あの頃のまま

(後編)

 十日後、長野は一人で「河童」に顔を出した。
 ネクタイをゆるめ、カウンター席に腰を下ろすと、ビールを注文した。ついでに、
「井ノ原はしょっちゅう来るんですか」
と尋ねると、
「二週間に一回ぐらいは来てくれるよ」
という答えが返ってきた。
 長野は、メニューに目をやり、今日は納豆揚げを注文した。油揚げに納豆を詰め、揚げたものだ。
「長野さんも変わらないねえ」
 マスターは、ビールとコップをだしながら言った。
「そうですか。自分では変わったつもりなんだけど」
 長野が、一杯注いで飲み干すと、隣の席で一人で飲んでいた男が話しかけてきた。
「いやあ、あんた変わってないよ。この間、久しぶりに顔見たけどさ、変わってないね」
 それを聞いて、カウンターの向こうから、マスターが言った。
「そうだよね、坂本さんもそう思うでしょ」
 長野は、その言葉で、男の名を思い出した。長野が初めてこの見せに来た時から、しょっちゅう一人で飲んでいた男だ。
 何をしている男なのかは分からない。いつも一人でいた。たまに、カウンターに並んで座ると、言葉を交わすこともあった。酔ってからむようなことはなく、いつも静かに飲んでいた。初めて会ったときに、四十過ぎぐらいに見えたが、十年近くたった今でも同じように四十過ぎに見える。
「坂本さんも全然変わってませんね」
「俺は永遠の中年だからね」
 そう言って、坂本は杯を口に運んだ。
 長野はまたメニューに目をやり、
「あと、揚げシューマイ」
と注文した。
 それを聞いた坂本は感心したように言った。
「さすが若いだけあるね。俺なんか、揚げ物二つも頼めないよ。体が受け付けない」
 見ると、坂本の前には、あぶったスルメと、キュウリに梅干しの果肉の部分だけを挟んだ梅キューリがあった。
 坂本は、スルメに、皿の隅に添えてあるマヨネーズをつけると、それを口に運び、奥歯でかんだ。
「ある日突然、食えなくなるんだよ」
「食が細くなるんですか」
 長野は、暇でもあり、坂本と口をきくのが懐かしくもあり、しばらく話をしてみたいと思った。
「食が細くなるっていうか……。脂っこいものを受け付けなくなるんだよ。ビジネス・ランチってさ、ミックスフライとか、トンカツとか、脂っこいものが多いだろ」
「はい」
 そう言って頷いたが、坂本の口から「ビジネス・ランチ」という言葉が出てきたのは意外だった。およそ会社勤めとは縁のなさそうな男なのだ。
 ブレザー姿のことが多いが、ネクタイ姿を見た記憶はない。
「それが普通だと思って食ってたのに、定食屋でさ、ある日突然、これは食えないって思ったんだよ」
「はあ」
 長野の前に揚げ納豆が運ばれてきた。長野は、醤油を垂らし、割り箸で挟んで口に運んだ。熱せられた納豆の味が口の中に広がる。
 口の中のぬめりを取るために、ビールを一口のみ、それからもう一口食べた。
 坂本はそれを少しうらやましそうに見て、
「それでさ」
と、話を続けた。
「気がつくと、魚が食いたくなってたんだよな。サンマとかアジとかサバとか。それからはもう、昼飯は煮魚定食か焼き魚定食だ。あんたもいつかそうなるよ」
「突然なるんですか」
「そう、突然。体力ってのはね、少しずつ落ちてくんじゃないんだよ。ガクン、ガクン、って階段みたいに落ちるんだ。ね、マスター」
 坂本が、カウンターの向こうのマスターに話を振ると、マスターは菜箸を動かしながら頷いた。
「そうだよ、長野さん。わたしもね、若い頃、空手やってたから体力には自信があったんだけどね、ふと気がつくと、息切れしてたりするからね」
「そうですか……」
 長野がコップのビールを飲み干すと、マスターがカウンター越しに揚げシューマイの皿を寄越した。きつね色に揚がったシューマイが載っている。醤油をかけ、添えてある練りカラシをつけて口に運んだ。口の中で、シューマイの皮がパリッと割れた。
