出せない手紙

(後編)

 退院の日は、恵子が迎えに来てくれた。
 快彦は、無意識のうちに左足をかばってはいたが、ちゃんと歩くことができた。
 恵子が、一つ持つ、と言ったが、それを断り、両手に紙袋を持って外に向かった。
 片方には洗濯物が詰まっていた。もう片方には、長野に借りたままのノートパソコンが入っていた。
 自動ドアの外に出てみると、秋の風が冷たいほどだった。
「うーん。すっかり秋だなあ」
「これから寒くなるわよ」
 駐車場のわきに生えている銀杏の葉が、黄金色に輝いていた。
 二人は、タクシー乗り場まで並んで歩いた。
「ちゃんと、恵子が買ってきてくれたブリーフはいてるからな」
「はい、はい。これからは自分で買ってよ」
「あ、お前信じてないだろ。見せようか」
「見たくない」
「何だよ、見ろよ」
「やだ。バカ。変態」
 そう言って笑いながら、恵子は先にタクシーに乗った。
 運転手が、怪訝な面もちで二人を見たので、二人は顔を見合わせ、また笑った。
 タクシーの窓から見える何もかもが、新鮮だった。
 人が歩いている。
 小学生が自転車で走っていく。
 犬の散歩をしている人がいる。
 何もかもが、生気に満ちあふれているようだった。
「生きてるってさ」
 快彦は、窓に顔を押し当てるようにして言った。
「え?」
「生きてるって、いいよな」
 恵子は、不思議そうに快彦の横顔を見た。

 快彦は、翌日から、すぐ仕事に復帰した。
 最初は、商品の配置が変わっていてまごついたが、すぐに慣れた。
 三日後には、入院前と同じように、客の相手ができるようになった。
 自分では、入院前と同じになったと思っていたのだが、そうではなかった。
「井ノ原さん、なんか、変わりましたね」
 休憩時間に休息室へ行くと、先に休憩していいた、三宅というアルバイトの大学生がそんなことを言った。
「俺が? どう?」
「なんか……穏やかになったっていうか……」
「なんだよ、前は穏やかじゃなかったのかよ」
「そういうわけじゃないんだけど」
 三宅は、井ノ原の分もお茶を入れ、
「お年寄りのお客にもいらいらしなくなったでしょう」
と言った。
「そうかなあ。前からそうだったと思うけど」
「前は時々いらいらしてましたよね。でも、今はそんなことないみたいですね」
「ま、俺も大人になったってことかな、うん」
 そう言って笑ったが、快彦は、心の中で頷いていた。
 そうだ。俺は変わった。

「変わったね」
 次の休みの日、恵子にもそう言われた。
「何が?」
「あんまりしゃべらなくなった」
「そうか?」
「うん」
 二人は、スクランブル交差点を見下ろす喫茶店にいた。
 快彦は、すぐ下を行き交う人の流れをぼんやりと見た。
 もう半袖の人はいない。
 荷物を抱えて歩いている人。
 互いの腰に腕を回して寄り添って歩いているカップル。
 急ぎ足のスーツ姿。
 恵子も所在なく外を見た。
「この間さ、検査で病院行ったんだ」
 恵子は、外を見たまま黙って頷いた。
「それでさ、俺がいた病室に行ってみたんだよ。みんなどうしてるかなあ、って思って」
 快彦は、外に目を向けたまま話し続けた。
「そしたらさ。肝臓が悪くて入院してたおじさんが、おととい亡くなったんだって」
 恵子は快彦に視線を戻した。
「別に仲がよかったわけじゃないんだけどさ。知ってる人が死んじゃったっていうのが、なんかショックでさ」
「それで落ち込んでるの」
「それだけじゃないと思うんだけど」
「他にも何かあるの」
「わからない」
「そう。こうやってわたしと一緒にいても、そんなふうに、自分のことだけ考えてるのね」
 快彦は驚いて恵子の顔を見た。恵子は口を固く結んで快彦を見つめた。明らかに不満そうだった。
「自分のことだけ?」
「だってそうじゃない。わたしはどうなるの。入院してる間、わたしだってすごく心配したのよ。退院できてほんとによかったと思ってる。退院したらああしよう、こうしよう、っていろいろ考えてたけど、なんか、違うんだもん」
「何が違うんだよ」
「いつも黙ってて。自分のことばっかり考えて。違う人みたい」
 そう言うと、恵子は、目に涙をためたまま立ち上がり、無言で立ち去った。
 快彦はまた外へ目をやった。
 そして、建物から出てきた恵子が、駅へ向かって歩いていく後ろ姿を、ぼんやりと見送った。

