第8回

 だが、剛がそう言ったところで、店先に新しい客が立ち止まった。それで、剛もじゅんも、口を閉じた。
 旅の途中らしい、笠をかぶり箱を背負った男が、立ち止まって薬草を見ている。男の様子を見て、剛が話しかけた。
 「お客さん、素人じゃねえだろ」
 「……」
 男が、片手を笠にかけて、ちらっと剛を見た。
 「その背中の箱。薬箱だろう。あんた、薬屋かい?」
 「……」
 男は黙ったままだ。剛は、にやりと笑って薬草を指し示した。
 「これは心の臓に効く。ちいっと高価いが、それだけのことはある薬草だぜ? 一束銀二枚でどうだ」
 じゅんは内心驚いて剛を見た。それは、今までの客に言った売値の倍以上だったからである。
 「……ふむ」
 男が草を手にとってうなずいた。
 「まだ少々若い草だがな」
 「ああ、まあな」
 剛が答える。
 「それはしょうがねえ。一番いいのは別に売るところがあるから」
 男はうなずくと、残りの薬草を、すべて剛の言い値で買おうと言った。懐から金を出し、それを剛に渡しながら、男は、ふと、じゅんを見たようだった。そのまま男の視線が止まる。
 「?」
 じゅんは、その視線を不審に思い、笠の影でよく見えない男の瞳を見返した。金を数え終わって顔を上げた剛が、ふたりのようすに気がついて、低く抑えた声で男に尋ねた。
 「……お客さん。もしかしてこいつの顔、どこかで見たことでもあるのかい?」
 剛の言葉にはっとして、じゅんは、もう一度男を見た。男はしばらくの間表情を変えずにじゅんを見ていたが、やがて、つぶやくように言った。
 「……見知っている方に似てはいるが……」
 「知っている方……?」
 だが、剛の問いに、男は、結局、首を横に振ってこう言っただけだった。
 「他人のそら似だろう」
 「……そうか……」
 「どうしてその男を知っているかと尋ねた?」
 薬草を薬箱にしまいながら、逆に、男はなにげなさを装ってふたりに尋ねた。じゅんは剛を見る。剛は、用心深い声で男に答えた。
 「こいつ、秋に山で崖から落ちて……、それまでのことをなにも覚えちゃいねえんだ。それで身寄りを捜している」
 「名前も……? なにか手がかりはないのか」
 「名前を”じゅん”とだけ思い出した。だがそれも、ほんとうに自分の名前かどうかはわからねえけどよ」
 「じゅん……」
 男は考える。
 「じゅん、か」
 「そうだ」
 剛とじゅんが、男を見つめた。だが、男はそのまま薬箱を背負って、言った。
 「山で行方知れずになった者を知らないか、顔見知りに尋ねてみてやろう。だが、その男がわたしの見知った方でないことは確かだ。その方は、確かに亡くなって弔いも済ませたという話だからな」
 「……」
 剛とじゅんは顔を見合わせた。
 「死んだ人間と似てるってのも気色が悪いな」
 剛がつぶやく。
 男は、最後にもう一度じゅんの顔をひたと見つめたようだった。笠の影なので、はっきりとはわからない。だが、じゅんは、男の強い視線を感じた。歩きだそうとしながら、男は、ふと思いついたというように、剛に尋ねた。
 「それにしても、薬草売り、おぬしいい草を売っているな。どこに住んでいる」
 男が尋ねた。剛が、自分たちの住処を簡単に教えると、男は何度か確かめるように場所を聞き直した。
 「わかった。できればもっとこの草が欲しい。折を見て寄るかも知れん」
 言い捨てて、最後にもう一度、男が剛とじゅんを見た。そのときやっと、笠の陰から、男の思慮深そうな顔が見えた。
 男が去り、気がつくと、あたりの小さな店は、大部分が店じまいをはじめていた。もう今から来る客はいない。剛が言った。
 「今の、なかなかいい客だったな。全部いい値で売れた」
 「……」
 「あいつ、もしかしておまえを知ってるのかと思ったが、やっぱり、おまえの身寄りなんか見つかりそうもねえな」
 「……」