「今日は待ち合わせじゃないの」
 マスターの問いに、長野は首を振り、シューマイを飲み込んでから、
「一人なんです。こないだ来たら、また来たくなって」
「うれしいこと言ってくれるね。この辺もだいぶ変わったでしょ」
「そうですね。知らない店も多いし。でも、ここは変わってませんね」
「ほとんど値上げもしてないしね」
「助かります。給料安いんですよ」
「でも、安定してるでしょ」
「そりゃあ、アルバイトの頃とは比べものになりません」
「ならいいじゃない」
「でも……」
 そう言って長野は眉を少し寄せた。
「結局こうやって終わっちゃうのかなって気はしますね」
「何言ってんの。まだこれからだよ。わたしだって四十すぎてからこの店始めたんだしね」
「そう、何があるかわからない」
 横から坂本も言った。
 長野は横を向き、思い切って尋ねてみた。
「坂本さんって、お仕事は何なさってるんですか」
「俺か……」
 坂本は少し笑った。
「そうだな……。俺の仕事は……中年だ」
「チュウネン? 歳じゃなくて、仕事が中年なんですか」
「そうだよ」
「それで食えるんですか」
「ああ、俺ぐらいになるとな、中年だってことだけで食える」
 坂本は、仕事の話はしたくないらしく、逆に、長野の仕事のことをあれこれと聞いた。
 何を作っているのか。どこで売っているのか。そして、
「営業ったって、ただ売るだけじゃないんだろう」
と言った。
「そうなんですよ。うちの会社はちいさいから、何でもやらなくちゃならなくて。企画も出せるんですよ」
「新製品の開発ってやつかい」
「はい。ほら、最近はやったソバメシみたいなのができないかなあと思ってるんですよ。何か一つぐらい、自分のアイディアでできた商品があるとうれしいんですけどね。何かありませんかね」
「日本酒ラーメンってのはどうだ」
「はあ?」
「熱燗で作るインスタントラーメン。酒を飲みながらラーメンが食える。飲んべえに売れるぞ。俺だったら一回ぐらい買うな」
「一回じゃだめなんですよ」
 あとはとりとめのない話をし、ビールを二本飲んで店を出た。
 長野と入れ替わりに、大学生らしい三人組が店に入った。その後ろ姿を見送り、ため息をつくと、長野は駅に向かった。

 長野と会った日から二週間後。
 久しぶりに来た公園では売り上げがさっぱりだったので、快彦は、また、前と同じ場所に店を広げることにした。
 初夏のような日差しの中、駅から、北へのびるゆるい坂道を歩いていくと、専門店がいくつも入ったビルがある。
 そのビルの少し手前に、今は建物があるが、快彦の学生時代にはまだ工事中だった。
 工事現場の塀に、「モナリザ」や「落ち穂拾い」をモチーフにした絵が描いてあり、その頃人気のあったドラマのエンディングでその場所が使われていた。そのドラマの放送中に、ほかの絵に変わってしまったが、そこを通るたびに、そのドラマのことを思い出す。
 私立探偵が主人公で、ハードボイルド風でありながらコメディタッチというものだった。
 快彦は、大きな紙袋を両手に提げ、うろ覚えの主題歌を口笛で吹きながらそこを通り過ぎ、その先にある歩道橋を渡って公園の入り口に着いた。
 すぐ近くにも駅があるが、あるける距離なので、いつも歩くことにしている。電車代も惜しい。
 日差しが強いので、日陰になる場所を選び、シートを広げた。
 やはりこちらの方が売り上げは良かった。
 近くに、洋服やアクセサリーを売る店の並ぶ通りがあり、そこに来たついでに公園をぶらついていく若者たちがいる。彼らは、快彦の作ったものに目を留め、買ってくれることも多かった。
 中でも、二十歳そこそこらしい男の三人連れは、快彦のアクセサリーに興味を持ったらしく、どうやって作るのか、などといろいろ質問した。
 快彦は機嫌良く質問に答え、
「君らは大学生かい」
と尋ねると、
「フリーター」
