読書感想の部屋

2003年

メインのページへ戻る

自殺者のこころ そして生きのびる道
E・S・シュナイドマン著
白井徳満+白井幸子訳
誠信書房
2001年3月30日発行
 著者はアメリカ人。自殺予防を専門とする医師である。
 こういう本を読むと、心を病んだ人をサポートしようとする点において、アメリカ人には真に尊敬すべきところがあるとしみじみ思う。

 さて、本書にはさまざまな自殺者の心理が出てくるが、特に私が驚かされたのは、ベアトリーチェ・ベスンという少女の話だった。
 彼女は子どもの頃自分が家族から捨てられると思い、相手に捨てられるより先に自分が相手を捨てようと思った。これを「反作用」と言い、そういう精神作用は珍しいものであるらしい。1937年にマレーという人が「個性の探求」と言う本で「反作用的人格」(?)について定義したことがこの本に引用してある。長くなるがそれをここに書く。
 「失敗に負けずに頑張る。活動を再開ないしは増すことによって恥や拒絶を越える。弱点を克服する。恐怖に耐える。行為によって屈辱の経験を消し去る。自尊心、誇りを高く保つ。反作用は達成欲求、神聖欲求(侵すべからざる自己の精神空間をもつ)と関わる。戦いに勝とうとする意志。誇り。自律性。力を尽くそうという熱情。この欲求を持つ人は断固としていて、不屈の強さを持ち、豪胆で、根気強く、冒険を好み、そうは見えないように気をつけながら、前回ひどいめにあったことをうまくやろうと頑張る。拒絶されると復讐する。それが可能であることを示すために禁じられたことをあえてする、経験不足と言われたくないがために仕事に取り組む」
 これを読んだとき、私は「三島由紀夫そのものだ」と思って驚いたのである。なんと、彼の性向は、自殺に向かいがちなあるひとつの病的な精神のパターンの上にあったのである。そういえば、三島の小説では、主人公達はよく、愛を得る前に愛を拒絶する。女との関係がうまくいかない主人公達は、強迫的にその行為を繰り返して成功させる……。
 (この本の話からは逸れるが、こどもの三島が誰に拒絶されたと感じ、誰を拒絶しようとしたのかというと、単純な考えかも知れないが、私は、父親なのかなあ、と思う。彼の父が息子を母親に預けることに抵抗して妻に育てさせていれば、その後のその子の人生の苦しみはかなり減っていたのではないだろうか。子どもだった三島は祖母を愛していただろうが、それでもなお、自分は親から見捨てられたのだとも感じていたのだろうと思う。以前三島の父親の書いた本を読んだことがあるが、非常に暖かみの少ない男性であるように感じた)
 固い意志を持つベアトリーチェ・ベスン少女は、自分のすべてを律しようとして拒食症になり体重を減らすのだが、三島はボディ・ビルによって自分の体を管理した。
 また、ベアトリーチェ・ベスン少女を思うと、著者と彼女のセラピストは、ベアトリーチェの心の鎧を感じて、二人ながら「よろいをまとって」という詩を思い出すのだが、三島は、固い鎧に包まれた蟹を見るのが大嫌いだったのである。
 (そういえば、「仮面の告白」において三島は、「自分には誕生したときの記憶がある」と書くのだが、これこそは自分の人生を全て自分自身で支配したいという欲望の現れだろう。誕生すら自分の支配下に置きたいと願う人間なら、死も自分の支配下で行おうとするのは、むしろ当然であると思える。すぐれた心理分析家なら、「誕生の記憶がある」という文章を読んだ時点で、これを書いた人間がいつか自殺する可能性が高いことを予言できたはずである)
 それにしても、「反作用的人格」の定義をもう一度読むと、三島由紀夫個人の他に、戦前・戦中の居丈高な日本軍人一般のイメージともよく重なり合うように思う。彼らはなにかに非常に傷つけられていたのであろう。
(2003.12.15)
空のオルゴール
中島らも著
新潮社
2002年4月20日発行
 舞台はパリ。19世紀の奇術師「ロベール・ウーダン」のことを調べに来た日本人青年トキトモと、パリで奇術を習っていたリカというふたりの日本人が、リカの奇術師仲間と共に、奇術師殲滅をたくらむファンダメンタリストに送り込まれた刺客達と死闘を繰り広げる、というストーリー。
 読みやすいが、全体に密度が薄いような感じもする。だが、話をある程度の密度に押さえているので、何人もの人が残酷な死を迎える死闘が軽く明るく読めるわけで、この密度も予定されたものかとも思う。
 中島らもの著作は「人体模型の夜」とこの本しか読んでいないのだが、文章のどこかしらに、育ちの良い少年のような香気が漂うのは、得難い資質と思う。
 そういえば、なにが「空のオルゴール」なのか、読み終わってもちっともわからなかった。 