 「店じまいだ。そして、じゅん、おまえはオレと山へ帰る。健とした約束を覚えてるだろう?」
 じゅんはうなずいた。
 「おまえが帰れば、健は喜ぶだろうな」
 剛は、ひとりごとみたいにつぶやいた。
 すべて片づけると、軽くなった荷を背負い、ふたりは黙って暮れた山道を帰った。何里もの山道を歩くうちに夜はとっぷりと更けていったが、剛は、なにも迷わずにじゅんの前をずんずんと歩いた。
 足音など立てているとも思わなかったのに、ふたりが戸口を開けるよりも先に、健が飛び出してきた。
 「じゅん!」
 そう言って、健は、剛よりうしろを歩いて来たじゅんに飛びついた。
 「オレ、帰ってくると思ってたよ!」
 たった一日山を離れただけなのに、健の顔がなつかしく思えた。そんな自分をおかしく思いながら、じゅんは答えた。
 「ああ。健、どうやらオレは、ここで暮らすしかなさそうだ」
 健がうれしそうに笑う。
 「そうだよ。オレたち、ここで暮らすしかないんだ!」
 「……オレたちにはここしかねえ、か」
 にが笑いをしながらそうつぶやいて、剛は、ふたりの脇をすり抜けて、先に館に入っていった。じゅんの手を引きながら、うきうきと健も後に続いた。


 次の朝、じゅんが気持ちよく目を覚ますと、あたりはもう明るかった。
 朝餉の煮える匂いがした。じゅんは急いで起きあがった。今までこんなに寝坊をしたことはない。
 ちょうど水を汲んで帰ってきた健が土間に入ってきたところだった。じゅんが起きたのに気がついた健が、元気に声をかける。
 「じゅん、おはよう」
 じゅんはあわてて土間に降り、水をたっぷり入れた桶を健が肩から外すのを手伝った。
 「水汲みには健ひとりで行ったのか。すまぬ。起こしてくれればよかったのに」
 「平気だよ、じゅんは昨日遠出したから疲れたんだろう。市までの山道を往復するの、剛には平気でも、じゅんにはたいへんだもん」
 「疲れてなどおらぬ」
 じゅんが強く言うと、健は、桶の水を瓶に注ぐ手を止めて、じゅんの方に向き直った。
 「じゅん」
 なんとなく、改まった声である。
 「なんだ」
 「オレ、前からじゅんに言おうと思って言わなかったことがあるんだ」
 「……?」
 「でも、昨日で、じゅんは、ほんとにオレたちと暮らすことになった。だから、言うよ」
 「……」
 「じゅんは、オレたちに弱音を吐かないね。最初からそうだ。なにもかも忘れるくらいの大怪我をしていたっていうのに、じゅんは痛いともつらいとも言ったことがない。今だってそう」
 「……」
 「これからそういうのやめてよ。誰だってつらいときはつらいんだよ。疲れることだってあるよ。そういうとき、ちゃんとそう言ってよ。これから、オレたちに世話になってるなんて思うのやめて欲しい」
 「……」
 「オレたち、誰が誰の世話をしてるわけでもないってこと。3人で暮らすのが当たり前だからじゅんもここで暮らす。それだけ。わかった?」
 「……」
 じゅんが返事をしないと、健は言うだけ言ったという顔でじゅんを見て、再び水桶を手に取ろうとした。だが、先に桶を手に取ったのは、じゅんだった。残りの水を瓶にあけながらじゅんが言った。
 「それは、オレも言いたかったことだ」
 「え?」
 「健の病がひどかったときは、オレもどうすればいいのかわからなかったぞ。剛には言うなと言うし、オレひとりではどうにも出来ぬし。もうこれからは、ああいうことでは健の言うことは聞かぬ」
 「……」
 「遠慮しないでなんでも言う」
 「……なんだよ、それ。立場が逆じゃないか!」
 「だって、オレも言いたいことを言ったほうがいいんだろう」
 口をとがらせた健を見て、じゅんはそう言って笑った。
 天気がいい。爛漫とした春の気配が山を包んでいる。