という答えだった。
「自分らで何かできんかなあと思うとるんやけど」
と、一人だけ関西弁の男がいうと、もう一人は、
「これで生活できますか」
と質問してきた。
「まあ、どうにかこうにかね」
 その答えに満足したのは、三人は頷き、ブレスレットやベルトを一つずつ買ってくれた。
 そして、背を向けて歩く出しながら、
「ああいうのっていいよね」
と言った言葉が快彦の耳に入った。特徴のある遠くからでも聞き取りやすい声だったので、はっきり聞こえたのだった。
 快彦は、自分があこがれられていると思ってうれしくなった。
 その日は、間をあけてから来たためか、思いの外売れ行きがよく、二万円以上の売り上げがあった。
 気をよくした快彦は、日が傾くと、早々に店じまいし、少し軽くなった紙袋を提げて公園を出た。
 緩やかな坂道を途中で右に折れ、地中海に面した国の名をつけた細い坂を下りて、小物が何でもそろう店へ行った。
 その店は、手芸用品でも調理器具でも、大抵のものが置いてある店だった。
 アクセサリーの材料になるものもたくさんある。
 快彦は、一番上までエレベーターで上り、螺旋状になったフロアーを一つずつ見て歩いた。
 思いがけないものから、新しいデザインを思いつくことがある。
 時には植木鉢だったり、時にはヤスリだったり。
 アクセサリー用品売り場では、皮に穴を開ける器具を特に丹念に見た。
 紐を通すための穴を開けるにしても、もっと変わった穴を開けることができないかと思っているのだ。
 望み通りのものはなかったので、チェーンと皮を少し買い、店を出た。
 売れ行きの良くない時は、アパートに帰ってインスタントラーメンで夕食をすますことが多かったが、今日は外食ができる。
 どうせなら、と、足は「河童」に向かった。
 テーブル席にはサラリーマンのグループがいた。カウンターは、一番手前の席が空いていた。快彦がそこにに座ると、
「こないだ、長野さんが一人で来たよ」
と、マスターが教えてくれた。
「へえ。珍しいな。今日も来るかな」
「来ればいいのにね」
 快彦はビールを頼み、つまみには冷や奴を頼んだ。
「珍しいもの頼むね」
「今日は暑かったからね。あ、あと枝豆」
 カウンターの前には、塩ゆでした枝豆が大きなざるに入っている。まとめてゆでておいたものを注文に応じて小鉢で出すので、冷めてはいる。
 この店に来るようになったばかりの頃、快彦は、枝豆は枝豆という種類の豆なのだとばかり思っていたが、ここで、実は大豆の実が熟する前に取ったものだということを初めて知ったのだった。「河童」で枝豆を食べるたびに、そのことを思い出す。
「長野は元気そうでしたか」
 ビールを持ってきたマスターに尋ねると、マスターは、
「元気そうだったよ」
と明るく言った。
 つまみは枝豆が先に来た。
 快彦が、さやを口に含み、中の豆を押して口の中に入れると、さやの塩気と豆の味が口の中で一つになった。
 ビールを飲み、枝豆を食べながらメニューに目をやると、新しい料理が増えていた。
「うなきもって、ウナギの肝(きも)ですか」
 尋ねると、
「そうだよ。ちょっと置いてみたの」
「じゃあ、それ。試しに食ってみます」
「あいよ」
 次に運ばれてきた冷や奴を食べている間に、マスターはウナギの肝の串焼きを焼いて持ってきた。
 見た目はタレのヤキトリのようだったが、食べてみると、確かに魚のような食感だった。タレが香ばしい。
「けっこう、うまいっすね。新しいメニューを増やしたりするんだ」
「たまにはね。そのうち置かなくなるかもしれないけど、ずっと同じメニューじゃ、作る方も飽きちゃうしね」
「そうですよね。いつも同じことばっかりしてられませんよね」
 快彦は、なんだかうれしくなって、コップのビールを飲み干した。
「何で長野は就職しちゃったのかなあ」
 そうつぶやくと、マスターが弁護するように言った。
