POWDER SHADOW

(前編)

「うっひゃー」
 思わず声をあげてしまった。
 電車の窓からも見えていたが、改札を出てみると、まさに花びらのような雪が、空から休み無く舞い降りてきていた。
 一月上旬で、日は短い。
 日暮れ時のせいもあって、駅前のロータリーの向こうを見通すことさえできなかった。
 アスファルトの道が、白くなっている。
 大きな紙袋を抱えて、剛はしばらく空を見上げていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、意を決して歩き出した。
 雪は、まだそれほど積もっていないので、踏むと溶け、滑りそうになる。一歩一歩足元を見ながら歩かなくてはならなかった。
 改札を出て左へ、線路沿いにまっすぐ。一キロぐらい。
 貰った地図にはそうあった。
 紙袋の口を折り、中に雪が入らないようにしてしっかり抱えて歩いた。
 髪にも雪がつもる。頭を振ると、雪が散った。
 十分も歩くと、すっかり暗くなってしまった。立ち止まって空を見上げると、闇の中から街灯の光の中へ、雪が湧き出しているように見えた。あとからあとから湧いてくる。
 街灯に照らされながら落ちてゆく雪は白く見えるのに、向こう側から来る車のヘッドライトの中に浮き上がる雪は、黒い影に見えた。
 たどり着けなかったらどうなるんだろう。
 不安が生まれた。
 そして、それに似た不安をずっと前に感じたことがあったのを思い出した。
 いつだったろう。
 そうだ、小学生の時だ。一年生の時だったろうか。
 海に連れて行って貰ったことがあった。
 浮き輪につかまって、ずっと沖まで出てみた時のことだ。
 沖といっても、ロープが張ってあったから、海水浴のできる範囲だったはずだ。
 でも、砂浜が随分遠く見えて、急に不安になったのだった。
 もし帰れなくなったらどうしよう。
 必死に足を動かして戻ったのを覚えている。
 すぐそばに父親がいたのだから、あんなに心配しなくてもよかったのに。
 しかし、今は一人きりだ。
 剛は、背を丸め、紙袋を抱くようにして歩き続けた。まるで雪の中を泳いでいるみたいだ。そんなことを考えた。
 突然、目の前に人の姿が見えた。赤いコートのフードをかぶっている後ろ姿だった。若い女のようだった。
「すみません」
 自分でも意識しないうちに、剛は声をかけていた。
「伊東工務店はこの先ですか」
 相手は驚いたように振り向いて剛の顔を見た。黒い髪がフードからのぞいていた。相手は、すぐに頷き、前の方を、手袋をした手で指差した。
「すぐですよ。ほら、看板があるでしょ」
 言われてみると、降りしきる雪の向こうに、一つだけ、ぼんやりと光る看板が見えていた。そこらしい。
「ありがとうございます」
 剛は頭を下げて歩き出した。
 道を聞かれた方は、その場に少し立ち止まって剛の後ろ姿を見送った。剛の頭はすっかり白くなっていた。

「ごめんください」
 ガラス戸を開けて、剛は中に入った。むっとするほど暖かい。椅子に座って新聞を読んでいた中年の男が立ち上がった。
 剛はまず、体と頭を振り、紙袋を下ろすと、手で雪を落とした。
 中にいた男は黙って見ている。
 雪を落とすと、剛はその男に頭を下げた。
「社長さんですか。森田剛です。お世話になります」
 男はやっと笑顔を見せた。
「おお、待ってたよ。大変だったな。電話をくれれば駅まで迎えに行ったのに。こっちであったまりな」
 そう言って、石油ストーブの前のパイプ椅子を指差した。
 剛は、もう一度雪を落としてから、その椅子に座った。
「よろしくお願いします」
 そう言って頭を下げると、相手は、
「挨拶はできるようだな」
と言って、満足そうに頷き、それから、奥へ向かって声をかけた。
「おーい、母さん。森田さんとこの息子さんが着いたよ」
 まもなく、のれんの奥から、男の妻が顔を出し、笑顔を見せた。
「いらっしゃい。雪でたいへんだったでしょう」

 すぐに夕食になり、剛は家族に紹介された。
 伊東工務店は、社長の伊東が一人で取り仕切っていて、妻のみどりが手伝うことはほとんどないらしい。
 剛と同年輩の、健という息子、そして高校生の娘がいた。
 剛は、一人一人に、できるだけきちんと挨拶をした。自分が一人前であるところを見せなくてはならない。
 ほんとうなら、こんなところに修業に来る必要なんてなかった、とは思う。
 しかし、そんなことは全く表に出さなかった。
「今日はうちに泊まってくれ。ま、朝から晩まで顔をつきあわせていたんじゃ、窮屈だろうから、明日からは寮に移ればいい」
 伊東がそう言うと、健が言った。
「寮っていっても、ただのアパートだよ」
 それをみどりがたしなめた。
「うちのものなんだから、会社の寮でいいの。東京に行ったら、社宅っていっても、ただのマンションだったりするんだからね」
 剛は、一人になれることにほっとした。
「どうせこの雪じゃ、明日は仕事にならねえ。寮に行ったら、後は現場をちょっと見るぐらいのもんだな」
 その夜は、その家の客間に泊まることになった。
 布団に入り、目を閉じたが、なかなか眠りにつくことはできなかった。
 雨戸が閉めてあり、外の様子は分からなかったが、時折、屋根に積もった雪が固まって落ちる音が聞こえた。
 息を吐いてみると、小玉の弱い光の中で、すぐに白くなった。