 中島らもは2月に大麻とマジックマッシュルームで逮捕され、現在は執行猶予中の身。「新・俺達の旅」の1話に、確か「パパイヤマンゴー」編集長として出演してました。 
(2003.10.6)

 ここで買えます。
太りゆく人類 肥満遺伝子と過食社会
エレン・ラペル・シェル著
栗木さつき訳
早川書房
2003年発行
 そんなにみんな太ってるかなあ?と思うけど、この本によると、肥満は世界的にどんどん増えているらしい。

 この本の中で特に驚き、心が痛んだのは、ミクロネシアのコラスエ島の話であった。米陸軍がコラスエ島を自由に行き来できるのと引き替えに、アメリカはミクロネシアへ財政支援を行い、コラスエ島の人々は、伝統的な漁業や農業をしなくても食べられるようになった。
 ココナッツやタロイモを食べなくなり、アメリカから輸入される缶詰や冷凍食品を食べるようになって、島には肥満と、糖尿病、心臓病などの生活習慣病が蔓延するようになった。島では50代になれば、余命はもう長くないと言う。
 (糖尿病で脚を失うことになる人は多い。このくだりを読んだとき、私は、昔スペイン人がはじめてアメリカにやって来た頃、金を持ってこない原住民の手足を切っていたという話を思い出した。手足を切られた原住民の間には自殺が大流行したと言う)

 著者の国、アメリカでは、コカコーラをはじめとする清涼飲料水が売り上げを大きく伸ばし、ハンバーガーショップなどが手軽に食べられる高カロリーの食品を売る上に(このへんには、多くの母親が就労しているために、手作りの料理を作っている時間がなく、子どもの好きなものを食べさせてしまうと言う事情がある)、ショッピングセンターや公共施設は自動車がないと行きにくい場所にあり、誰も歩かなくなっている。(親が子供のお抱え運転手になっていることへの疑問も書いてある。それは私も常々疑問に思っていたので「やっぱりアメリカ人もそう思っているんだ」と勉強になった) 当然肥満は増える。
 肥満の荒療治として胃を縮小させる手術がある。この手術は命を失うこともある難手術だが、アメリカでは一年に何万人もの人が痩せるためにこの手術を受ける。しかし、手術を受けた直後こそ体重が何十キロも落ちるものの、何年も経過するうちに体重が元通りになることも多いらしい。人間の心と体は、そんなに簡単なものではないのだ。

(肥満に関連して必ず「高血圧」という病状が出てくるのだが、私自身はかなりな低血圧。高血圧はそんなに悪くて、低血圧は悪いことはないのでしょうか? 個人的にはとても気になった。)
(2003.9.18)
 ここで買えます。
とりかえばや、男と女
河合隼雄著
新潮文庫
平成6年発行
 実は、下の↓「腰痛放浪記」の感想を書いてから、「そういえば河合隼雄の本でも読んでみるか」と思ってこの本を購入しました。
 「田辺聖子ばりの軽い古典エッセイ!?」と思えてしまうタイトルだが、中身はかなり学術的なものである。性の同一性というものに興味がある人なら必読と言っていいと思う。
 ちなみに、河合が何故、「とりかえばや」のような物語とか昔話などから現代人の生き方を探ろうとするかというと、ひとつには「筆者が心理療法を行っている人たちのことを、このような一般に読まれる書物において具体的に語る気持ちがない」からだそうである。……河合先生かっこいい……(涙)。

