何日かして熱が下がり、やっとはっきりと意識を取り戻した健がふと目を開き、そばで自分を見ている剛の顔を見上げた。
「……あのまま死ぬかと思ったぜ」
健の瞳を沈鬱な表情で見て剛がつぶやくと、健はかすかに首を横に振り、つぶやいた。
「……死なないよ」
「……」
「オレ……、……まで」
あとから健が小さい声で言った言葉は剛にはよく聞きとれなかったが、健がはっきり「死なない」と言ったことは、剛の胸に灯りをともした。今までの健は、そういうことを口に出したことがなかった。
言葉通り、意識を取り戻した健は、剛が運ぶ粥を、それまでよりもちゃんと食べるようになった。
じゅんが来ると約束した夜になにか恐ろしい幻覚を見たらしかったが、意識を取り戻してからの健は逆に表情が前より落ち着いて、剛に言われるまま、一日静かに横になっているようになった。衰弱した体も、どうにか持ち直した。
ときどき、眠りもせず目を開いて横になった健の顔に、今まで見せたことのなかった表情が浮かんでいることに剛は気がついた。それは、どこかに強い意志を秘めた人の表情だったが、剛にも、その意味はよくわからなかった。だが、健にも、生きる気力が湧けば、あるいは冬を越せるかもしれない、春になれば、容態はまたよくなるかも知れないと剛は期待した。
秋は急速に深さを増した。健が落ち着いたのを見ると、剛は、今年の冬支度の手薄さが気になってならなくなった。薪も食料も、まだまだ足りない。このままではせっかく健が持ち直しても、無事に冬を越せるかどうか不安だった。
それでも剛は、仕事をしながら一日に何度も山から帰って来ては健の様子をうかがった。
ある日健は、そんな剛に、
「オレ、ひとりで大丈夫だよ」
と言った。
「寝ていれば発作もそんなにひどくならないから。剛が夕方に戻るまでひとりで大丈夫。そんなに戻ってこなくていい。……それより、冬に食べるものがなくなったら、ふたりとも餓えて死ぬしかなくなっちゃうよ」
健は冗談のようにそう言ったが、それは、剛がなるべく考えないようにしている恐ろしい想像そのものだった。
「……わかった」
剛は決心して言った。
「絶対に寝てるんだぞ。それと、調子が悪い日はオレが出かける前にそう言うんだ」
「うん」
健はうなずいた。
次の日から剛は、思い切って健の言うとおり、夕方まで館を空けるようになった。
健は毎日おとなしく剛を待っていた。幸いよい天気が続き、剛は毎日獲物だの木の実だのをたっぷり持ち帰ることが出来た。冬を越せそうな見込みが出来、剛の気分は楽になった。
そうしてしばらくした夜、遅く帰った剛が汁飯を煮て運んでくると、健が尋ねた。
「……薬屋さん、まだ来ないね」
「……ああ、そうだな」
言われて、剛は、薬屋がまた来ると言った約束を思い出した。薬屋を待っていないというわけではないが、いくら薬屋が来ようと思っていても、春には来られなかったという外の状況では、すぐまたここに来ることはできないだろうと、はじめから思っていたのだ。だが健は、薬屋を毎日待っていたらしかった。
「早く薬屋が来るといいな」
一日ひとりで自分を待っている健の気持ちを思って、剛は、言った。
すると、
「……オレ、薬屋さんに頼みたいことがあったんだ」
と、健は珍しいことを言った。剛は興味が湧いた。
「へえ。おまえ、なにか欲しいものがあるのか」
「……ううん」
健が首を横に振る。
「じゃ、なんだ」
剛は重ねて尋ねたが、健は、剛の顔を見ただけだった。
次の日もいい天気だった。だが空気はキンと冷たくて、どこかに、もうじきほんとうの冬のやって来る気配がした。
「今日も夕方まで帰らねえ」
空模様を見ながら、剛はそう、健に言い置いた。
「いい獲物が出そうな天気だからな。ちゃんと食って、寝てろよ。もうじき雪が降り出したら、ずっとそばにいてやるから。な」
健はそう言う剛をじっと見て、かすかにうなずいた。
夕暮れ時になって剛は、機嫌良く館に帰ってきた。今日も、丸まるとした秋ウサギを二羽捕まえることができた。
