第11回

 「……虎之介さま……」
 伊武の目から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。
 「虎之介さま。わたくしの顔をお見忘れでも、あなたさまは以前とどこも違わぬ虎之介さまです。ご野心のかけらもない、清廉な方でございます……」
 涙のこぼれるのもかまわずに、伊武は無骨な両手を差し出し、しっかりとじゅんの両手を握りしめた。
 「虎之介さま。今、この国には虎之介さまが必要なのです」
 「……」
 「新たに国主になった敦啓さまは、側近達の甘言に乗り、目先の欲に駆られて、今まで我々と手を取り合って来た弱小の隣国を相手に戦(いくさ)をおはじめになるおつもりです」
 「……」
 「周囲の小国を攻めていけば、我が国は、その場は領地を広げることはできるでしょう。ですが、東には大国が爛々と目を光らせてこちらをうかがっているのです」
 「……」
 「今まで我々が大国に攻められなかったのは、弱小なりといえども、近在の国々がお互いに結束を固くし他国に攻め入る隙を与えなかったからなのです。その中心には、先のお館さまのお人柄がありました。それを、我が手で結束を破れば、大国に攻め入る隙を与えてしまうことになるのです」
 「……」
 「そのことをいくら申し上げようとしても、敦啓さまはお聞き入れになりません。この国を大きく強くさえすれば大国にも攻め入られぬのだ、祖父君のやりかたは間違っていたとさえ申されます。……そうではない、戦をすればするほど民は衰え、国は弱くなる。戦わぬことが我が国の一番の守りであったのに……」
 悔しそうにそう言うと、伊武は顔を上げ、じゅんを見据えた。
 「今ならまだ間に合います。敦啓さまには人望がござりませぬゆえ。敦啓さまは、お言葉だけは勇ましいことも申されるが、お心は弱い方。領主の地位についてからは特に、重圧に耐えかねて、酒と愛妾に溺れていらっしゃいます。お館にはわたくし以外にも、敦啓さまのやり方に懸念を覚えている家臣が多いのです。なかでも、勢力の強い松本殿がまだ、ご自分の立場を決めておられません。松本殿は、先のお館さまにも信頼されていた方。わたくしはこの度、虎之介さまがご存命かも知れぬことを、松本殿に相談いたしました。松本殿は、敦啓さまには従わぬ家臣でも、虎之介さまのご命令とあれば聞くであろう、虎之介さまが生きていらっしゃれば、戦になることは止められるだろうとおっしゃったのです」
 じゅんの手を握る伊武の手に力がこもり、わなわなと震えた。じゅんは身動きできない。
 「虎之介さま。どうぞ我らにお力をお貸し下さい。まだお記憶も戻られぬ虎之介さまには酷でございましょうが、お心持ちは以前と全く変わらぬご様子。いえ、伊武の見るところ、虎之介さまはお心もお体も以前よりもさらにたくましくおなりです」
 「……」
 「今家臣の心をまとめられるのは、先の殿のご寵愛を受けていらした虎之介さまただおひとり。虎之介さま。どうぞ、どうぞ、敦啓さまをお諫め申して下さいませ!」
 そう言うなり、伊武は地面に頭をつけ、じゅんの前に平伏した。じゅんは、言葉も発せられぬままそんな伊武を見つめるだけだった。


