ちょっぴりネタバレなまえがき
前回、次回が最終回と予告いたしましたが、1回にアップするには、ちょっと話が長くなりすぎてしまいました。今回はまだ最終回ではありません。次回、15回が最終回となります。
さて、お話も進んでまいりましたが、実は今回と次回、内容がかなり凄惨な感じになってしまいました……。悲しいのが苦手な人は、読まない方がいいかも、です……。
でも、これはあくまでお話ですから! 雨月物語中の「菊花の約(ちぎり)」を下敷きにした! どうぞそのつもりでお読み下さいませ……。
(2000.6.22 hirune)
「……剛!」
驚いて、健は叫んだ。
「健。……こっちに来い」
男達をにらみつけながら、剛は怒鳴った。
「早く!」
その声に、健は、立ち上がった。
「逃がすか!」
雑兵の一人が健を捕まえようとする。だが、その男は、また、さっきの男と同じように、うめき声をあげて片目をおさえた。
「あいつ……!」
雑兵達は、一斉に剛を見た。剛は、腰にくくった袋から、また礫(つぶて)を取り出した。
「全部、顔を狙うぜ。オレは、はずさねえ。……健、早く来い!」
男達がひるんだ隙に、健は剛に駆けよった。剛も走り寄ってきて、健の腕を掴む。
「剛!」
「逃げるんだ!」
健をかばうように後ろにして、剛は健の背中を押した。
「走れ!」
「剛!」
「こいつ!」
「なめるな!」
男達が追ってこようとする。剛は、健と共に走り出そうとしながら、振り向きざまに礫を放った。今度のは目でなく、顔の真ん中にあたり、男は鼻を押さえてうずくまる。
そのままふたりは、どうにか男達に追いつかれずに、林の縁に逃げ込もうとした。
だが、そのときである。ヒュンっと風を切る音がした。剛は、あわてて健を突き倒しながら、自分も地べたに伏せる。直後、ふたりのすぐ後ろに音を立てて矢が突き刺さった。
剛はすぐ起きあがったが、倒れた健が、不意に胸を押さえて咳き込み始める。どこから矢が飛んできたのかなど考える間もない。
「健!」
剛が健に駆けよろうとしたとき、追ってきた雑兵達がわめき声をあげながらふたりに飛びかかった。
剛を取り押さえた雑兵達は、憎々しげな怒鳴り声をあげた。
「よくもやってくれたな」
「これからどうなるかわかってんだろう!」
「健を放せよっ」
剛が叫ぶ。
「やったのはオレだ、健はなにもしてねえだろっ」
「へへへ」
ひとりの男が、剛に当てつけるように笑いながら、健を蹴り回した。
健はなんの抵抗もしなかった。発作で息が出来ない。まるで襤褸(ぼろ)のように、健は男達に蹴られるままになっていた。後ろ手に縛られた剛は、手出しできずに歯がみする。
「……畜生っ、やめろっ」
「へへっ」
男が笑いながら、もはやぐったりと動かない健を再び蹴ろうとしたとき、剛は男達の隙間から走り出し、健を蹴っている男に、思い切り体当たりした。男は思わずよろけて転ぶ。
だが剛はすぐまた捕らえられ、髪を掴んで引き倒された。
「この野郎!」
「やっちまえ!」
「手加減するな!」
男達は剛を真ん中にして、袋叩きにし始めた。
だが、そのとき、
「待て」
と声がした。
「……なんだよ」
雑兵達は面倒そうに振り向き、すぐに驚きの表情になる。
館を背にして馬に乗り、弓を手にしているのは、剛や健とそう年の違わない若者であった。だが、相当な身分の若者であることは見てすぐわかる。後ろでは、若者の父親らしい、冷たい表情の男が、黙ってこちらを見ている。
今「待て」と雑兵達に声をかけた若者の供の男が、雑兵達に居丈高に叫んだ。
「その男は、重嗣(しげつぐ)さまの獲物じゃ。こちらに渡せ」
「獲物」
「重嗣さま……?」
「家臣筆頭の松本さまのご長男、重嗣さまだ。さきほど重嗣さまがその獲物に矢を射たこと、気づかなかったのか!」
呆然とした雑兵達をかき分け、今度は若者のお供達が剛を縛った縄を掴み、剛を引き立てた。
「若様、こちらでよろしゅうございますか」
お供が尋ねると、馬上の若者が、無言でうなずく。
剛は、その若者をにらみつける。それに気づくと、お供の男が勢いよく剛を馬の鞭で打った。
「無礼者!」
「……この獲物はなかなか元気がいい。逃げられるなよ」
そう言いながら、若者は振り返った。
「父上、重嗣は今日、この獲物を殿に献上いたします。弓比べの的になどいかがでしょうか」
「ほう」
「さすれば、いつも御退屈そうな殿も、さぞ興がられることと存じますゆえ」
「殊勝な心がけじゃな。殿がおまえを気に入られるはずじゃ」