「いいじゃないの。いつまでもアルバイトじゃいられないし。自分の店を持つ、なんて、簡単にはできないんだよ。わたしだって、退職金を全部はたいたんだから」
 長野は、自分のラーメンの店を持ちたい、と言って、大学卒業後、定職に就かず、有名なラーメン屋を、アルバイトとして渡り歩いていたのだった。
 快彦には、そのころの長野が輝いて見えていた。
 しかし、長野は、内情を見たことで、かえって、自分には店を構えてやっていくことはできないとあきらめ、就職したのだった。
「なんかなあ。俺も、決まり切ったことばっかりはやりたくないんですよ。帰りの電車に、サラリーマンの人たちがいっぱいいるけど、みんな面白くなさそうな顔してるんですよね。長野もあんなふうになっちゃうのかなあ」
「サラリーマンだって何だって、大変だと思うよ」
 マスターは、快彦に目を向けずにそう言うと、テーブル席にヤキトリの皿を持っていった。
 それからしばらく、マスターは忙しそうだった。邪魔をすると悪いので、快彦はしばらくは一人で飲んだ。
 カウンター席で、隣にいた二人連れが席を立ち、テーブル席にいたサラリーマンの四人連れがいなくなると、店は静かになった。
 その四人の姿が消えてから、
「ああいう人たちは、ああいう人たちで、充実してるのかなあ」
と、つぶやくと、マスターは、テーブルを拭きながら、
「人のことはわからないねえ」
と答えた。
「あんなふうになりたくないっていうのは変なのかな」
 すると、それまで、カウンターの奥の席で一人で黙って飲んでいた男が、突然こういった。
「じゃあ、何になりたいんだ」
 見ると、坂本だった。顔なじみなので、突然話しかけられても、不快に思うことはない。坂本の表情は穏やかで、酔ってからんでいる、というふうではない。
 快彦は、答えようとして言葉に詰まった。
「何にって……。型にはまった生活はいやなんですよ」
「それは分かってるよ。サラリーマンがいやだってことはよくわかった。何か、なりたいものがあるんだろう」
「そうですねえ……。人にペコペコするのはいやだし、毎日同じ生活なのもいやだし、ノルマだの売り上げだのばっかり気にして生きていたくないし……」
「いやなことばっかりで、やりたいことはないのかね」
 そう言われて、快彦は黙った。返す言葉はなかった。
 坂本から目をそらし、黙ってグラスを口に運ぶと、坂本は立ち上がり、快彦の肩をたたいた。
「悪かったね、変なこと言って」
 そう言うと、勘定を済ませて出て行った。
 坂本がいなくなってから、快彦は、マスターに尋ねた。
「あの坂本さんって、何してる人なんですか?」
「さあねえ」
 マスターは首をかしげた。
「いろいろやってるみたいよ。いろんな仕事のことにくわしいし」
「小説家かなんかですかね」
「そういう話は聞いたことがないなあ」
 快彦は、売り上げがよくて、いい気持ちだったのに、と、心の中でつぶやいた時、自分もまた、売り上げを気にする人間であることに気がついた。

 それから一週間。売り上げは悪くなかった。売れないことには生活できないのだ。
 売り上げを気にしたって悪いことはない。快彦は、そう割り切ってアクセサリーを売っていた。
 割り切ることができたので、快彦は、また買い物をした帰りに、「河童」に顔を出した。その日は、店を二つ回ったので、「河童」についた時刻は、いつもより遅かった。
 店のガラス戸を開けると、カウンターには長野がいた。
「よう、井ノ原」
「来てたのか」
 快彦が、隣に腰を下ろし、足元に紙袋を置くと、長野はざるからコップを取り、快彦の前に置いてビールをついだ。
「やっぱり、ここはいいよ。商品のアイディアが浮かんだよ」
 そう言って、長野は、快彦と反対側に顔を向け、頭を下げた。
「ほんとうに、坂本さんのおかげです」
「さっきも言ったけど、アイディア料、よこせよ」
