使うというようなこともやってみせた。)
 そして、ミステリーにおける犯罪とは、なにに近いかと言えば、もっとも近いのは演劇ではないでしょうか。ミステリーにおける犯人とは、日常の中にするりと溶け込んだ演劇者のことではないでしょうか。犯人の演ずるお芝居は、犯人以外はいつ芝居がはじまっていつ芝居が終わったかが分からない、そういうお芝居ではありますが。
 特に「虚無への供物」は、ミステリー的犯罪の本質が「芝居」であることに対して、たいへん自覚的な小説なのです。

 最終的には演劇人になる傾向を持った寺山が、自分なりのミステリーを書こうとしている中井になにがしかの影響を与えることは、これは当然過ぎるほど当然だった。考えるまでもなかったと、塚本の文章を読んだ直後、わたしは思ったのです。
 
続・人形たちの夜 〜中井英夫と寺山修司〜(7.18)

 前日の日記を書いてサイトを更新してからすぐに、寺山修司と中井英夫について調べてみた。
 ほんとう言って、ネットで調べたからと言ってそうたいした収穫は期待していなかったのだが、両者ともに熱心なファンがいて、すぐに作品年譜だの著者年譜だのをみつけることができた。おおいに助かった。
 それにしても私ときたらきのう、「どういうわけかわたしはいままで、寺山と中井のつながりについて、どこでも一度も読んだことがない。」なんて書いてしまっている。「寺山みたいな歌は、中井が一番好む歌であるとわたしには思える。」とも。
 全くバカじゃねーの(^^; 中井英夫が若き寺山修司の歌を見て、「いい」と思わないはずないじゃない〜(^^; 
 調べたら、中井英夫の年譜には、「短歌雑誌編集長時代、寺山修司などを発掘」って書いてあって、寺山修司の年譜には、「中井英夫の好意で第一作品集の「われに五月を」を刊行」って書いてあった。ほんとにわたし知らなかったのかな〜。(いい加減な人間だからもともと知らなかったこともあり得るけど、知ってたけど忘れてきってただけなようなも気もするぞ……。このごろよくあるんだ、そういうことが)
 まあ、そういうわけで寺山と中井の間につながりがあるのは確か。
 ちなみにその「われに五月を」刊行は寺山21歳の時。ときは1957年でありました。
 そして、きのうの日記に書いた寺山修司のムック本を見ると、当時の寺山修司、今のわたしたちが見知ってる写真のもっさりしたおじさんと全然違うのよ。脚も長くてとてもハンサムな青年なのだ! 

 さてわたしは、中井の経歴は結構細かいところまで知っていたが(父は高名な植物学者だったが、中井は気むずかしい父になじめずずっと母親っ子だった。母親がよくお話などをしてくれる人で、そういう影響もあってか、子どもの頃から自作の話を作り始めた。確か江戸川乱歩が好きな子どもだったそうで、はじめて作った話のタイトルが「足の裏を舐める男」とか、そういうタイトルだったと思う)、寺山の少年時代は今回はじめて詳しく知った。
 寺山と母親との確執みたいのは有名な話だが、寺山は、11歳でボクシングジムに入ったり、草野球に夢中になったり(これはいいけど)、シナトラの歌に夢中になったりするような子どもだったらしい。
 更に、13歳で母親が出稼ぎに行くために「青森歌舞伎座」というところに預けられ、ときには旅回りの芸人一座と起居を共にすることもある、というような生活だったらしい。
 そんななかで、高校に入った寺山は句作をはじめた。句作するのみならず、自校内で俳句雑誌を発刊するばかりか、青森県高校文学部会議を組織したり、更には全国学生俳句会議まで組織する行動力の持ち主でもあった。そして大学にはいると俳句は辞め、歌作に変わる(中井に見いだされた歌人・塚本邦雄に影響を受けた)。歌だけでなく、詩、散文のほか、劇作、シナリオの仕事も多く、30歳の頃天井桟敷を旗揚げするや、あとの仕事は演劇関係中心になっていく……。
 寺山が演劇に入っていったのは、少年の頃「青森歌舞伎座」に預けられていたことを考えると、彼にとっては必然だったのかもしれないが、とにかく、すごい変化の仕方である。ひとつところに留まっていない。寺山は、毎日ひとりで黙々と著作に励む、といったタイプの物書きとは正反対にいたらしい。
 寺山は劇団の人間といっしょに暮らし、プライベートなんかないような生活で、ムック本の中の合田佐和子さんという美術家のかたのエッセイによると、「ある場所から次の場所へ移る道路を走りながら打ち合わせしたこともある」という。そのとき合田さんが「ちょっと、どこか座って話しません?」というと、寺山は、「だめなのよ。自転車こいでるのと同じだから、とまったらこけるのよ」と言ったという。寺山はとにかく走り続けないではいられない人であった。
 また、寺山の著作には「書を捨てよ町へ出よう」というのがあるが(読んでないが)、その通り、寺山は町が好きで、町なら新宿歌舞伎町や渋谷の場外馬券売り場界隈、そういうところが好きだったそうである。寺山は、そういった町の猥雑さや町ににたむろする与太者たちが好きだったのである。11歳でボクシングジムに通ったり、野球少年だったこともあると書いたが、子どもの頃はボクサーになろうと思っていたくらいであるから、自身も体を動かすことが得意だったと思われる。