 屋敷を出ると、健が、山に行きたい、剛のいるところまで行ってみようと言い出した。じゅんは健の体を気遣ったが、健はすっかり元気なようすだった。春の陽気がじゅんの気持ちも引き立てていた。もし具合が悪くなったら、それこそ強がらないでちゃんと教えると約束させて、じゅんは健と共に、若い緑の山を歩いた。
 道はないが、健は歩きやすい場所を知っていた。空は晴れ渡り、一足ごとに、見晴らしが良くなっていく。清々とした山の気配に、息を弾ませながらも健はじゅんを見て笑った。
 「たぶん剛、こっちに来たと思うんだけど……」
 かなり長い間山を登ってから、額の汗を手の甲で拭きながら健が言った。そうは言っても、剛の姿は見あたらない。じゅんが木々の合間を見回していると、木の陰をのぞいていた健が、じゅんに声を出さないように合図をしながら、小さく手招きをした。
 健がのぞいている後ろから、じゅんもそっと崖下をのぞいた。渓流沿いの若い緑の中にに、この春に生まれたばかりらしい子鹿がひょこひょこと歩いているのが見えた。子鹿は岩にでも引っかけたらしく、後ろの片足を血で染めている。
 親をさがしているのだろうか、子鹿は立ち止まってあたりをキョロキョロと見回した。
 そして、不意に子鹿はこちらを見た。健とじゅんの気配を親かと思ったように、子鹿は二人がいる方をじっと見上げている。
 健とじゅんは、息を飲んで子鹿を見返した。だが、それも一瞬だった。子鹿は耳を立てて振り返ると、今度は脚をかばいながら走り出した。見ると、母鹿が姿を見せている。子鹿は母鹿に身を寄せると、すっかり甘えたようすである。母鹿はすぐに子鹿の異変に気がついた。長い首を下げ、母鹿は子鹿の怪我をなめはじめた。
 上へ下へと母鹿は、丁寧にゆっくり子鹿の傷をなめる。その間、子鹿はおとなしくされるままになっていた。とうとう母鹿がなめるのをやめた。やめると急に、自分が先に立ってさっさと歩き出す。子鹿は、おずおずとだが、怪我をした脚を地につけると、母鹿のあとをついて歩き出した。そのまま二匹はゆっくりと木立の影に隠れていった。
 「……すごいね」
 健がつぶやく。
 「お母さんがなめたらすぐ治っちゃった……」
 「……」
 「お母さんって、いいものだね……」
 じゅんがそれに答える前に、不意にうしろから声がした。
 「なんでおまえらがここにいる」
 振り向くと、剛がふたりを睨んでいる。
 「これからオレたちも山に来ることにしたんだ」
 立ち上がった健が、剛に答えた。
 「もう、オレ、病気じゃないし。山で剛の手伝いもできる」
 「バカ、ちょっと良くなったからって調子に乗るな」
 剛が嫌な調子で言う。
 「何年もの間にだんだんに悪くなった病だ。時にはちょっと良くなったように思えるときもあるんだ」
 「そんなことないよ」
 健が言ったが、剛はじゅんの方を見て、鋭い声を出した。
 「じゅん。おまえがついていながら、なんで来させた」
 「……すまぬ」
 じゅんは謝った。自分は、この半年足らずの間しか健を見ていない。春からこちら、健のようすが良くなったので、すっかり安心していた。だが、言われてすぐ、剛の言うことが正しいと思った。
 「じゅん、謝らなくていい!」
 今度は健が怒鳴る。
 「オレが来たいって言ったんだ。じゅんは悪くない。それに、じゅんは、これからずっとオレたちと暮らすんだから、剛もじゅんのことをそんなふうに怒りつけたりしないで」
 「……なに言ってんだ、おまえ」
 「そういうことにしたの。ね、じゅん」
 「……」
 「おまえら、なにか企んでるんじゃないか」
 剛が、疑い深そうに健とじゅんを見比べる。健が、珍しくにやっと剛を見ながら言った。
 「企んでるよ。もう、オレ、剛が怖い顔しても平気だもん。じゅんがいるし」
 それを聞いて、剛は、ケッという顔をした。
