出せない手紙

(前編)

 人気のない砂浜で、二人は裸足になった。
 波が打ち寄せ、引いていく。
「うわっ、冷たい」
 予想以上にながく延びた波に足もとを襲われ、恵子は、悲鳴とも歓声ともつかない声をあげた。
「転ぶなよ」
 快彦も足をぬらしながら言った。
 海水は何度も快彦の足に覆いかぶさり、そして海に戻っていった。
 二人はしばらくの間、白い波に追われたり、追いかけたりした。
 晴れていて、日差しは心地よかったが、海水は冷たすぎた。
「もうだめだ。俺は出るよ」
 そう言って、快彦は波打ち際から緩やかな傾斜を上り、そこに伏せてあったボートに腰を下ろした。
 恵子もそれに続き、並んで座った。
「今は、もう秋、っていう歌知ってるか」
「知らない。そういう名前の歌なの?」
「いや、曲名は『誰もいない海』だ。トワ・エ・モアっていうのが歌ってた」
「また、昔のフォーク・ソング?」
「まあな」
 快彦は、小声で少し歌って聞かせた。
「ほんとに誰もいない海ね」
「来年は夏に来ような」
 恵子は快彦を横目で軽くにらんだ。
「来年は夏に休みが取れるの?」
「それは分からないなあ。店ってのは、人が休むときに忙しいのが普通だから。夏休みが取れなかったら、来年の秋は温泉でも行こうか」
「それもいいかもね」
 恵子は後ろに手をつき、空を見上げた。
 吸い込まれそうな青空を、ちぎり絵のような雲が流れていった。
「寒いな」
「帰ろうか」
 二人は手を繋いで歩き出した。

 一週間後。
 恵子の電話が鳴った。発信者は表示されない。公衆電話からのようだった。
 少し不安を感じながら出てみると、ずっと聞きたいと思っていた声がした。
「恵子? 俺」
 相手が快彦だと分かると、恵子はたまりにたまった不満をぶちまけた。
「ちょっとぉ、ずっと電話してたのにどうしたの? 全然つながんないんだもん。一体なにしてたの?」
「ごめんごめん」
 快彦は、電話の向こうで少し笑ったようだった。
「実はさ……」
「実は、何よ」
「俺、入院してるんだ」
「入院? 何で?」
「ちょっとドジっちゃってさ。事務所の二階の窓がさ、あんまり汚いもんだから、俺が拭いてきれいにしてやろうと思ったら、外におっこっちゃってさ。左足が折れちゃったんだよ。脛の骨が」
「え? ええっ……」
「救急車で運ばれてさ。意識はずっとあったんだけどね。手術したってすぐには歩けないし。病院って、ほら、携帯、だめだしさ。やっと今日、待合室まで出られたんだ」
 恵子は、電話を握りしめ、大きく息を吐いた。
「でさぁ、頼みがあるんだけど」
 快彦は遠慮がちに切り出した。