 さて、中井と寺山の話に戻る。
 中井の作品の中で突出してすばらしい作品は「虚無への供物」。これは衆人に異論のないところだと思う。中井では「とらんぷ譚」等の特異な連作短編の世界のほうを好む読者もいると思うが、そういう人でも、「虚無への供物」が質量ともに中井の代表作だと言う人間のほうが断然多数派であることは認めてくださると思う。
 さて、わたしは今まで、虚無への供物」のどこが魅力的なのかと部分に分けて考えたことはないが、今改めて考えると、「虚無への供物」は、登場人物がすごく生き生きしているのである。当時の東京に生きる若者たちの息吹みたいなものがある。
 「虚無への供物」というと「アンチ・ミステリ」と呼ばれ、全体の複雑で緻密な構成だとか、新本格に先駆けた本格趣味の横溢だとか、そういったことを論評されがちだが、「虚無への供物」の魅惑の核心はたぶん、その登場人物たちにあるのだ。
 進行役亜利夫の普通の青年ぶりもいいし、蒼司さんのような物静かな美青年もいいし、紅司さんのような、町の与太者にあこがれているちょっと崩れた美青年もいいし、牟礼の外国人みたいな紳士ぶりもかっこいい。藤木老も面白い。特にいいのは奈々と藍ちゃんで、姉弟みたいなふたりの生意気な可愛らしさがなかったら、これだけの作品でも、魅力はかなり減る。
 それだけ魅力的な人物たちが、完璧なまでに見事に考え抜かれた作品世界で縦横無尽、時に作品を飛び出しかねない言動をするからこそ、「虚無への供物」は面白い。
 (手元になくてずっと読み返していないのでおぼろな記憶だが、「人形たちの夜」にも、1話1話に町に生きる人の生活があった。それが作品のいいアクセントになっていた)

 中井は「虚無への供物」全編の構想を1955年、突如として得たという。
 「虚無への供物」は1954年9月の洞爺丸事故に物語の重要なテーマがあるので、その事故の直後に構想を得たのはわかるが、それからしばらくしても「現実に小説と同じことが起こってしまって怖い」とか言ういつもながらの中井節で(当時はまだそんなことしょっちゅう言ってないか)なかなか筆が進まなかったのが、やっと1962年になって半分まで、そして翌年に全編の完成となったわけである。この間、1957年かそれより前に、中井は寺山と出会っている……。

