薬屋が館を出ると、いつものように、途中まで送ると言って剛がついてきた。
ふたりはしばらく秋の山の中を黙って歩いた。やがて、剛が言った。
「薬屋。あんた、健の様子をどう思う?」
薬屋は、すぐには答えられない。黙っていると剛がたたみかけてきた。
「なあ、あんた、胸の病の病人を何人も見たことあるんだろ? ああなったら、もう治らねえかな? 健は死ぬのか?」
困り果てて薬屋が立ち止まると、剛は、答えない薬屋の暗い顔を見て、なんでもないように言った。
「……そうか。やっぱ助かんねえか。そうだよな。あいつ、子どもの頃から弱っちいからな」
そう言うと剛は先に歩き出したが、少し行くとその歩みを止めた。
「なあ。薬屋」
剛が振り返る。
「オレと健は鬼だぜ? みんながオレらを鬼って呼ぶじゃねえか。……違うのか? オレらの住んでるのは、鬼の棲む館じゃねえのか?」
わけがわからず、薬屋は剛の言葉を繰り返した。
「……鬼……?」
「そうだ、鬼だよ。オレらは鬼なんだ。だからオレは、鬼がそこらの人間と同じに病で死ぬなんて、そんなことあるわけねえ、健はいつか治るとずっと信じていたんだぜ? ……なあ、薬屋……!」
「……」
薬屋は黙ったままで剛の言葉を聞く。そうして、剛と健はこんな山の中で子どもの頃からふたりきりで頼りあって暮らしてきたのだ、健が死ぬかも知れないと思った剛がおかしくなるのも無理はないとも思う。
「健は、鬼になるより死んだ方がいいと言ったことがある。でも、死ぬくらいなら鬼になった方がよっぽどいいじゃねえか。……なあ、薬屋、そう思うだろ」
「……」
「……オレたちは鬼になんかならねえのか? じゃあ、じいちゃんが言ってたことはなんだったんだ? なんでオレらは人に交わらずにふたりだけで山で暮らさねえといけなかったんだ? オレと健は、生きるのも死ぬのもいっしょなんじゃねえのか? なんでオレをおいて健だけ先に死んじまうんだ? なあ薬屋。答えろよ。……薬屋!」
剛の声はだんだんに泣き声になってきた。
「……剛……」
哀れだと思った。薬屋は剛の腕を掴むと、そのまま剛を抱き寄せた。剛は、抵抗もせずに薬屋の胸に顔を埋める。泣き顔を見られたくないのかも知れない。
「一度店に戻って、残った仕事を片づけてくる。そうしたら、オレは絶対にまた戻って来るから」
子どもに言うように、薬屋は言った。
「心配するな。オレにできることはなんでもしてやる。……今度来るときは金も食い物も持ってくる。できるだけ長くここにいられるようにする。それまでおまえはなにも考えず、健にずっとついていてやれ。……な?」
「……」
そのまましばらく、薬屋は剛を抱きしめていた。剛は薬屋に抱かれるままになっていたが、やがて薬屋から体をはがした。
「……みっともねえとこ見せたな」
笑おうとして目をこすりながら、剛が言った。
「……」
「久しぶりで薬屋と会ったから、オレもちっと気が緩んじまったよ」
「……」
「心配すんなよ、薬屋。里じゃ、若い男は戦に取られるそうだが、オレと健は戦なんか知ったこっちゃねえ。山で暮らすのは気楽なもんさ」
剛はもう、いつもと同じ悪ぶった言い方に戻っていた。薬屋は、そんな剛を黙って眺めた。
「薬屋。……オレらは大丈夫だから」
最後に剛は笑ってそう言った。
剛に、また来るから待ってろともう一度言って、薬屋は何度も振り返りながら山を下って行った。
薬屋が去って、菊はいよいよ盛りを迎えた。
そして、じゅんが来る約束の九月九日がやって来た。
その日、健は朝から剛の目を盗んでは働いた。
座敷の隅には、桶に投げ入れた菊までが飾られた。それだけで、そのあたりがぼんやりと明るくなる。健は、満足げにその花を眺めた。
だが、すぐに健には咳の発作が起こった。菊の前で喀血し、倒れている健を見つけた剛は、急いで健を起こしてやりながらも、不機嫌に怒鳴った。
「バカヤロ、動き回るからだ!」
剛は菊の花に目を留める。健の目の前で、剛は桶から引き抜いた花を外に投げ捨てた。
午後になって日差しが斜めになると、とたんに空気が冷え冷えとした。健は、横になったまま陽の陰が移ろってゆくのを眺める。
