第9回

 武士がひとり、山に生い茂る蔓や雑草をかきわけて歩いてきた。
 髪はごま白、年の頃は五十の半ばだろうか。体は頑健そうでいかにも武士らしいが、道のない山に難渋しているようだ。
 武士は、傾斜の急な山の斜面を息を切らせて登り、登り切ると、深い藪に立ち止まる。そして、どこかに道がないかと辺りを見回した。
 そのとき、どこかで人の笑い声がした。声は、少年のようである。それに気がつくと、武士は動きを止め、耳を澄ませてじっとその声に聞き入った。
 声が聞こえなくなっても武士はしばらくまだ動かず、なにか考え込んでいるようだったが、少ししてやっと、思い出したように声がしたほうに歩き出した。


 陽が西に傾いた頃、額に汗をかいた健が、急ぎ足で館に戻ってきた。健の背の籠には若菜が摘んであるが、健はその籠を乱暴に降ろすと急いで納屋に向かう。
 健とじゅんは、さっき菜摘みをして帰る途中、ふとのぞいた渓流に、鮎の群を見つけたのである。じゅんはまだそこで、魚を見張りながら健が戻ってくるのを待っているはずだ。健は、暗い納屋の中で、急いで手作りの細い銛と魚籠を探した。それはすぐみつかった。それを手にして健が納屋から出ようとしたとき、突然、低く、よくとおる声が健に話しかけた。
 「……もし、そこの人」
 びくっとして、健は動きを止める。この館にやってくるのは、気のいい薬屋だけのはずだ。だが、その声は薬屋の声とは全く違う。
 そこに姿を見せたのは、健のはじめて見る、無骨な風貌の武士であった。
 「すまぬが、ここで待たせてもらっておった。そのほうは、ここに住んでおるのか」
 「……」
 「ひとりで住まっているのではあるまい。誰と住んでおる。……実は、儂は、人をさがしておるのだが……」


 「動いちゃだめだよ。じゅんなんかが動くと、やつら聡いからここから離れちゃう」
 健はそう言った。それで、じゅんは、瀬の見えるところに腰を下ろしてじっとしていたのだった。
 だが、いつまで待っても健は戻って来ない。待ちくたびれて、じゅんは立ち上がった。

 立ち上がって、じゅんは、そっと流れに近づく。魚は、少し手を伸ばせば簡単に捕まえられそうに思えた。
 健が来ないか、そっと頭をめぐらす。陽はもう暮れ始めた。暗くなったらもう、この小さくてうまそうな鮎たちは一匹も捕まえられない。
 「よし!」
 じゅんは勢いよく水に入って、流れに手を突っ込もうとした。だが、水面は静かなように見えたのに、案外に流れは速く、思うように歩けない。
 「わっとっと」
 川底の石にすべって、じゅんは水の中に転んだ。鮎たちは面白いようにすばやく泳ぎ去る。一匹が、じゅんの鼻先をかすめた。じゅんは、ようやく立ち上がった。鮎の姿は、もう、どこにもない。残念そうになにもいない流れを見つめて、じゅんは、急に胸騒ぎがした。健は、胸の発作が起こったのではないだろうか。
 じゅんはあわてて岸に上がると、館に向かって駆けだした。
 

 納屋の前に、放り投げるように背負い籠が置かれてある。手作りらしい、使い込まれた銛や魚籠も置きっぱなしだ。
 それを拾って、息を切らせたじゅんはあたりを見回す。健の姿はない。だが、どこからか聞いたことのない声がする。じゅんは、声のする方に急いだ。
 声は確かに母屋からだった。じゅんは、開けっ放しの戸口に飛び込んで叫んだ。
 「……誰だ!?」
 薄暗い土間の真ん中に、人がいる。ひとりは健で、もうひとりはどうやら武士らしい。武士に詰め寄られていたらしい健が、じゅんの声にはっとしたように顔を上げた。健の困惑した顔に、じゅんは急いで健と武侍の間に割って入った。
 「誰だ、おぬし。健になにをした」
 健をかばうようにしながら、じゅんは武士に詰問する。
 「ここはオレたちの住まいだ。狼藉をすると許さぬぞ」
 じゅんは、目の前にいる武士をにらみつけた。その相手は、ぽかんとした顔でじゅんを見ている。じゅんは、怪訝な気持ちで相手をみつめた。