 翌朝には、雪は止んでいた。
 雨戸を開けると、真っ白になった庭が目に入った。何もかも雪に覆い尽くされていて、ところどころに石や木があるらしいく、そこだけ高く盛り上がっていた。
 空には雲が重くたれ込めていた。
 朝食が済むと、健と妹は学校へ出かけ、伊東は剛を軽トラックに乗せて寮に連れて行った。
 寮というのは、昨日来た道を少し戻って、線路とは反対側へ折れたところにあった。
 工務店まで歩いて十分もかからない場所に、アパートが二棟並んでいた。
「どっちもうちのアパートだ。工務店だけじゃ食っていけなくてな」
 照れくさそうに言いながら、伊東はドアを開けた。
 狭い玄関の隣に流しがあり、その向こうに畳が見えた。
 布団と電気ストーブ、電気コタツが置いてある。
 伊東は、靴を脱いで先に入ると、カーテンを開けた。
 剛は、一つだけ持ってきた紙袋を置くと、伊東の横に立って外を見た。
 車一台分ずつに区切られた駐車スペースが横に広がり、その向こうにアパートが見える。
「あっちは家族向けなんだ。こっちは独り者用だ。俺が若い頃はまだ銭湯があったんだが、今じゃ、風呂がねえと、客がつかなくてな」
 そう言いながら、狭いユニットバスの中を見せた。
 一人暮らしには充分な部屋だった。
「どうせ飯はうちで食うんだし、寝るだけの場所だがな。どうだ」
「ありがとうございます。使わせて貰います」
 剛はしっかり頭を下げた。
「そうか。じゃ、鍵を渡しておくからな」
 そう言って、伊東は鍵を手渡し、
「片づけるほどの荷物もねえようだから、現場に行ってみよう」
と、靴をはき始めた。剛もそれに続いた。
 行く途中の道は、雪がタイヤのあたるところだけ溶けていた。タイヤに巻いたチェーンがジャリンジャリンと音を立てる。
 現場は、車で十分ほどのところにあり、屋根は葺いてあったが、壁はほとんどなく、柱がむき出しだった。
 その柱の中に、一人の男がいた。
「おはようございます」
 男が出てきて挨拶した。伊東は頷いて返した。
「今日は仕事にならねえな。紹介しよう。これは、前に言った森田さんの息子さんだ」
 剛は頭を下げ、
「剛です」
と挨拶した。相手は、
「坂本です、よろしく」
と、頭を下げたが、目には親しみが感じられなかった。
「この男がここを仕切ってる。明日から、坂本について働いてくれ」
「はい」
 剛は素直に頷いて見せた。
「快彦と准一はどうした」
 伊東が尋ねると、坂本は、
「雪かきと竹箒を取りに行かせました。雪を掃き出しておかないと」
と答えた。
「そうか。じゃ、今日は雪だけ始末して帰ってくれ。続きは明日からだ」
 そう言い置いて、伊東は剛を連れて軽トラックに乗った。
 車を出すと、前を見たまま伊東はこう言った。
「あの男はな、今時めずらしい職人だ。ああいう男と一緒に仕事をすれば、勉強になる。きついことがあるだろうが、いい経験になるぞ」
「はい」
 そう答え、剛は、町並みを見ていた。これからしばらくの間、この町で暮らすのだ。
 工務店に帰るのかと思ったが、車は駅の方へ向かった。
 駅前のロータリーに出ると、駅の出口からまっすぐの道を少し行き、小さなビルの前の駐車場に車を止めた。
 大きなガラスに、内側から、大小の紙が一面に貼ってある。
「ここにも挨拶しておこう」
 「布施ハウジング」という看板が出ている。不動産屋だった。
 伊東は剛を連れて中に入った。
「おはようございます」
 若い女の声が聞こえた。
「沙織ちゃん、社長、いるかい」
「はい」
 沙織と呼ばれた娘が奥を見ると、さっきの坂本より年上の男が出てきた。
「おはようございます」
 男は丁寧に伊東に挨拶した。
 伊東は、遠慮せずに接客用のソファーに腰を下ろし、剛を隣に座らせた。
 社長と呼ばれた男も、テーブルを隔てて腰を下ろす。
 伊東がすぐに剛を紹介した。
「これが、このあいだ話した、森田さんの息子さんだ」
 剛はすぐに頭を下げた。
「剛です。よろしくお願いします」
「ああ、お父さんが昔一緒に仕事してたっていう方の」
 相手はそう言って、剛に笑顔を見せた。いかにも人の良さそうな、細い目の笑顔だった。
「布施です。よろしく」
