コバルト・ブルー

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これはhongmingの書いたものです。感想などはこちらへ→
(postpet兼用)

 海沿いの遊歩道のベンチに腰をかけて、昌行は海に沈む夕日を見ていた。夕日は水平線に隠れ、西の空がわずかにオレンジ色になっているのを残して、空は紺色になった。

 十二月になったばかりの時。
 美奈子の部屋のドアをノックする音がした。
「はあい、どちら様ですか」
「坂本でーす」
「あ、今開ける」
 ドアを開けたが、昌行はそこに立ったまま、中に入ろうとはせず、中の美奈子に声をかけた。
「すぐに出られる?」
「大丈夫よ。どうしたの。急いでるの?」
「下に車止めたままなんだ。見つかると駐車違反で切符切られちゃうから」
「車で来たの? どうしたの、その車」
「話は後で、さあ、行こう」

 車の中。
「免許を取っても乗らないでいると運転できなくなるって言うからね」
「だから買ったの? 免許取るのだってお金かかったでしょう」
「免許のお金は、夏のボーナスでほとんど間に合った。もうすぐ、暮れのボーナスが出るから、それで車のローンはだいぶ返せるし」
「でも、車って高いんでしょう」
「中古の軽自動車なんてそんなにしないよ」
「気をつけてね。まだ慣れてないんでしょう。仕事でも運転するの?」
「一応営業だからね。たまにはすることになりそうだ。あとは君とのドライブ。今までは電車で行ける所しか行けなかったけど、今度は、車でなくちゃ行けないところに行ってみようよ。どっか、行きたいとこない?」
「わたし、雪が降るところを見てみたい」
「雪? 沖縄じゃ雪は降らないもんなあ」
「遠いかな」
「遠くても大丈夫。でも、できるだけ近いところで、雪が降りそうな場所を調べておくよ」
「ありがとう。あのさ、話は変わるけど、今日行く映画館って、駐車場あるの?」
「たぶんないんじゃないかな。近くのデパートにあると思うから、そこを使うよ」
「デパートの駐車場って誰でも入れるの?」
「さあ、まあ、とにかく行ってみよう。だめだったら映画は来週にして、ドライブにしよう」

 三日後。美奈子の部屋の電話が鳴った。
「もしもし、僕だけど」
「あ、昌行さん」
「雪のことなんだけどさ、雪が降りそうな所っていうと結構遠いね」
「そう。なら、雪がなくてもいい」
「考えたんだけど、せっかくだから遠出して、雪の降るところまで行こうと思って」
「でも、遠いんでしょ」
「だから、泊まりがけで」
「……」
「会社、二十五日から休みになるんだ。よかったら、日本海まで行ってみないか。君も休みだろう」
「でも……」
「都合が悪いの?」
「ううん、予定は何もないけど」
「実は、もう予約しちゃったんだ。クリスマス・プレゼントということで。どう?」
「ありがとう……」

 十二月二十五日。二人は昌行の車の中にいた。車は関越自動車道を走っている。昌行は初めての高速道路に緊張して、常に走行車線だけを走っている。
「いやあ、高速道路って結構恐いね。みんなどうしてあんなに飛ばすのかな」
「大丈夫? ゆっくり休みながら行こうよ」
 横を車を何台も積んだトレーラーが追い越していく。
「体は大丈夫だけど、緊張するね。あんなトレーラーにうっかりぶつけられたら、こんな車、あっというまにつぶれちゃうな。二人とも即死だ」
「恐いこと言わないでよ」
 美奈子は半ば本気でおびえたが、もし昌行とともに即死するならそれでもいいかもしれないとも思った。
 昌行は話題を変えた。
「練馬から二時間ぐらいで長いトンネルがあるんだって。そのトンネルの向こうは雪国らしいよ」