 目を見開き、口を開いて自分を見つめているその相手は、ごつごつした顔の、初老と言ってよい年輩の武士だった。顔の造作は無骨だが、その表情からは人の良さがうかがわれる。悪い人間であるようには見えない。じゅんもその顔を見つめた。なつかしいような、頭の奥がしびれるような感じがした。
 「……虎之介さま……」
 武士が、震える声で呼んだ。
 「虎之介?」
 「虎之介さま! まさか、生きておいでだったとは……!」
 武士がいきなりじゅんの両腕を掴んだ。とまどったじゅんは、後ろの健を振り返る。健は、頼りない、悲しそうな顔でじゅんを見た。
 「伊武でございます! 虎之介さま。虎之介さまを子どもの頃からお世話した、伊武の顔をお見忘れか……!」
 老武士が必死に叫ぶ。だがじゅんは、健の表情が気になった。
 「健?」
 呼んだけれども健は答えない。武士が、じゅんの両腕を固くつかみ、じゅんの顔を食い入るように見つめながら、震える声を出した。
 「虎之介さま、あなたさまは虎之介さまです……」
 じゅんは、もう一度武士を見る。なにを言われているのかよくわからない。
 「まさか生きておいでとは……」
 武士の声が詰まった。じゅんと健がなにも言えないでいるうちに、武士はじゅんを目をむいて見つめたまま、うわごとのようになにごとか口走っている。
 「医師の長野でございます、虎之介さま」
 「……」
 「長野が申しました、虎之介さまに似た男に会ったと」
 「……」
 「市で、虎之介さまにそっくりの男に会ったと。その男は山で崖から落ちて、今は記憶を無くしていると申しておったと。……長野め、数度しか虎之介さまにお目通りしたことがないくせに、よっぽど目の利く男でございます」
 「……」
 そこまで言って、やっと武士にもじゅんが自分のあまりの勢いにわけもわからず呆然としているのがわかってきたらしい。まるでじゅんがどこかに行ってしまうのをつなぎとめようとするように、まだ両手でじゅんの腕を掴みながらも、武士はやっと少々筋道だった話をしだした。
 「先日、お館では、多宝丸さまの為に、久しぶりに医師(くすし)の長野を都から呼びました。……虎之介さま、長野を覚えていらっしゃいますか。若いながら腕が立つと都でも評判の医師でございます。お館の医師に手に余る重病人の出た折りに、何度か都から呼んだことがあったのです」
 「……」
 「その長野が、明日は都に帰るというときになって、考えあぐねた表情でわたし一人に申したのでございます、途中立ち寄った在の市で、虎之介さまにそっくりの男を見かけたと。しかもそれは、山で崖から落ち、記憶をなくしている男であったと。……ですが、虎之介さまは半年も前、ご修行先からお館にご帰還される途中、山賊の一団に襲われて命をお落としになったと、命からがら城に戻ったお付きの者が、そうはっきり申しておりまして、すでにご葬儀も済ませておりました。長野もそれは知っておりましたゆえ、亡くなったはずの虎之介さまが命をとりとめていたなどとはにわかに信じがたく、その場では何事もないかのようにふるまった、と申すのです」
 じゅんは、おぼろげに、市で最後に薬草を買って行った男を思いだした。おそらくあの男が、この武士の言う長野と言う医師であるに違いない。じゅんは、長野という男が自分をひたとみつめた気配、そして、笠の下からのぞいた、長野の考え深げなまなざしを思い出した。
 「その話を聞いてすぐは、伊武にもそのような話、信じられませんでした。なにせ、お付きの者は、虎之介さまが斬られて川に投げ込まれるのをその目で見たと、はっきりそう申しておったものですから。ですが、長野から、記憶を失った男が自分を”じゅん”と覚えていたことを聞き、伊武には、もしやの気持ちが生まれました」
 「……」
 「そのとき、生き残ったそのお付きの者は、虎之介さまのことを報告するとすぐ、私の目の前で腹をかき斬ろうとしたのでございました。むろん、わたくしは止めましたが、そのあとその男は虎之介さまを弔うと言って、あっという間に館を去っていってしまいました。……その様子やらなにやらよく考えれば怪しいことばかり。腹を斬ろうとしたのも、よく考えれば狂言ではなかったかと」
 「……」