とうとう、じゅんが来ないまま、九月九日の日は暮れた。剛が戸を閉め切ろうとすると、健は、「花が見たい。少しでいいから開けておいて」と頼んだ。夜気は体に悪いから、と剛はしぶった。しかし、花を投げ捨てた後ろめたさもあったのか、最後には黙って少しの隙間を開けておいた。
夕飯も食わず、健はその細い隙間を見つめて寝ていた。
約束の日の夜も更けた。健の隣に自分も夜着を広げて横になりながら、剛は意地悪く言った。
「……どうだ。オレの言ったとおりだったろう?」
「……」
「来るわけねえよ。あいつはたぶん、少しでもこんなところで暮らしたことを恥ずかしいと思ってるだろう。山を下りれば侍なんてそうなっちまうんだ。あいつのことは忘れろ」
「……」
だが、健は、やはりなにも言い返さなかった。健は黙って夜着から顔を出し剛を見ただけであった。健のその顔を見ると、しかし剛は、不意にとまどった表情になり、夜着をひっかぶってしまった。
しばらくして、健が言った。
「じゅんがそんなこと思うわけないってわかってるくせに」
「……」
「どうしてそんなこと言うの、剛」
健がしばらく待っても、剛は答えなかった。
剛が答えないので、健は剛の方に向けていた顔を天井のほうに向け直した。
健は、今日来なかったじゅんのことを考えた。
じゅんがどんなに来ようと思っても、来られないことはある。それはわかっていたから、じゅんが来なかったことで、今さら悲しくはなかった。だが、もしかしたらもう、じゅんと会えないまま自分は死ぬかもしれない。そう思うのは少しつらかった。
いつしか、剛は眠り込んでいるようだった。剛は、山と館を行き来しながら、今はふたりが生活するための仕事を全部ひとりでこなしているのだった。そんな剛がこのごろはいつも疲れきっていることを、健はよく知っていた。
健は、そっと身を乗り出して、寝ている剛の髪をかきあげた。うつむき、眉をひそめて眠る剛は、なにか健とは別の悲しみをかかえていた。健はしばらく、剛の顔を見つめていた。だが、ふと顔を上げた健は、そのまま動かなくなった。
戸の隙間から、遠く黒い影が見えたのである。
「……」
息を飲んで健はその影に見入り、それからなにかに操られるように立ち上がった。
「……誰」
誰何してみるが、その声は外までは聞こえるはずもない。
期待と不安があった。健は、おそるおそる戸を開いた。
月の光の中、野菊の花に囲まれ、黒い影がじっと立っているのが目に入った。刀を差した、侍らしいことは夜目にもわかる。しかし、まるで夜の一部であるかのように、その人影にはなんの気配もないのだった。
だが、健はすぐに叫んだ。
「……じゅん!」
「……」
「……来てくれたんだね……!?」
人影は答えなかった。だが、健は、裸足のまま夢中で縁を降りた。健は、菊を踏みしだいて、黙ってたたずむ人影に駆けよった。
それは確かにじゅんだった。だが、健が隣に来ても、じゅんは顔を上げない。飛びつくような勢いで駆けてきながら、健はそんなじゅんを見ると、不安が胸にわきあがるのを抑えることができなかった。
「……じゅん?」
健は尋ねた。
「……どうしたの? なんでなにも言わないの……」
じゅんが、やっと顔をあげた。健が長いこと心の中で繰り返し思い起こしてきたじゅんの黒い大きな瞳が、静かに健を見る。その、暗い、深い、翳った瞳。不意に健は気がついた。
「ああ」
「……」
「オレ、夢を見ているんだ……」
「……」
「……そうなんだろう? これは、夢だよね」
健は、確かめるようにじゅんの手を握った。じゅんの手は、凍るように冷たい。その感触は、夢であるとは思えなかった。相手の手を暖めようとするように、健はしっかりとその手を握った。夢でもよかった。
「見て。ほら、菊の盛りだ」
冷たい手を握ったまま、健は月に照らされた菊の花を見回した。ふたりを取り巻くのは、月の光を受けて闇の中に白々と浮かび上がる野菊の花の群、そして夜気の中にたちこめるその香り。
ふと気がつくと、じゅんも頭を巡らせ、菊の花に見入っていた。健がそんなじゅんを見ていると、じゅんはやっと静かに笑った。
「健」
「……」
「聞いたとおりだ。美しいな」