 ごめんなさい、実はわたしは今回の話を、寺山は中井が「虚無への供物」のキャラクターを考える際に、かなり重要な人物だったのでは? とまとめたかったのだが、なにせ相手は「虚無への供物」ほどの名作である。そんな簡単にまとまるわけがなかった。
 ただ、中井が、彼がすばらしい才能を認めた(美)青年寺山が青森の出身だと知ったとき、なにかの縁を感じたことは確かだろうと思うのである。中井自身は明治期に祖父がアイヌ教化をしたという暗い負い目と出自を北海道に持っている。そして、青函連絡船洞爺丸。それは、北海道と青森をつなぐもの。
 すぐにものを関連づける癖のある中井だったら、絶対そんなことが脳裏をよぎったと思うのである。
 しかし、全編の構想が浮かぶことと、実際に小説として細部まで描くこととの間には、たいへんな落差がある。その細部こそが小説の命と言っていい。
 実際、「虚無への供物」のあとがきで、中井は、小説を書く際に、「植物については・・東大植物学教室の諸氏、色素については・・林孝三氏、アイヌの秘話については・・金田一京助氏。・・大阪弁の監修は塚本邦雄氏、衣装については尾崎磋瑛子夫人」と言った具合に、直接間接にたくさんのかたの示唆を受けたと書いている。
 こういったたくさんの助力を得られる状況が中井のまわりを取り巻いていたということ自体が、おそらくこの小説をめぐる奇跡なのではないかとわたしは思うが、そのなかには、寺山との出逢いも入っていると思う。
 昔ボクサーを夢みていて、今も町でいかがわしい連中とつきあうのが好きな青年詩人。
 すぐに紅司さんのキャラを思い出す。それと、物語中盤に挿入された事件の被害者、鴻巣玄次のことも。
 こういったキャラを作る際に、中井は寺山のことを思いだしたのではないか、と、とりあえずここまで。

人形たちの夜(7.17)

 図書館で「寺山修司メモリアル」というムックを借りた。(わたしはお金がないから図書館を多用する)
 寺山修司と言えば歌人としてが一番評価が高いのだろう。表紙、裏表紙に四首歌が載せてあった。いかにも青春の歌であるように感じた。
 冒頭には詩人としての寺山修司に、谷川俊太郎が「わが友、寺山修司」のタイトルで手厳しい文章を寄せていて、興味深かった。
 また、「ゲーム」のコーナーに載せられていた「迷宮双六」や「密通チェス」のイラストや写真は、中学生の頃読んでいた、寺山が編集していた雑誌「ペーパームーン」の雰囲気を思い出させてくれた。
 それらを今改めて見て気がついたことは、このように凝りに凝ったゲームを作ったりすることで、寺山は意識的になにかを企んでいたということである。
 なにを企んだのかというと、素直に考えれば、それは、この迷宮のようなゲームと夢幻のような文章の中に、誰かを捕らえてしまおうと企んでいたのである。誰を捕らえようとしていたかというと、それはゲームを喜ぶような人たち、すなわち「子ども」だろう。そしてまたいつまでも子どもでいたい少年少女は、こんな美しいゲームを見せられれば、喜んで寺山の罠にかかってみせるだろう。
 しかし、谷川俊太郎によると、寺山は、「天井桟敷(彼の主催した演劇集団。まだあるのかな?)に来る若い奴らがどんどん出て行っちゃう。天井桟敷は通り過ぎてゆくだけなんだよ」とよく嘆いていたそうである。谷川はそれを、簡単に言うと、「寺山が成熟を拒否する人間だったから」というように解釈している。
 「ペーパームーン」。紙で出来た張りぼての月は、どうやってもほんとうの月の美しさには及ばないということだろうか。
 しかし、寺山のかけた罠は、気弱でやさしくて良心的な罠であったように、わたしは感じる。掴まった少年少女たちが、あるときその罠が張りぼてであることに気がつくと、罠はするりと消えてなくなってしまうのであろう。そして寺山がせっかくつかまえた獲物たちはやすやすと逃げてしまうのだろうが、しかし彼らは、その罠を最初から簡単に逃げられるように華奢でやさしく作った作り主を、きっとあとになってからなつかしく思い出すときがあるだろう。
 
