POWDER SHADOW

(後編)

 翌日からは、以前のように、快彦に送り迎えして貰うことになった。
 偶然のように沙織と出会うことはなかった。
 ある日、仕事を終えて工務店に戻ると、健と妹しかいなかった。
「おじさんの具合が悪いんだって」
 コタツでテレビを見ていた健が、そう言った。
 そこに妹が夕食を運んできた。
「だいたいは、母さんが作って置いてくれたものだから、大丈夫よ」
 そう言って皿を並べる。
「お前のじゃ不安だもんな」
 そう言いながら、健は箸をとった。
 妹は意に介する風もなく、自分も箸をとると、興味深そうに剛の顔を見てこう言った。
「この間、三波さんのこと、車に乗せてあげてたでしょ」
「三波さん?」
 聞き返すと、妹はいたずらっぽく笑い、
「沙織さんよ」
と言った。
 沙織の姓が三波だとは知らなかった。
 剛は平静を装ったが、頬が赤くなるのをとめることはできなかった。
「帰りに。わたしを乗せてくれてもよかったのに」
 妹が見ていたことには、全く気づかなかった。うかつだった。
 剛は、なんとか切り抜けようと、質問を投げかけた。
「あの人って、ここの社長さんにすごく世話になってるって言ってたけど、何かあったの」
 健と妹は顔を見合わせ、健が答えた。
「うちの親父がね、昔、三波さんのお父さんにすごく世話になったんだって。この工務店を始められたのも、三波さんのおかげだって言ってた。俺は子供の時に会ったことしかないんだけど」
「でもね」
と、妹が後に続けた。
「三波さん、遠いところで仕事してたんだけど、三年前に亡くなっちゃったのよ。で、奥さんもこっちの人だったから、戻ってきて、うちのアパートに入ったの。お父さんがパートの紹介なんかもして、お世話してたんだけど、前に住んでたところは暖かかったのに、ここって寒いでしょ。それが悪かったらしくて、去年亡くなっちゃったのよ」
「じゃあ、一人暮らし……」
「そうなのよ」
 妹は、身を乗り出さんばかりにして話しかけてきた。健はそれを見て苦笑している。
「沙織さんはね、去年高校を卒業して、お父さんの世話で、布施ハウジング、ほら、うちの姉がお嫁に行ったところ、あそこに就職してたの。お母さんが亡くなったとき、かわいそうだった。一人っきりになっちゃって」
 そう言って妹は涙ぐんだ。
 健は少し話題を変えようと思ったらしく、違うことを言い出した。
「しかし何だよな。うちって、ほんと狭いところでつながって仕事してるよなあ。大工と不動産屋で親戚なんだから」
 剛は、自分の父が、不動産屋を悪く言うことが多いのを思い出したが、それは口にせず、
「健君はどうするの」
と尋ねた。
「僕は大工にはならない。建築士になるよ」
 妹が割りこんだ。
「でも、結局は父さんたちと仕事するんでしょ」
「まあね」
「工務店はどうなるのよ」
「お前が婿養子をもらえよ」
「やだ。あたしはよそに行く」
 剛は、二人の会話を聞きながら、一人で夕食をとっている沙織の姿を思い浮かべていた。

 日曜日は休みだ。
 二度目の日曜日だったが、別に行くところはない。
 休みの日まで食事の世話になるのは悪いので、日曜は伊東家へ行かないことにしていた。
 最初の日曜日は、昼過ぎまで寝ていた。
 さすがに緊張して疲れがたまっていた。
 今度もまた昼過ぎまで寝てしまった。
 起きて着替え、カーテンを開けた、食事をどうしようかとぼんやり考えていると、ノックの音がした。
「はい」
とだけ、答え、覗きレンズから外を見ると、黒い髪が見えた。
 ドアを開けると、沙織が立っていた。手にはハンカチで包んだものを持っている。
「よかったら、これ、食べて。まだ何も食べてないでしょ」
「あ……、ありがとう……」
 つい、声がうわずってしまった。
 沙織は、
「じゃ」
とだけ言って去った。
 包みにはサンドイッチが入っていた。
 インスタント・コーヒーでサンドイッチを流し込みながら、剛は、これから始まるかもしれないことを考えた。