 一万九百二十六メートルに及ぶ関越トンネルを抜ける間、昌行は一言も口をきかなかった。隣に座っている美奈子にも、昌行が緊張しているのが分かり、美奈子も黙って、窓の外をめまぐるしく通り過ぎていく蛍光灯を見ていた。
 やがて前方に出口が見え、車はトンネルを抜けた。
「あー、緊張した。長かったなあ」
「恐かったね」
「ああ、恐かった。どう、少しは雪がありそうかな」
 まわりの景色を見る余裕のない昌行は美奈子に尋ねた。
「あ、あれ雪かな。山のところが白くなってる」
 昌行は、美奈子が指さした方をちらりと見ていった。
「雪だ。日陰になるところだけ雪が残ってるんだ。道の左側の山を見ていた方がいいよ。日陰になる方の斜面だから」
 美奈子は、助手席側の窓から熱心に外を見ていた。
「あ、積もってる。積もってる」
 雪の量は少ないらしく、茶色い地肌が見えているところが多い。昌行は、心の中で、「頼むから降ってくれ」と祈りながらハンドルを握っていた。
 関越自動車道から降りるころ、昌行の祈りが通じたのか、雪が降り始めた。
「降ってきた、降ってきたよ」
 美奈子は喜んで窓を開け、顔を出した。雪が美奈子の顔にぶつかってくる。「きゃあ、痛いー」
 美奈子は慌てて首を引っ込めた。雪が大きいので当たると痛いのだ。窓を開けていたわずかの間に、車の中はすっかり冷え切っていた。
「本当に寒いのねえ」
 感心している美奈子をよそに、昌行は道路の凍結を恐れていた。頻繁に車が走っている道なら凍結することはないと思っていたのだが、もう夕方近い。もし本格的に冷え込んで宿につく前に凍結してしまったら。昌行は、チェーンを用意してこなかったことを悔やんだ。もっとも、用意してあったとしても、装着できる自信はない。
 交通量の少ない道で車を止め、地図を確認すると、宿はあと数キロのところだった。祈るような気持ちで車を発進させた時、ガソリンスタンドが見えた。「タイヤが安い!」という旗が揺れている。昌行は、天の助けとばかりに車をガソリンスタンドに向けた。
 スタンドでは、防寒着をつなぎの上に羽織った中年男が出迎えた。昌行が、窓を開けて、
「レギュラー、満タン」
と言うと、男は、うなずいて、昌行が心配していることを先に口に出した。
「お客さん、このタイヤじゃあぶないですよ」
「チェーンなしじゃだめですか」
「チェーンは面倒だから、スタッドレスにした方がいいよ。今なら、安いし」
「わかりました、おねがいします」
 昌行があっさり、頼んだので、美奈子は驚いていた。
「どうしたの」
「このタイヤじゃ、道が凍ったら危ないんだ」
「道が凍るの?」
「うん、冷えると、雪が解けてもすぐ氷になるんだ」
 昌行が美奈子をうながして車から降りると、男は、店内が暖かからそこで待っているように言ったが、昌行は、タイヤを取り替える手順を見ておきたかったので、外にいた。美奈子は最初は店内にいたが、昌行が外にいるので、すぐに出てきた。しかし、タイヤの取り替えを見ているわけではなく、雪が降るのが楽しくて、何とかして掌で受け止めようとして空を見上げている。
 男は、ガソリンを入れ終わると、車を作業場へ回し、手際よく取り替え始めた。昌行が珍しそうに見ているので、手順を説明しながら取り替えてくれた。
 作業が終わり、ジャッキをおろし始めると、男が黙ったので、昌行は宿までどれくらいかかるか聞いてみた。
「ああ、あそこに泊まるのかい。すぐだよ。昼間なら十五分もかからないけど、暗くなってきたからゆっくり行った方がいい。あそこはいい宿だよ。カウンターバーってのがあって、そこのバーテンがいいって話だ。夜になったらいってみたら」
 自分は行ったことがないらしいのに、ことさらにカウンターバーの話をするのが妙だったが、信用できそうな相手だったので、昌行は、その言葉を心に留めておいた。
 代金を払い、レシートを受け取って運転席に戻ると、美奈子がレシートを見せてくれと言った。昌行が渡すと、
「タイヤって思ってたより安いのね。心配しちゃった」
 昌行は、苦笑して車を発進させた。
「あら、このスタンド、珍しい名字ね」
「ミーナよりも?」
「私ほどじゃないわ。井ノ原だって。ノだけカタカナ。井ノ原鉱油だって」