 剛はもう一度頭を下げた。
 お父さん、ということは、この人も息子なのだろうか。剛はそう思って伊東の顔を見たが、伊東はそれに気づかず、布施に向かって尋ねた。
「里佳子は」
「幼稚園に子供を送ってったきり、帰ってきませんね」
「しょうがねえな」
「クリスマス会の打ち合わせがあるって言ってました」
 そこに、沙織がお茶を持ってきた。剛は、頭を下げ、
「ありがとうございます」
と礼を言って沙織の顔を見た。
 沙織は、剛に、笑顔を見せた。
「夕べ会いましたよね」
「え?」
「わたしに道を聞いたでしょ」
 言われてみれば、その黒髪には見覚えがあった。
「もしかしたら、伊東さんの話してた人かなあって思ったけど、やっぱりそうだったんですね」
 伊東が、驚いたように、剛の顔を見た。
「夕べ会ってたのか」
「はい。道を教えてもらいました」
「教えてもらうほどの道じゃないだろう」
「雪で前が見えなくて。もしかしたら違うんじゃないかと思いました」
 沙織は会釈を一つして自分の席に戻り、布施が話に加わった。
「昨日は久しぶりに降りましたからね。慣れてないと不安になるでしょう」
「そうだな」
 そう言いながら、伊東は湯飲みを手にとった。そのまま茶の熱で手を暖めている。
「あんな雪が降るんだから、まだあったかいんだな」
 そう言うと剛の顔をのぞき込み、
「本当に寒くなるとな、粉雪が降るんだよ。寒けりゃ寒いほど細かい雪になる。それで風でも吹いた日にゃ、大工はもう仕事にならねえ。釘も持てねえからな」
と、続けた。
 剛は黙って頷いた。
 寒いくらいじゃ俺は負けない。そう思ったが、表情には出さなかった。
 伊東と剛は、沙織の笑顔に送られて外に出た。
 道の脇に積み上げられた雪が、灰色になっている。
 工務店に戻ると、昨日実家から送っておいた荷物が届いていた。
 昼食をごちそうになり、伊東の軽トラックで、アパートに荷物を運んでもらった。
 自分で運転する、と言ったのだが、雪道に慣れていない者には運転させられない、と言われたのだ。
 伊東は、段ボール箱を部屋に運ぶと、すぐに帰っていった。
 電気ストーブをつけ、剛は、箱を開けた。
 着替えがほとんどだった。
 服をハンガーに掛けると、剛は外に出た。
 歩き回って地理を頭に入れるつもりだった。
 この町の家の造りも見ておきたい。
 雪が多い土地なので、どの屋根にも雪止めがついていた。
 スレート葺きがほとんどだったが、トタン屋根も多かった。
 大通りから横にはいると、狭い道ばかりだ。
 伊東が軽トラックに乗っているのは、道が狭いせいもあるのだろう。
 記憶を頼りに、午前中に連れて行かれた現場にも行ってみた。
 建物までの道はきれいに除雪してあり、柱に雪かきと竹箒が立てかけてあった。
 近づくと、柱の間に人が座っていた。
 坂本だった。
 剛が近づくと、坂本は、ちらっと剛を見たが、すぐに手にした図面に視線を落とした。
「いたんですか」
 声をかけると、坂本は顔を上げて頷いた。
「明日の段取りを立てとかなくちゃいけないからな」
 そういって上を見上げた。
 剛もそばへ行って上を見上げた。
「現場は初めてかい」
「いえ、実家で手伝ってました」
「そうか」
 坂本は剛に青焼きの図面を見せた。
「二階にピアノを置きたいっていうんだ」
 リビング・ルームを二階にする設計になっていた。その隅に、点線で囲まれた「ピアノ」という文字があった。
「どうやって入れるんでしょう」
 階段はL字型に折れている。これでは階段を使って運ぶことはできないだろう。
「業者がクレーンでいれるそうだ。そんなことより、床の補強の心配しろよ」
 坂本が見上げているあたりにピアノを置くことになるらしい。横木を増やしてある。
「じゃ、明日からよろしく頼む」
 そう言い置いて、坂本は去っていった。歩いて通っているらしい。
 剛もすぐにそこから離れた。
 一度部屋に戻ったが、まだ時間があったので、駅前にスーパーがあったのを思い出し、また出かけてそこで日用品を買い入れた。

(続く)



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