雨は止んだものの、館を包むどんよりと厚い雲は、動かなかった。
「今日も天気が悪いね」
「変な風も吹いてるし」
空を見上げながら、若い下女達が桶をかつぎ、井戸に水を汲みに来た。そこへ、あたりを見回しながら館の従僕がやってきて、声をかけた。
「おい、今こっちに誰か来なかったか?」
「誰かって?」
下女のひとりが聞き返す。
「さっき人影がこっちに入るのを見かけたんだが、誰もいないんだ」
「なにも見かけやしなかったよ」
「猫かなんかじゃないの」
「そうかな……」
男が首をひねっていると、昼だというのに暗い空から、急になま暖かい風が吹きつけて来る。
「ああ、いやだ」
女達は、髪を押さえる。
「薄気味が悪い風なんだもの」
「……なんか妙なことが起こらないといいけど」
「なんだ、それは」
男が下女達の言葉を聞きとがめると、下女達は、「だって」と身をすくめた。
「この頃お殿様は人の血を見るのがお好きだって言うから」
「あたい、なんだかこのお館がこわくなってきちゃった」
「この天気。死んだ人の祟りでもあるんじゃないかしら」
それを聞くと男はきまじめそうに、
「滅多なことを言うな」
と下女達をにらみつけた。
「殿は戦のことで気が高ぶっておられるだけだ。……そのようにくちさがないことを言いふらしていると、おまえたちもただではすまされぬぞ」
女達は震え上がり、ひとりがあわてて言った。
「言いふらしてなんか。……ねえ」
もうひとりも、懸命に首を振る。
「ただ、天気が悪いねって、そう言ってただけだよ。あたいたちはなにも言ってない」
男はふたりをにらみつけながらも、
「二度と言うなよ。……井戸で水を汲んだら早く戻れ」
そううながした。女達は、おびえた表情で井戸に向かって小走りに駆けていく。
見送りながら男は、ため息をついた。
「下女どもまでがさような殿の噂を口にしておるとは」
男は、空を見上げた。
「小国相手に一度勝ったからと言っていつまでも喜んでおるわけには行かぬものを。……確かに嫌な空模様だ」
空模様は変わらず、風だけが強くなっていって、そのまま日は暮れていった。
「いったい今日はどうしたって言うんだろうね」
皿を洗いながらうとうとしている小女(こおんな)を見て、奥に出す料理を作っていた賄い女が悪態をついた。
「小女達があっちでもこっちでもみんな居眠りするか、具合が悪いと言ってるよ」
そう言って、女は自分も、眠気を振り払うように頭を振った。
「この天気のせいかね。それともなにか病でも流行るんじゃないだろうね。なんだってこう眠いんだか」
「奥でも皆様、なんだか眠そうな顔をしておられるわ。北の方さまも早々とお部屋にお引き上げになって」
ちょうどやって来た奥女中が、言った。
「お医者さまが言ってたのを聞いたけど、なんでもこの眠気は、天気のせいだそうよ。こんな天気が続くと誰でも体の調子がおかしくなるのですって」
賄い女は振り返って、気心の知れた奥女中に向かって、言い返した。
「でも、あのお医者さまは当てにならないんじゃないですかね。だいたいあの医者じゃ、多宝丸さまの体のお弱いのはちっともよくなられない。都から長野さまが来てお薬を煎じたときは、多宝丸さまの具合もよくなっておいでだったのに。あんなに賢いお子だのに、しょっちゅう寝込まれて、これではおかわいそうです」
「確かにそうだわね。……でも、北の方さまが男子をご懐妊になれば、ご妾腹の多宝丸さまは、賢いだけに松本さまには邪魔な」
そう言って奥女中は、はっとしたようにあたりを見回した。だが、眠そうな小女達は、そんな話などなにも聞いていないようすだった。奥女中と賄い女はふたりでうなずきあい、話をやめた。奥女中は、姿勢を正して賄い女に言いつけた。
「今日は松本さまが重嗣さまとご一緒に宿直(とのい)なされますから、そのぶんのお酒を用意しておいてね。じきに人を取りによこしますから」
小間使いは去り、賄い女は、眠り込んでいる小女達を振り返ると、叩き起こして酒を用意させた。
「これでいいかね」
賄い女はひとりごちた。
「今のうちにあたしはちょっとだけ休んで来よう。でも、おまえ達はここでちゃんとお酒の番をしてなきゃいけないよ。わかったね」
小女達は眠そうな顔で、うなずいてみせる。だが、口うるさい賄い女が姿を消すと、小女達は、すぐにまた居眠りを始めた。
「起きろ、起きろっ」
男達の叫び声と共に、大勢の人間の走り回る足音が館に響いた。あちこちに、ぽっと灯りがともった。
「誰かいないか!」
「殿がご不例じゃ!」
「殿が血を吐かれた!」
足音と足音が、廊下でぶつかりあう。
「松本さまもじゃ」
「松本さまもお苦しみだ!」
「医者を呼べ!」
「早う!」
「誰か、誰かいないのか!」
だが、人々が騒ぎ、あわてふためいているのは、夜に沈む広い館の、ほんの一角でのことにすぎなかった。
