あの頃のまま

(前編)

 階段を上る前に、腕時計に目をやると、ちょうど六時だった。
 そして、目を上げた瞬間、目の前に、見覚えのある横顔を見た。横断歩道を渡ろうとして、信号が青になるのを待っているようだった。
 連休が終わり、街には、いつもの雑踏が戻っていた。
「長野!」
 思わず声をかけてしまった。振り向いた顔は、驚きで目を見開いた。
「井ノ原……」
「久しぶり」
「ああ……」
 足を止めた二人は、川の中州のようになった。二人の両脇を、人がとぎれずに流れてゆく。
「仕事の帰り?」
「ああ。営業でこっちに来たんだ」
 長野は、手に大きな紙袋を提げている。快彦も同様に大きな紙袋を提げている。
 快彦は、無言で長野を見つめた。紺のスーツが決まっていると思った。誰がどう見ても立派な営業マンだ。快彦は遠慮がちに誘った。
「よかったら……飲みに行かないか」
「おう、行こう」
 そのやりとりだけで、紺のスーツと、ジーンズの上下のふたりは、駅の西口の方へ歩き出した。
 駅の西口には、広いバズターミナルがある。それを横切るとプラザビル。その右横の緩やかな坂道をまっすぐに進み、二つ目の角を左に曲がる。二十メートルほどいくと、三叉路になっている。そこに、二人の目指す店はあった。
 油のしみこんだ、紺の暖簾(のれん)がかけてある。その暖簾には「河童」と書かれてあった。
 詰めれば八人ぐらいは座れるかもしれないカウンターと、四人掛けのテーブルが三つ。
 それだけの小さな店だった。
「マスター、客を連れてきたよ」
 先に入った快彦が、カウンターの向こうでフライパンを揺すっていた男に声をかけた。
 五十過ぎに見える男は、快彦を見て笑顔で頷き、その後から入ってきた長野を見て、
「あれっ」
と言った。そして、少し間をおいて、笑顔を見せた。
「長野さんだよね」
「はい。お久しぶりです」
「ほんと、ひさしぶりだね。たまには顔出してよ」
 快彦と長野は並んでカウンターに座った。長野は、紙袋を足元に置き、狭い店内を見回した。
「変わってませんね」
「長野さんもね」
「いやー、僕は変わっちゃいましたよ」
「何にする」
 マスターは、フライパンの中身を大皿に移しながら尋ねた。長野は、伸び上がってそれを見ると、
「それ、焼きそば!」
と大きな声を出した。それを聞いて快彦は笑った。
「おいおい、とりあえずはビールだろ」
 マスターは、焼きそばの皿をテーブルの客の所へ持っていくと、冷蔵庫からビールを出し、栓を抜いて二人の前に置いた。快彦は、カウンターの籠から自分でコップを二つ取り、ビールを注いだ。
「ほんとに久しぶりだね」
 長野は、快彦の言葉に笑顔でこたえ、ビールを飲み干した。
「何年ぶりかなあ」
「三年ぶりだね」
 快彦は、そう言いながら、からになった長野のコップにビールを注いだ。店に来るまでに、最後に来た時のことを思い出していたのだ。
「そうか……。三年か」
 カウンターの向こうでは、マスターが豚肉とキャベツを炒めている。
 長野は、また伸び上がってそれを見た。マスターは、目を上げずに尋ねた。
「長野さんは、就職したんだよね」
「はい。あれからずっと勤めてます」
「何の会社だっけ」
「まあ、一応食品会社です。インスタント食品の」
「おっ、ちょうどいいじゃん、営業しろよ、営業」
 横から快彦が口を挟んだ。長野は苦笑して、マスターに言った。
「どうです、インスタント・ラーメンを置いてみませんか」
 マスターも苦笑した。
「汁物はやってないのよ」
 マスターは、麺を加えて炒め、ソースで味を付けてから、最後に、別に炒めておいた卵焼きを加えた。卵焼き入り焼きそばが、この店のオリジナル・メニューだった。
「はい、おまちどおさま」
 カウンターに置かれた焼きそばを、快彦と長野は、取り皿など使わず、そのまま二人で食べた。
「うーん、インスタントじゃできないな」
 長野は食べながら感心していた。
「フリーズドライだと、どうしても、卵焼きがスカスカになっちゃうんだよね」
 キャベツの芯の所を噛みながら、快彦が注文した。
「シロとレバーね。タレで」
「あいよ」
 マスターは、シロとレバーの串を三本ずつ取ると、コンロで焼き始めた。
 長野が身をのばしてその手元を見ていると、快彦が、自分のコップにビールをつぎ足しながら尋ねた。
「結婚は?」
「まだだよ。快彦は?」
「までしてないけど……」
「今でも一緒にいるのか」
「ああ」
「結婚しちゃえばいいのに」
「みんなそう言うけどさあ」
 そう言って、快彦は長野のグラスにビールをつぎ足し、
「ビール追加」
とカウンターの向こうに声を掛け、
「そういう普通の生活って、つまんないような気がするんだよね」
「飲んでていいの。待ってるんじゃない?」
「パートに出てるから。俺の収入だけじゃ暮らせないし」
「売れてるかい」
「少しはね。バイトするのと変わんないけど、好きだから」
「店は持てそうかい」
「無理みたいだね」
 焼き鳥が来ると、二人は無言でそれをほおばった。
 シロは相変わらず、なかなかかみ切れなかった。
「久しぶりだなあ。うまい」
「会社でも飲みにいくんだろ」
「たまにね。でも、会社の近くにはこういう店はなくってね」
「俺なんか、いつもここだよ」
 長野は改めて店の中を見回した。
 店の作りはほとんど変わっていない。メニューにはいくつか食べたことのないものもあったが、以前からのものと同じように、プラスチックの黒い札に白で書いてある。
 一人で、カウンターの奥の席で日本酒を飲んでいる中年男の顔には、見覚えがあった。
 テーブル席の向こうの壁には、映画のポスターが貼ってある。
 近くの映画館が宣伝のために持ってくるのだ。報酬は、映画館の入場券だということで、長野も、マスターに、クリント・イーストウッドの映画の券を貰って見に行ったことがあった。
「あと、煮込みと揚げ出し豆腐」
 長野は、メニューを見ながら注文した。
 学生の頃は、本当の鶏肉の「やきとり」が出るような店には飲みに行けなかった。
 大抵は、豚の内臓を使ったモツ焼きを「やきとり」と称する店に行っていた。
 快彦も、長野も、やきとりの種類を覚え、英語に由来する名前もあることを知ったのはこの店だった。
 「シロ」は、腸で、これは色に由来するようだが、「レバー」は英語の肝臓そのまま、「タン」は英語の「tongue」で豚の舌、「ハツ」は「heart」で心臓だった。
 最初はぎごちなかった快彦と長野の会話も、ビールの酔いが回るにつれ、なめらかになっていった。
 学生時代のこと。
 サークルの合宿での失敗談。
 就職して故郷へ帰った同級生の話。
 話は弾んだが、九時近くなると、長野は、
「明日も早いから」
と言って、店を出ようとしたので、快彦も一緒に出た。
「長野さん、ときどき来てね」
 マスターの言葉に、長野は、
「しばらくこの辺回りますから、また来ます」
と、笑顔で答えた。
 店を出て、角を曲がり、プラザビルの横に出る緩やかな坂を下りながら、長野は、
「なんか、おまえがうらやましいな」
と言って笑った。
「うらやましがられるような生活じゃないよ」
 そうは言ったが、快彦も笑顔を見せた。
 プラザビル前で、環状線に乗る長野と別れ、快彦は私鉄の改札に向かった。
 大きな紙袋を二つ提げ、人の流れの中を歩く。
 先頭の方がすいているので、ホームを先の方へ歩いて行ってから乗った。
 紙袋を床に置き、それを両足で挟むようにして立ち、吊革につかまると、まもなくドアが閉まり、電車は走り出した。
 サラリーマン、学生、OL。髪を茶色に染めた高校生。
 快彦の前の窓ガラスに、車内の乗客の姿が映る。
 その中に自分の姿があった。
 昔は、くたびれたサラリーマンを見るたびに思っていた。
「あんなふうにはなるまい」
 長野も同じだったはずだ。
「俺は今でも変わらない」
 快彦は、窓ガラスの中の自分の姿を見つめながら、心の中でつぶやいた。

