POWDER SHADOW

(中編)

 スーパーを出ると、日はもうだいぶ傾いていた。
 昨日も通った線路沿いに昨日歩いた道を歩いていると、前に、見覚えのある赤いコートが見えた。
 今日はフードをかぶっていない。黒い髪が揺れている。
 剛は足を早め、横に並んで横目で相手の顔を確認した。
「あら」
 相手も気づいた。沙織だった。黒目がちの目を見開いて剛を見つめた。
「昨日はありがとう」
 剛が礼を言うと、沙織は笑顔で首を振った。
「あそこまで来てたら、教えてあげなくたって分かったはずよ」
 それはそうだが、初めて経験した大雪の中で心細かったのだ。しかし、そんなことを話すわけにはいかない。
「伊東さんの所に泊まってるんですか」
「アパートを貸して貰ってる」
「単身者用のほうね」
「うん」
「わたしも同じ所に住んでるのよ。世帯用の方だけど」
「そうなんだ」
「伊東さんにはほんとにお世話になってるの」
 父親が、わざわざこんな田舎町に寄越したのは、伊東のもとで修業させたいというのが理由だったが、人望があるらしい。
「アパートに帰るの?」
「伊東さんのところで晩ご飯をごちそうになることになってるんだ」
「じゃ、またね」
 沙織は横道に入っていった。アパートへ向かう道だ。
 剛はそれを見送り、ポケットに手を入れて歩き出した。
 夕食には、家族が全員そろっていた。剛の家では、父親は仕事で遅いことが多かったので、父親も一緒の夕食というのは珍しかった。
「少しは町も見てみたか」
 伊東が剛に話しかけた。
「はい。後で現場に行ってみたら、坂本さんがまだいました」
「ほう、何してた」
「明日の段取りを立ててるって言ってました」
「えらいわねえ」
 みどりが話に加わった。
「若いのにねえ」
「ああ、あいつは偉い奴だ」
 一人晩酌をしている伊東は、少し顔が赤い。
「でもな、若いって言ってももうすぐ三十のはずだぞ」
「あら、そんなになるの。初めてうちに来た時なんて、まだ中学生だったのよね」
「ああ、詰め襟着ててな」
「また始まったよ」
 健があきれたような声を出した。
「その会話、もう一万回くらい聞いたよ」
「何回言ったっていいだろう。偉い奴は偉いんだ。健、お前もああいう男にならなくちゃだめだぞ」
「僕は大工にはならないよ。建築士になるんだ」
「建築士でもな、人に偉いって言われるような建築士にならなくっちゃあだめだ」
「父さんは偉いって言われてるのかよ」
 伊東が言葉に詰まったので、剛が助け船を出した。
「うちの父は、いつも伊東さんのことを偉いって言ってますよ」
「ほうれ見ろ」
 伊東はうれしそうだった。
「坂本くんも、そろそろ結婚しなくちゃね」
 みどりが話題を坂本に戻した。
「そうだなあ。俺も気にはしてるんだが」
「誰か、つきあってる人いるのかしら」
「快彦たちの話じゃ、いねえようだなあ」
「やっぱり、沙織ちゃんがいいんじゃない」
「うん、ちっと歳は離れてるが、あの二人が一緒になってくれりゃあ、俺も安心だ」
 剛は黙って耳をそばだてていた。
「それはどうかなあ」
 健の妹が口を挟んだ。
「快彦さんって、沙織さんのこと好きみたいよ。こないだ、わたしに、沙織さんがどんなもの好きか聞いてたもん」
「お前、そんなことべらべらしゃべるなよ」
 健にたしなめられ、妹は舌を出した。
 剛は、沙織の顔を思い出していた。