館の隅の暗い部屋で眠っていたひとりの男の子が、遠い騒ぎの物音で目を覚ました。
「乳母や、乳母や」
男の子は、か細い声で乳母を呼ぶ。
だが、その声に答える者は誰もいなかった。
「乳母や、どこ」
男の子が立ち上がる。
「……みな、多宝丸をおいて、どこに行ったのじゃ?」
不審そうにあたりを見回しながら、男の子はひとりで、外廊下に出た。
遠くに人の騒ぎ声と、動き回る影が見えた。
男の子の母親の寝所は、別の棟にあった。
「母上」
男の子は心細そうにあたりを見ながら、母親の寝所に向かって歩き出した。
なんだかいつもと様子が違うのは男の子にもよくわかる。
誰もいない薄暗い外廊下をはだしで歩きながら、男の子は立ち止まった。
誰かがこちらを見ている。
「誰じゃ」
心細そうな声ではあるが、いかにも武家の子らしく、男の子は誰何した。
「誰じゃ。このような夜更けに、そんなところでなにをしておる。疾く我が前に出て参れ」
次第に肝が据わったのか、男の子の声がはっきりしてくる。
中庭の植え込みの影から、ほっそりとした人影が、するりと出てきた。
「……オレのこと?」
外廊下につり下がった灯籠に、そう言った人影の顔がほのかに浮かび上がる。毛皮で作った着物を着ていたが、その顔立ちは、美しく優しげだった。悪い人間には見えなかったが、まだ警戒して、男の子は尋ねた。
「……そなたは誰じゃ」
「……オレ?」
そう言って、相手は、少し考えるようにする。そして、顔を上げると、にっこりと笑った。
「オレは鬼だよ。……あんたは誰?」
オニ? ……聞き間違いかと思いながら、小さな子どもは相手の微笑みに圧倒されて、答える。
「……多宝丸」
「たほうまる」
相手は、口の中で、その名前を繰り返した。そして、さっきまでと違った瞳で子どもを眺めた。
「ずいぶん立派な名前だね。偉い人なんだ?」
「多宝丸は、領主、岡田敦啓が一子じゃ」
多宝丸がやや胸を張って答えると、
「へええ」
相手は感心したように言った。
「じゃあ、ここの若様なんだね」
多宝丸はうなずく。相手はうれしそうに多宝丸に近づき、身を低めて、多宝丸の顔を見上げた。
「若様こそ、こんな夜中にひとりでどうしたの?」
美しい瞳にのぞき込まれ、尋ねられて、子どもは、とまどう。
「……わからぬ。わしは昼中熱が出て、伏せっておった。ふとのどが渇いて目が覚めたが、側に誰もおらぬ」
そう言って多宝丸は、急に、乳母も母親も見つからない心細さを思い出した。
「……なにがあったのじゃ? そなた、なにか知っておるのか? 向こうの騒ぎはなんじゃ?」
心細そうに自分を見つめる子どもの瞳を、鬼と名乗った若者は、じっと見つめた。
「おまえ、じゅんに似てる」
「……え……?」
どこかで、騒ぎ声が大きくなった。
さっきまでと比べものにならない悲鳴が湧き起こる。
「火が!」
そんな声が聞こえた。
「火事じゃ、逃げろ!」
「ダメだ、こちらからも!」
子どもははっとして悲鳴の上がった方をみつめた。
気がつくと、焦げ臭い。パチパチとものの燃える音もする。あたりは異様な気配に包まれはじめていた。
だが、目の前の若者は、なにひとつ動揺しなかった。
「大丈夫、なんでもないよ」
落ち着いてそう言って、若者は、子どもに言った。
「おまえのことを助けてあげるよ」
「……!?」
「ここの若様なら、ほんとうならどんなに苦しめて殺してやってもいいんだ。じゅんや剛がそうされたみたいにね」
そう言うと、子どもを見つめる若者の瞳が妖しく光った。
「……でもおまえ、じゅんに似てる。子どもだし、助けてやってもいい」
「……」
「オレとおいで。山の館で暮らすんだ。おまえも鬼になればいい」
子どもは、若者の目に魅入られたようにふらふらと若者に近づきかけた。だがそのとき背後からごおっと恐ろしい音がして、子どもは振り返った。戸を突き破った火から、熱風が吹き付けてきた。
「ほら、こっちだよ、おいで」
赤々と燃える炎に顔を染めた若者が、子どもを手招きした。
「わかったろう、もう戻れないんだ。早くこっちに」
だが、子どもはもはや若者の言う言葉を聞いてはいなかった。
どこからか、
「多宝丸!」
必死に子どもの名前を呼ぶ女の声が聞こえた。
「母上!」
子どもは叫んだ。
「母上!」
子どもは叫びながら、母親の寝所のあるほうに駆け出す。だが、館の中はもう、どこも煙にまかれていた。
「バカ……!」
若者は、子どもの愚かさに驚いて叫んだ。子どもは振り向かない。
「多宝丸!」
健は叫んだ。
「戻れ! 危ない!」
あちこちで人の叫び声が聞こえ、燃え尽きた柱の倒れる音がした。
健は、今夢から覚めた人のように、呆然と館の燃える光景を眺めた。
気がつくと、多宝丸の姿はもう、煙の中に見えない。
「多宝丸!」