帰るとすぐ、剛は健の様子をうかがった。健は静かに向こうを向いて眠っているようだった。いい案配だ、と剛は思った。健は、寝ていてもなかなか寝付けないらしく、ほんとうに眠っていることは少ないのである。
剛は鼻歌まじりでウサギを吊し、さばいた。早速煮ると、しばらくして館の中はうまそうな香りがただよった。
「健。そろそろ飯だ」
剛は声をかけた。だが、健の返事はない。
剛は気にせずに、その日使った道具類を片づけはじめた。しばらくして、剛は再び声をかける。
「健。寝てるのか」
また、返事がなかった。
健の寝ているはずの丸まった夜着を見て、突然剛は、はっと背筋が冷たくなるのを感じた。
「……健!」
剛は座敷に駆けのぼると、夜着を引き剥がした。それは人が寝た形になっているだけで、そこに健はいなかった。剛には、なにが起こったのかわからなかった。
「……」
夜着の下に人が寝た気配はなかった。そこにはただ、小刀で文字が書けるような面を取った薪が二本入っていた。震える手で剛はそれを掴んだ。
一本の削った面には
「ごうへ だまっていなくなってごめん」
と書いてあり、もう一本には
「くすりやさんへ ごうをおねがいします」
とあった。
「……ごうへ……」
剛は薪に書かれた文字を、食い入るように見つめながら声を出して読んだ。健の練習した文字を見せられているうちに、剛もいつか仮名なら読めるようになっていた。
「……おねがいします」
最後まで読むと剛は、薪をふたつとも取り落とし、叫んだ。
「健!」
すでに外は夜の闇になっていた。
剛は、しばし呆然と、その闇を眺めた。
健は、今日の朝、自分がこの館を出てすぐに、ここを出発したのに違いなかった。出かける支度も、この書き置きも、昨日までに用意しておいたのに違いない。
ひとりで待てると言ったことも、おとなしく寝ているように見せかけていたことも……、健はずっと自分をだましていたのだ。
「くそったれ!」
剛は怒鳴った。
だが、もう剛は迷わなかった。足に草鞋を結びつけると手際よく腰に小刀を差し、納屋に向かい、干し肉を袋に詰めこんだ。健もちゃんと食い物を持って行ったろうかと思いながら、剛は、黒い闇に変わりつつある夜の山に向かい走り出した。
健は、くずおれるように林の縁の太い杉の根方に座り込んだ。
この頃は歩きなれないから、一日中歩き通すと足は血だらけだった。
ここはやっと、前は剛とふたりで来ていた、大きな市(いち)の立つ里の手前だった。
なんでもないときなら、遠いと言っても、ふた刻かせいぜい三刻も歩けば着いた場所のはずなのに、今日は朝に出て今までかかってしまった。それは、ひとつには体が弱っているため、ひとつには、途中の関所を越えるために、人の通らない山中を選んで歩いたためであった。
それでも、領主岡田家の館は、だいぶ近づいたはずであった。
健は多少安堵して、胸を押さえながら、竹筒の水を口に含み、袋から取り出した小さな生の山栗を噛んだ。
剛はそろそろ自分がいないことに気がついたかも知れない。怒っているだろうと思ったが、どうしようもなかった。
どうしてもじゅんに会いたかった。あの夜からそれだけを考えて時を過ごした。
じゅんの顔が見たい、遠くからでもいいから見たい、いや、たとえ顔も見られなくても、じゅんが元気で生きていることを知りたい……。
そう思いながらも、健は身震いをした。思い返さないようにしてきたじゅんの幻の姿が、やはり忘れようもなく心に浮かびあがったのである。
違う、と思いながら、健は顔をしかめ胸を押さえた。
違う、あれは、じゅんが来ることを待っていた俺が勝手に見た夢。悪い夢なんだから。
じゅんは生きてる、絶対に。……そんなこと、すぐにわかる。ここまで来たんだから、じゅんが元気に生きてることなんて、もうすぐにわかる……。
自分が弱い心になったら、じゅんまでがつらいんだと、健は、そう自分を励ました。
寝ようとすると咳が出始めた。咳き込み始めると、咳はいつもよりひどくなった。息がつまりそうになったが、杉の幹に爪を立て、手に触れた草をひきちぎりながら、健はどうにかして気を失わないようにしようとした。長い間そうやって苦しんだあと、健はやっと、浅い眠りについた。