 「とりかえばや物語」の詳しいストーリーは今回初めて知った。面白かった。うまく翻案すれば、舞台が現代でも通じそうな話だと思った。特にラストが、まるで近代文学である。
 それと、「とりかえばや物語」のように「女性が男性として生きる物語」の例として、山口周五郎の「菊千代抄」という小説が紹介されたところがあったのだが、それを読んですごく驚いた。
 「菊千代抄」は、江戸時代の領主の娘が、男の跡継ぎが生まれるまではということで男として育てられて、云々という話なのだが、私はこの話を、小学低学年の頃、確か週刊マーガレットかなんかに連載されたマンガで読んだことがあったのだ。
 マンガの主人公の名前は忘れたが、自分でも自分を男の子と思っているのに、男の子と遊んでいるうちに、相手に自分は男の子ではないと気づかれてしまったときの主人公のショックというのが、子供心にも「身も蓋もない」というか、たいへんな屈辱だろうと思えたのが印象的な話だった。ずっと忘れていたが、この本に載っていた「菊千代抄」のあらすじを読んで、「あれは確かにこれだった!」と思い出してびっくりした。
 と、同時に、「菊千代抄」の話が、萩尾望都の初期短編「雪の子」にすごく似ている、とも思った。萩尾望都は私が小学3,4年生の時にはデビューしているから、たぶん、あのマンガを読んでいたんじゃないかと思う。思春期の少女の性の悩みまでをも描ききるとは……おそるべし、山本周五郎。

 あと、「夢の中で自分が異性になっている夢」について書かれている部分があるのですが、男性は「自分が女だ」という夢はあまり見ないそうです。どちらかというと女性が「自分が男性」という夢を見る頻度が高い感じらしいです。それについては「西洋近代の自我が男性原理によって成り立っているので女性が男性に変化することを’夢見る’ことが多いのかも知れない」と説明されています。
 わたしは、若い頃は「自分が男性」という夢は結構しょっちゅう見てました。もしかするとそんなにしょっちゅうではないかも知れないですが、印象的なのは、自分が、27,8の細身で知的な男性だという夢を見たことですね(笑)。
 まさに願望そのものなのですが(笑)、今、気がついたのですが、このイメージの原型は、私の中ではたぶん、シャーロック・ホームズだったんじゃないかな。小学校高学年の頃、ホームズがとても好きでした。(ドラマだとそうでもないですが、子供向けの本のさしえのホームズは、よく、27,8位の細身のハンサムな青年に描かれていた)
 それで、私がなんでホームズに憧れたかと言うと、これも今、気がついたのですが、私は、ホームズの「論理的なところ」に惹かれたんだと思います。とにかくもう、「論理」というものが全く通じない家庭で育ち、とんでもなくしょっちゅう「おまえは理屈っぽい」「へ理屈だ」と怒鳴られていたので、「論理的に正しいほうが正しい」という世界にものすごく憧れていた(笑)。冷静に論理でものが語り合えたらどんなにいいかと思っていたんでした……。むしろそのときはっきり言葉で、「家庭なんてパワーゲームなんだ」と教えてくれていたら、それでも良かったんだけど。(もちろんそんなことを理解している親ではない) とにかく昔から今に至るまで、「相手のほうではっきり意識化も言語化もしていないことをこちらが察することを一方的に要求される」ということが苦手でたまらない人間です(笑)。そういえば、私の中の、ミステリーというものに心惹かれる部分というのも、「論理が柱となって成立している世界」に憧れる、という気持ちに由来している気がします。
 
 話がずれました。
 ずれついでですが、大学生の時、心理の講義の先生に夢日記を提出して夢分析をしたことがありまして、そのときのノートをひっぱりだして読んでみました。自分の夢と、それを分析して先生に言われたことが書いてあるのですが、今見ると自分でも驚くくらい象徴的な夢を見ていました。先生も分析するのが楽だったろう(笑)。
 「百日草の種を七つどうしても埋めたい。しかし畑はどこもかしこも作物が植わっていて、父に、もう花なんか植えるところはない、と言われる。けれども、畑の中の道の片側をたがやして種を植える。弟か誰かが道の逆側に別の花を植えたので、そこだけ道が狭くなったが、花が咲けば両側きれいだろう」
 ↑たとえばこういう夢が書いてありましたが、なんとなくわかりますね。先生に、作物=実利、花=美的世界と言われたメモも残っていました。こんな夢なんて忘れてたなー。あー、花を植えると道は狭くなっちゃうのかー(笑)。
(2003.9.14)
 ここで買えます。
腰痛放浪記 椅子が怖い
夏樹静子著
新潮文庫
 ときどき腰が痛いことがあるので、「腰痛」という言葉には反応してしまう。この本は新刊の広告が新聞に載ったときから興味があったので、文庫化をきっかけに購入してみた。