 さて、実はここでわたしが書きたいのは、上記のことではなかった。
 そのムックの「ゲーム」の項に載せられた寺山の文章、特に「少年探偵団同窓会ー乱歩(抄)」という文章を読んでいるうちに、わたしには「これは、中井英夫の「人形たちの夜」に似てる」という気持ちがむらむらと湧いてきた、そのことを書こうと思ったのである。
 わたしは。中井の「人形たちの夜」のことなんか、十年以上忘れていたんじゃないかと思うが、そのあと「ゲーム」の項を見ているうちにも、どうしても「人形たちの夜」が思い出されてならなかった。そして他のページをめくっていると、「人形」という項が別にあり、そこを見ると、なんと寺山にも中井と同タイトルの「人形たちの夜」という(少女向けの)著作があることがわかったのである。
 中井英夫の「人形たちの夜」は、わたしが中井の本の中で「虚無への供物」の次に好きな作品だ。どういうわけかあんまり有名でないが(みんな中井の作品と言ったら「虚無への供物」と「とらんぷ譚」「悪夢の骨牌」くらいしか読んでないんじゃないか?)非常にいいできの作品だと思っている。
 特にいいのは、春夏秋冬の四つに分かれたなかの「秋」の章で、主人公を誘惑する謎めいた青年が非常に美しい青年に感じられるのである(ミステリーを絡めたホモ味の話、というか、まんまホモの話というか、そういう話)。
 それと、「最初は全体を暗く終わらせようという構想だったが、その年サントリーの山梨ワイナリーで偶然起こったできごとをきっかけとしてラストを変えた」という作者によるあとがきが、さわやかというと安っぽいが、「ほんとうに美を愛する人は現実を愛する」という気がして、感動的だったのを、よく覚えている。
 (好きだと言いながら情けないが、この本もわたしの手元にはない。確か20年くらい前に一度文庫化されたが、すぐに見かけなくなった。何年か前創元文庫だか早川文庫だかで中井全集が出たので、そのなかには収録されていると思う。ただし、この全集もあっという間に見かけなくなってしまった)

 わたしは今、中井には、かなり寺山修司を意識して書いた作品があるんじゃないか?という気がしてならなくなっている。
 逆かも知れない。寺山が中井を意識して書いた。年齢から言えば中井が10歳くらい上だから。
 しかし、人に知られた存在としたら、断然寺山だ。若く、きらめく才能を持った若者と、ほとんど「虚無への供物」一冊しか持たない年長者……。
 どちらとは言い切れないが、ふたりのなかにはきっと影響関係がある。
 今書いていて、中井の連作短編集「とらんぷ譚」「悪夢の骨牌」も、寺山のゲーム趣味とぴったり一致すると気がついたし。
 中井は作家になる前、長く短歌雑誌の編集長を務めた人で、寺山の短歌は、おそらく発表当時から読んでいただろう。また、寺山みたいな歌は、中井が一番好む歌であるとわたしには思える。逆に、寺山からすれば、中井は有名な短歌雑誌の編集長なのだから、ごく若いうちから中井の存在と名前は知っていたと考えられる。
 しかしどういうわけかわたしはいままで、寺山と中井のつながりについて、どこでも一度も読んだことがない。それは前から気がついていて、「どうして中井は春日井健や塚本邦雄とはつながっていて寺山修司とは関係ないんだろう?」と思っていたのだ。
 でも、やはりつながりはあったのだ。同じ「人形たちの夜」というタイトルは、偶然ではないだろう。
 ちょっと調べれば、どちらがどちらに影響を与えたのかはだいたい見当がつきそうな気がする。もしもなにかわかったら、またこの日記のコーナーで。
映画とテレビドラマ(7.14)

 図書館で淀川長治の本を2冊借りてきた。
 その一冊、「ぼくの映画百物語」のなかに、淀川さんが幼心に「映画こそ芸術」と思い定めたひとつのわけは、淀川さんが幼い頃の映画がサイレントだったことにある、といった内容の一節があった。
 サイレント映画は、セリフがない。画面を見ただけで内容がわかる。世界中の誰でも見ればわかる芸術。映画ってなんてすごいんだ、と子どもの頃の淀川さんは思われたと言う。
 今のわたし達から見ると、サイレント映画って古くさくて、なんだか見ても面白くなさそうな先入観があるが、そのように、サイレントこそが映画の魅力の源泉らしい。その本には、いろいろサイレント映画の傑作が紹介されていたが、確かに、映画における題材のアイディアそのものは、すでにサイレント時代にだいたいが出尽くしているのではないだろうかと思えたほど、その内容は豊かだった。

 なるほどなあと感心してその話を夫にしたところ、このまえ読んだ高島俊夫さんの「向田邦子をさがして」という本にも、そういうことが載っていたという。
 それによると、「映画というのはサイレントがルーツであるから映像が主。だから、監督の力が大きい。それにたいしてテレビドラマというのはラジオドラマがルーツだからセリフとかストーリーが主。それで脚本家の力が大きい」ということだそうである。
 またまたなーるほど。長年、映画とテレビドラマってどうしてこう違うのかと思っていた疑問が気持ちよく氷解した気分である。(このごろは映画の制作本数が少ないので、映画もテレビも同じ監督や脚本家が起用されるし、個々の演出家、脚本家の技量によって差があって、どっちが上という比較はできないが)
 