父親らしい男が満足そうにうなずく。
「行くぞ」
「は!」
「……待てよ!」
引き立てられながら振り向いて、懸命に剛が叫んだ。
「健!」
健は動かない。馬上の若者は、ちらっと動かない健を振り向いたが、すぐにさも汚いものを見たというように眉をしかめ、門に向かった。代わりに、お付きの者が雑兵達に叫んだ。
「死人の骸(むくろ)などけがらわしい! 疾く捨てにゆけ!」
「……健! 死んじゃねえだろ!」
無理矢理引き立てられるのに必死で抵抗しながら、剛はまだ叫んだ。
「健! オレたちは死なねえ! わかるだろ! オレが戻ってくるまで死ぬんじゃねえ! 死ぬな! 健!」
黒雲がさらに空に厚くなった。まだ昼間というのに、あたりは夜のように暗い。
******
月影に浮かぶじゅんの白い顔。悲しそうな。
「……健」
そう自分の名を呼びながら、じゅんの姿は何故か遠くなり、消えてゆく。
「じゅん!」
健は、必死でじゅんを捜す。
「バカ!」
いきなり腕を捕まえられた。
振り向くと剛が怒った顔で自分をにらみつけている。
「剛……」
「なんでオレの言うことを聞かねえんだ!」
剛のいつもの怒鳴り声だ。
「オレたちは鬼だぞ、健」
「……」
「オレたちはふたりきりで山で暮らさなきゃならねえんだ。わかってるだろ」
「……」
「オレたちは人間と混じって暮らしちゃいけねえんだ。そうしたらきっと悪いことが起こるって、そうじいちゃんが言っただろ。忘れたのか」
そうだった。
じいちゃんがいつも言っていた言葉じゃないか。
人と交じって暮らしてしまえば、鬼は、人の血をすすって生きるようになる。
だからオレと剛は、ふたりきりで山で暮らさなきゃならない。
なんでオレは、そんな大切なことを忘れようとしてきたんだろう。
……。
……オレは、鬼だ。
人になりたいなんて……、思うのは間違いだった。
鬼が人間を慕って山を下りるなんて……、
そんなのは間違いだった。
山に帰る。
剛とふたりで山に帰るんだ……。
******
なにかの気配に、意識が戻った。
雨が降ってる。
その雨の中を、誰かが近づいて来た。
足音が止まった。話し声がする。
「ここらでいいだろう」
男の声がする。
「ちょうど、昼間もうひとりを捨てたあたりだな」
別の声がした。
ドサッとなにかを捨てる音がした。……なにを捨てた?
「そうか?」
「ああ、そうだ」
「ちきしょう。やっぱり血がついちまった。べっとりだ。気味が悪い」
「こいつ、ずいぶんしぶとく逃げたそうだな」
「この雨だってのに」
「そうだ、どしゃぶりの雨だってのに、お館の庭に放って」
「犬と弓手に追わせたんだな」
「血まみれになっても泥の中から起きあがろうとするんで」
「見ていた殿さまは楽しまれたそうだ。殿様のご機嫌がいいので、北の方さまもご機嫌がよくて助かったと、そうお女中たちが言ってたぜ」
「北の方さま」
「お妾のことじゃないぜ。このまえお輿入れした、松本さまのご息女だ」
「ああ、そうだ。あのお妾はずいぶん殿さまにかわいがられていたが、もう殿さまの側に出られないそうだな」
「そうだ。せっかく男の子を産んだのに」
「ああ。身分が低けりゃどうしようもねえさ」
「今となっちゃお館は全部、松本さまが牛耳ってるさ。なにもかも仕切るのは松本さまだ。殿さまは松本さまに差し出された余興で時間をつぶすだけだ」
「まあな。けど、そんな上の人のことなんざ、どうせオレたちには関係ねえ」
「そりゃそうだ」
「さあ、戻ろうぜ」
「この血。着替えをもらわねえと」
「それと、これじゃ験直しに飲まねえとならねえからな、駄賃を無心しようぜ」
「それがいい。それからあの女達の店に行ってみるか」
「そりゃいいな」
「お楽しみも戦が始まるまでだ」
足音は、再び遠くなる。
今の声は、なんだったのか。
そう思ったとき急に強い痛みを感じ、健は、自分が生きていることに気がついた。
目を開く。ぼんやりと、灰色の風景が目に映った。
思うように動かない腕をつっぱって、健は身を起こした。いつもの咳が健を襲う。
今は、昼間なのか、それとも夜か、夕方なのか。
時間さえもわからない。
ただ、あたりは雨。枯れた蔓草や枝葉が積もって、それに埋もれるように健は捨てられていた。健はあたりを見回した。すべては雨に濡れて、かすかな光を放っているように見えた。
「?」
草の陰に、なにかが見えた。今さっき、男達が捨てたのは、あれなのだろうか。
這うようにして、健は近づいた。
薄暗くて、まだよくわからない。
あれは、……人?