 翌朝、先に目が覚めたので、快彦がコーヒーを入れていると、周子(しゅうこ)も目を覚ました。
 アパートががけの上にあるので、カーテンを開けると、低くなったところに広がる住宅街が見えた。
 アンテナと電柱の雑木林のようだった。
「夕べ、飲んできたの」
「うん。長野にあったんだ」
「あら、元気だった」
「ああ。もう立派な営業マンだよ」
 六枚切りのトースト一枚とゆで卵、それにコーヒーが二人の朝食だった。
「快くん、今日、仕事は?」
「午後から雨になりそうだから、うちにいる。後で材料買ってくるよ」
「じゃあ、ご飯の材料も買ってきてよ。お昼は野菜炒めでいい?」
「ああ」
「じゃあ、夜は……」
「おにぎり作っておいてくれればいいよ」
「分かった」
 朝食を済ますと、快彦はシャワーを浴び、下着を替えて自転車で出かけた。
 材料を売る店は、私鉄の駅で二つ先にあるが、自転車でいける距離だった。時間も、待ち時間を考えれば大差ない。何よりも、自転車ならお金がかからない。
 いつもの店で、皮や紐やファスナーを買うと、帰りに、店を開けたばかりのスーパーで、もやしとキャベツと椎茸を買って帰った。
 アパートに帰ると、周子はチェーンとラジオ・ペンチを手にしていた。
 快彦は、手作りのアクセサリーを売って暮らしていた。
 子供の時から手先が器用で、財布やブレスレットを自分で作っていた。ベルトも自分で作った。
 革ひもでコード・タイも作れば、襟元の金具をつけてウェスタン・タイも作る。
 皮を縫うのは力がいるので、周子は加工は苦手だったが、小さなブローチや、チェーンのアクセサリーを作ることはできた。作り方は快彦が教えた。
「こやってると」
 周子が、ペンチでチェーンを切りながら言った。
「まるっきり内職ね。昔のドラマに出てくるみたいな」
「内職かよ……家内制手工業と言えよ」
「内職でも楽しい」
「そうだな。好きなことやって食えるんだからな」
 そう言って、快彦は、昨夜偶然再会した長野のことを思い出した。
 すっかりサラリーマンになってしまっていた。仕事のことを聞くと、照れくさそうに話していたが、いやそうではなかった。
「結婚は?」
の問いには、
「相手がいないよ。それに、今の給料じゃ、家族は養えない」
と笑っていた。
 あの時のやりとりを思い出し、快彦はつい独り言を言った。
「俺の方がましだよな」
「え?」
 周子が手を止めて快彦を見た。快彦は、長野とのやりとりを、少し大げさにして話した。
「へえ、そんなに給料が安いんだ」
「そうらしいよ。あんな風になるんなら、ラーメン屋で働いてた方がずっと良かったのに」
「そうよねえ。あんなに楽しそうだったのにねえ」
「やっぱり、夢を捨てちゃだめってことだよ」
「そうねえ」
 そう相づちを打ち、少し間をおいてから、周子はこう言った。
「伯父さんが、また、よかったら来ないかって。アクセサリーの知識のある店員が欲しいんだって」
「またその話かよ」
 周子の伯父は、紳士服の店を経営しているが、最近は量販店に押され気味なので、アクセサリー類を充実させ、質のいい小物の店にしていこうとしていた。快彦は、自分の作ったものを見て貰ったことがあり、実際にいくつかおいて貰っていた。
 いっそのこと、その店に就職しないか、と、何度か誘われたが、快彦は、自由がなくなるのはいやだった。
「断っといてくれよ」
「うん、わかった」