 アパートに戻ると、剛は、明かりをつけずに、窓の向こうの建物を見つめた。
 沙織が住んでいるのはどの部屋だろう、そんなことを考えた。

 翌日から現場での仕事が始まった。
 朝、伊東の軽トラックで現場まで連れて行って貰うと、坂本が来ていた。
 伊東はすぐ帰り、入れ替わりに白い3ナンバーの車が現れた。
 若い男が二人乗っていた。
「おはようございます」
 運転していた目の細い方が、屈託のない笑顔を見せた。助手席の方からは、目の大きな男が降りた。
 運転していたのが快彦、もう一人が准一だと、坂本が教えてくれた。
 紹介もそこそこに、すぐに作業が始まった。
 最初の仕事は、シートをはずし、木材を二階へ部分を運ぶことだった。
 シートのかけ方にも、坂本の几帳面さが現れていて、剛はそれに感心した。
 坂本と快彦が二階にあがり、剛と准一が足場を使って木材を運びあげる。
 床板が隙間なく並べられ、次々に打ち付けられていく。
 剛は、木材を運びながら、値踏みするように坂本の仕事ぶりを見ていたが、文句のつけようのない手際のよさだった。
 あっという間に昼食の時間になった。
 二階に上がり、できたばかりの床の上で円くなり、それぞれ、弁当を開いた。
 ラジオを聴きながら食べる。
 剛は、みどりから、お茶のポットを預かっていたので、ほかの三人にお茶を注いでやった。
 坂本は何も言わず黙って食べていたが、快彦はよくしゃべった。剛に興味があるらしい。
「修業に来たんだってね」
「はい」
「実家を継ぐんだろ」
「たぶん」
「大変だよなあ、社長になると。使われてるほうが楽だよ」
 返事のしようがなかった。
「そんなことより、午後の段取りでも考えろよ」
 坂本が口を挟んだ。有無を言わせない響きがあり、快彦は口をつぐんだ。
 准一がラジオのボリュームを上げた。天気予報だ。
 明日は、晴れるが風が強くなるという。
「寒いのはかなわんな」
 准一がつぶやいた。
 剛は心の中で、俺は寒いくらいじゃ負けないよ、とつぶやいた。

 翌日は、予報通り、昼前から風が出た。
 現場は、まだ壁ができていないので、吹きさらしになる。
 ほこりが舞い、准一はしょっちゅう目をしばたいた。
「こら、仕事にならんわ」
 愚痴をこぼしながら足場を登る。
「何でそんなにしょっちゅうゴミが入るんだよ」
 受け取った床板を並べながら、井ノ原が尋ねた。
「目がおっきいからやろな」
「この野郎、おれにあてつけてるな」
 そんなことを言いながらも顔は笑っている。
 坂本は黙々と床板を打ち付けていく。
 剛は、坂本の手つきを観察しながら板を運んだ。
 昼になると、前日と同じように円くなって弁当を食べたが、冷風に指がかじかみ、箸を使うのもおぼつかなかった。
 まだ釘を打たせてもらっていないが、確かにこれでは釘を正確に打つこともできなさそうだった。
「寒いなあ」
 快彦がこぼす。
「ほんまや」
 准一が同意して頷く。
 しかし、坂本は黙っている。
 剛は、黙っているのも気まずく、
「冬はいつも、こんなに寒いんですか」
と、快彦に尋ねてみた。
「もっと寒くなるよ。雪が降ったり、風が吹いたり。冬の現場は地獄だよ。昼寝もできねえ」
「ほんまや。夏は、屋根さえできてりゃ、昼寝でけるけど、冬はあかん」
「こんな現場で寝たら、凍死しちまうよな」
「する、する」
 坂本は、早くも平らげ、お茶を自分で注いで飲むと、図面を広げた。
「外壁の下地ができたら、電気屋に来て貰うことになるな」
 快彦と准一が食べながら頷いた。
「配線が終わったところから断熱材を入れるから。そこは森田君にもやってもらうよ」
「はい」
 剛は、「森田君」というよそよそしい言い方に引っかかるものを感じたが、素直に頷いておいた。
 その日から、帰りは快彦が車で送ってくれることになっていた。
 社長である伊東が送り迎えしていたのでは仕事に差し支えると思い、快彦が申し出たのだ。朝も、快彦が迎えに来てくれることになった。
 帰りの車は、剛一人が後部座席に乗った。
 快彦は道をよく知っており、町の中を案内しながら、伊東工務店に向かった。
 警察署、消防署、郵便局などの場所を、運転しながら快彦が教えてくれた。
 ほとんど休み無く快彦がしゃべり、准一が相づちをうち、剛はあまり口をきかずにいられた。
 駅前のロータリーから、線路沿いの道に入ると、快彦は、車の速度を落とした。
 道が狭いせいかと思ったが、そうではなかった。
「ねえねえ、乗ってかない」
 快彦が車を止め、誰かに声をかけた。見ると、沙織が歩いていた。沙織は驚いたように振り向き、快彦の顔を見て笑った。
「すぐだから」
 沙織は、そう言って手を振った。
「せっかくだから乗りなよ」
 快彦がくいさがる。沙織はその時、剛が乗っているのに気づき、歩み寄った。
「じゃあ、乗せて貰います」
 そう言うと、ドアを開けて剛の隣に乗り込んだ。
「いつもこの時間?」
 快彦は、車を走らせながら尋ねた。
「うん」
「そうか。よし。准一、お前、明日から後ろに乗れ」
「なんでやねん」
「乗せて貰ってるんだから、文句言うなよ」
「ここは俺の指定席や、ほかのもんには渡さへんで」
 二人のやりとりを聞き、沙織は剛の顔を見て笑った。剛も少し笑った。