 快彦は、日記をつけるようになっていた。
 長野から借りたままのノートパソコンで。
 キーボードからの入力はだいぶ速くなった。
 長野に、表計算ソフトを使えるようになるために、家計簿をつけろ、と言われ、やって見たが、それは二日で挫折した。
 しかし、ワープロは毎日使った。
 何かを書かずにはいられなかった。
 自分が今生きている、ということを確かめるために日記をつけ、手紙を書いた。
 手紙は恵子あてのものだった。
 会っているときには言えないことを書いた。
 しかし、その手紙を出すつもりはなかった。

 次の日の昼休みに、快彦から恵子に電話をかけた。
 快彦は、
「今日、会えないか」
と、切り出した。
「今日?」
 恵子の声は、少し冷たかった。
「俺が考えてることをちゃんと言っておきたいんだ。恵子にとっても、重要なこともあるし」
「何よ、重要なことって」
「会ってから言うよ。悪い話じゃない。今日は六時にあがれるんだ」
「わかった。じゃ、わたしが迎えに行く」
「うん。従業員用の入口で待っててくれ」

 六時過ぎに、快彦が外に出ると、恵子が少し寒そうに立っていた。
「待ったか」
「十分くらいかな」
「ごめん。行こう」
「うん」
 快彦は、少し離れたファミリーレストランを選んだ。
「今日は飲まないの?」
 恵子に尋ねられ、快彦は少し笑った。
「今日は飲まない」
「まじめになったのね」
「まじめになったというか、落ち着いたろいうか……」
 注文を終えると、快彦は、グラスの水を一口飲んで、こう切り出した。
「今の俺って、変か?」
 恵子は、少し間をおいて答えた。
「少し変かも」
「すごく大げさなこと言うとさ」
 そう言って、快彦は恵子の顔を見た。
「なんか、無駄に生きていられないっていう気がするんだよな」
 恵子は無言で快彦を見つめている。
「今度の日曜さ」
 快彦は話題を変えた。
「俺、休めるんだけど」
「そうなの。で?」
「お前んちに行こうかと思って」
「うちに?」
「ちゃんと挨拶しておこうかなって……」
「挨拶って……」
「いつまでもこういう関係のままじゃいられないだろう」
「うん……」
 恵子は、はにかむように笑ってうつむいた。

 翌日。
「長野さん、ちょっといいですか」
 快彦は、事務所に顔だけ入れて、長野に声をかけた。
「おう。いいよ」
 長野は、顔を上げ、伸び上がるようにして快彦を見た。
「パソコンのことなんですけど」
 そう言いながら入ってきた快彦の手には、ノートパソコンの入った袋が提げられていた。
「どうした」
「なんか、変なんですよ」
 快彦は、長野の机の上にノートパソコンを置くと、電源を入れた。
 ディスプレイが明るくなり、青空と白い雲の画像が表示されたが、一分以上たってもそのままだった。
「ずっとこのままなんですけど」
「うーん」
 長野はあごに手を当て、顔をしかめた。
「Windowsが壊れたんだな」
「直りますか」
「それは分からない。たまにあるんだよ。ぶつけたかなんかしたか」
「そんなことはしてないんですけど……」
「突然こうなったの?」
 そう言いながら、長野は、再起動させてみた。
 しかし、事態は変わらなかった。
「昨日、コンセントに繋ぐの忘れちゃって。急に切れちゃったんですけど」
「バッテリーが切れたんだな。それからこうなったの?」
「はい。済みません」
「普通は、それぐらいじゃ壊れないんだ。きっと、他に何か具合の悪いところがあったんだな」
「済みません」
「気にしなくていいよ。直ると思うから。それはそうと、昨日迎えに来てたのは、彼女かい」
「え? 見てたんですか」
「見たよお。かわいい子じゃないの。彼女だろ」
 長野はからかうように快彦を見た。
 恵子が外で待っていたのを見られたらしい。
「まあ、そんなもんです」
「いいねえ。彼女がいるんだったら、パソコンどころじゃないだろう」
「そんなことありませんよ。俺も覚えようとしてるんです」
「とりあえず、何とかしてみるよ。今度の休みにやってみるよ。直ったらまた持ってくるから」
「ありがとうございます」
 快彦は、深々と頭を下げて出ていった。
 長野は、もう一度再起動させてみた。しかし結果は同じだった。強制的に電源を切ると、長野はひとりごとを言った。
「あいつも、だいぶ落ち着いたな」