 宿は小さなホテルだった。温泉に入り、食事を済ませると、昌行と美奈子は部屋の窓から暗い外を見ていた。窓のすぐそばを通る雪だけが、闇の中に白く浮き上がって見える。
「明日、日本海に雪が降るのが見られたらいいね」
「うん、見てみたい。海に雪が降るのってどんな感じかなあ」
 昌行は、美奈子の手を握った。美奈子は握るままにさせていたが、昌行に身を寄せようとはしなかった。
 しばらくそうして一緒に雪を見ていたが、昌行は、美奈子から離れてベッドに横になり、テレビをつけた。昌行の知らないクイズ番組だったが、美奈子はよく見ているらしく、自分のベッドに横になって一緒に見始め、時折、
「あの人、結構頭いいのよ」
「受けようと思ってわざとぼけるのって頭に来る」
などと、話しかけた。昌行は、ふだんは余りテレビを見ないので、美奈子がタレントをよくしっているのに感心していた。
 番組が終わり、短いニュースと天気予報になった。明日は晴れるという。
「晴れじゃ、雪は見られないわね」
「でも、運転するのにはその方がいいよ」
 九時からドラマが始まった。美奈子はそれには興味がないようだったが、昌行はしばらく画面を眺めていた。しかし、何が何だかさっぱり分からない。スタンドの男の言葉を思い出し、美奈子に声をかけた。
「バーに行ってみようか」
「バー? どこの」
「このホテルの。フロントとレストランの間にカウンターがあったろ」
「気がつかなかった。ホテルのカウンターなんてかっこいいけど、高いんじゃない」
「高いたって、そんなに飲み食いするわけじゃないんだから。行ってみようよ」

 カウンターの奥には、若いバーテンがいた。これがスタンドの男の言っていたバーテンなのだろうか。ドラマに出てくるような服装はしているが、やけに庶民的な顔の若者だった。
「いらっしゃいませ」
 昌行と美奈子を、安心できそうな笑顔で迎えてくれたが、昌行が想像していたような雰囲気ではなかった。昌行は水割りを、美奈子は紅茶を頼んだ。
 ほかに客はいない。
 夕食の時には死角になっていて見えなかったが、カウンターの奥は、レストランにつながっていた。白いピアノが置いてあるのが見える。
「途中のガソリンスタンドの人が、ここのバーは評判がいいって言ってたよ」
 バーテンの顔が余りにも人なつこいので、昌行は気安く声をかけてみた。
「そうなんですか。それで来てくださったんですね」
 昌行がうなずくと、バーテンは言葉を続けた。
「そのガソリンスタンドって、井ノ原鉱油っていうところじゃないですか」
「そうだけど。知ってるの?」
「わたしの実家なんです」
 バーテンは照れくさそうに笑った。
「家業を継ぐのが嫌でホテルに就職したんですよ。親父はここに来たことはないんですけどね」
 美奈子は、「やられたわね」と言いたげな目で昌行を見て笑うと、バーテンに言った。
「あのピアノ、使えるんですか」
「使えますよ。たまにこのレストランで披露宴があると、ピアニストを頼んでスピーチの間に演奏するんです」
「ちょっと弾いてみていいですか。他の人が来たらやめますから」
「どうぞお使いください。どうせほかのお客様がおいでになることはないと思いますから」
 美奈子はピアノに向かって腰を下ろすと、しばらくキーの様子を確かめていたが、やがて曲を弾き始めた。
 バーテンが昌行にささやいた。
「お上手ですね」
「うん……」
 曲はどこかで聞いたことのあるものだった。
 美奈子にもバーテンの言葉が聞こえたらしく、弾きながら言った。
「私ね、ピアノの先生になりたかったの」
 昌行には「なりたかった」という言葉に美奈子の気持ちがこめられているように思えた。
「なれるんじゃないか、そんなに上手なんだから」
 美奈子は何も言わなかった。昌行は、沈黙が恐くて尋ねてみた。
「それ、何て言う曲」
「これはね、ショパンの曲よ」
 美奈子は今度はすぐに答えた。
「別れの曲、っていうの。私、この曲が大好きなの。ショパンもね、これ以上きれいな曲を作ったことはないって言ってるの」
 昌行は黙って聞いていた。美奈子が次の曲を弾き始めた時、バーテンは新しいグラスを昌行の前に置いた。
「これは私のおごりです。また機会があったら井ノ原鉱油をご利用ください」