 翌日の午後、恵子はスーパーの袋を抱えて病院を訪れた。
 快彦の病室は六人部屋で、快彦は入口に一番近いベッドにいた。浴衣を着て、胸をはだけ、足を布団の上に投げ出して座っていた。
「よっ。待ってたよ」
 快彦は心から嬉しそうだった。目を細くして、体を起こし、ベッドのわきのパイプ椅子を指出した。
「座って。例のもの、買ってきてくれたか」
 恵子は、頬をふくらませながら、腰を下ろした。
「買ってきたわよ。もう、恥ずかしかった」
 快彦は笑顔で手を出した。
「はいっ」
 スーパーの袋を渡し、恵子は快彦の左足を見た。
 足は、石膏で固められ、ロボットの足のようになっていた。
「歩けるの?」
「松葉杖を使えばな」
 言われてみると、枕元の壁には、金属の杖が立てかけてあった。
 快彦は、袋の中身を自分の膝の上にあけた。
「おっ、これこれ。ありがとよ」
「恥ずかしかったんだからね」
 恵子は快彦をにらんだ。快彦の膝の上には、ランニングとブリーフの袋が重なっていた。
「こんな足じゃ、はけないんじゃないの」
「まあな」
「だったらいらないじゃない」
 快彦はきっとなって恵子を見た。
「何言ってるんだよ、退院するときにははけるよ。退院の時は新しい下着じゃないと、かっこ悪いからな」
「誰も下着なんて見ないでしょ」
「男の美学ってやつだよ」
 恵子は立ち上がった。
「じゃ、帰るから」
「なんでだよ。そんなに怒らなくたっていいじゃねえかよ」
「だって、わたしのことじゃなくて、ブリーフを待ってたんでしょ」
「そんなことないよ。恵子に会いたかったんだよ」
 恵子は少し笑顔を見せた。
「仕事なの。日曜日に来るから」
「そうか。ちゃんと来てくれよ」
「うん」
 手を振って、恵子は出ていった。快彦が、恵子の置いていったものを手に取って見ていると、隣のベッドから声がした。
「今の、彼女?」
「そうだよ」
 快彦は顔を上げずに答えた。
「ええなあ。俺なんか、おかんしか来てくれへんのに」
 隣のベッドには、快彦より少し年下の男が横になっていた。
 大きな目で、快彦をうらやましそうに見ている。
「すぐに退院できるんだからいいじゃねえかよ」
「それでも、彼女がいたら来てもらえるやん」
 隣の男は、交通事故に遭って、検査のために入院しているだけだった。
 快彦が、隣を見えて何か言おうとした時に、入口から、
「井ノ原くん」
と声がした。
 振り向くと、大きな手提げ袋を持った男が入ってきた。
「あっ、長野さん。仕事は?」
「今日は仕事で来た」
「仕事?」
 長野と呼ばれた男は、椅子の腰を下ろすと、袋からノートパソコンを取り出した。
「携帯はだめでも、パソコンはいいはずだ」
 そう言いながら、ノートパソコンを枕元のベッドに置くと、次にはACアダプターを出して、壁のコンセントとノートパソコンを繋ぎ、電源を入れた。
「ここで仕事っすか」
「ああ、使い方を覚えるんだ」
「長野さん、プロじゃないっすか。いまさら覚えることないでしょう」
 そう言われて、長野はじっと快彦の顔を見た。
「俺じゃない。井ノ原くんが覚えるんだ」
「お、俺っすか」
「どうせヒマだろう。せっかくのチャンスだ。ちゃんと覚えろよ」
 そう言いながら、長野は今度は本を二冊取りだした。
「ほら、エクセルと一太郎の入門書だ。これで勉強しろ」
 快彦は、露骨に迷惑そうな顔で、それを受け取った。
 とりあえずパラパラとめくっては見ているが、興味はなさそうだった。
「ほら、起動の仕方は分かるな」
 長野は、快彦の態度を気にとめず、食事の時に使う簡易テーブルをベッドの上に置き、その上にパソコン載せた。
「うん、これならマウスも使える」
 今度はマウスを出して接続し、カーソルの動きを確認し、頷いた。
「勘弁してくださいよ。俺、販売だけだからいらないでしょう」
 快彦は懇願するように言ったが、長野は、
「いつまでも店頭だけにいるわけにはいかないんだよ。管理部に回されてから慌てるよりは、今から準備しておいた方がいいだろう。どうせヒマなんだろうから」
「これ、会社のですか」
「いや、俺のだ。とりあえず使ってないから貸してやる。退院したら、試験するからな。ちゃんとやっとけよ。じゃあな」
 それだけ言うと、長野は出ていった。
 快彦は、つまらなそうにマウスを動かし、インストールされているソフトを確認した。「ちぇっ。ゲームはみんな消してあらあ」
 やりとりを見ていた隣の男は、少し気の毒そうに声をかけた。
「入院中も勉強かいな。大変やなあ」
「勘弁して欲しいよ」
 そう言いながらも、快彦はテキストを開いて、目次を目で追った。

 思うように動けないこともあり、入院生活は退屈だった。
 病室にはテレビがないので、退屈なときには、待合室へ行った。診察を待つ人たちに混じって、再放送のドラマを見る。
 最初は、昔のファッションがかえって新鮮に見えただけだったが、ドラマの中には、快彦の気を引くものもあった。
 それにも飽きたときだけ、長野の置いていったノートパソコンを開いた。
 表計算の方はさっぱり分からなかったが、ワープロは、入力の仕方さえ分かれば、簡単に使えそうだった。
 長野が心配してくれていることはよく分かっていたが、快彦は、店頭で客の相手をしているのが好きだった。
 デスクワークはしたくない。
 しかし、それはわがままだ、と、以前から長野に言われていた。
 キーボードでの入力は、以前から商品名登録で慣れていたので、不自由はなかった。
 しかし、書くこともないのに、ただワープロの練習だけするというのは味気ない。
 快彦は、日記をつけてみたり、手紙を書いてみたりして時間をつぶした。
 そんなことをするのは自分らしくないとは思ったが、文字のサイズを変えたり、レイアウトを工夫したりするのは面白かった。