今日の読売新聞「放送塔」

 今日の読売新聞「放送塔」(テレビ欄についてる感想欄)に、こないだの「学校へ行こう!」のブリーダー対決が楽しかったという感想が載っていた。書いてくれたのは60代の主婦の方。あれを見て、「どの犬も元気でますます犬に愛着が」湧かれたそうである。
 奥さん、犬を連れてた子たちもみんなかわいかったでしょー? 奥さんにひととき心和んでいただけて、よかったよかった♪ (7.11)
ちばてつやの「餓鬼」〜怖いマンガ〜

 図書館の児童コーナーにちばてつやの「餓鬼」があった。
 あるのは今までも知っていてずっと気になっていたのだが、今日、子どもが他の本を眺めている隙に、やっとその「餓鬼」を手にとってみた。
 ちば先生らしいリリカルな端正な画で、まずは雪深い地方の山奥の村で、村人みんなからいじめられている(? 正確にはここではいじめられているわけではないのだが、事実上はいじめられているも同じ)孤児の少年、というところから話ははじまる。 少年はやがて村を抜け出そうとするが、そこから彼の運命が大きく変わってしまうのだった……。
 ネタバレになるので詳しい筋書きはやめておくが、最後まで読んで口あんぐり。こんな、こんな話があってもいいのか! いや、あってもいいけど、これは、ものすごーく、怖いまでに画が下手な人の描くテーマだ! ちば先生のようなものすごく画のうまい人の描くテーマちゃう!
 あー驚いた、びっくりした。
 話を戻すが、わたしがなぜこのマンガが気になっていたかというと、子どもの頃雑誌で見かけて、「怖い感じ」と思っていたことがあるからだ。
 わたしの記憶では、このマンガと似てる感じなのは、水島新司の「銭っ子」と、ジョージ秋山の「銭ゲバ」とか「アシュラ」。どれも、子どもの時「怖そう」と思っただけでちゃんと読んだわけではないから、ほんとに怖いのか、ほんとに似てるのかはわからないが、少なくとも同時代の匂いは感じる。これらの作品はみんな、すごい恨みを心に抱いた主人公が、人々から「なにあれ」と気味悪がられつつ、ボロ布にくるまって街を徘徊しているのだ(どれも最初から最後までちゃんと読んだわけではないから主人公がいつもそうなのではないと思うが、少なくともそういうシーンはあった、気がする(^^;)。

 このマンガが昭和45年の作品だったことをマンガを読んで知ったので、実は、今さっき、「それじゃあ銭ゲバはいつだった?」と思って、検索してみた。子どもの頃はなにも考えなかったのだが、そのころのわたしに似ている印象を与えたと言うことは、これらの作品群に影響関係があったんではないかと思いついたからである。
 すると、銭ゲバもアシュラも「餓鬼」と同じ昭和45年だったことが発覚!
 そうかあ。うわあ、これは時代のサガなのか。でも、ちば先生はジョージ秋山を読んで衝撃を受け、作品に影響を及ぼしてしまった気もするな。
 今の時代に「餓鬼」を読んだら衝撃だったが、もしかしたら当時は編集さんが、「先生、もっと残酷にした方が売れますよ」と言ったとか(当時ちばは「明日のジョー」を連載中で、トップマンガ家であったが)
 それで、「銭っ子」までは調べなくていいか、と思っていたのだが、今ついでに「銭っ子」も調べたらこれも昭和45年だった。……昭和45年、怖い年だったんだ〜。そう言えば、昭和45年は70年安保の年ではないか!
 
 3作品、同じ年の作品とは。驚いた。まさしく「時代」だったのだ。
 70年安保のことは、詳しく知らないが、安保のことを別にすると、ここまで残酷なマンガを描く心性というのが、わたしにはなんとなくはわかる気は、する。
 それはきっと、それらのマンガを描いた人が、戦争を自分の目で見たことがある人たちだからなんだと思う。実際に人間が大量に殺されるのを見たことがあったら、それをどこかで吐き出さなければいられない気持ちになると思う。そのころはもう「戦後は終わった」と言われた時代になっていたはずで、高度成長も遂げ、ほとんど日本に戦争の面影は残っていなかったはずだが、人の心にはまだ色濃く戦争の思い出は残っていたんだと思う。そして、国中から戦争の面影が消えようとするとき、かえって人の心は、戦争の面影を残したくって、戦争で亡くなった人を忘れたくなくて、なにかを叫ばずにはいられなかったのではないだろうか……。