 「じゅん、どうしてるかな」
 今日そのセリフを聞いたのは何遍めだろう。
 「どうもしやしねえよ」
 その、何度めかの答えを、剛が答えた。
 「なんでも、残された方が思い出すもんなんだ。あっちは自分のことにかまけてるから、オレたちのことなんてもう忘れてるさ」
 「……そうかもね」
 さびしそうにも安心したようにも見える顔で、健は相づちを打った。
 「あの人、伊武って言う人、じゅんのことをちゃんと面倒見てくれるよね」
 「そりゃそうだろう。じゅんはご領主さんの血筋だそうだからな。あいつがこれからどんな暮らしをするのか、オレたちには想像もつかねえよ」
 「……うん」
 健の声が小さくなった。剛はそんな健を見て、なにげないように言った。
 「健。じゅんのことは忘れろよ。あいつはもう戻って来ねえ。わかるだろ。そんな身分のヤツが、こんなところに二度と戻ってくるもんか」
 健は返事をしないでうつむいた。
 剛はそんな健の顔を横目で見る。しばらくして、突然健が尋ねてきた。
 「ねえ、剛。じゅんは山を下りてよかったんだよね」
 真剣な顔である。その顔を見て、剛は、冷たいとも聞こえる口調で言い捨てた。
 「おまえ、自分で、そのほうがいいと言ったろう。あいつがいつまでもこんなとこにいてどうなるよ」
 それを聞いて健はやっと少し笑顔を見せた。
 「そうだよね。これでよかったんだよね」
 「……とにかく、これ以上はオレたちが心配することじゃねえや」
 話を終わらせようとするように、剛が言った。
 「全部前に戻っただけだ。あいつがここに来るよりも前にな」
 健はその言葉に小さくうなずいたが、最後にひとりごとのように言った。
 「でも、剛。じゅんは、きっとここを尋ねてくるよ。約束したんだから、きっとまた来るよ」
 剛はつまらなそうに顔を背けた。

 
 じゅんがいなくなって、健は気落ちしたように静かになった。
 初め剛は、それをたいして気にしていなかった。じゅんがいなくなった寂しさが薄れれば、再び健は元気になると思っていたのである。
 だが、山に夏がやってきても、健は元気を取り戻さなかった。
 ある日剛は、なかなか戻ってこない健を捜しにでかけ、水場で倒れている健をみつけた。健の苦しんだあとには点々と血の痕がつき、剛は、健に喀血が始まったことを知ったのである。
 いっときは人を油断させ、安心させておきながら、病は確実に健の体をむしばんでいたのだった。
 剛は、長く健をひとりきりにできなくなった。山に出ても、一日に何度も館に戻って来ては健の様子を確かめるようになった。
  

 野菊の花が咲き出した。
 ある日、薪を取り終え、館へ戻ろうとした剛は、木の合間から、人の歩いていく姿を見つけた。剛は足を止めたが、それが見覚えのある姿だとわかると、すぐに大きな声で相手を呼び止めた。
 「……薬屋!」
 剛の声に、枯れ藪を踏みしだいて歩いていた薬屋が振り返った。
 「おう、剛じゃねえか」
 薬屋が立ち止まり、剛は薬屋の隣に走り寄った。
 「薬屋……、春に来なかったから、もうここには来ねえのかと思ったぜ」
 「オレが? もうここに来ねえって?」
 薬屋が笑う。いつもの笑顔だ。だが、1年見なかった間に、そんな薬屋の笑顔にも、どこかしら疲れが宿るようになっていた。
 「……ああ。もう来ねえかと思った……」
 剛がうなずく。
 「へえ。オレが来なくてさびしかったか」
 薬屋は、剛の顔をのぞきこんだ。
 「さびしかったとは言ってねえよ」
 口ではそう言うが、剛は珍しくしおらしい顔である。そんな剛を見て、薬屋はついニヤリとする。
 「実はな。おまえにオレのありがたみを感じてもらおうと思って、春はわざと来るのを見合わせといたんだ。おまえが、オレが来なくてさびしかったと正直に言えば、これからはまたちゃんと来るぜ」
 もちろん、薬屋のいつもの冗談だ。だが、剛は、薬屋の笑顔をじっと見ると、顔をそらせてつぶやいた。
 「薬屋。……ふざけるなよ」
 「……え」
 「オレは今、薬屋と軽口を叩く気分じゃねえんだ」
 そう言うなり、剛はうつむいて黙ってしまった。薬屋は慌てる。
 「おい、どうしたんだよ、剛。おまえらしくもねえ。……来なくて悪かった、だが、おまえも知ってるだろう。あちこちで戦があって足止めをくらっちまってな。来たかったんだがなかなか来られなかったんだよ」
 「そうなのか」
 剛が、つぶやいた。
 「……どこもたいへんなんだな」
 「ああ。国境ではしょっちゅう戦が起こってる。この国は豊かないいところだと思っていたが、戦が始まると、あっという間にどこもかしこも荒れちまうもんだな」
 剛は歩きながら黙って薬屋の話を聞いていた。
 ふたりが館に着くと、夜着をかけて横になっていた健が、喜んで身を起こした。だが、1年ぶりの健を見て、薬屋はすぐには声も出なかった。
 健は、首も手足も細く痩せきっている癖に、赤い頬をして、輝くような瞳をしていた。こんな顔つきの病人を、薬屋は商売柄幾人も知っていた。それは、胸の病も末期になった病人特有の顔であった。
 薬屋は寝ているように言ったが、健はそれを聞かなかった。
 「いつも具合が悪いわけじゃないんだよ。今日は朝から気分がいいんだ。そう言ってるのに、剛が怒るからしょうがなく寝てるんだよ」
 剛は、それにはなにも言わず、「納屋に行っている」と薬屋に言い残して出ていった。 健は、咳をしながら起きだして、手習いを書いた木の皮を幾束も出して薬屋に見せた。
 「これ。薬屋さんが来たら見せようと思ってたんだ」
 「なんだ? なにか書いてあるな」
 受け取って薬屋はそれをながめた。
 「字か。けん、ごう、じゅんとあるな」
 「うん。オレたち3人の名前。オレが最初に覚えた字」
 健が微笑む。
 「おい。……もしかして、おまえがこれを書いたのか、健」
 薬屋の驚く顔に、健は楽しくてたまらないという顔になった。
 「うん。薬屋さん。オレ、薬屋さんの来ない間に、読み書きができるようになったんだよ。他にもほら、仮名は全部書ける」
 「……こりゃあすげえな。おまえいったいどうやって覚えたんだ」
 薬屋は、感心して健の字を眺めながら尋ねた。
 「……『じゅん』が教えてくれたんだ」
 そう言って、健はふっと、まじめな顔になった。
 