市(いち)から先には行ったことがない。ただ、子どもの頃に市に行ったとき、じいちゃんが、「ご領主さんのお館もこっから近い」、そう言って剛と自分に指さして見せてくれた方向だけが頼りだった。
あのとき、市場をもっと南にじいちゃんは指さした。
「人がいっぱいいる、町があってな。その先じゃ。この国のご領主さんが住んでおるお館は」
そうじいちゃんは言った。
「町? 人がいっぱいいるの?」
子どもの剛が聞いた。
「ああ、町は、毎日市が立っとるようなもんじゃ」
じいちゃんは笑った。
「ふうん……」
剛と健は顔を見合わせた。
「ご領主さんて偉いんかい」
やはり、剛が聞いた。
「まあなあ」
じいちゃんはちょっとなにか言いたそうな顔をした。
「……今のここのご領主さんは、なかなか偉い方らしいの」
「偉いんだ」
「ああ。……だがな……、健」
そう言って、だがそれから先は言わず、じいちゃんは健を抱き上げた。
そして、じいちゃんに抱かれた健とじいちゃんの隣に立った剛は、共にじいちゃんが指さした南を見たのだった。
街道に出て南に歩くうちに、いつのまにか健は、まわりに店屋が建ち並ぶ通りに紛れ込んでいた。
「邪魔だ、どけ!」
怒鳴り声に驚いて立ち止まると、目の前を荷を乗せた車が駆け抜けていく。人々は皆忙しげに歩き、大声で怒鳴り、あちこちで喧嘩の声が聞こえた。
これが町だと健が思ったときに、どこかの下働きらしい少女が、急ぎ足で道を曲がりざま、健にぶつかってきた。
「きゃあ」
少女は転び、抱えていた包みが転がった。健はとまどったが、少女が起きあがる間にその転がった包みを拾ってやった。
健が差し出すと、立ち上がった少女はあわててそれをひったくり、言った。
「あんたがぼうっとしてるのが悪いのよ!」
少女はそれに言い返さない健を見て、怪しむような顔をした。
「……なにその格好。あんた、毛皮売り?」
「……」
黙っている健に、少女は興味が湧いたらしく、今度は健をじろじろと眺めながら、矢継ぎ早に尋ねてきた。
「……物売りじゃないの? どこから来たの?」
「……」
「あんた、足怪我してるんじゃない? 血が出てるわよ、痛くないの?」
健は、どれにも答えず、ただ、自分が知りたかったことを尋ねた。
「……ご領主さんの館って、この近くかな?」
不意に尋ねられ、少女は健をじっと見たが、黙って一方向を指さしてから、もう一度怪しむように尋ねた。
「……お館に用事? ……あんたが?」
「……」
「雇われて雑兵にでもなろうっての? まさかね?」
少女は健をじろじろ見たまままだ立ち去らない。だが健が咳き込むのを見ると、少女は急に身を引いた。
「……あんた……、もしかして胸が悪いの?」
健はもう一度尋ねた。
「……そのお館に岡田虎之介っていう人がいるはずなんだ。……知らない? その人、オレと同じ年くらいで、お館のご領主さんの従弟なんだ」
「……」
「オレ、その人が生きてるかどうか、それだけが知りたくてここまで来たんだ。……知らない? その人、どうしてるか。ね? 知らないかな?」
少女は、ますます警戒してあとずさりしながら健を見た。健が真剣に見つめると、とうとう少女はくるっと身を翻した。
「知らないわよ!」
駆け出そうとしながら、少女は振り向きざまに怒鳴った。
「知らないわよ、そんな名前!」
「……」
健が見送ると、少女はもう一度振り返った。そして怒鳴った。
「どこから来たのか知らないけど、あんた、帰った方がいいわよ!」
少女はすぐにまた駆け出して、人の姿の中に見えなくなった。健は少女を見送ってちょっと考えるようにしたが、やがて少女の指さした方へと歩き出した。
厚い雲が空を覆い始め、まだ昼だというのにあたりが暗くなってきた。
どこが町の終わりだったのかわからない、健は薄暗くなった中をひとり、誰もいない林を歩いていた。
先に道があるようには思えなかったが、健はそのまま坂になった樹の間をのぼった。少女が指さした方は、やはりこっちだと思ったからである。