 部屋に戻った時、昌行は、慣れないウイスキーの酔いで、顔が赤くなっていた。すぐにベッドの毛布をどけてうつぶせになった。
「疲れたでしょう。マッサージしてあげようか」
「ありがとう、腰のあたりを頼むよ」
 美奈子はすぐに腰を揉み始めた。
「ずいぶん固くなってる」
「運転って、けっこう腰にくるんだな」
 美奈子はしばらくマッサージを続けたが、気づくと、昌行は寝息をたてていた。美奈子はしばらくその寝顔を見ていたが、やがて、毛布を掛けてやると、部屋の明かりを消し、自分もベッドに入った。そして枕に顔を埋め、声を殺して泣いた。

 昌行が初めて美奈子に出会ったのは七月のことだった。
 営業先からの会社に帰る途中だった。空腹を感じたので、とりあえずホームの立ち食いそばでも食べようかと思いながら駅の階段をのぼっていた。どうせ今日は会社に戻って書類の整理だけだ。急ぐことはない。
 そんなことを考えながら駅の階段をのぼっていたが、あと少しというところで、突然目の前に若い女性が転がり落ちてきた。
「大丈夫ですか」
 声をかけると、相手は目を開けたが、自分の膝を見て気を失ったようだった。昌行も膝に目をやって驚いた。膝の下の階段が真っ赤になっている。たいへんな出血だ。昌行は、驚きはしたが、自分でも意外なほど冷静に行動できた。すぐにハンカチを出して大腿部を縛って止血をし、駅員を呼んできた。駅員は美奈子の様子を見てすぐ救急車を呼びに行き、戻ってくると、昌行に、しばらくここにいてくれと言った。救急隊員に情況を説明して欲しいというのだ。
 昌行は、なんだが自分が疑われているような気がして不快だったが、断るとよけい疑われると思って了承した。
 救急車が来るまでの間、昌行はじっと女性を見つめていた。だいぶ若い。大学生ぐらいだろうか。長めの髪が顔にかかっていて細部は分からないが、やや丸顔のようだった。
 五分もしないうちに救急車が到着し、女性は気を失ったまま担架に乗せられた。昌行は状況を説明するために一緒に行った。駅員と救急隊員に状況を説明すると、すぐに納得してくれたが、念のために連絡先を教えて欲しいと言われ、それぞれに名刺を渡した。

 会社に電話がかかってきたのは二週間後だった。
 そばに同僚がいるので、駅で助けた相手の感謝の言葉を聞くのは照れくさかった。しかも相手が若い女性の声なので、隣の同僚が耳を澄ませているような気がして、気が散ってならなかった。相手の名も、名前が「みなこ」であることはわかったが、姓はよく聞き取れなかった。
「本当にありがとうございました。それで、あの、血を止めていただいたハンカチなんですが」
「いいんですよ、あんなもの。汚れたと思いますから、捨ててください」
「それでも、あの、お礼というわけではないですが、新しいハンカチを差し上げたいと思って。今、そちらの会社の近くにいるんです」
「え、そうなんですか。かえって申し訳ない。分かりました、すぐ行きます」
 昌行は、相手の服の色を尋ねると、上司に訳を話して早めに昼食に出してもらった。
 昌行が、
「みなこさんですか」
と声をかけると、相手は驚いたようだった。
「はい。あ、あの、ありがとうございました」
 そう言いながら頭を下げた。肩まで伸ばした髪が揺れた。
「いいんですよ。通りかかっただけなんですから。よかったら、食事でもどうですか」
 これは、ここに来るまでの間、口の中で何度も練習したせりふだった。救急車を見送ったときから、これが運命の出会いってやつだったら……と再会を内心期待していたのだ。
 同僚が来そうな定食屋は避けて、ファミリーレストランに入った。
 向かい合って座り、注文を終えると、昌行のほうから質問した。
「傷のほうはどうですか」
「ええ、お陰様で退院できました。膝の裏の動脈のあたりまで切れていたとかで、あの時止血していただいてなかったら、危なかったかもしれないと言われました」
「そうだったんですか。だいぶ血が出ていましたからね」
「ありがとうございました。それで、あのハンカチの代わりにこれを」
 そう言って小さな包みを差し出された。
「折角だから、遠慮せずに頂いておきます」
 昌行は素直に受け取り、電話で名字が聞き取れなかったことを話した。
「よくあるんですよ。知らない人には分かってもらえなくて。これ、読めますか」
 イラスト入りの名刺も差し出された。つい条件反射で腰を浮かせて受け取ってしまう。
 名刺には電話番号と、「天久美奈子」という名が書いてあった。
「……なんて読むんですか」
「あめく、です。読めませんよね」
「そうですね。でも僕みたいに平凡な名前だとあまり印象に残りませんからね。営業の仕事をするなら相手の印象に残るような名前の方が得ですよ」
 しばらく名刺を眺めていたが、思い切って、
「これ、いただいてもいいですか」
と聞くと、美奈子はうなづいた。
 昌行は、話題がとぎれないように、自分が入社二年目で営業の仕事をしていること、営業先からの帰りに美奈子の事故に出会ったことなどを話した。それから、どうして美奈子が倒れたのか聞いた。
「短大の前期試験の日だったんです。前の日から徹夜してて、そのまま何も食べないで試験受けて帰る途中だったんです。急にめまいがしちゃって」
「倒れてしまった、と」
「そうなんです」
「頭を打たなくてよかったね」
「はい。でも、傷が深いから、完全には治ってなくて、夏休みになったのに海もプールも行けないんです。自分が悪いんですけどね」
「暇なんですか」
「ええ、けっこう暇です」
 昌行は、その言葉に特に意味があるのかどうかしばらく考えた。美奈子は特に思うところがある様子もなく、食事を口に運んでいる。眉を細くしたり描いたりしていないようなのが好ましかった。
 会話の中で、美奈子が沖縄生まれであること、アパートで一人暮らしをしていることなどを知ったが、何よりも、電話番号を知ることができたのが最大の収穫だと思った。