 3人は木立の中を歩き出した。剛と健はケンカをしているように見えても、実はそうではないのだということは、じゅんにもわかっていた。事実、もう健は、剛の隣を楽しそうに歩いている。剛も、健が元気なので、それ以上はなにも言う気はないらしかった。健の好きにさせて黙って歩いている。
 「すぐ薬屋さんが来るよ」
 そう言って健はじゅんを振り返った。
 「薬屋さんてすごくいい人なんだよ、じゅん。今まで一度だってオレたちに嫌なことを言ったことはない。とてもやさしい。じゅんもそうだ。我慢強くてやさしい。オレ、いつもじゅんをすごいなあと思ってたよ」
 「……」
 「剛。じいちゃんはオレたちにいつも、人と交わらずに暮らせと言っていた。オレもその方がいいんだとずっと思いこんでたけど」
 「……」
 「世の中には、いい人もいっぱいいるのかもしれないね」
 「その通りだ」と答えたかったが、じゅんは黙っていた。健は剛に言ったのだ。しばらく歩いて木立を抜け、見晴らしのいい高台に着いたとき、剛は、目を細めて遠い山々を眺めながら、言った。
 「健。薬屋は、いい薬草を買いたいからここに来る。じゅんは、帰るところがないからここにいる。ふたりとも、それだけだ」
 「……剛!」
 剛の言葉に驚いて健が叫んだ。
 「違うよ、じゅんはオレたちと」
 「違わねえよ、健。だけど」
 「……」
 「オレは、それでいいと思う。薬屋とじゅんはオレらに石も投げねえし、オレらを鬼だと後ろ指を指しもしねえ。このふたりはこれからもオレらを裏切らねえと、それは信じてもいいんじゃねえかと思う。けど、オレは他の人間まであれこれ信じようとは思わねえ」
 「……」
 「それがオレの気持ちだ」
 「……」
 健がその言葉を考えるような表情になると、剛は、健に少し笑って見せた。
 「どうだ、健、久しぶりにここに来たろう。ここは、山でも一番景色がきれいだって言って、おまえが好きだった場所だ。覚えてるか」
 「……覚えてるよ。オレ、うちで待ってても、いつも剛と一緒に山に来てるつもりだったもん……」
 そう言って健はあたりを見回す。さわっと風が吹いて、健の髪をなびかせた。下方に目をやると、麓を流れる川や山陰にへばりついた小さな村落が見え、顔を上げるとどこまでも青い空、そして連なる山の峰々の向こうに湧く雲が見えた。咳の発作が出るようになるまえは、健もよく剛と並んで見た風景だった。健は、久しぶりのその光景に見とれた。
 健が振り向いて、「ここの景色はちっとも変わらないね」と言おうとしたときだった。不穏な気配に、健はもう一度谷の方に目をやった。不思議な、灰色の渦巻きが目に入った。それと共に、なにかが突きあがってきて、目の前が暗くなる。
 「健!」
 剛の叫び声が聞こえた。
 「わ」
 健は、あわてて腕で目をかばった。
 突然、渦巻く谷風が、健をめがけて吹き付けてきたのである。
 目を開けていられない。身動きも出来ない。風に連れ去られると思ったとき、健はしっかりと両脇から、腕をつかまれ、肩を抱かれた。
 吹き飛ばされそうな突風が過ぎて、やっと健が目を開けると、隣には剛がいた。じゅんもいる。ふたりが健を支えていてくれたのだ。
 「危なかった、健。崖から落ちるかと思った」
 じゅんが、胸をなで下ろすように言う。
 「なんだ、あの風」
 風の消えた方を見て、剛は不服そうにつぶやいた。
 「ここはあんな風の吹いたりする場所じゃねえのに……」
 健が目をやると、まだ峰と峰の間に風が渦巻いているのが見えた。だがすぐにそれも、いずこへかと消えた。
 健がいくら待っても、気のいい薬屋はなかなか来なかった。
 そのかわり、誰も予想しなかった来訪者が山の館を訪れた。

(つづく)


 あのですねー。ヒロシ登場したのですよ(小声)。あの男ね。ほんと友情出演って感じですね。(ごめん)

(2000.4.24 hirune)

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