 ジャンルで言えば手記なのだろうが、ここに描かれた著者の家庭が、「小説に書かれた家庭」みたいなのが不思議である。著者のうちにはお手伝いさんが何人も来てくれて、著者自身は家事をほとんどしない。自分の中の七、八割が「作家・夏樹静子」であるというのに、ご主人もやさしいし、お子さんも優秀で性格がよいようだ。すっごく羨ましい。ご主人や自分の関係で、そうそうたるお医者さんの知り合いがたくさんいるのもすっごく羨ましい。もちろん腰が痛い話なのだが、同情よりも羨望の気持ちのほうが湧いてくる……。

 結論を書いてしまうと、前に「腰痛は怒りだ」という本を読んだことがあるけど、結果はそれに似たことであった。心因性なら簡単に直せそうにも思うのだけれど、ほんとうの原因とちゃんと対峙しないと治らないらしい。
 それにしてもこの人は頑固だ。それまでが恵まれた環境だったので自分の心理状態を考えるという習慣を持たなかったのが、ここまでの腰痛を引き起こした原因なのかも知れないとも思う。

 ちょっと似たケースでは、前に、岸田秀が、本を読もうとすると目が見えなくなるだかなんだかそういう症状に悩まされたことがあったが、心理分析の結果、子どもの頃継母が岸田が本を読むのを嫌がったのがその原因だったとつきとめたとか言うのを読んだことがある。岸田は心理学者なので、自分ひとりで原因をつきとめたらしい。自分だけで自分を分析するのはかなりむずかしいらしい。岸田の分析が実際に合ってるかどうかは知らないが、岸田が若い頃に死んだというその継母に、岸田は60くらいになって相当怒っていた(笑)。まあ、怒るのも親への愛情表現かも知れないけど。

 上の岸田の話は、岸田と河合隼雄との対談で読んだのだが、この夏樹の本にも、著者が河合隼雄に腰痛を相談する場面がある。本の中でまだ腰痛の真相がわからない段階に登場した河合は、著者の話を聞いてすぐに腰痛の真相を見抜いているようだ。この本がミステリーだとするなら、陰の探偵は河合隼雄かも。というか、何度検査しても身体に異常がない時点で、他の先生もそれとなく心因性を著者に示唆するのだが、著者には全く伝わらなかったのだった。
(2003.9.7) 

 ここで買えます。
受験勉強は子どもを救う
和田秀樹著
河出書房新社
1996年9月25日発行
 かなり挑発的なタイトルの本ではある。実際受験勉強中の中学生がこのタイトルを見たら嫌な気持ちになるだろう。
 しかし、私は子ども二人を高校受験させたことのある母親として、実はこのタイトルを見たとき、言わんとしていることがなんとなくわかるような気がしたのである。よく言われることだが、中学生が荒れるのは二年生の時までで、三年生になると受験があるから生活が落ち着くという。たとえ無理矢理でも「勉強する」ということの中には、子どもの心を安定させるものがあるのだと、私もぼんやりと感じていたからである。

 というようなことでこの本を読み始めたわけであるが、読み終わって、かなり面白かった。著者は受験本で有名な人らしいが、この本は受験本というのを越えた内容を持っていると思う。特に、精神科医である著者自身が、東大の医局で経験したいじめの話や、アメリカに滞在して感じたアメリカの教育の問題点などは引き込まれて読んだ。
 1996年発行ということで、「オウムになぜ高学歴の人間が多いか」という話が繰り返し出てくるのは多少辟易するし、著者が名付けた「シゾフレ人間」と「メランコ人間」というのも、「なにもそんなネーミングをわざわざ作らなくても……」というような気がしてしまったりするが、「精神分析学史から見た”思春期”のとらえられかた」などは、「精神科医であって受験勉強の専門家」という著者の独壇場だと思う。
 本の最後の頃は、「これからの日本に求められる人間のあり方と受験勉強」という話になる。こういう、国単位でものを考える考え方は官僚の発想だと思うが、なにもかも人のせいにして自分を被害者にしてしまう考え方に比べればはるかに健全で自信に満ちた考え方であり、好感が持てる。自然にこういう考え方が出来るのも、実際官僚の知人が多いからなのだろう。エリートというものはこういうふうに物を考えるのだなと思った。著者自身はすでに医者としての官学での出世ルートは降りてしまっているようだが、お金が儲かって実際民衆を啓蒙できるという点では、今の立場を選んで大成功だろう。