 「思い起こせば思い起こすほど、わたくしには、虎之介さまが実は生きてらっしゃるのではないかと思われるようになりました。長野は、確信のない話ゆえ誰にも黙っていようと思ったけれど、悩んだ末、幼少から虎之介さまのお近くにいたわたしにだけは言っておくことにしたと申しておりました。長野はまた、もしその男が虎之介さまであったとしても、すでに別の生活をしているものを無理に館に戻すのは酷であるとも申しました。が、もしも虎之介さまであるなら、お館にお連れしないほうがよほど酷でございます。わたくしも考えましたが、信頼する方に相談し、とりあえずこの伊武がひとりで確かめてみることとなりました。虎之介さまご存命となれば、お館はたいへんな騒ぎになるのは必定です。余人に知られぬよう用心を重ね、今日は伊武一人で、まだ陽の上がらぬ暗いうちに供も連れず出かけて参りました。ですがまさか……」
 武士の目から、涙があふれだした。
 「こうして生きた虎之介さまに再びお目にかかれるとは、伊武も夢にも思っておりませんでした。虎之介さま。虎之介さまを数回お見かけしただけの長野には確信はなくとも、伊武にはすぐわかりました。間違いない、あなたさまは虎之介さまだ」
 そう言って、老武士はじゅんの片腕の袖を勢いよくめくった。
 「……失礼つかまつります。この腕の火傷のあと。もはや見分けもつかぬかも知れませんが、虎之介さまがまだ幼く准一丸さまとおっしゃっていた頃」
 「……准一丸……」
 「ご母堂さまとお住いだったお館が焼け落ちたときの痕でございます」
 「……」
 「覚えていらっしゃいますか。ご母堂さまはそのときお亡くなりになったのですよ。虎之介さま。”じゅん”という呼び名を、よくぞ覚えていらっしゃった……」
 伊武が感極まったように泣き声を出す。じゅんは、ひとごとのように淡々と答える。
 「……そこの囲炉裏の火の粉がはねたとき、思い出したのだ。遠い昔、「じゅん」と呼ばれたことがあったのを……」
 「そうでございますか。……ご母堂さまが火の中から准一丸さまを呼ばわれていたお声。それを覚えておいでだったのでしょう。ご母堂さまの最期は、伊武も思い出します。あのとき、伊武には幼い准一丸さまを助けるのが精一杯で、ご母堂さまのことはお助け申し上げられませんでした。伊武にもほれこの通り」
 伊武は、自分の胸元をはだけて見せた。
 「火傷の痕がございます。その折ついたものでございます」
 「……」
 じゅんは黙った。伊武と名乗った武士も黙り、鼻をすすった。今までじっと身動きもせずうつむいていた健が、急に外に出ていこうとする。
 「健」
 あわててじゅんが声をかけると、健はじゅんを見ないまま、
 「もうすぐ剛が帰ってくる」
 と言った。夕飯の支度でもするつもりらしい。そのまま健は出ていった。まだ涙で目を潤ませながら、伊武は健の後ろ姿を見送り、小声でじゅんに尋ねた。
 「虎之介さま。あの者は」
 虎之介、と言うのは、まだ他人の名に聞こえた。だが、伊武が自分を見ているので気がつき、じゅんは答えた。
 「健のことか」
 「けん、と申すのですか。はい、あの者は何者ですか」
 何者とは仰々しいと、じゅんは思った。だが、伊武という武士の、武士らしい一徹な様子には、いつか親近感が沸いていた。自分の忘れ果てていた母の話、そして、幼い自分を助けたという伊武の胸の傷。それは、嘘ではないだろうと思えた。じゅんは答えた。
 「……健と剛は、この館に住んでいる。健と剛のふたりが、山で崖から落ちたオレを助け、介抱してくれたのだ。ふたりがいなかったら、オレは山でそのまま死んでいた」
 「……そうでございましたか……」
 伊武は、健の去った方を見て、何度もうなずいた。
 「このような物の怪でも住むかと思う山奥にいて、感心な者どもでございますな。のちほどたっぷり褒美を取らせましょう」
 「……」
 「ですが、あの者。虎之介さまがお戻りになる前、わたしが山で崖から落ちたという者を知らないかと尋ねた際は、貝のように口を閉ざしてしまいましてな。ひとりで住んでいるのではなかろうと言うのに、強情極まりない態度でございました。口が利けぬのかと思いました。やはり、このような山奥に住む者は、どこか尋常ではないのでしょうな。虎之介さま。こんなところで、さぞつらいめにも会われたのでしょう……」