健は、不意に咳き込みながら、多宝丸の後を追った。
紅蓮の炎。すべてを灼きつくす熱。
どこかで、子どもを捜す声が聞こえる。
「多宝丸さま!」
「多宝丸! どこ!」
だが、煙に巻かれ逃げ場を失った多宝丸を見つけたのは、健だった。
「多宝丸!」
健は叫んだ。
「早くこっちへ!」
だが、子どもはまだ母親を捜そうとするように、辺りを見回した。健は叫ぶ。
「大丈夫だから! 母上は向こうでおまえを捜している!」
それを聞いて、子どもは健のほうに駆け寄った。
だが、そのとき、がらがらと音を立てて、天井が崩れ落ちてきた。
「危ない!」
健はとっさに駆け寄って、子どもをかばった。
健の下にされた子どもは、なにが起こったのかわからないように健の顔を見上げた。
「……大丈夫か」
健の問いに、子どもはうなずいた。
「早く、あっちに。庭に出れば人がいる。裏門に逃げろ」
子どもはまだ、健の顔を見ている。
「早くしろ!」
健は子どもを押し出した。
「多宝丸!」
外からまた、女の叫び声が聞こえた。子どもは煙の中に立ち上がり一度健を振り返ると、あとはもう、後ろも見ずに声のしたほうに駆け出した。
多宝丸が去ったのを見ると、健は、苦しげに立ち上がろうとした。だが、今どこかを打ったらしく、健は動けなかった。健は咳き込み始めた。
まだ火の入っていなかったこの部屋も、熱気であちこちが燃えだした。
いつか、館の崩れる音も、人々の叫び声も、どこかに小さくなっていく。
「……剛。じゅん」
朦朧とした意識の下で、健はつぶやき、目を閉じた。
「来て、くれたんだね」
もう、熱くもなかった。
「ふたりといられれば、オレ、それだけでよかったのに……」
あれは、いつのことだろう。
遠い出来事が呼び覚まされ、生き生きと蘇る。
「遅くなったな、すまぬ、すまぬ」
そう言って老人が帰ってきた。
雪が降りそうな寒い夜。
「おうおう、よい子で待っておったか、健。すまぬのう……」
そう言いながら、老人は、ふところに抱いていた小さな体を、そっとおろした。留守番をしていた小さな健は、とことこと、老人がおろしたものを見にやって来た。
「……こえああえ?」
これだあれ、と言ったものだろうか。
老人は、健を抱き上げて笑った。
「さあて、誰じゃろう。山に倒れておった。……今年はどこも飢饉じゃから、捨てられたのじゃろうかのう……」
老人と健がのぞきこんでいると、痩せて小さな子どもが、ううん、とのびをして、目を開けた。
そして、見知らぬ風景に、キョロキョロとあたりを見回す。
「腹がすいたか」
ふたりの幼子を眺めて、老人はそう言って、囲炉裏に鍋をかける。
健はまだ、やっとふたつを過ぎたところ。拾われた子どもも、健とそう年は違わないようだった。
腹を空かせ、凍えていただろうに、拾われた子どもは泣きもせず、自分に笑いかける健を、じっと見ていた。
じきに汁が煮え、ふたりは並んで椀をすすった。
「おまえ、何という名じゃ」
老人が聞く。
拾われた子どもは、ひとこと、
「ごお」
と言った。老人は、「剛」と口の中で繰り返す。
その夜、老人は、ふたりを並べて寝かせた。寒くないようにふたりにしっかりと夜着を掛けながら、老人は言った。
「これからはずっと剛といっしょじゃぞ、健」
だが、夜着にくるまれても健も剛も落ち着かず、もぞもぞとするばかりでなかなか眠ろうとはしなかった。
それを見て、老人は言った。
「なにか話でもするかの」
健も、剛も、老人のほうを見た。
ふたりを見ながら、老人は話し出した。
「昔のことじゃ」
しんとした山の夜。老人の声が、その闇に溶けていく。
「……あるところに殿さまがいた。殿さまは、わがままな暴君じゃった。誰も殿さまには逆らえなかった。ある日、その殿さまは狩りに出かけて迷ったすえに馬から落ち、怪我をした。それを助けてくれたのは、山に住む木こりの女房じゃった。女房と言ってもまだうら若く、娘と呼んでもいい年頃じゃった。その女房はこの世の人とも思われぬほど美しく、また、殿さまをそれはやさしく手当してくれた。殿さまはすっかりその女が気に入った」
子ども達はわけもわからずおとなしく話を聞いている。
「木こりの夫はちょうど出かけていた。女には、他に身よりもなかった。聞けば、親の顔も知らぬ、子どももなく、木こりの夫ただひとりを頼りにして山で暮らしているという。殿さまは、女に身分を明かし、いっしょに館に来いと言った。女は驚き逃げようとしたが、言うことを聞かねば夫を殺すと女を脅し、殿さまは無理矢理女を館に連れ帰った。それから、殿さまの寵愛はその女の一身に注がれることになった。それまで女に対してもあきっぽく冷酷な殿さまじゃったが、その女にだけは別じゃった。殿さまは、どうにかして女を喜ばせようとして女のために屋敷を造り、さまざまなものを贈った。だが、その女は、美しい眉を曇らせるだけで、決して殿さまに笑いかけることはなかった。」