 昌行と別れた美奈子が部屋に戻り、途中で買ってきたものを冷蔵庫に入れていると電話が鳴った。まさか、さっそくかかってきたのかと思って急いで出た。
 美奈子よりも先に相手が話し始めた。
「ミーナ? どうだった?」
「あ、ナナか」
「あたしで悪かったわね。どうだった? 行ってきたんでしょ?」
「うん、なかなかだった」
「幾つぐらい? どんな感じ」
 美奈子は昌行とあった時のことを話した。ナナは、美奈子が運び込まれた救急病院で同室だった女の子だった。美奈子より二歳年上で、足の骨折で入院していた。話好きで、外科の若い長野医師のファンだと公言していた。
「やっぱり運命の出会いってやつじゃないの」
「まだわからないよ、そんなの。ナナこそ長野先生はどうなったのよ」
「どうにもならないわよ、私も退院しちゃったし」
「今度は腕でも折れば」
「そうねえ。ねえ、ミーナ、どうせ暇でしょ。あたしの代わりにナナが骨折して入院してよ。毎日お見舞いに行ってあげるからさ」
「長野先生を私のものにしてもいいんだったらね」
「それはだめ、あんたには運命の人がいるんだから欲張らないの」
 ナナからの電話が切れた後、美奈子は入院していたときのことを思い出した。
 入院することも初めてだった美奈子は、同室のナナにずいぶん助けてもらった。また、何かというと長野医師のことを話題にしたがるので、美奈子も一緒にミーハーな気持ちになって楽しく入院生活を送ることができた。
 長野医師は医師になりたてで、使命感も強く、患者に対しても親身だっただけでなく、何よりも顔が整っているので女性患者に人気があった。
 ナナはよく、
「あのちょっとハスキーな声がいいのよねえ」
と言っては一人でうなづいていた。そして美奈子の止血をしてくれたのが若い男らしいと知ると、
「きっとそれが運命の人よ。退院したら絶対会いに行きなさいよ。どうせ長野先生は私のものだから」
と言って会いに行くようけしかけたのだ。
 いずれにせよお礼は言わなくてはならないと思っていた美奈子だが、ナナにそう言われると平常な気持ちで会いに行くことはできず、どういう手順を踏むか、前日にナナに相談したのだ。
 それにしても、昌行は、遊びに行けなくて暇だ、と言った言葉の意味に気づいてくれただろうか。