人?
「……」
雨の中、無造作に投げ捨てられて転がった体。
健は一瞬、わけがわからなくなって、それを見た。
次の瞬間、気が狂ったように、健は、その体を抱き起こした。乱れた髪の下には、間違えようもなく、固く目をつぶった剛の顔があった。健に抱き起こされ、剛の頭がのけぞった。目をつむった剛の顔はきれいだった。眠っているのとちっとも変わらなかった。雨に流れる血と、こめかみの、矢を引き抜いた痕らしい、生々しい傷をぬかせば。
「剛! ……剛!」
健は、必死で腕に抱いた剛に呼びかけた。
気がつけば、こめかみだけではない。喉にも、はだけた胸にも、力なくぐったりと健に抱かれた剛の体中に、蜂の巣のように矢の痕があった。
「剛! 剛!!」
健はなおも叫んだ。
「しっかりして! 死なないで!」
剛は動かない。
健は呆然とし、途方に暮れた。だが、じきに大切なことを思い出した。健はあたりを見回す。ちょうどよさそうな刃物など、どこにもなかった。健は自分の手首を口に持っていくと、噛みちぎった。
「剛……、血……」
健が思ったようには、血は勢いよく流れなかった。だが、剛の口を湿らせるには十分な血が、健の手から滴った。
「飲んで、剛」
健は、指に滴る血を、病人に薬を飲ませるように、そっと剛の唇にあてがった。
「飲んで、この血を……。そうしたら、きっと……」
剛は表情を変えず、健の膝の上で目をつむったままだった。健の血は、いたずらに剛の唇からこぼれ、剛の顔を汚した。
「……治るんだから。剛……」
剛はどうしても口を開こうとしない。
「飲んで。剛、前にオレに言っただろ。鬼なら血を飲めばすぐに治るって……。だから、ほら……」
健の瞳に、涙が浮かんでくる。
「なんで。なんで飲んでくれないの」
ぼろぼろと、どうしようもなく涙がこぼれてきた。しかし泣きながらも、健は懸命に言った。
「剛。お願い、飲んで……。オレの血じゃ、だめなの? 鬼の血じゃ、だめなの……? だけど……!」
とうとう健は、動かない剛の体の上につっぷして、泣いた。
「どうしようもないんだよ。剛……、嫌だ……!」
こうしている間にも、雨に打たれた剛の体は、ますます冷たく、凍るように冷えていく気がした。
「だめだよ」
涙をこすって、健は自分を勇気づけた。
「こんなことで、泣いてちゃ」
他にどうしようもなかった。健は、小さく舌を出し、ぺろ、と剛の顔についた血をなめてみた。
「山で見たお母さん鹿みたいに」
健は、思った。
「オレが傷をなめて、剛を治してあげる」
雨に濡れてもなお血だらけの剛を、健は丁寧になめた。山のけもの達がするように。剛の傷が跡形もなく消えるようにと。
泣かないようにしようと思ったのに、そうしながらも、健の涙はとめどなくあふれてきた。
「剛はいつだってオレより強かった。オレをかばってくれた」
だから……。
「こんなことで剛が死ぬわけなんかないんだ……」
それでも、剛の顔に生気は戻らなかった。いくら健が剛の傷口をなめても、剛は目を開かず、息を吹き返しもしなかった。
それでも健は、冷たくなった剛の顔をなめ、体をなめた。剛がまた生気を取り戻すまで、けしてやめないと言うように……。
だが、健は、いつかなめるのをやめた。
気がつくと健はもう、泣いてはいなかった。いつも出ている小さな咳も、してはいない。
「……剛」
健は、身を起こし、剛を眺めた。
健の表情からは、なんの感情も読みとれない。瞳の色さえ常とは違って、健は、まるで別人のように見えた。
昏い、底知れぬ色の瞳で、健は言った。
「わかったよ、剛。……もう、ダメなんだね。……オレがなにをしようと」
なにひとつ健に答えない、剛の屍。
健は、動かない剛を抱くと、ゆっくり立ち上がった。
霧のような雨の中、健は、剛の埋葬場所を探した。しばらくして人目に付かない樹陰を見つけ、健は傷ついた手で土を掘った。
途中、なにかいいものを見つけたように、健は、ふと動きを止めて、それを取り出した。
剛をその穴に隠し、そっと木の葉をかけながら、健は、剛に向かって、うれしそうにささやきかけた。
「ねえ、剛。オレ、とてもいい草の根を見つけたよ。ここらにいっぱいある。これを使えば」
そう言って微笑み、そうして健は最後に、乾いた声で言った。
「剛。オレ、とうとう鬼になったよ」
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