 それから三週間がたち、現場では、着々と、家が完成に向かっていた。
 配管が終わり、壁ができあがり、再び長野が来て、手際よく、コンセントと、照明器具を取り付けていった。
 剛は坂本の態度を観察していたが、やはり長野に対しては穏やかな表情を見せていた。昼食の時も、二人で、どこのラーメンがうまい、などと笑顔で話していた。
 二度目に長野が来た日、送ってもらう車の中で、剛は快彦に尋ねてみた。
「坂本さんって、あの長野っていう人と仲がいいんですか」
「うーん……。仕事の付き合いしかないんじゃないかなあ」
「でも、俺たちに対するのとは、随分態度が違ってますよね」
「そりゃあ違うさ」
 快彦がそう言うと、准一も話に加わった。
「俺らとは力が違うんやから」
「力?」
「あの長野さんって、仕事が早いやろ。それでいてちゃんとできとる。坂本さんは、そういう人が好きなんや」
「能力第一主義なんだよな」
 そう言って、快彦は、ルームミラーに映る剛を見た。
「相手が、仕事ができるかどうかで、態度が決まるみたいだな」
 剛は黙って唇をかんだ。
 俺に冷たいのは、要するに、俺は仕事ができないと思われてるということだ。

 日曜日には、昼近くなって剛が起き出すのを待って、沙織が食事を差し入れてくれた。
 夜、自分の部屋に戻って明かりをつけ、外を見ると、沙織が自分の部屋から剛に向かって手を振ってくれたりすることもあった。

 時折雪が降った。
 車道に降った雪はすぐに溶けたが、道の端には汚れた雪が積み上げられた。
 内装の段階になり、襖(ふすま)などを入れるのに経師屋が出入りしたが、観察していると、坂本は、やはり能力のある職人には柔和な表情を見せていた。
 剛に対する坂本の態度は変わらなかったが、沙織との関係には変化があった。
 ある朝、剛は、いつもより早い時間に目が覚めた。
 聞き慣れない、ズッ、ズズズッという音が聞こえる。何の音かと、カーテンを開けてみると、夜の間に雪が積もっていた。そして、アパートから道路までの通路で、沙織が雪かきをしているのが見えた。
 剛は慌てて着替え、飛び出した。
「俺がやるよ」
 沙織から雪かきスコップを奪い取るようにして、雪をどかし始めた。
 しかし、うまくいかない。沙織が見ているので焦ったが、思うように雪をどかすことができなかった。
「雪を持ち上げるんじゃなくて、押すのよ」
 沙織はそう言って、剛の手に自分の手を添え、押して見せた。雪はずるずるっと横へ移動した。
「わかった」
 教えられたとおりにすると、簡単に地面が現れた。なるほど、持ち上げてどかすよりも簡単だ。
 剛が雪をどかし終えると、沙織の姿はなく、世帯用アパートに住んでいる中年女が出てきて礼を言った。それには少しがっかりした。
 ところが、その夜、沙織は、夜食を作ってもって来てくれた。
 沙織は、包みを渡すとすぐに帰ったが、沙織の目を見て、剛は、気持ちが通じていることを確信した。

 二日後、また沙織が夜食を作ってきてくれた。
「一人暮らしだと、ヒマでしょ」
 そう言って、沙織はドアの前に立っていた。
 剛は沙織を部屋にいれようかと思ったが、人の目があり、それはまずいと思った。
 かといって、沙織の部屋に行くのはもっとまずい。
「よかったら」
 剛は緊張しながら言った。
「散歩でもしない?」
「この寒いのに?」
「夜の寒さを経験してみたいんだ」
「わかった。ちょっと待ってて」
 そう言って沙織は戻っていった。
 剛は、ジャンパーを着ると、明かりをつけたまま外に出た。ポケットに手を突っ込み、アパートの門の外に立っていると、コートを着た沙織が出てきた。
 肩を並べ、しばらく無言で歩いた。
 固くなった雪が、二人に踏まれてギシギシと音を立てた。
「寒いね」
「寒いでしょう」
 剛は立ち止まり、空を見上げた。半月が鮮やかに見えた。沙織もそれを見上げた。
「晴れてる夜ほど寒いのよ」
 剛が、月に向かって息を吐くと、それはたちまち微少な氷のかけらとなり、月光の中できらめいた。
「仕事、大変?」
 沙織が尋ねた。
「自分で決めた仕事だから。大変じゃないよ」
 そうは言ったが、坂本の冷たい表情が浮かび、さらに冷え込んだような気がした。
「帰ろう。ごめんね、寒いところに連れてきて」
「ううん。これだけ寒いとかえって気持ちいい。一人じゃ夜は出歩けないから、誘ってくれてよかった」
 剛が歩き出すと、沙織はそれに続いた。
「初めて会ってからそんなにたってないのにね」
 沙織が剛の背中に向かって言ったことの意味は、すぐに分かった。
「俺も、自分でも不思議だ」
 剛は立ち止まり、月に向かって息を吐いた。息は白煙のように空に消えた。
 沙織も並んで月を見上げ、剛に身を寄せた。