 当時はほんとうに救いのない、暗いマンガが多かった。事件としても、72年の連合赤軍事件など、まったく、そういう時代を表すような事件だったんだろうと思う。たぶん、連合赤軍事件の当事者達も学生時代、暗い、怖いマンガを読んでいたのじゃないか、というのは、ただのわたしの想像だけれど……。(7.10)
 
「残酷な神が支配する」

  滅多にゆっくり本屋に行ったりしないもので、5月末発売のプチフラワーを、最近、7月になってから、やっと見かけました。そしたら、うわっ、萩尾望都先生の「残酷な神が支配する」がついに最終回じゃありませんか! あわてて買って帰りました。

 わたしはこの作品を、最初の頃は必ずしも毎回読んでいたわけではなかったのですが、途中、かなり夢中で読んでいました。特に、グレッグが死んでイアンがジェルミに近づいていくあたりは、はまっていたと言っていい(笑)。その頃は、そのうちふたりが愛しあうようになって、それでジェルミの傷は解決すんのかな〜、とか思ってた(笑)。
 いや、でもそうなっても、グレッグとサンドラは死んでしまっていますから、そっちはもう、解決がつかないですもんね。それはそうに決まってるから、そんな簡単にはいかないとはわかっていたんですけど、それでも、いつかジェルミに怒濤のような愛の転回地点が来んのかなーと思ってた(笑)。
 でもなかなかうまくいかなくて、いろんな脇役達が、不幸を予感させるような(笑)いろんな思わせぶりな行動ばかりするし、だいたい、ジェルミがグレッグに苦しめられていたとき、イアンが、いやんなるくらい鈍感だったことを思いだすと、結局イアンはジェルミを救う人にはならなくていつかイアンもグレッグみたいにジェルミを苦しめる人になってしまうのか、という怖い想像をするときもありました。だって、タイトルがタイトルですから。
 以前、萩尾先生の言葉で、「残酷な神が支配する」というタイトルは、イエィツの詩からつけたと読みましたが、イエィツの詩では、「残酷な神」というのは確か「運命」のことなんですよね。「残酷な神」が「運命」のことならば、この作品の最後に訪れるのは、「残酷な運命」以外のなにものでもない、と予想されます。

 そこで気になるところは、萩尾先生が、「心の傷を癒してくれる男性」というものを、まだ信じているのか、わたしたちはイアンを、そういう男の人だと信じていいのか、というところです。イアンがそういう男の人なら、たとえ結末が残酷でも物語は甘美に終わるでしょうし、先生がもうそんな男の人はこの世にいないと思うのなら、イアンにもジェルミを救う力はなくて、物語の結末は救いのないものになってしまいます。
(なんでそれがそれほど気になるかというと、以前はそういう男の人を最高に魅力的に描いてくれた山岸凉子先生が、今やそういう男の人の力を信じなくなってしまった、ようにわたしには思え、それを残念だと思っているからです。以前は美しいカタルシスに満ちていた山岸凉子の作品から、そういう方向性はなくなってしまった)

 物語は初めのほうは、グレッグに追いつめられるジェルミの苦悩を描いて、「やおい」というのか「ボーイズラブ」というのか、(この作品のはじまった1992年当時には、まだボーイズラブという言葉はなかったと思うけど)、ようするに、男性同性愛に(いたずらに)恋愛の理想を見るような少女の心性(^^;)をですね、非難しているのかとわたしは思ったくらい。読んでいてあまりにジェルミがかわいそうで、「ごめんなさい、ジェルミ……」と謝りたい気持ちになりました。
 でも、物語は、むしろグレッグとサンドラの死以降が長く語られることになりました。そしてその間イアンはジェルミに何度も何度も近づこうと試みては失敗し、ときに少々成功し、様々の人間がふたりのまわりに現れては遠ざかっていくということになりました。
 途中、新たな登場人物がどんどん出てくるのに驚き、「すごく長い話になるんだ」と気がついたとき、これは、萩尾先生が、思いきり、書きたいだけ、人間を書こうと思ってるんだろうと思いました。
 わたしはナディアがあんまり好きじゃなくて、ナディアがたくさん出るようになってからあんまり読まなくなってしまったので(すみませーん・・。たぶん、ナディアのせいばかりじゃなくて、たぶんちょうどその頃からV6にはまって、V6関係以外のものをほとんど読まなくなってしまったんです)、はっきり断言はできませんが、そういうお気持ち(書きたいだけ人間を書こうというお気持ち)はあったのではないでしょうか。