 翌日は、作りためたアクセサリーを持って、昨日とは反対行きの電車に乗った。
 目的地は、終点の一つ前にある大きな公園だった。
 池の周りをジョギングをする人、散歩している人、寝そべっている人。
 快彦は、三ヶ月前に来た時とは違う場所にシートを広げ、商品を並べた。
 同じ所に店を出し続けると、売れ行きが落ちる。場所を変えて、目新しく見せる必要がある。
 少し離れたところでは、まだ十代に見える男が二人、ギターを弾きながら歌っていた。聴いたことのない歌だ。オリジナルなのだろう。
 快彦の前を取る人は、ほとんど、横目で見ながら通り過ぎていく。足を止めて見る人はほとんどいない。
 足を止めてくれる人がいても、相手が一人の時は、快彦は、
「どうですか」
と、声をかける程度で、積極的に売り込むようなことはしなかった。
 しかし、女子高生のグループなどの時は、積極的に話しかけた。その時の気分次第で、高額の物も買ってくれることがある。
 できるだけ売り上げを伸ばしたいとは思っていたが、その一方で、快彦は、手作りの良さを分かってくれる人だけが買ってくれればいいと思っていた。
 店をスタンド式にして、立体的に賞品を配置できれば、もう少し売れるのではないかとは思う。
 しかし、よくある、金属製のアクセサリーをスタンドに並べて売っているのと一緒にされるのはいやだった。あれは、手作りに見せかけた工場製品だ。売り子は外人のアルバイトで、大量生産の商品を置いている店と変わりない。
 革のウェスタン・タイが二千円。これが一番高い。一番安いブローチは三百円にしていた。
 一つ千円の、革のブレスレットが一日に十個売れればなあとは思うが、そんなに売れたことはない。
 その日の売り上げは、五千七百円だった。これではとても暮らしていけない。
 夕暮れの中、シートを片づけながら、快彦は思った。これでは、自分の店を持つことなどできはしない。もっと売れなくては。しかし、売れることを最優先してアクセサリーを作るのは嫌だ。俺は自分の作りたいものだけを作りたい。
「長野みたいにはなりたいないよな」
 自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。

(続く)


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