 翌朝、快彦は張り切って剛を迎えに来た。
 准一は後部座席に移っている。
 しかし、剛を乗せて走りだしたときには、沙織の出勤時間は過ぎていた。
「ほうれ見ぃ」
 後部座席の准一はうれしそうだった。
「くそう。よし、帰りだ」
 剛には、沙織を車に乗せたいと思っている快彦の気持ちが分かるような気がした。
 しかし、帰宅する沙織に偶然出会う、などということはもうなかった。
 そうやって、一週間が過ぎたが、楽しい日々ではなかった。
 剛には、坂本の冷たさが苦痛だった。快彦と准一は慣れているらしいが、坂本の、他人を寄せ付けないような厳しさが、剛の気持ちを重くさせた。
 ある時、剛は坂本に、窓の位置を確認して、壁になる部分に印を付けるように言われた。
 図面を見ながらやってみたが、どうしてもゆがんでしまう。
 坂本は、苦戦している剛を見て、
「できないのか」
と声をかけた。
「これは学校でも習わなかったし……」
 剛がそう言うと、坂本は冷たく笑った。
「それなら、学校で習ったことなら何でもできるのか」
「……」
 剛は唇をかんだ。
 坂本は、
「できないならできないと言えばいいんだ。もういい」
と言って、図面を取り上げてしまった。
 剛は黙って頭を下げたが、恥をかかされたとしか思えなかった。
 その日、快彦は、剛を送る車の中でこんなことを言った。
「坂本さんの前でさぁ、学校で習ったの習わなかったなんて言っちゃだめだよ」
「はい……」
「あの人はね、中学出てすぐ大工になって今まで来たんだ。現場で全部覚えた人なんだよ。学校で習わなかったなんてことは、言い訳にならないんだよ」
 高校の建築科を出た俺のことが、気に入らないに違いない。剛はそう思った。
 俺だって、あんないばったやつは気に入らない、とも思った。