「売れたらここで一度好きなだけおごります」
「期待してるよ」
 奥の席にいる坂本はにこやかだった。快彦は事情が飲み込めないまま、ビールを飲んだ。
 長野は快彦の方へ向き直り、
「会社で企画を出したんだよ。新製品の。誰でも企画は出せるからね。この間、一人でここに来てさ。坂本さんにその話をしたら、日本酒ラーメンはどうだ、なんて言われちゃってさ」
「日本酒ラーメン?」
「まあ、それは無理だけど、飲み屋のメニューを利用するっていうのはできると思うんだ。それで考えたのが、チャーシューの代わりにヤキトリがのってるモツ焼きラーメン。タレで焼いたレバとタンとシロとハツがのってるの。うまそうだろ」
「なるほど」
 長野は興奮して話し続けた。
「こてっちゃんってあるだろ。牛の腸のみそ漬け。あれが売れるんだから、モツ焼きが受け入れられる下地はあると思うんだよな。たぶん、今まで商品化されたことはないと思う。売れたら社内表彰もんだよ」
「ボーナスも出るか」
「出るかもな。出たらうれしいけど、そこまで売れなくても、俺の企画が通ったら、それだけでうれしいよ」
 長野はだいぶ前から飲んでいるらしく、顔が赤くなっている。だいぶ酔いが回っているらしい。自分でもそれは認識しているらしく、しゃべるだけしゃべると、勘定を済ませて出て行った。
 後に残された快彦は、肉ジャガをさかなに、一人で飲んだ。肉ジャガは、ジャガイモの中まで味がしみ、タマネギはくたくたになるまで煮込まれていた。
「あんたの友達はたいしたもんだな」
 坂本が話しかけてきた。
「そうですね」
 快彦もそう思っていたので、素直に頷いた。坂本は、アジの開きを割り箸でむしり、大根おろしをのせて口に運び、それからこう言った。
「ああやって、やりたいことがあってそれをやってるんだから、たいしたもんだ」
 そこで、快彦は思いきって尋ねてみた。
「坂本さんは、何をしてる人なんですか」
「俺か」
 坂本は、赤くなった顔を快彦に向けた。
「俺は……まあ、いろいろだ」
「いろいろって」
「それはまあ、いろいろだ」
「なりたいものがなかったんですか」
「あったよ。いっぱいあった。いろんなものになりたかった。子供の時のことじゃないよ。大人になってからだ。だけど、どれもこれも中途半端なまま、いろんなことで食いつないでるよ」
「だけど、いろいろやりたくて、それでいろいろやって食えるんならいいじゃないですか」
「はたから見ればそうかもしれないけど、結局何にもならなかったわけだからな。あんたの友達みたいに、とにかく、何かにはなったやつの方がいいような気もするな。何かにはならなくちゃな」
「何かには……」
「そう、何かには、だ。俺みたいに、何にもならないんじゃだめだ」
 何かには、か。快彦は心の中でつぶやいた。そして、俺は何かになるんだろうか、と思った。自分の店を持つ、というのは夢でしかないことは分かっている。しかし、それをあきらめきれず、毎日売り上げを気にして生きている。
 それに比べれば、長野は、夢を捨てたようでいて、違う形で夢を実現しているように思えた。
 変わったのは長野じゃない。
 今、快彦にはそのことがよく分かった。
 あのころのままなのは、長野の方だ。俺はただ現実から逃げてるだけだ。
 快彦は、周子の伯父の店で働く自分の姿を思い浮かべた。店の棚には、快彦の作ったアクセサリーが並ぶだろう。
 周子も毎晩パートに出る必要はなくなるかもしれない。
 俺は何をいやがっていたんだろう。そう思った。
 快彦は、大きな門の前に立っているような気がした。
 そしてその門は、閉ざされているようでもあり、大きく開かれているようでもあった。

(終わり)


「あの頃のまま」目次

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