 読後、本屋でこの著者の本を見たら、タイトルは違うが似たような内容の受験本が何冊も並んでいた。どう見ても金儲けに走っているとしか見えない。受験本というものの効能はわかるが、同著者の受験本なんて、どれか内容の濃そうなものを一冊読めば十分だろう。あれを見るとどうにもこの本の著者が信用ならざる人物に見えるというのもわかる。
 しかし、この本じたいは、いわゆる「受験本」ではない。末尾には参考文献の一覧も載っており、良心的かつ熱意のある、読んで損のない本である。おそらくは、かなり以前に書かれた本であるからか……。(2003.7.22)
大学図鑑!2004
オバタカズユキ&石原壮一郎著
ダイヤモンド社
2003年4月10日
 今年長女が大学受験なので、こういう本が目につく。
 「2004」と付いているからには、いつからか判らないけど、毎年発行されているらしい。読んでみて、「これは毎年発行されるだろうし、毎年買う人がいっぱいいるだろう」と思える内容である。
 あまりにもおもしろい読み物風なところは片目を閉じて読んだ方がいいと思うが、大学のキャンパスの場所がわかりやすく書いてあるのがいい。このごろの大学はキャンパスがあちこちに分かれていることが多いから、それを把握するのがたいへんなんだ。大学の要項の地図を見てもなんだか良くわからないし。

 すべて本音というか、クールで実利的に書かれていて、こういう物のとらえ方もできないと困るとは思うのだが、高校生や大学生くらいであんまりこういう考え方だけにはまってしまって欲しくないなとは思う。
 とはいえ、私が一番一生懸命読んでしまったのは、各大学の就職状況ではあった。膨大な時間を勉強に費やして東大に入って官僚になりたい人って奇特だ。
【図説】だまし絵 もうひとつの美術史
谷川渥著
河出書房新社
1999年
 「だまし絵」とは、絵画というフィクションと、見ている私たちという現実の間の壁を突き抜けようとする試みであるらしい。

 ヨーロッパにおいてはすでに17世紀にはほとんど究極と呼べるメタ絵画が存在していたこと、また、日本の明治最初期においても、原田直次郎、高橋由一らの油絵において、すでにだまし絵の影響を受けた絵画が存在していたことには驚いた。
 絵画という二次元芸術において三次元を錯覚させてみたいという欲求は、画家の根元的な本能に組み込まれているのかも知れない。

 一時、中世ヨーロッパ絵画の図象学、意匠学みたいなものが流行った。「だまし絵」というのはそういうものに近いのかと思ったら、全く別のものであった。
 そもそも「二次元を三次元と錯覚させる」ためには超一流の画技が必要なのであって、「だまし絵」には、「図象」「意匠」のみが問題となる無名的な絵画とは相容れない部分があるのである。
 たとえば、絵画の前にかかっているのかと錯覚させるカーテンを絵画中に描く流行のきっかけを作ったのは、レンブラントであると言われている。それは、レンブラント以前にもラファエロやティツィアーノも使ったアイディアであったが、彼らの名前を見ただけでも、それが超一流の芸術家の思いつくアイディアであることがわかると思う。

 西洋絵画について日本人が書いた文章であるが、非常に知的かつ明晰な内容で気持ちが良かった。
(2003.5.12)
 ここで買えます。
赤坂ナイトクラブの光と影
「ニューラテンクォーター」物語
師岡寛司著
講談社
2003年
 「ニューラテンクォーター」とは、「ホテルニュージャパン」敷地内に昭和34年に開店し平成元年に閉店した、日本最高級のナイトクラブ。この本は、その店に開店から閉店まで勤務し、最後には取締役営業部長にまでなった人の、お店の思い出話。
 「ニューラテンクォーター」というお店は、児玉誉志夫の児玉機関の肝いりでできた店で、かなり特殊な店だったようだ。2時間遊べば大学卒のキャリアの初任給の半分が飛んでいくという店で、高度成長時代の日本を裏側で支えた店でもある。
 著者は若い頃から顔も人当たりも良かったようで、まさに「水商売の申し子」といった性格だったようだ。高校生の時から銀座の格のあるナイトクラブでドアボーイをし、自分でも「当時の自分は銀座のアイドルだった」と書いている。ときどき店に歌いに来る江利チエミ(彼女の方が著者よりふたつみっつ年下)と仲良くなって何度もスケートに行ったりしたというのだから、水商売は、ある種の人間にはほんとにおいしいところがあるのである。
 ホステスというのは、著者のような男性従業員とはまた別の存在で、お店にとっては商品。一流の店には外国の要人も良く来るから、容姿端麗で性格もいい上に英語なども堪能でならなければならず、まさに才色兼備。そしてホステスは儲かるかわりにお金もかかる。日髪を結うのは当然、最低月に一度はドレスか着物を新調しなくてはならず、自分の容姿にはとにかくどんどんお金をかけなければならない。その点については、現在は日本の女性全体が水商売化しているなと思う。