「……」
「さて、そのうちに女は殿さまの子どもを身ごもった。殿さまは喜び、女に、なんでも願いをかなえてやろうと言った。すると女ははじめて微笑み、一度でいい、昔の夫の顔が見たいと言った。それを聞いて殿さまはおもしろくなかった。女がこれほどまでしても自分に心を動かさず昔の夫を思っていると思うと腹が立った。若い夫は妻が殿さまの思い者になっているとは知らず、妻を山で失ったことを嘆いて暮らしていたが、殿さまは、女が夫に会いに行く前に、こっそり家来を使わせて、その男を殺してしまった。女が喜んで昔の夫に会いに行くと、女を待っていたのは、夫の変わり果てた姿だった」
子ども達のどちらかがあくびをした。だが、老人は話し続けた。
「死んだ夫を見たときも、女は美しい顔になんの感情も表さなかったと言う。だがそれからしばらくした或る夜、女の屋敷に泊まった殿さまがふと目を覚ますと、刃物を持った女が、自分を殺そうとしていた。だが、女は殿さまが起きたのを見るとはらはらと涙をこぼし、愛しい人の敵(かたき)ではあるが、仮にも一度は夫となった人を殺すことはできないと言って、自らの胸を刺し、息絶えた」
子ども達はすっかり静かになった。
「女の腹の中の赤ん坊はまだ生きておった。じゃが、どうにか生きて取り上げられた赤ん坊の額には、まるで女の呪いのように、鬼の角が生えておったのじゃ。……殿さまは今さらながら自分のしたことを悔やんだが、どうしようもなかった。角の生えた赤ん坊をおそれた殿さまは、赤ん坊を殺すことも出来ず、自分の国から遠く離れた山中で育てさせることにした。やがて時が経ち殿さまも死に、殿さまの館では鬼の角の生えた子どものことなど昔話としか思われなくなっだろう。じゃが……」
いつのまにか子ども達は幸せそうに寄り添い、眠りについている。
「……角の生えた子どもは育ち、美しい若者になり、ついてきた郎党と共に山に棲みつき、角を隠して恋をし、愛らしい村娘をめとっていたのじゃ。まだ角を知られず村人と行き来した時もあったが、そのうち夫の角を知った妻は夫をおそれ、山から逃げ帰った。愛すればこそ、妻を失った男は正気を失い、妻をかくまう村人達を殺した。村人は鬼の祟りをおそれ、ますます鬼から逃れ、それでも鬼は人を恋うた……。美しく情の濃い鬼の子は、いつのときも人の子を愛しては破れてきた。……これを鬼の血と呼ばず、なんと呼ぼう。鬼は、人と交われば、いつか人の血を流すようになるのじゃ。……のう、健。おまえの母も人を恋い、報われず、おまえを生んですぐに死んだ。……そして、おまえは角を持たずに生まれてきたのじゃ。……これはどういうことか。鬼の血は、おまえを最後に終わるということか」
そうため息をつくように言って、老人は、すやすやと眠るふたりの子どもを見た。
「……それがよいのじゃろう。鬼の血はおまえで終わりにするのじゃ、健。この子ども、剛と言ったか。おまえはこれから、この子と生きるがいい」
なにも知らずに眠るふたりの子どものやすらかな顔。
「鬼はひとりでは生きられぬ。わしも、もう年じゃ。いつまでもおまえと共にいることはできぬ。健。おまえと剛は、最後の鬼の子として、ふたりきりで山で暮らすがいい。ふたりならば生きられよう。他の人間たちとは交わらず、ふたりで生きろ。すれば、鬼とても、人の血を流さずに生きられるかも知れぬ……。のう。……ふたりとも眠ったのか。じじいの話が聞こえたか……」
そう言って老人は最後に、ふたりの頭を撫でてやった。
雪が降り始めたらしい。子ども達の寝息だけが聞こえ、山の夜は静かに更けてゆく……。
岡田家の館が火に包まれ燃え上がった夜から時は過ぎ、季節は春を迎え、山にまた美しい夏がやってきた。
そんな夏山を、雑草をかきわけ歩いていくふたつの人影があった。
「昌行さま、お待ち下さい、昌行さま」
後ろの人影が前の人影に声をかける。
「なんだ、原」
前の人影は足を止め、そう言って振り向く。
「もうこの辺でよいではありませんか。お戻り下さい。殿が山で迷いでもされたら、臣下一同どのようにあわてるか」
「大丈夫だ、オレは迷わん」
昌行さまと声をかけられたほうが、不機嫌に返事をして、あたりを見回した。
「オレが聞いた言い伝えでは、確かにこの山なのだ。山の地形も頭に入っておる。オレはガキの頃からこの話の真偽を知りたかった。ここまで来て今さら戻れん」
「言い伝え……? 真偽……?」
原と呼ばれた方はその言葉に頭をひねるが、前の人物はさっさと歩き出した。
「……昌行さま!」
原はあわてて後を追った。
やがてふたりは、見晴らしのいい高みに着いた。
前を歩いていた人物も、原と呼ばれた人物も、立ち止まって景色を望んだ。