 薬屋が納屋へ行くと、剛は、納屋の中で手持ちぶさたそうに薬屋を待っていた。
 「薬草はねえんだ」
 と剛は言った。
 「春にあんたに売るつもりだった分の薬草も、もうとうに里で米と交換しちまった。健に米が食わせてやりたかったんだ。里でも食う物に困っていたから、ほんの少しの米にしかならなかったけどな」
 「……そうか」
 「それに、夏からこっちは、オレはこわくて遠出できねえんだ。健にいつなにがあるかわからねえから……。だから、もう薬草を採るどころじゃねえ。今はもう、自分らの食う物を取るだけで精一杯だ」
 「……」
 薬屋は、もう一度納屋の中を見回した。秋に来たときはいつも、冬の食料がいっぱいに貯蔵されている納屋だった。それが、今日は、今までにないほどがらんとして、頼りなかった。
 「わざわざ寄ってくれたのに、売りもんがなくてすまねえな」
 剛が謝った。
 「……そんなことはねえよ。剛。オレは、商売のためだけにここに来てるんじゃねえ」
 薬屋が心を籠めてそう言うと、剛は、薬屋の方を見ないままで、軽くうなずいて見せた。
 
 じきに、薬屋はふたたび薬箱を背負った。
 「実は、商売の途中なんだ」
 脚に脚絆を巻き付けながら、薬屋は健にそう言った。
 「その仕事のおかげで、ここへの関所を通れたんだ。早くおめえらの顔を見たくて先にこっちに寄っちまったが、オレはとにかく一度商売を済ませてくるよ」
 そう言うと薬屋は立ち上がった。
 「そのあと店に戻って始末をつけて、そうしたらまたここに来る。どうやってでも来るから大丈夫だ。今度来るときは持てるだけの土産を持ってくるから、待ってろよ、健」
 健は、薬屋の言葉をじっと聞いていたが、不意に言った。
 「……薬屋さん!」
 その口調がいつもと違うので、薬屋は健の顔を見た。
 「どうした? 健」
 「……薬屋さん、また来てくれるんだね」
 「ああ」
 「じゃあ、そのときでいい」
 「?」
 「そのときに頼みたいことがある」
 「なんだ、今言えよ」
 だが、健は頭を振った。
 「絶対に来て。そのときには言うから」
 不審に思いながら、薬屋はうなずいた。


 聞けば今度V6でドラマがあるそうで(ホクホク)。アルバム発売が8月に延期!?のショックも吹っ飛びました。
 「風の行方」もずいぶん話がすすんできた気がします。がんばれよー>自分(^^;

(2000.5.31hirune)

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