少女はまちがっていなかった。林の端に立つと急に湿った風が吹きつけ、健の目の前には突然、岡田家の居城が現れた。
黒い雲に覆われた空の下、眼下に広がった居城は、濠に満々とたたえられた水も、濠の向こうに続く城郭も、また、濠と城壁を越えた向こうに見える館の屋根までが、暗い灰色に染まっていた。
「……ここがじゅんの……」
呆然と健はつぶやいた。
夜風の中に倒れて消えていった、血塗られたじゅんの幻が、目に浮かんだ。
そしてまた、夢中でじゅんを捜していた自分の腕を掴んだ剛の姿が心に浮かんだ。
……あの幻は自分を呼ぶじゅんの心であるような気がして。
理由なんかない、じゅんは苦しんでいる、その苦しみを払うためには自分はどうしてもじゅんのいるところへ行かなくてはならないと心に決めて。
それだけを思いつめて、ここまでやって来た。
どうせもうすぐ死ぬんだから、最後のわがままを許してもらおうと思った。そのために剛をさえあざむいた。もし自分が山に帰れなくても、もうすぐ優しい薬屋さんが剛のそばに来てくれるからと、そんなふうに考えて。
でも今急に、自分がいないことを知った剛がどんな気持ちだったかが、まざまざと胸にこみあげてきた。いつも怒ったり怒鳴ったりしながら、どんなに剛が自分のことを気にかけていたかが思い出された。
「……剛、ごめん……」
健はつぶやいた。
「……オレ、絶対に山に帰る」
あの幻を見た夜から、じゅんが生きていることを確かめるまでは死ねないと、そんなふうに自分を奮い立たせてきた。でも、それだけじゃ、ダメだった。
「ごめん、剛。オレ、絶対に帰るまで死なない」
だから力を貸して、と健は祈るように思った。
何故だろう、ここまで来て、急に怖くなった。
気がゆるんだのかも知れない。
健は、嫌なことを振り払うように頭を振って、自分を力づけるように言った。
「じゅんの無事さえわかればいいんだから」
じゅんが、ご領主さんの従弟である岡田虎之介が、ちゃんと元気でいると、それだけわかればいいんだから。
あんな幻は気の迷いだったって知りたかっただけなんだから。そしたらすぐ山に帰るから。ちゃんと帰り着くから。
剛、ごめん。どんなに怒られてもいい、早く帰って剛の顔が見たい。
そしたらもう、これからは絶対に剛を怒らせるようなことなんてしない。なんでも剛の言うとおりにする。言われるとおり寝て、食べて、病だってほんとに治しちゃうよ……。
そう思いながらも咳き込み、立っていられなくなって、健は土手に座り込んだ。
しばらくして咳が収まると、健は顔を上げ、改めて館を眺めた。
濠には橋がかかり、人や馬が渡っている。橋を通るための検問所も見えたし、濠沿いには、なにをしているのかわからない雑兵たちがそこここにたむろしているのも見えた。
健は、心を決めたように、草地の崖を、館に向かって降り始めた。
濠には、黒い高い城壁の影が落ちていた。ここに立つと、城壁の向こうの館は全く見えなくなった。
ここにも警護のために配置された雑兵達がいるが、手持ちぶさたそうな彼らは野放図で、ほとんどそこいらのちんぴらと変わらなかった。
もともと、彼らは訓練された兵ではない。この間までならず者だったのが、雇われて兵になっているにすぎなかった。誰も見ていないとなれば、喧嘩をする者がいる。物陰に集まって賭け事を始める者がいる。
そこへどこからか、派手な着物をだらしなく着た女達が、下品な笑い声をあげながらやって来た。
「おつとめご苦労さま」
「これはうちの店から」
「お得意さまに差し入れ」
女達は流し目をくれながら雑兵達に声をかけ、安い酒の入った徳利を差し出した。
「女かい」
「気が利くな、どこの女だ」
「こりゃいいや、昼間から」
まわりの雑兵たちがみな集まってきて、すぐにそのあたりからは、女の嬌声と男達の猥雑な笑い声がないまざって湧き起こった。雑兵達は、かわるがわる女達の体をなでまわした。
「全く、戦のおかげで景気がいいったらありゃしない」
そう言いながら、女の一人はいやらしい男の手を軽くつねった。