 仕事は進み、現場はいよいよ最終段階に入った。
 伊東もしばしば訪れ、仕上がりをチェックし、塗装業者や車庫設置の業者と打ち合わせをしていた。
 剛が見たところでは、伊東は、日限や支払いの打ち合わせをしているだけで、具体的な作業手順については坂本に任せているようだった。
 坂本はすべてを掌握し、何事も的確に判断していた。
 剛は、坂本が失敗するのを見たことがなかった。
 何事も、坂本の指示通りに動けば間違いはなかった。
 剛が任され、自分の考えでやって失敗しても、それを怒ることはなく、正しいやり方を教えてくれるだけだったが、それがかえって坂本を冷たい人間のように思わせていた。
 快彦とは准一は、そういった坂本のやり方に慣れているようだったが、剛はついになじむことができず、いつも心の中に生まれる反発心を押さえることができずにいた。

 沙織を誘い、二度目に夜の散歩に出た日は曇っていた。空は真っ黒に見えた。
 しかし、寒さは前回と変わらないようだった。
 外に出たときに、ちらちらと粉雪が降り始めた。聞いた通り、寒くなればなるほど雪は小さくなるようだった。
 歩きながら、剛は、沙織に、夕食の時に伊東に言われたことを話した。
 人手がたりないので、何年か伊東工務店の社員になって働かないか、と言われたのだ。
 剛の父親には了承を取ってある、とまで言われた。
「そうなの」
 沙織はうれしそうだった。
「この町にいるのね」
「そうなるかもしれない」
「よかった」
 剛が沙織の顔を見ると、沙織は恥ずかしそうにほほえんだ。
「だって……」
「ここにいることいなれば、俺もうれしいよ」
 降り注ぐ雪の量が増えてきた。
 しかし、二人は立ち止まった。
 沙織の髪に、粉雪が舞い落ちる。
 剛は、冷え切った唇に、沙織の唇のぬくもりを感じた。

 家は完成した。
 それまでにも何度か顔を見せていた注文主が来て、伊東と坂本の説明を聞きながら、家の中を見て回り、満足して帰っていった。
 家の完成は、剛がはっきり答えを出さなくてはならない時がきたことを意味していた。
 自分の家に戻るか、ここに残って、社員としてしばらくの間働くか。
 明日にはちゃんと返事をすることになっていた。しかし、剛の気持ちは決まっていた。剛は、沙織のそばにいたいと思っていた。
 その日は、打ち上げで、飲みに行くことになっていた。
 それぞれ一度家に戻り、車を置いて出直した。
 場所は駅前の寿司屋だった。
 土地を仲介した布施も顔を出した。
 伊東は上機嫌で、皆に酒を注いでくれた。
 准一はひたすら食べ、快彦はだいぶ飲んだ。
 剛は准一たちと、寒かった日の思い出話などをしながら寿司をつまんだ。
 坂本は、伊東と並んで座り、顔を赤くしていた。
「坂本さんも、今日は機嫌がいいみたいだね」
 剛がそう言うと、快彦が言った。
「そりゃそうだろう。現場じゃずっと緊張しっぱなしだもんな。俺たちとは責任が違うから」
「けど、今年に入ってからは、ちょっと穏やかやったな」
「穏やか?」
「そうや。あんさんが来るまではもっときつかったで。やっぱ、気をつこうたんやろな」
「なんで」
「そら、よその人が修業に来とるからやろ。社長の世話になった人の息子さんやいうし」
 剛は、少し飲んだビールの酔いが醒めるような気がした。
「そうだよな。気を遣ってたよな」
 快彦の言葉が追い打ちをかけた。
 いつの間にか、伊東が剛の隣に来ていた。
「いま、坂本に聞いたら、よくやってたそうじゃないか。これからも頼むぞ」
 伊東は、そう言って赤い顔で笑ったが、剛は、つきあって笑顔を見せる気にはならなかった。