「……じゅん」
どこかはかなげだが、それはなつかしいじゅんの声だった。ではやはりこれは夢ではないのかと、健は思った。
健は、やっと気がついて言った。
「じゅん。中に入って剛を起こそうよ。なにか暖かいものを食べる?」
だが、じゅんはかぶりを振った。
「……いや、ここでいい。……オレは長くはここにいられない」
じゅんの声はまるで、どこか遠くから聞こえるような気がする。
「長くいられないの? まさか今夜は泊まって行くんだろう?」
健が尋ねた。じゅんは答えなかった。健はひとりごとのように続ける。
「じゅんは、またここでずっと暮らすわけには行かないの……?」
「……」
「オレは、じゅんがいない間もずっとじゅんのことを考えていたよ。オレだけじゃない、たぶん、剛も……。じゅんがいなくなって、オレたちはさびしかった。なにもかもが」
「……」
黙ったまま、じゅんは健を見つめた。健はその瞳を見返す。
「どうしたの、じゅん」
不安を押しとどめようとしながらも、健は問わずにはいられなかった。
「どうしたの? じゅん、やっぱり変だよ。……なにかあったの?」
「……」
「伊武さんはどうしたの? お館というところに行ったんだろう? どうしたの、じゅん。教えてよ。なんでそんなに悲しそうな顔をしてるの……?」
健は、答えを待つようにじゅんをみつめた。じゅんは静かにそんな健を見ていたが、やがて、微笑を浮かべるようにしながら、口を開いた。
「……オレも、健と剛と過ごした山での日々を思い出さない日はなかった……」
「……」
健は黙ってじゅんの横顔を見つめる。りりしい若侍の拵えをしたじゅんなのに、顔も体つきもほっそりとはかなげに見えた。月の光に溶けこみそうだと健は思った。じゅんが言った。
「伊武は死んだ」
「え……?」
よく聞こえなかったというように、健は尋ね返した。
「オレが伊武と共に山を下り、伊武の屋敷についてすぐだ。殺されたのだ。伊武は裏切られた」
わけのわからないまま、健は、じゅんを見、じゅんの声を聞いた。
「伊武は戦に反対していた。だが、伊武が共に戦に反対すると思っていた人間は、とうに伊武を裏切っていたのだ。それは松本と言う、冷たい目をした男だった。伊武の知らないうちに、松本は、娘をオレの従兄殿、つまり今この国の領主である岡田敦啓の正妻にすることにしていたのだ……」
「……」
「伊武が殺され、わけもわからぬうちにオレは従兄殿の治める館に連れて行かれた。伊武は従兄殿を諫めろとオレに言ったのだったが、オレは、従兄殿と口を利くこともできなかった。従兄殿は段上から、縛られたオレを一瞥しただけだった。その一瞥でオレは、オレが従兄殿に憎まれていたことを知った」
「……」
「伊武と違い、オレはすぐには殺されなかった。酒なしではいられない従兄殿では家臣をまとめきることができなかったので、松本はオレを利用しようと考えたのだ。オレがすべて自分の言うとおりにするならば、命を助けよう、相応の地位も与えようと、そう松本はオレに言った……」
じゅんがそこで言葉を切った。話がよくわからずに、健は、じゅんの冷たい手を握りしめながら、ただ、じゅんの名を呼んだ。
「……じゅん……?」
「健。だがオレには、信義を破って隣国を攻めることに力を貸すことはできなかった……」
「……」
「従兄殿はおそらく、祖父君に疎まれたと思いこんでいるのであろう。……それ故にわざと、名君と謳われた祖父君の言いつけを破り、戦を好み、悪しき領主となったのかも知れぬ。それはひとつには、祖父君にかわいがられたという、オレのせいなのだろう。だが、そのような心弱きこと、領主たるものの許されることではない」
「……」
「どうかして従兄殿と膝を割って話してみたかった。何度も従兄殿に会わせてくれと頼んだ。……だが、それはかなわなかった。オレにはなにもできなかったのだ。ついに戦は起こり、あっけなく決着がついた。隣国は我が手に落ちたのだ。今、岡田の館は、戦勝の美酒に酔っている。それがどのように虚しい美酒かも知らずに」
「……」
「健」
「……」
「だが」
じゅんが、再び、健の上に優しい瞳を投げた。この上なく静かな声で、じゅんは言った。