「また派手にやってくれないかしらね」
「そうしたら儲かるのに」
「ああ、こんだまたやるぞ」
酒を飲んだ口元をぬぐいながら、ヒゲだらけの雑兵が言った。
「西も東もこの国の領地になる」
「あら、頼もしい」
「あたりまえだ、オレたちは百姓あがりの臆病もんじゃねえ」
「戦のためにわざわざ集められたんだ」
「今度は絶対手柄を立てて出世してやる」
「おまけに、戦に勝ちゃあ、物も金も取り放題だ。まったく戦くれえおもしろいものはねえよ」
「そのときはまた、こっちにもたんまりおすそわけしておくれよ」
「ちゃっかりしてるな」
男も女もどっと笑う。
だが、女達はじきに、空模様を気にしはじめた。
「せっかく来たけど、なんだかどっと来そうだね」
「じゃあ、あたいたちはそろそろお邪魔するよ」
そう言うと女達は、まだしつこくさわろうとする男の手から、器用に抜け出した。
「遊ぶときは絶対うちに来ておくれよ」
「よその店になんぞ行っちゃだめだよ」
「なんでえ、もう帰っちまうのか」
「続きはお店でね。来るときはたんまりお銭を持ってきておくれよ」
「ちぇ」
雑兵達は未練たらしく、あっさり帰る女達を見送っていたが、そのうちひとりが、ふと、安酒に酔った顔をしかめた。
「……なんだ、あの野郎は」
「どうした?」
「あっちに妙なヤツがいるぞ」
その雑兵はそう言いながら、ひとり、場所を離れて歩き出す。
「おまえ、なにしてる!」
雑兵に不意に怒鳴りつけられ、そっと濠の向こうをうかがいながら歩いていた健は立ち止まった。
だが、近づいてくる相手を見ても、健はおびえた顔もせず、無表情に視線を逸らしただけだった。
「なに見てた」
「……」
健は答えずに黙ってそのままきびすを返し、もと来た方に戻ろうとしたが、様子を見ていた雑兵達の何人かが回り込んで健の行く手をさえぎった。健は言った。
「そこ、通して」
雑兵のひとりがいきなり健の胸ぐらを掴み、勢いよく地べたにはり倒した。
「このガキャ」
「いいか、ここはご領主さまのお館だ。おまえみたいのがうろうろしねえようにオレたちが見張ってるんだ」
「なにしてた」
「答えろ!」
雑兵達が口々に怒鳴る。
ひとりが健の襟元を掴んで無理矢理立たせた。そして、下卑た顔で笑う。
「ガキ。女を見てたか。女と遊べるのが羨ましいか」
健は、小さく咳き込みながら、吐き捨てるように言った。
「……そんなもん見てたんじゃない」
「なんだと!」
男達はいきり立ってまた健を殴ろうとしたが、別のひとりがそれを抑えて、健に尋ねた。
「じゃあ、なにを見てたんだ。おまえ」
「……」
「妙な格好しやがって」
「……」
「……ああ? どうなんだ」
「まさかこんなガキが、どこぞの間者なんじゃねえだろうなあ」
ひとりが疑わしげに言った。
「よく見りゃこいつ、女みたいな顔してるじゃねえか。しかも、なかなかの別嬪だ」
「なにしてた? え? なにしてたって聞いてるんだよ!」
最初に健をはり倒した男が、再び健を殴りつけた。
「……おまえ、誰かにお館を調べるように頼まれて来たんだろう。誰に、なんと頼まれた。え?」
「……」
「言えよ。……言わねえつもりか。……こっちはな、おまえみてえなガキのひとりやふたり殺したからってどうってことねえんだ。いや、むしろ褒美が出るかもしれん」
「……褒美か」
雑兵達は、急に物欲しそうな顔になる。
健はその隙を見て、男達の間をすり抜けようとした。だが、別の一人がすばやく健の腕を掴んだ。
「逃げようったって無駄だ」
「……誰にもなにも頼まれちゃいない!」
健は怒鳴った。
「ただ……、オレはどうかしてじゅんに会えないかと思っただけだ……!」
「じゅん? 誰だ、そいつ」
「おまえの女か」
男達の顔にいやらしい揶揄が浮かぶ。健は叫んだ。
「女じゃない! じゅんは、虎之介って言うんだ。岡田虎之介って言うんだ!」
「岡田、虎之介だあ……」
男達は、うろんそうに健を眺めた。
「どっかで聞いた名前だなあ」
「岡田虎之介はここのご領主さんの従弟なんだ! この手を離せ! オレをその人に会わせてもらえれば、すぐになにもかもわかるから!」