「殿、美しい国でございますな」
原が言う。
「うむ」
「この国ももはや、坂本家のもの、いや、昌行さまのものでございます」
「……」
「戦の前に火事で館を失い、当主や重臣を失うなど、岡田は確かに自滅同然ではございました。ですが、昌行さまの沈着なご判断、ご活躍あればこそ、無駄な戦をせずにこの国を手に入れることができたのです。大殿がこの国を、兄君達でなく、御三男の昌行さまに任せられたのも、当然のことでございます」
そう言って、原は、男、今はこの国の若き領主となった坂本昌行の傍らに跪き、深々と頭を下げた。
「昌行さま。いえ、殿。一国一城の主となられましたこと、まことにおめでとうございます」
「うむ」
坂本はうなずく。
「ですが」
そう言うと原はすぐ立ち上がった。坂本はあきれる。
「なんだ、原。人を誉めるだけ誉めておいて、今度はすぐ説教か」
「またそのような憎まれ口を」
原も負けずに言い返した。
「説教ではございませぬ。一国一城の主となった今は、気軽な三男坊でいらしたときとは立場が違います。原ひとりをお供に野駆けをし、さらには馬を置いて山に登るなど、一国の領主の許されることではございません」
「いいではないか」
坂本は面倒そうに言い返す。
「おまえの言うように、これからはもうこのようなことはできん。だからこそ、今日ここに来たのだ」
「また、さような減らず口を……」
原の言葉など聞かず、坂本はまた歩き出した。
しばらくして、坂本は、丈なす雑草の向こうに、崩れかけた館の屋根を見つけた。
「……あれか? では、話はほんとうだったのか!?」
坂本は驚きの声を上げ、館に向かって足を速めた。
坂本と原が館に近づくと、別の方向から、笠をかぶって薬箱を背負った男が草をかきわけやって来るのが見えた。
「殿。このようなところに人が」
原が小声で言う。
「なにをしに参ったのでしょう」
向こうの男もこちらに気がついて、軽く頭を下げる。
「何者か問うて参りますか」
原が尋ねたが、
「よい」
坂本が言った。
男は、再び笠で顔を隠し、ふたりの先を歩き出した。
坂本と原は、朽ちた館の跡を見回した。
先ほどの薬箱の男も、別のところで館の様子をうかがっているようだった。
「あの男。なにをしに参ったのでございましょうか」
原は相手を気にしていたが、坂本は、壊れた破風を指さし、
「見ろ」
と原に言った。
「は」
原はすぐ坂本の指さすところを見た。破風の両脇には丸い紋が彫ってある。長い年月にわかりにくくはなっているが、屋根の下にあったので、全く見えないわけではなかった。
「鷹羽の紋、でございましょうか」
原が言う。
「そう、我が坂本の紋だ」
「ですが、お家の紋とは違っています」
「たわけ。陰紋だ」
「……あ。そう言えば」
ふたりが話しているのを、薬箱を背負った男が、向こうから見ている気配があった。
原はそれに気がつくと、身を起こし、大股で男に近づいた。
「盗み聞きしておったな。そのほう何者じゃ、名を名乗れ」
言われて、男は、素直に笠をほどいた。
笠の下から現れた落ち着いた男の風貌を見て、原は、黙った。
「失礼いたした。それがしは長野博。医者(くすし)をいたしております」
「医者(くすし)の長野」
原が繰り返す。
「実はわたくしは、以前、ここに住んでいた若者らと近づきになったことがありました。その若者らは珍しい薬草を採ってきて市に出していたので、またそれが手に入ればと、わざわざここまで尋ねてきたのですが」
「そうであったか」
話を聞くと、原は急に態度を改めた。長野は続けた。
「しかし、どうもここは人が住んでいるようにも思えませぬ。お武家さま方が、なにかご存じかと、つい話を漏れ聞いてしまいました。申し訳ございません」
「いや。謝るほどのことではないが」
原はそう言って坂本のほうを振り向いた。坂本は聞くともないような顔で原と長野の話を聞いていたようだったが、話が終わるとさっさと崩れた屋敷跡の角を曲がって見えなくなった。原はまたあわてて後を追った。
「殿!」
坂本は今度は、違う場所の屋敷跡をしげしげと見ている。
「どういうことなのです」
原は尋ねた。
「殿がどうしてもここに来たかった理由と、この屋敷跡に坂本のお家の陰紋がついていることと、なにか関係があるのですか?」
坂本は何も言わずにまた角を曲がった。
ふたりは立ち止まった。そこは雑草の代わりに、どこまでも青々とした菊の群が広がっていた。屋敷裏の雑草の中にも野菊の株がたくさん紛れ込んでいたが、ここは、一面の菊であった。秋にはさぞ花が美しいだろうと思われた。後ろからは長野もやってきた。長野も、菊の群を見て、足を止めた。
よく見ると、屋敷の一角が、そこだけ屋根が破れずに、どうやら人が住めるほどには手入れされているように見えた。まず、坂本がそこに向かい、原と長野が後に続いた。