「……戦勝の宴の余興にと松本がオレを殺したのが、健と約束した、今日のこの日であったことは、オレには幸いであった……」
「……」
微笑みながら、じゅんは冷たい両手でしっかりと健の両手を握ったようだった。だがそれは、風のように健の手をすり抜けてゆく。健はただ呆然と立ちつくした。自分を見てじゅんが微笑ったと思ったのも、ただの気配のようにも思えた。
「健。オレは鬼神を信じぬと言った。であれば、今ここにいるオレは、健がさっき言った通り、夢なのだろう。……夢であってもかまわぬか。オレが約束を果たしたと、健はそう思ってくれるか……?」
そう言って、じゅんは健を引き寄せた。
健はじゅんの話のわけがわからぬまま、しかし、引き寄せられるままにじゅんに身を寄せた。
夜気にさらされた、じゅんの冷たい腕と体が健を包むはずだった。
だが。
なんの気配もなかった。
不思議に思って健は顔を上げた。
じゅんはいなかった。
あたりは菊の群。そこに立っているのは自分ひとり。
「……じゅん!」
辺りを見回しながら、健は叫んだ。
「じゅん!?」
すぐに健ははっと気がついた。じゅんは、場所を変えて、おぼろげな闇の菊の中に立っているではないか。
だが、そのじゅんは。
「……!」
なにか声を出しただろうか。
さきほどまでちゃんと結い上げてあったじゅんの髪が、今はもとどりもほどけ、肩まで垂れているのがわかった。そのうえ、月の光を浴びたじゅんの美しい衣装は、気がつくと血で赤く染まっているのだった。衣装だけではない、こちらを見たじゅんの顔から手から首から、赤い血が流れ、滴り落ちている。そんな姿でありながら、じゅんが、健、と自分を呼ぼうとするようにこちらを見た。
しかし、それは果たさなかった。健の見る間に、じゅんはその美しい瞳を徐々に閉じた。
「……じゅん……!」
それがじゅんの姿の見えた最後だった。じゅんが完全に瞳を閉じ、その体が眠るように頽れたとき、風が吹き抜けた。その風に連れ去られるように、じゅんは今度こそ、なにも残さずに消えた。月の下の野菊の群がいっせいにざわめく。
「じゅん!」
健は周囲を見回して叫んだ。その声を風がどこかへ運んでいく。
「……じゅん!!」
健は叫んだ。叫びながら、いつかじゅんの姿を求めてあてどもなく走っていた。
「じゅん! ……じゅん! ……どこ!!」
じゅんの冷たい手を握った感触が、まだこの手に残っている。なのに、そんなはずはない、あれが夢のはずがない。
どれほどかそうやってじゅんを探して走ったあと、いきなり怒鳴り声がして、健は腕を力一杯つかまれた。
「……こんな夜中になにやってんだ!」
「……じゅんが!」
剛と同じくらいの声で健は叫んだ。
「じゅんがいるんだ!」
「なに言ってん……!」
「いたんだ! 剛。じゅんはオレに会いに来たんだ!」
健は剛の腕を振りはなそうとしたが、剛はけしてその手を離さなかった。
「やめろ、健。落ち着け!」
「いたんだ。捜してよ、剛! じゅんは血だけだったんだ。崖から落ちたときより、もっとひどい怪我をしていたんだ……!」
言っているうちに言葉が詰まった。涙でなにも言えなくなった。
「……健」
自分をなだめようとするような剛の声が、遠く聞こえた。
「じゅんが約束を守るヤツなことはオレも知ってるよ。あいつもなんか都合があるんだろう。今日は来なくても、そのうち来るさ」
「……」
「……今日は悪かった。オレも、ほんとはあいつが来ればいいと思ってる。嘘じゃねえ」
「……」
「だから、もう、戻れ」
「……」
「おまえはあいつをあんまり待ってたんで、なにか夢でも見たんだ。こんな夜にあいつが山に来られるわけがねえじゃねえか。明日を待てよ」
「……」
「……体を考えてくれ!」
そう自分に言う剛は確かに今目の前にいる。それなのにじゅんは……。
じゅんの血だらけの姿がくっきりと健の脳裏によみがえった。最後に自分を見たじゅんの、寂しげな、もの言いたげな黒い瞳も。
健は気を失った。
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