 剛は一人、寒風を顔に受けながらアパートに帰った。
 伊東は、布施と快彦を連れ、スナックへ行くと言っていた。
 准一が帰り、剛も帰ろうとすると、坂本は剛を呼び止めたのだった。
 剛は坂本の顔を見るのも嫌だったが、無視するわけにもいかない。坂本の前に立つと、坂本はこう言った。
「お前はいい大工になれる。よくやった。俺は、最初は、お前よりもっとだめだった。お前は俺の仕事を見てたろう。長野さんの仕事も見てたよな。その心意気でがんばれ。じゃあな」
 言うだけ言うと、坂本はさっさと立ち去った。
 剛は、その時のことを思い出しながら歩いていた。
 どうやったって坂本の足元にも及ばない。桁が違う。
 とうてい勝てっこない相手に、ひとりでムキになっていただけだ。気を遣ってくれていたことに少しも気がつかなかった。
 俺ばバカだ。俺は甘ったれだ。俺は半人前だ。
 自分の部屋に戻り、明かりをつけたが、寝る気にも風呂に入る気にもならなかった。
 部屋の隅で膝を抱えていると、ドアがノックされた。剛は黙っていたが、鍵をかけ忘れていたので、外から開けられてしまった。
「意外に早かったのね」
 沙織だった。
「明日、返事するんでしょ」
 沙織の目は希望を宿していた。
 剛は黙っていた。
「どうしたの。飲み過ぎて具合でも悪いの?」
 剛は首を振った。
「入ってもいい?」
 剛は頷いた。
 沙織は中に入り、ドアを閉めると、剛の反対側に腰を下ろした。
「何かあったの?」
「俺……。俺、やっぱり、よそに行く」
 沙織は目を見張った。
「どうして」
「このままじゃ……」
 剛は沙織から目をそらして言った。
「このままじゃだめだ。俺は甘やかされてる」
「でも、修業に出されたんじゃない」
「修業に出された先で甘やかされてちゃだめなんだよ。俺は、坂本さんは俺に厳しくしてるんだと思ってた。でも、気を遣ってくれてたんだ。それなのに、俺はそんなことも分からなかった。自分で勝手に、俺は一人前だと思ってた。でもそうじゃない。俺なんて何にもできない。だから修業に出されたんだ。でも、ここでみんなに気を遣って貰ってたんじゃだめだ。俺は……」
 沙織の肩は震えていた。
「俺は、俺のことも、親爺のことも知らない人だけがいるところでやり直すよ。最初から修業し直すよ。このままじゃだめなんだ。みんな、俺に優しすぎる」
 剛の頬を伝って流れる涙を、沙織は黙って見つめていた。

 翌日、剛は、自分の気持ちを正直に伊東に話し、伊東工務店での修業をうち切った。
 その日のうちに荷物をまとめ、沙織には会わずに町を去ることにした。
 沙織と出会った道を、駅に向かって歩いていると、灰色の空から粉雪が舞い降りてきた。
 粉雪は、剛の髪を濡らし、頬を濡らした。

 そして、季節は移り、また冬が来た。
 剛は、自分のことを知る人の全くいない町で、修業を続けていた。
「雪だ」
 現場の後始末をしていた手を止め、剛は空を見上げ、独り言のように言った。
 仲間も手の動きを止め、一度は空を見たが、
「さっさと終わらせようぜ」
と言って、すぐに仕事に戻った。
 剛だけは、しばらくの間、雪を顔に受けていた。
 同じ時、沙織は、線路沿いの道で空を見上げていた。その黒い髪を雪が白く染め始める。
 遠く離れた場所で、それぞれ空を見上げている二人の心には、出会った日のこと、凍てつく夜の散歩、剛の流した涙、ともに過ごした短い日々のことが、同じようによみがえっていた。

(おわり)


 なぜヒロインが「沙織」なのかご理解いただけたでしょうか。
 伊東四朗が世話になった人→三波伸介→三波→南→南沙織、という連想が働いたわけです。
 え? 三波伸介も南沙織も知らない? そうですか……。


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