近づくにつれ、人の気配があった。泣くような、うめくような、声が聞こえた。三人は顔を見合わせた。
「ここでお待ち下さい」
意を決した顔をして原はそう坂本に言い残し、早足で屋敷の一角に向かった。だが、坂本と長野もすぐにその後を追った。
荒れた屋敷の中に、風折れ烏帽子をかぶった男がひとり、座っていた。男は向こうを向いて座り、片手を床について肩をふるわせ、嗚咽している。
坂本と長野が来るまで原は男に声を掛けるのを忘れていた。だが、ふたりが来たのを見ると、思いきったように声をかけた。
「そのほう!」
原が大声を出した。
「この屋敷の者か!」
しばし、答はなかった。だが、男は嗚咽するのを止めた。男は向こうを向いたまま、ゴシゴシと顔をこすった。そして、振り返った。
「誰だ、てめえら!」
三人を見て、男が怒鳴った。
「なにしに来やがった」
「な、なにしにとはなんだ、無礼な!」
原が怒鳴り返す。
「そのほう、こちらをどなたと心得る。こちらはこの国の領……」
待て、と坂本が原を制した。
「おぬし、ここに住んでいるのか」
坂本が尋ねた。
「オレがここに?」
相手は、バカにしたように言う。
「ここに住んでるのは、オレじゃねえ、剛と健だ。……そんなことも知らねえで、あんたらいったいなにしにここに来たんだ」
「……」
原が坂本を見る。坂本は表情も変えず、怒鳴る男を見ていた。長野も何も言わない。
男は疑うように三人を見ていたが、やがて、はっとしたような表情になった。
「もしかして、あんたら、剛と健がどこに行ったのか、知っているのか……?」
男は急に、まろぶようにして三人に駆け寄った。
「知ってるのか? なあ! 知ってるなら、教えてくれよ!」
「いや……」
男に詰め寄られ、原が困った声を出す。
「知っているもなにも、拙者はわけもわからず参ったのだから……」
「じゃあ、あんたか!」
男が坂本に言う。
「あんたはなにか知ってるのか。なあ、ふたりはどこに行ったんだ? ……やっと来られたって言うのに、残っていたのはこんな書き置きだけだ。これじゃあ、オレにはわけがわからねえよ……!」
見ると、男は二本の薪を抱いていた。坂本はその薪に視線を落とす。
「これじゃ、わからねえ……」
男は、力無く薪を取り落とした。
「わからねえ、健、オレに剛を頼むって……、おまえはどこに行ったんだ? そして、剛はどうしたんだ……?」
男が、どうしていいかわからないように、がっくりと肩を落とす。取り落とした薪を拾う気力さえ湧かないようだった。
長野が、男が取り落とした薪を拾った。一本には「ごうへ だまっていなくなってごめん」、もう一本には「くすりやさんへ ごうをおねがいします」とあった。長野はそれを小さく声に出して読んだ。
「あなたがここに書いてある”くすりやさん”なんですね」
相手の風体から察して、長野が言った。男は頷いた。
「去年の秋……。健のほうはもう、胸の病で先が長くなかった。オレは、仕事を片づけたらまたすぐ来ると、ふたりに約束して山を下りた……」
泣くような声で男が言った。
「だが、店に帰ると、店は争乱のとばっちりを受けて、焼けちまってたんだ。親父も亡くなって、すぐ来てやりたかったが、どうしても来られなかった……。店を建て直しながらも、あいつらはどうしてるだろうと、それを考えない日はなかった……」
「……」
「やっと世の中も落ち着き、店の始末も片づいたって言うのに……。ここに来たら、誰もいねえ。鳥が飛び立ったあとみてえだ。神隠しにでもあったみてえに、ふたりの姿だけがねえんだ」
「……」
「もしかしたら健は、あの様子じゃ冬を越せなかったかも知れねえ。だが、剛は。剛も死んじまったのか……? どうしたんだ、なにがあったんだ。オレにはわからねえ。ただわかるのは、ふたりがもうずっと前からここにはいねえ、そしてもう、戻っては来ねえだろうっていうことだけだ……」
長野は黙って話を聞き、原はどうしたものかと言うように坂本を見た。突然坂本が言った。
「その、剛と健、と言うのは、鬼か」
誰もが驚いて坂本を見た。だが、坂本は平然と、重ねて尋ねた。
「ここはオレには、鬼の棲む屋敷に思えるが。そいつらは、鬼か」
「……鬼……?」
呆けたような顔で坂本を見つめていた薬屋が、急に顔をゆがめて怒鳴った。
「なに言ってるんだ! 剛と健が鬼なわけねえだろう! ふたりは人間の子だよ。オレはふたりがまだ十四五だった頃から知っている。ふたりとも、そこらの洟垂れガキとはわけが違う、そりゃかわいらしい顔をした人間の子だったよ!」
「……そうか」
坂本は表情を変えずにもう一度言った。
「では、角は生えていなかったのだな」
「角だあ……?」
薬屋は気色ばんで坂本に食ってかかった。