 というわけで、このところずっと読んでいなかったので、わたしはこのマンガを最終回だけ唐突に読むことになってしまいました(ときどきは立ち読みして、全然ストーリーがわからないということはなかったのですが)。
 一番の興味は、ジェルミが、死んでしまったサンドラとどのように許し合い共感を取り戻すのか、というところでしたが、とりあえず最終回では、割合簡単な方法でそれはなされました(最終回前に伏線があったのかも知れない)。けれどもその、ジェルミが割合簡単にサンドラと出会ったところも、人の魂というものは、劇的な転回で癒されるのではなく、少しずつ少しずつ、たゆまない思いやりと温かさのある愛をそそがれることによってしか癒されないということを、萩尾先生は言いたかったんではないかなー、と感じました。そういう愛が続く中で、あるとき人はふと、なにかのきっかけで、失った共感を取り戻せるときが来るのかも知れない。
 グレッグについては……。
 グレッグが自分も母親の不義の子ではないかと不安を抱いていたこと、自分は両親のようにはなるまい、愛のある家庭を作ろうと思っていたのにも関わらず妻に裏切られたこと、それはむろん同情の余地のあるところです。ですが、だからといってジェルミをあれだけ苦しめたことになんらかの弁明が許されるとは思えない……。そんなめに逢ったって、人はあんなことはしないでそれを乗り越えようとすることができるし、たいていの人はそうしています。グレッグのジェルミに対する暴行は、あれは、単にそういう理由(親や妻との確執)ではじまったとは思えないくらいひどかった。グレッグはそれだけじゃなく、なんらかの精神疾患があったんじゃないかと思う……。ジェルミは殺されるレベルには至らなかったけれど、世の中には親に殺される子どももいる、それはもうどうやったって取り返しがつかない。それを思うと、グレッグには救いは必要ないじゃないかと、わたしは思ってしまったのだけど……。(とにかくグレッグは大嫌い)

 最終回、ジェルミとイアンが語り合う中で、「残酷な神」とは、「親」であることが明らかにされます。親とは子供にとって、愛と暴力で自分を支配しようとする神だと、ジェルミは言います。
 以前、ジェルミが繰り返し繰り返しグレッグに引き寄せられてしまったのは、心の底に、自分がいつか母親・サンドラに捨てられてしまうのではないかという不安があったからで、そんな不安などなくサンドラに愛されていたら、ジェルミはグレッグの罠になんかはまらないような子どもになっていたでしょう。ジェルミはサンドラの愛を失うのが怖いので、または、サンドラの愛を得たかったので、何度もグレッグにつかまってしまったのです。
 愛を欲しがる子ども。それを非難することは、誰にもできません。子どもには、大人の愛が必要です。けれども、子どもは成長する。そして、愛を貰うことではなく、愛を与えることのほうに心をそそげるようになったとき、人は、グレッグがジェルミに仕掛けたような罠にはまらず生きていけるようになるのかもしれない。イアンが強い人間であるわけは、彼は愛を貰おうとする人間ではなく、常に愛を与えようとする人間であるからでしょう。
 イアンは生まれつき強い精神を持っていたようでもあるし、あの恐ろしいグレッグからさえも、むしろおもねるような愛を受けて育った青年です。ハンサムで若いけれど金と権力も持つ、非常に少女マンガ的な人物でもありますが、作品の上で彼が魅力的であるわけは、一番に、彼が、愛を求める人間ではなくて、愛を与える人間だからだと思います。
 ジェルミとイアンが、これからも繰り返し繰り返し思い出をわかちあうであろうというラストはロマンチックでしたが、これだけの長編なのに少しあっさりしすぎとも思いました。
 ふたりが深く語り合うシーンはどこも素敵でした。語り合うことが癒すことに一番近いのかも知れません。わたしはふたりが語っているのを、もっとずっと聞いていたかったです、萩尾先生。(7.7)