 「……」
 じゅんが返事できないでいると、伊武は、急にかしこまり、土間に座り込んだ。なにをするのかとじゅんが見ていると、伊武はそのまま土間に頭をつけて、じゅんの前にひれ伏した。菜を入れたままの背籠を持ってきた健が、その様子を見て驚いて立ちすくんだ。だが、伊武は健になどかまわず、頭を下げたままじゅんに言った。
 「虎之介さま。長い間、たいへんなご苦労をおかけしました。まさか生きていらっしゃるとも思わず……。どうしてもっとお捜ししなかったかと、伊武、悔やんでも悔やみきれません!」
 「……」
 「虎之介さま、どうぞこの伊武をお許し下さい。そして、伊武と共に山をお降り下さい。伊武、この通りお願い申し上げつかまつります!」
 じゅんは身動きも出来ず武士を見た。それから視線を健に移す。すると、ちょうど健も目をあげてじゅんを見たところだった。
 「健」
 呼ぶと、健は何も言わずに目をそらした。伊武が、正座して両手をついたまま、請うようにじゅんを見ている。じゅんは、尋ねた。
 「伊武、と言ったな」
 「はい」
 「おぬし、オレは幼名を准一丸、そして今は虎之介という名だと言うのか」
 「は」
 「……ならば、オレの姓はなんと言うのだ」
 じゅんに尋ねられ、伊武はひたとじゅんを見つめ返して、答えた。
 「岡田でございます、虎之介さま。あなたさまは、先の国主さまの孫、現国主岡田敦啓さまのいとこにあたる方でございます」
 それを聞いて、じゅんも、健も、黙った。伊武も、もう言葉を重ねず、ただじっとじゅんを見つめている。だが、声がした。
 「おい、……帰ったぞ」
 「剛」
 「剛!」
 健とじゅんが、一緒に剛の名を呼んで振り返った。剛が、戸口に立ち、じろりと中を見回した。剛を見て、健が、少し生気の戻った顔になった。
 「帰ってたの。あの、今、じゅんの」
 「……ほらよ」
 剛が、しとめた獲物を、血が付いたまま、健の足元に放り投げた。
 「すぐ血を抜いとけよ。生臭くなる。もう暗いから、さばくのは明日でいい」
 「……うん」
 そう答えながら、健はじゅんと伊武の方をちらりと見て、動かない。
 「聞こえなかったのか、健」
 剛が怒鳴る。
 「だって」
 「いいから、外に行け」
 健を追い出すと、剛は今度はじゅんの顔を見た。 
 「どうした、じゅん、おまえは行かないのか」
 土間に座り込んだ伊武を無視して、剛が言う。
 「こういうときは、いつも健といっしょに行くじゃねえか」
 「……剛」
 なんと説明すればいいのかよくわからない。じゅんは口ごもった。
 「どうしたよ」
 そう言いながら、剛は、いつものように、山で使った用具を片づけ出した。じゅんは思い切って、剛の後ろ姿に声をかけた。
 「……剛、オレの素性を知るという者がやってきたのだ」
 「へえ」
 興味なさそうに、剛は言った。
 「……そいつか」    
 やっと剛が伊武の上に視線を落とす。じゅんはうなずいた。
 「そうだ。……剛、オレは」
 「さっき外で聞こえたよ。でけえ声だったからな。そいつ、おまえが国主さまのいとこだとか言っていたな」
 「……」
 「んなことあるわけねえだろ。冗談もたいがいにしろって言うんだ。頭おかしいんじゃねえか、そいつ」
 鼻で笑うような剛の言葉に、今までどうにか黙っていた伊武が、とうとう気色を荒げて片膝をついた。
 「冗談ではない! そのほう、武士がこのようなことに戯言を言うと思うのか!」
 だが剛は、全くひるまなかった。平然と言い返す。
 「冗談じゃねえって言うのか。じゃあ聞くが、そんなえらい方が行方が知れなくなって、どうして今まで誰も捜しに来なかったんだ。え?」
 「……それは」
 伊武が言葉につまる。
 「変だろ。だからオレは冗談だと言ったんだ」
 「……虎之介さまは亡くなられたと報告するものがあったのだ。我らはそれを信じてしまった……」
 伊武が、言い訳のように小さな声で言ったが、剛は続けた。