 昌行から電話がかかって来たのは一週間後だった。
「足の傷があるから、歩き回ったりするのはだめでしょう。映画なんかどうですか」
 そう言って、昌行は美奈子がすでに見に行った映画の題名を口にした。
「その映画見たかったんです。連れてってください」
 美奈子の声は弾んでいた。
 それからしばらくは、毎週のように昌行から誘いの電話がかかってきた。
 その度に美奈子は喜んで昌行に会いに行った。昌行は映画を見に行った時には「美奈子さん」、次からは「美奈子ちゃん」と呼んだ。
 何度か会った後、昌行は別れ際にこう言った。
「これからはちょっと忙しくなりそうなんだ」
「え……」
「教習所に行かなくちゃならなくて」
「免許持ってなかったの」
「うん、必要ないと思ってたから。あまり乗りたくもなかったし……」
「あ……。お父さん、交通事故で亡くなったんだものね」
「でも、営業の仕事だと、どうしても車に乗らなくちゃならないことがあるんで、免許取ることになったんだ」
「大変ね」
「それで、仕事が終わった後と、日曜日しか通えないから……」
「分かった。頑張って早く取ってね」
「もちろん頑張るよ。免許取ったらまた誘うから」
「うん、待ってる。……あのね、その時にはね」
「その時には?」
「美奈子ちゃんじゃなくて、ただミーナって呼んでね」

 昌行と会えなくなってからは退屈な日々だった。短大とアルバイト先以外行くところはない。映画も一人では見る気がしなくなっていた。
 時折、昌行は電話をくれたが、教習所の進行状況を話す程度だった。昌行は仮免の試験に合格し、路上に出始めていた。
 そんなある日、電話が鳴った。
「はい、どちら様ですか」
「天久美奈子さんですね」
「はい」
 相手は、美奈子が入院した病院の名を言うと、
「美奈子さんの治療を担当した長野です」
と言った。確かに聞き覚えのある声だった。もともとかすれぎみのところがあったが、緊張しているらしく、さらにかすれている。
「実はですね、大変なことになりまして」
「はい……」
「美奈子さんの傷の治療に使った製剤に問題があった可能性があるんです」
「どんな問題ですか」
「今問題になってウィルスに感染しているおそれがあるんです」
「え……」
「退院してから献血したことはありますか」
「ありません」
「とにかく検査を受けてください。陰性なら大丈夫ですから」
「陰性じゃなかったらどうなるんですか」
「感染していたとしても必ず発症するとは限りません。症状を抑える薬もあります」
「でも、治らないんでしょう!」
「……私も知らなかったとはいえ、責任を感じています。申し訳ありません」
「どうすればいいんですか」
「とにかく検査を受けてください。保健所で受けられます。それから、大変言いにくいんですが」
「……何ですか」
「接触によって、男性に感染させるおそれがあるので……」
「そんなことはしてません!」

 美奈子は何となく自分は大丈夫にちがいないと思っていたが、検査の結果は陽性だった。長野医師は何度も美奈子にわび、発症した場合に治療を受けられる病院のリストを渡し、生活上注意すべき事を丁寧に説明した。
 それから一週間、美奈子はほとんど部屋から出なかった。何をする気にもなれなかった。
 一週間後、美奈子は昌行に手紙を書いた。自分がウィルスに感染したこと正直に告げ、もう会わない方がいいと書いた。
 昌行から返事はなかった。
 しかし、二週間後、電話がかかってきた。
「やっと教習所が終わったんだ。どこか行こうよ、ミーナ」
 昌行はいつもと同じ口調で美奈子を誘った。

 ホテルのベッドで、美奈子は泣きながら、うつぶせに寝てしまっていた。
 翌朝は、昌行の方が先に起きていた。
「ミーナ、もうすぐ朝御飯だよ」
 美奈子が顔を上げると、その顔を見て昌行が笑った。
「顔に筋ができてる」
 触ってみると、枕のしわがそのまま顔に移ってしまったらしい。美奈子は慌てて洗面所のお湯で顔を洗った。だいぶ泣いたのでまぶたが腫れているはずだが、顔の筋のおかげで気づかれなかったようだ。