 次の日曜は曇っていた。
 秋というよりも冬に近いような風が、木の枝を揺らし、緑ではなくなった葉を散らした。
 恵子は、黒いワンピースを着て、駅へ向かう道を歩いていた。
 倒れずに歩くのがやっとだった。
「恵子さん、ですね」
 突然、後ろから声をかけられて立ち止まった。
 振り向くと、喪服を着た若い男が立っていた。血の気のない顔色をしていた。
 恵子は黙って頷いた。
「長野といいます。井ノ原くんと同じ会社の者です」
 何度か、快彦から長野の話を聞いていたので、これがその人か、とは思ったが、それ以上は何も考えられなかった。
 長野は、名刺を差し出した。恵子は無言で受け取った。
「できたら、住所を教えてもらえませんか。恵子さんに渡さなくてはならないものがあるんです。わたしに教えるのが不安なら、明日にでも、会社に来ていただければ、渡します」
「わたしに?」
「はい。井ノ原くんの……」
「書くもの、ありますか」
 長野は内ポケットから、ボールペンを出した。
 恵子は、ふるえる指で、長野の名刺の裏に、住所と名前を書いて渡した。
 それを受け取ると、長野は、
「みんな、ショックを受けています。井ノ原くんはは熱いやつだったから、人を助けるためにこんなことになるなんて、井ノ原くんらしいとは思うんですが……」
 恵子は、最後まで聞かず、歩き始めた。
 その日も、その次の日も、恵子はただベッドに横になって過ごした。
 何もかもが現実ではないように思えた。
 道路に倒れた老人を助け起こそうとして。
 一緒にトラックにはねられてしまうなんて。
 残された自分はどうなるのか。
 目が覚めたら……。
 何度もそう思った。
 しかし、何度、浅い眠りから覚めても、それは夢ではなかった。

 東京の方が知人が多いために、会社の施設で簡単に通夜が営まれたのだった。
 駆けつけた両親と兄の昌行の悲しみように、涙を誘われない者はなかった。
 会社の同僚も、アルバイトの大学生も泣いていた。
 恵子も泣いた。しかし、恵子の悲しみは、誰とも分かち合うことができなかった。

 通夜の二日後に、長野からの手紙が来た。
 封筒には、白い紙に印刷したものと、フロッピーディスクが入っていた。
 紙の一枚目は、長野からのものだった。
 それには、快彦に貸してあったノートパソコンの中に、快彦から恵子への手紙が残っていたので、それを送る、と書いてあった。
 フロッピーディスクには、そのファイルのコピーが入っているということだった。
 恵子は、ベッドに腰をかけ、快彦からの手紙を読み始めた。

 恵子
 入院してると毎日ヒマでさ。することがないんだよ。
 だから、長野さんが置いてったパソコンでワープロの練習をしてるんだけど、ただ練習じゃ面白くないから、手紙を書くことにした。
 ほら、ワープロで書いた手紙をよこせって言ってただろう。
 だから書いてるんだ。
 でも、この手紙、絶対出さないよ
 病院にはいろんな人がいる。すぐに治る人もいれば、ずっと寝たきりっていう人もいる。
 毎日、救急車が来る。
 そうでなくても、毎日、誰かが死んでるみたいだ。
 俺なんか、まだいい方だと思うよ。骨折だけなら、命にかかわるってことはないしさ。
 ただヒマで困るだけ。
 毎日ヒマだから、昼間は待合室でテレビを見てるんだ。
 昔のドラマの再放送があって、結構面白い。
 いろいろ見たけど、一つだけすごく印象に残ったことがあった。
 主人公の女の子が、病気で死んじゃう話。
 死ぬ前に、彼にすごくかっこいいこと言うんだよ。
 まあ、ドラマだからああやってかっこいいこと言えるんだろうけどさ。
 でも、もし俺が、骨折じゃなくて、直らない病気だってわかったらどうするだろう、って思ったよ。
 やっぱりじたばたするんだろうな。きっと。
 でも、どうせ死ぬなら、かっこよく死にたいよ。そんでもって、恵子の腕に抱かれて、かっこいいこと言うの。
 たとえばこんな風に。パクリだけどさ。
 笑うなよ。って言っても、どうせこの手紙は絶対恵子には見せないけどさ。
 恵子の腕の中で、こう言うんだ。ちょっとした詩だぜ。

 僕が死んでも、悲しまないでくれ。
 僕はいつも、君のそばにいる。
 君が見上げる夜空の星の中に僕がいる。
 君の顔を照らす夕焼けの中に、君が手にする花の中に。
 そして、これから君が出会って愛する人の中に、僕がいる。
 僕はいつも、君のそばにいるよ。


 手紙を読み終え、長い時間が経ってから、やっと恵子は立ち上がった。
 手紙を机に置くと、外の空気を吸いたくなり、窓を開けた。
 はるか西の空は、茜色の夕焼けにおおわれていた。
 恵子は、その夕焼けの色に染められた時、快彦に抱きかかえられているような気がした。

(終わり)


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