 「それに、じゅんが生きていたと知って、あんたみたいな人が来るのも変だ。こういうときは、親とか兄弟とかが、人違いかも知れないと思っても、飛んで来るものじゃねえのかい」
 「虎之介さまのご両親さまは、すでに亡くなられている。虎之介さまをかわいがっておいでのお館さまも亡くなって、虎之介さまには、もう、お身内の方はいないのだ」
 伊武が、きまじめらしく返事する。
 「……へえ」
 「考えてみれば確かに、突然のことでおぬしたちがすぐには信じられぬのも無理はないかも知れぬ。だが、ここにいるお方は、確かに岡田虎之介さまだ。臣下たりとは言えこの伊武雅刀、岡田家に伊武ありと知られた武士である。虎之介さまがご存命やもしれぬとわかってここに向かった気持ちは徒やおろそかではない」
 剛は、ちょっと眉を上げて伊武を見て、それから、もう獲物の血抜きは終わったのかどうか、戸口に突っ立って心配そうに話を聞いていた健の方を見た。
 「なにやってんだ、健。夕飯はどうなってるんだ」
 「……」
 健は、どうしていいかわからぬように、泣きそうな顔でじゅんと伊武を見やった。
 「……だって、今それどころじゃ……」
 「別にかまわねえだろ、じゅんがどこの誰だって。じゅんは死んだと思われて、それで誰もがうまくやっていたんだ。聞けば、親兄弟もねえって言う。前に決めたとおり、じゅんはここにいればいいだけじゃねえか」
 剛の言葉に、健は、きょとんとした表情になった。
 「え……」
 剛は、口をあんぐり開けた伊武に向かって、まるで簡単なことのように言った。
 「わかったよ、お侍さん。あんたの言うことを信じたよ。けどよ、今言ったとおりだ。だいたいじゅんは、あんたたちの顔も覚えちゃいないんだ。今さらお館なんかに住めねえよ。じゅんは今までどおりここに住んでたほうが、なにもかもうまく行くじゃねえか。それでいいだろう。さあ帰ってくれ」
 「さ……」
 伊武の顔が、見る見る紅潮した。
 「左様な理屈がとおる訳がなかろう! 虎之介さまは、国主になる資格さえお持ちだった方なのだ。今でも、敦啓さま、多宝丸さまに次ぐご身分であることにお変わりはない。虎之介さまは、もはや一刻もこのようなところに長居するわけにはいかんのだ。……虎之介さま、どうぞお身支度を。このまま伊武と共にお帰り下さい」
 「……」
 じゅんは、黙ったまま、立っていた。
 「じゅん」
 心細い声で健が呼び、じゅんは健の方を見た。じゅんは、健にだけ言うように、言った。
 「……それがオレの身元なら、オレは行かねばならぬ……」
 健は答えず、剛は、ちっと舌を鳴らして、そっぽを向いた。じゅんは重ねて言った。
 「己の身元がわかったと言うのに、このままここで剛と健と暮らすわけには行かぬ」
 「虎之介さま……」
 伊武が、ほっとしたようにじゅんを見る。
 「やはり、虎之介さまです。おわかりいただけると思っておりました……」
 「おまえが健とした、ここで暮らすという約束はどうなったんだ」
 剛が冷たい声で言った。じゅんはしばし、答えられなかった。だが、しばらくして、じゅんはきっぱりと言った。
 「それは、身寄りが見つからなかったときの話だ。こうしてオレを知るという人間が現れた以上、オレは以前のオレから逃げるようなことはできぬ」
 それを聞いて、剛の口元がゆがんだ。
 「……へ。そりゃあ、ご領主さまのお血筋だって言われちゃなあ。……もう、こんな山の中では暮らせねえってわけか」
 嘲笑する剛に、じゅんの目が怒る。
 「剛は、ほんとうにオレがそんなことを考えていると思っているのか」
 「……ふん」
 剛はもう、話に乗らない。
 「そうと決まれば。虎之介さま。伊武はここでお待ち申しますゆえ、どうぞお支度をなさってください」
 伊武が、気ぜわしく言った。


 おまちどおさま、第9回です。なんかバタバタして「風の行方」のアップ遅くなりました。
 これからまたよろしくお願いします。

(2000.5.16 hirune)

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