 やがて、二階の床板は終わり、壁も下地が出来上がった。内側に断熱材を入れて石膏ボードを打ち付け、外にはサイディングを取り付けることになるが、それはもっと後だ。
 一階の床は、ガスと水道の配管が終わってからの作業になる。
 大まかな壁ができ、風に悩まされずに済むようになった日に、剛は、坂本の指示で、朝、工務店から断熱材を運ぶことになった。
 自分で運転してくるので、快彦に迎えに来て貰うことはない。
 前の日のうちに断熱材を積み込み、その日は張り切って早い時間に出発した。
 一度ぐらいは、坂本より早く現場に着いてみたかった。
 先に来ているのを見たら、きっと驚くだろう。
 工務店を出て線路沿いの道を走らせていると、見覚えのある後ろ姿が見えた。道の左端を歩いている。
 剛はその横に車を寄せ、声をかけた。
「よかったら、送っていくよ」
 声をかけられた沙織は、剛を見て笑顔を見せた。
「ありがとう」
 沙織は遠慮せずに乗り込んだ。
「いつもこの車で行ってるの?」
「ううん、今日だけ」
「そうなんだ……。お仕事、どう? 大変?」
「まあね。修業の身だから」
「でも、伊東さんのところなら、大丈夫よね。いやなことなんかないでしょう」
「うん……」
 剛の心には、坂本の冷たい顔が浮かんだが、黙っていた。
 あっという間に、布施ハウジングの前に着いてしまった。
 沙織は礼を言って降りると、走り去る剛に向かって手を振った。
 剛は、少し沙織のことを考えていたが、すぐに仕事に気持ちを切り替えた。今日は坂本より先に着くんだ。
 しかし、現場には、いつものように坂本が先に来ていた。
 剛がくやしい気持ちを隠して挨拶すると、
「もうすぐ電気屋が来るから、図面を確認しておけ」
と言って、図面を広げた。
 照明の取り付け位置と、電気とテレビアンテナのコンセントの位置を確認していると、快彦と准一が来た。
 四人で図面を見ていると、今度は、「長野電器」と書かれた軽トラックが来た。
「おはようございます」
 出てきたのは、坂本より少し若い男だった。
「図面の変更はありませんか」
「一カ所増やして欲しいそうだ。長野さん、ここだ」
 そう言って、坂本は、図面に赤で書き入れた部分を示した。
「リビングですね。わかりました」
 長野と呼ばれた男は自分の手元の図面に同じように赤で書き入れ、トラックに戻って荷物をより分け始めた。
「手伝え」
 坂本に言われ、剛たち三人は、長野の指示でケーブルや電線を取り出した。
 坂本は先に二階に上がって待っている。
 まず、アンテナ線、次に電線の大まかな配置を確認し、長野の指示で、柱にそって通したり、壁の間を通るように置いたりした。
 長野は、坂本とはつきあいが長いらしく、冗談を飛ばしながら仕事を進めていく。坂本も、長野に対しては時折笑顔を見せた。
 結局はつきあいがあるかどうかなんだ。大切なのは人間関係か。剛はそんなことを思いながら、指示されるままに電線を運んだ。
 長野の指示は的確で、手際がよかった。
 昼食も一緒にとったが、坂本は長野とは笑顔で話していた。
 午後の作業も滞りなく進み、翌日からは断熱材を入れられるまでになった。
 剛が運んできた断熱材を運び込み、シートをかけると、その日の仕事は終わった。
 今日は、快彦の車で送ってもらう必要はない。
 剛は腕時計で時間を確認しながら、最後まで残って後片づけをした。
 それから、何度も時計を見ながらゆっくりと、駅への道を走らせた。
 布施ハウジングの前を通り、横目で中を覗くと、沙織の姿はなかった。
 線路沿いの道にはいると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
 剛は迷わず声をかけた。
「偶然ね」
 沙織は笑顔で助手席に乗った。
「偶然じゃないかもね」
 前を見たまま剛がそういうと、沙織は驚いたように剛の横顔を見た。しかし、剛は、沙織の方へは目を向けなかった。
 遠回りにはなるが、剛はアパートまで沙織を送っていった。
「ありがとう」
 そう言った沙織の頬は赤くなっていた。

(続く)



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