「へええ」
バカにしたように、ひとりが言った。
「こいつオレたちに、ご領主さんの従弟に会わせろだとよ」
「いかれてんのか」
雑兵達が口々に健をあざけったが、
「そういや、あの男、岡田、虎之介とか言ってたんじゃなかったか」
ひとりの雑兵が、なにかを思い出すように、言った。
「なんのことだ」
「あいつだよ、首を斬られたっていう男」
え、と健の瞳が大きくなった。他の男が尋ねた。
「前っていつだ?」
「忘れたのか。ありゃ、もうひとつき近く前になるか。九月九日、節句の夜だ。あの宵にはこのお館で、オレたちも相伴した戦勝の宴があったじゃねえか」
「おう」
「あの酒はうまかった」
「あの宵だ。ご領主さまや主な家臣が集まる表座敷の前庭で、その、岡田虎之介とか言う名前を騙(かた)った男が宴の最中に首を斬られたと、その話を聞かなかったか」
その言葉に、他の雑兵もそのことをおぼろげに思い出したように返事する。
「そう言えば」
「聞いたかもしれん」
「そいつはなんでも、ご領主さんの、死んだはずの従弟と騙って屋敷に乗り込んできた男だったらしい。暴れるかと思いきや、死に際は潔かったそうだがな」
「オレも聞いた。ご領主の血筋を騙るだけあって、なかなかきれいな顔した若い男だったそうだが。それにしても大胆な騙りをしたもんだ」
「全くだ」
「首を斬られて当然だ」
「……じゃあ、てめえは」
男達の視線は、いつのまにか死人のように蒼白な顔色になっていた健の上に注がれた。
「ご領主さんの従弟を騙った男の知り合いかい」
「……」
「ははん、そういうワケか」
「仲間が首を斬られたのも知らずに、のこのこ様子を見に来たのか」
「こりゃ、おもしれえや」
「……人違いだ」
健がかすれた声を絞り出した。
「なんか言ってるぞ、こいつ」
「……じゅんは嘘なんか言わない」
健は、顔を上げた。雑兵達に向かって健は怒鳴った。
「じゅんは、ほんとにご領主さんの従弟だった。証拠だってちゃんとあった!」
そんな健を見て、男達は、さもおもしろそうに笑い声をあげた。
「こいつ、バカか」
ひとりが、槍を取り出した。
「その男の仲間なら、殺せば褒美が出るのは確実だな」
「やめろよ。こいつは頭がおかしいだけだ」
そう言って止める者もあったが、槍を取り出した男は聞かなかった。
「殺しちまえばそんなことわかるもんか」
おもしろがった何人かの男が健を取り押さえた。健は叫んだ。
「じゅんじゃない。……それはじゅんじゃない!」
「どうでもいいんだよ、そんなことは!」
そう言いざま健に向かって槍を繰り出そうとしたその瞬間、しかし、なにか音がしたと思うと、男はギャッと叫んでのけぞった。
「どうした!」
仲間の雑兵達が、倒れた男のまわりに集まる。
男は、片目から血を流してのたうちまわっている。
「目が……!」
暴れる男の血だらけの目を覗いて、雑兵達は驚いた。
「つぶされてる」
「どうしたんだ」
「……おい、あいつだ!」
ひとりが叫んだ。
男が指さしたところには、貫くような視線の、少年と呼んでいいように小柄な若者が、礫(つぶて)をかまえて立っていた。
さてこの若者は誰でしょう!? って、それがわかんない人はいないっつーの!(笑)
えっと、岡田家の家臣・松本という悪役が台詞だけで出ているんですけど、深い意味はありません。「モナリザの微笑」に松本幸四郎が出ていたので、重々しい悪役としていいかなーっと思ってお名前を借りました。Vメンバー以外のキャストには取り立てた意味はないので、できればオリジナルのキャラのつもりで読んでください。
というわけで、まだ書いてないのではっきりしたことは言えませんが、「風の行方」、おそらく次回が最終回になります。
こんなにせっぱつまった連載になったのは初めてです。いつもはもう少し先まで書いてからアップしていたのに……。
とても一週間で最終回が書けるとは思えません。(きっぱり) アップ、ちょっと遅れます。
(2000.6.15 hirune)
「風の行方」トップに戻る | メインのページへ |