「んなもんがあるわけねえだろう! ふたりは烏帽子もかぶらねえ。いつも日に焼けた茶色っぽい髪を、こう、後ろで結わえてただけだ。角なんてあったら丸見えだったはずだが、そんなもんはかけらもなかった!」
「殿……!」
坂本を止めさせるように、原が小さく言った。
「あんた! なにを言い出すんだ! ふたりはなあ、子どもの頃から寄り添って、こんな山の中でふたりきりで暮らしてたんだ。山で狩りをしたり薬草を売ったり。ふたりだけで誰の世話にもならず暮らしてたんだよ。……ふもとの里の村人が、山に棲むふたりをよく言ってなかったのは知ってる。だがよ、山に住んで、自分たちと違う暮らしをしてるからって、それで鬼呼ばわりはねえんじゃねえか!」
薬屋が坂本に詰め寄った。
「健なんか、自分の体だって弱ってるのに、崖から落ちたけが人を必死で看病してやったことがあった。そんな剛は体の弱った健をいつもかばってやった。……こんなヤツらの、どこが鬼なんだよ!」
「そうか、すまんな」
薬屋の剣幕に坂本は最後はあっさりそう薬屋に言った。薬屋はまだなにか言いたそうにしている。だが、坂本は館の内外を見回し、つぶやいた。
「だが、おそらくここが、オレが子どもの頃から聞かされた、鬼の屋敷に相違ないな」
「鬼の……」
「……屋敷?」
薬屋と原が、言葉を分け合うように言った。
「まだ、あんた、そんなことを!」
薬屋が怒鳴った。
だが坂本は、
「その、剛と健と言う人間のことではない。この屋敷のことだ」
と言った。
「その話でオレはじいにどんなに脅されたか知れん」
「……脅された? ……殿が?」
原が尋ねる。
「ああ、そうだ」
坂本は面倒そうに答えた。
「昔話だ。……昔、坂本の家に、冷酷な当主がいたそうだ。その当主は山で美しい女を拾い、妻としたが、その女にはもう夫がいた。女がいつまでも昔の夫を慕うので、当主はその夫をこっそり殺してしまった。それを知った女は鬼の本性を現し、角のある鬼の子を生み、当主を呪って死んだそうだ」
「……」
「当主は鬼の子をおそれたが、間違いなく、自分の子でもあった。しかたなく当主は鬼の子を自分の国から離れた遠い山中で育てさせることにした」
「……それが、この山だと言うのですか」
「そうだ」
坂本は、さも嫌な思い出を語るように言った。長野は静かにうつむいて、薬屋は不満そうな顔をしながらも、黙って話を聞いていた。
「ガキの頃から乱暴者だったオレは、この話のせいで、弱い者に無慈悲な振る舞いをすると鬼の子が生まれますぞと何百回脅されたかわからん。ものごごろつくと話を疑うようになったが、これが、全くの嘘でもないらしかった。調べると蔵の奥に鬼の子を山に送ったという書状があり、のち、鬼の子の子孫を見たという記録もあった。山の場所を書いた地図さえあった。ご丁寧に鬼の子の産毛、なんてものまでが箱に入っていた」
「……」
「だからな、原。この国を領地としたとき、オレはその話がほんとうかどうか、一度自分の目で確かめようと思ったんだよ。山の地形と屋敷のあった場所は、地図に乗っていた通りだった。そしてこの屋敷。……坂本の血筋を引く者が住んでいたのは確かだと思える。昔坂本に角の生えた子どもが生まれ、ここに送られたのはほんとうなんじゃないか」
「人にはいろいろな生まれがあります」
静かに長野が言った。
「中に、額に角を生やして生まれてくる子どもがいたとしても、怪しむにはあたりません。それは鬼ではありません。それも人の子なのです」
「……」
みんな黙った。
「……さっき、”健”が、崖から落ちた怪我人を看病していたとおっしゃいましたね」
ふいに長野が薬屋に尋ねた。
「あ、ああ。そうだよ」
驚いて薬屋が答える。
「オレも怪我人を見たが、眠ったきりなんで、これはいくら世話しても助からねえんじゃねえかと思った……」
「……そうですか? 助からなかったのでしょうか? その怪我人は、”じゅん”と言うのではなかったですか?」
長野が、静かながら熱をこめて薬屋に尋ねた。
「わたしは市で、ここに住むという若者ふたりに出会ったことがあります。ひとりはたぶん、剛と言う方でしょう。痩せて小柄でしたが、健康そうでした。もうひとりは、山で崖から落ちて”じゅん”という名前しかわからなくなっているという若者でした」
「じゅん」
「はい。白い肌に黒々とした髪の、深い瞳をした若者です」
「じゅん」
薬屋はもう一度繰り返した。
薬屋は、思い出すように言った。
「そうだ、健は”じゅん”に字を習ったと言っていたんだ。うれしそうだった……」
「そうですか!」
長野が勢い込んだ。
「その、”じゅん”は、どうなったかわかりませんか。わたしはずっと、”じゅん”のことが気になってならなかったのです。”じゅん”はこの山を下りたのでしょうか?」
長野に重ねて尋ねられ、薬屋は頭を振った。