「ちょっと太ったんじゃない」
 見舞いに来た恵子は、快彦の頬をつつきながらそう言った。
「食って寝てるだけだもんなあ」
 快彦は、自分の顔を撫でてみた。そう言われてみれば太ったかもしれない。。
「どう? 入院生活は」
「ヒマだよ。もううんざりだ」
「でも、若い看護婦さんが一杯で嬉しいでしょ」
「まあな」
「この、浮気者!」
 恵子は、手を振り上げて、快彦の左足に振り下ろすまねをした。
「あ、ウソ、ウソ。看護婦なんて眼中にないって」
「ふーん。で、あとどれぐらいで退院できるの?」
「あと十日ぐらいだって」
「じゃあ、十一月にはならないうちに退院ね」
「うん。でも、退院しても、完治じゃないから、無理はできないな」
「寒いと痛くなったりするのかなあ」
「するらしいぜ」
「節々(ふしぶし)が痛んだり、とか」
「ほんとにそうなりそうだよ」
「やーねえ。おじさんじゃない」
「どうせ俺なんか、もうおじさんだよ」
 恵子は、わきのテーブルの上のノートパソコンに目をとめた。
「これは?」
「長野さんが貸してくれたんだ」
「長野さん? ああ、会社の先輩ね」
「ヒマなんだろうから、勉強しろってさ」
「へえ。いい人ね」
「よけいなお世話だよ」
 恵子は、ノートパソコンのディスプレイを起こし、電源を入れようとした。
「おい、やめろよ」
「いいじゃない。見せてよ」
「だめだよ。長野さんが自分の貸してくれたんだから。壊したら大変だ」
 快彦は、腕を伸ばして、ノートパソコンを手元に引き寄せた。
「分かった。まだ使えないんだ」
「違うよ。とっくにマスターしたよ。バカにすんなよ」
「ほんと? 何をマスターしたの?」
「一太郎とエクセルだよ」
「へええ。じゃあ、今度、ワープロで打った手紙ちょうだいよ。見てみたいわ」
「ああいいよ。手紙ぐらい出してやろうじゃねえか」
 快彦は、恵子がいるあいだ、ずっと、パソコンを離さずにいた。
 そして、恵子が帰ってから電源を入れ、ワープロを起動させた。
「こんなの見せられねえよ」
 そうつぶやくと、隣の男が、自分に話しかけられたのかと思って身を起こした。
「え?」
「ん? いや、独り言」
 関西弁の男に変わって隣に寝ていたのは、顔にほくろの多い男だった。これも快彦より年下だった。
「さっきの、彼女?」
 隣の男は、いいきっかけができたとばかりに話しかけた。
「まあね」
 快彦は、パソコンの画面から目を離さずに答えた。

 十月に入ったばかりだが、涼しい日が続いていた。
 快彦は、足を固めたままなので、風呂に入れず、涼しいのは有難かった。
 入院生活は退屈だったが、快彦は、やがて、退屈だと思うのは贅沢だと思うようになった。
 毎日、救急車で運ばれてくる人がいる。
 快彦も救急車で運ばれた一人だったが、昼夜の別なく、救急車のサイレンが聞こえるのは、気持ちのいいものではなかった。
 また、待合室で時間をつぶしていると、泣いている人や、それを慰めている人を見かけることも多かった。
 ある時、毎朝検温に来る看護婦に、
「この病院で死ぬ人って、けっこういるの?」
と尋ねてみたことがあった。看護婦は、声を少し低くして、
「そうねえ。助からない人もいるし……」
とだけ答えた。
 自分が骨折だけで済んだのは、運がよかったのかもしれない。
 入院しているうちに、快彦は、そう思うようになっていた。
 そして、もし自分が不治の病だったら、命にかかわるような大ケガをしていたのだったら、とも考えた。

 退院の五日前になって、兄の昌行が見舞いに来た。
「ちょうど、出張があってな」
 昌行は、両親からあずかってきた着替えの包みを渡した。
「元気そうじゃないか」
「ヒマで困ってるよ」
「父さんたちが来た時は、全然動けなかったんだってな」
「うん」
「心配してたぞ」
「そんなに心配しなくたっていいのに」
「親にしてみりゃ、いつまでたっても心配なんだよ。命にかかわらなくてよかったな」
「うん」
「輸血なんかはなかったんだろ」
「ないよ。出血はなかったし。なんで?」
 そう尋ねると、昌行は周りを見回し、声を潜めてこう言った。
「ほら、肝炎とか、輸血で感染するのがあるだろう」
「ああ……」
 快彦は、改めて昌行の顔を見た。
 正月に会ったばかりなのに、顔の皺が増えたような気がした。
「今じゃ、エイズより肝炎の方が怖いっていう話もあるからな」
「俺は大丈夫だよ。いろいろ検査したけど、病気は何にもないって言われた」
「そうか。それならいいんだ。いや、ほら、肝炎で死んだプロレスラーもいたしさ」
 それを聞いて、昌行は、心底安心したようだった。

 兄が帰った後で、快彦は、天井を見上げたまま考え込んだ。
 肝炎で死んだプロレスラーのことは、同じ病室の中年の男が話しているのを聞いたことがあった。
 母子感染でキャリアになっていたということだった。
 発症していなかったのに、治療しようとしてかえって悪化させてしまい、それがもとで引退することになったのだという。
 引退後、新しい道へ進んだのに、肝臓ガンになってしまい、フィリピンでの肝臓移植手術中に亡くなった、ということだった。
 自分も肝臓を痛めてるから、ひとごととは思えない、と、その男は言っていた。
 その話を聞いたのは、入院したばかりの時のことで、それほど深く心に残りはしなかったのだが、病院暮らしをしているうちに、時折、その話が心に重くのしかかるようになっていた。
 自分は不注意で骨折した。かっこつけて失敗したのだから、自業自得だ。
 しかし、世の中には、何もしていないのに病気になる人もいる。
 それで命を落とす人もいる。
 それがなんだかやりきれなかった。

(続く)


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