 朝食後、チェックアウトする前に、二人で外を歩いてみた。雪は止んでいて、日が射している。道の脇には雪が三十センチほどに積もっている。
 美奈子はブーツを履いているので、空き地に積もった雪の中に入ってみた。すぐに足を取られて手をついた。
「助けて」
 昌行は笑いながら美奈子を助け起こした。
「雪が重いから歩けないだろう」
「重い雪と軽い雪があるの?」
「気温が低いとさらさらの軽い雪が降るんだけど、昨日の雪はしめった重い雪だった。地球温暖化ってやつの影響かもしれない。でも、しめった雪の方が玉にしやすいんだ」
 そう言って、昌行は素手で雪を握ってボールにして見せ、空き地の向こうに広がる、雪の積もった水田に向かって雪の球を投げた。
「すごーい。ずいぶん遠くまでなげられるのね」
「子供の時に野球やってたからね」
 美奈子もまねをしてみたが、全然飛ばなかった。冷たい雪の感触は面白くはあったが、あまりの冷たさに指先が痛くなった。
「冷たーい。あっためて」
「自分であっためてくれ。こうやって首の所にあてるとあったまる」
 昌行は、自分の襟元に手を押し当てて見せた。美奈子はそれをまねしたが、自分の手の冷たさに首をすくめてしまった。
 昌行が、ポケットから、ホテルの売店で買った使い捨てカメラを取り出すと、美奈子はすぐにそれを手にとって昌行に向けた。昌行が美奈子を写そうと思って手を伸ばすと、美奈子は、自分のコートのポケットに入れ、
「後でね」
とだけ言った。

 ホテルから日本海までは二時間かからなかった。
 昌行の選んだのは、駅から遠い、小さな漁港だった。
 漁港に隣接して小さな市場があり、食堂もあった。沖縄育ちの美奈子には北の海の海の魚介類が珍しかった。
 昼食の後、二人は、海沿いの遊歩道を歩いた。遊歩道は、海に迫る崖の下にあり、波が高い日には歩けそうにない道だった。観光客が押し掛けるところではないので、二人のほかに人影はない。
 二人は遊歩道に設けられたベンチに腰を下ろしていた。
「日本海って海の色が濃いのね。冬だからかな」
「沖縄の海は色が薄いの?」
「もっと水色っぽい。今日の空と同じくらい」
 昌行は空を見上げた。こういう色をコバルト・ブルーというのだろうか。
「写真撮ろうよ」
 使い捨てカメラのことを思い出して言うと、美奈子は言った。
「私のことは撮らないで」
「どうして。嫌いなの?」
「写真があったら、それを見て私のことを思い出すでしょ」
 昌行は言葉に詰まって海に目を向けた。しかし、黙っていることは恐かった。
「海に雪が降るところは見られなかったな」
「でも、昨日たくさん降るのが見られたからよかった。雪がない方が運転しやすいんでしょ。せっかく買った車だから大事にしなくちゃ」
 昌行は美奈子の肩に手を回した。
「暮れのボーナスはこれでもう使っちゃったから、夏のボーナスで買おうと思うんだけど」
「何買うの。貯金もしなきゃ」
「今度のボーナスまでにサイズを教えてくれないかな。あ、二人で買いに行けばいいか」
「だから何買うのよ」
「ゆ・び・わ」
 美奈子は何も言わす昌行の肩に顔を押し当てた。泣いているのが分かる。昌行は美奈子の顔に手を当てて自分の方を向かせ、顔を寄せた。
「だめ、うつるかもしれない」
「いろいろ調べたけど、軽いキスなら大丈夫だって」
 唇が触れたとき、昌行の目からも涙がこぼれた。

 あの時と同じベンチに昌行は一人で座り、日本海に夕日が沈むのを見ていた。夕日は水平線に隠れ、西の空がわずかにオレンジ色になっているのを残して、空は紺色になった。
 美奈子は三月には行き先を告げずに姿を消していた。ただ、探さないでくれ、という内容の手紙が来ただけだった。もとのアパートあてに手紙を出しても戻っては来なかったから、転送はされているらしかった。
 天久という姓を頼りに電話帳で探してみたが、美奈子の家は探し当てられなかった。美奈子が入院していた病院に行って尋ねてみたが、患者のプライバシーに関することは教えられないと断られてしまった。
 八月になって、美奈子の母親から手紙が来た。
 沖縄に帰って間もなく美奈子が発症したこと、美奈子は症状が重くなってから母親に昌行のことを話し、自分が死んでから感謝していたと伝えてくれと言っていたことなどが書いてあった。美奈子ははじめ、ストーカーにつきまとわれているので、誰かから電話がかかってきても知らないふりをしてくれと言っていたことを手紙で知った。
 母親からの手紙にも住所は書いてなかった。
「思い出すよ」
 昌行はつぶやいた。
「写真なんかなくたって」
 ホテルで美奈子が弾いていたメロディが聞こえるような気がした。