「わからねえ……」
「……」
「剛も、健も、じゅんも。どうなったのか、オレにはわからねえ……」
「……」
原は、近くに他に人家はないか探してくると言って姿を消した。
坂本は、ひとり、菊の群の中を歩いた。
いつからか、長野が坂本の傍らにやってきていた。長野が静かに声をかけた。
「このようなこと、おたずねしていいのか迷いましたが」
坂本は振り向いた。長野が、少し緊張した面もちで、言った。
「実はわたくしは、何度か岡田氏の館に招かれ、病弱の子の容態を診たことがあります」
坂本は、無表情に長野を見る。
「それは多宝丸と言う、妾腹ではありますが、岡田氏の跡継ぎで、賢く気の優しい子どもでございました」
「そうか。……で、オレになんのようだ」
「その子どものこと。医師(くすし)として、知りたいのです。その子は、どうなったのですか。館の火事とやらで亡くなったのでしょうか。それとも……」
「火事で死んだのは、領主とその側近達だ。子どもは助かっている」
「そうですか。でも」
「領主と重臣を亡くした岡田家は戦意を喪失していた。次の戦が起こる前に、子どもはいち早く寺にかくまわれ、髪を剃りおとしていた。それから先はオレの知るところではない」
「……さようでございますか」
「ああ、そうだ」
長野が、そう答える坂本の目をまっすぐに見た。
「あなたさまが新領主、坂本、昌行さまですね」
「……」
長野は静かに頭を下げる。
「噂どおりのお方のようです。情け深いご処置、ありがとうございます」
緑に包まれた山々、青い空、鳥の鳴き声。
ふいに風が吹いた。
「……おい」
坂本が、傍らの長野に言った。
「そこに誰か……」
菊の群の中に、若者が立っていた。
坂本を見ているわけではない。
美しい武士の拵えをした若者が、誰かを待つように振り返り、静かに菊の中に立っている。
切り整えられた黒い髪、睫の影を落とした、黒々とした瞳。
「じゅん……。いえ、岡田虎之介さま……!」
長野が小さく叫ぶ。
後ろで、別の声が聞こえた。
「剛……! 健……!」
薬屋が、別の方向を見て、放心したような表情で立ちすくんでいる。
日に焼けた茶色の髪をざっくりと後ろでまとめた痩せた若者が、自分の隣を楽しげに歩く優しい顔立ちの若者と共に、菊の群の中を歩いてきた。
あとから来たふたりは、自分たちを見ている若い武士に気がついた。優しい顔立ちの若者のほうが、すぐに駆け出す。
痩せた若者は走らなかった。駆け出したもうひとりは、途中で立ち止まり、痩せた若者が来るのを待った。
ふたりはじきに、若い武士の待つ場所へたどり着いた。
三人はなにやら楽しげに話しあい、すぐ歩き出した。だが、ふと振り返る。
三人は、自分を見ている男達に気がついたようにこちらを見、そして、おかしそうに笑った。そしてすぐ、そんなことを忘れたように笑いながら歩き出し……。
そのまま、ふっとその姿は消えてゆく。
坂本も、長野も薬屋も、あわててあたりを見回した。
誰もいない。
菊の群の上を、風がそよいでいくばかりである。
残された三人は、菊の群の中に立ちつくす。
再び風が吹いた。風に乗って、どこからかまだ、うれしそうに笑う若者達の声が聞こえた。だが、その笑い声も、消えていく。そして、すべてが消え去った。
あとは、どこまでも続く夏の山の緑。
「……今のは……」
坂本がつぶやく。
「……鬼の見せた夢か?」
長野がつぶやく。
「夢ならば……、美しき夢でございます」
後ろから、薬屋が、男泣きに泣く声が漏れ聞こえた。
風が吹く。その風は草原を越え緑の山を越え、どこへ吹き過ぎるのか。
風の行方は誰も知らない。
(風の行方・完)
「風の行方」終わりました〜。
時代物だし、明るい話でもないし、とっつきにくかったと思いますが、最後まで読んでくださって、ほんとうにありがとうございました。
連載したのは途中中断もありでほぼ4ヶ月でしたが、書き始めたのは去年の秋の始め頃ですから、10ヶ月くらいこれにかかってたことになります。
その10ヶ月の間というもの、准くんが関西弁じゃないのに苦労、山で暮らす様子に苦労、岡田家のお家の事情に苦労、と苦労ばっかり。(涙……)
それでも、カミセンがカムイみたいな格好をしていることを心の励みに(?)がんばりました。(笑)
まーくんは最終回だけの登場ですが、なかなかかっこよかったですよね。
カミセンの3人はそれぞれ悲惨な最期を迎えるのですが、トニセンの3人が最後にカミセンの幻影を見てくれただけで、ずいぶん救われる感じになったと思います。
あー、でも、長かったあー。
しばらくは時代物は書きたくない。(笑)
2000.7.2 (お。なんと今日は健くんの誕生日じゃないの! 健くんおめでとう!)hirune
「風の行方」トップに戻る | メインのページへ |