 が、まあ、所詮水商売は水商売……。著者も書いているが、隆盛を極めた当時のナイトクラブ界従業員で、「いい道を歩いたのは私ひとり」なのである。
 「ニューラテンクォーター」にとっては最高の客のひとりであり、著者も敬愛する勝新太郎だってああいう人だったし、著者が「我々の前では粋な紳士であった」という「ニューラテンクォーター」の司会者E・H・エリックだって、娘さんによれば家庭内暴力をしていたそうで、水商売の世界で「粋でいい人」と呼ばれるようには、おそらくすごい無理をしなくちゃいけないのである。

 普通の人間は、水商売の店で「粋ないい人」なんて呼ばれていい気になることのないようにしなければいけないなあと、読後しみじみ思うのであった。
(2003.5.11)

 ここで買えます。
るきさん
高野文子著
筑摩書房
1993年

(マンガ)
 以前「Hanako」に連載していたとき、1回目だけ読んだことがあった。
 そのとき、るきさんがあまりに気楽な暮らしをしているのになんとなく腹が立って、それ以降読んでいなかったんだけど、今回まとめて読んでみると、1回目だけ、「るきさん」のキャラが違った! 1回目だけ髪型が違うし、性格もちょっときどってる。2回目以降はすごくずぼらなのに。

 とりあえず全部読んだら、読んでてさびしくなっちゃった。
 だってるきさんて、まだ30前くらいの女性なんだけど、ひとりでアパート暮らしで(それはよい)、お仕事は、自宅でひとりで病院の保険の計算の仕事なんだよ! 
 その仕事も、1ヶ月分を1週間でやっちゃって、あとは図書館行ったりお買い物行ったりしてんの……。(それはうらやましい) で、るきさんのお友達は、えっちゃんひとりなの。ね、さびしいでしょ……。

 えっちゃんは、いかにも連載当時の東京に一人暮らしのOLらしいおしゃれさんでさ。ちょっとずんぐりタイプでメガネちゃんなんだけど、いつもこだわっておしゃれしてる人なのよ。
 で、主人公のるきさんは、のほほんのんきでこだわらない人。
 最初の頃はそれでも、るきさんには自転車屋さん、えっちゃんには入社1年目の小川くんが出てきて、もしかしてそれぞれうまく行くのかな〜?と思えるんだけど、いよいよ自転車やさんがるきさんとお茶を飲んだら、次から自転車やさん、出てこなくなっちゃった。
 男の人の影が出来ると描きにくくなっちゃったんだろうな、きっと。

 もう一度読んだら、今度は、そんなにさびしくならなかった。
 今度は「るきさんみたくのんびり暮らすのもいいもんだな」と思えた。今度は内容がわかってるから、安心して読めたのかも。
 
 最後の著者紹介を見ると、高野文子は1957年新潟生まれ。
 1981年に白泉社から「絶対安全剃刀」が出て、この「るきさん」が1993年。「るきさん」以降はほとんどマンガの仕事はしていないんじゃないかと思うので(イラストの仕事はしてるみたい)、高野文子がマンガを描いていたのは13、4年ということになる。
 (白泉社の「絶対安全剃刀」が1981年というのは、単行本で出たときのこと。最初に「絶対安全剃刀」がJUNEに載ったのは、1979年頃ではないかと思う)
 「ああ、たったそれしか高野文子はマンガを描いていなかったんだなあ」としみじみするけれど、とにかく、「るきさん」1冊を読んだだけでもわかる、高野文子のおそるべきこのハイセンス。これじゃあ、長くは書き続けられないよね……。

 高野文子はわたしとほぼ同年代なので、彼女の描く昭和30年代の豊かさ、なつかしさって、ものすごくわかるんだよね。さすがに彼女のほうがわたしよりみっつ年上なので、わたしより、もっと当時の細かいことをいっぱい覚えてるみたい。るきちゃんとえっちゃんは、火鉢の炭の起こし方まで覚えている……。
 るきさんとえっちゃんがふたりでああしてこうして、っていうところが、子どもの頃、お母さんに連れられて、お母さんの女きょうだいのところに遊びに行くと、そこのうちには男の人がいないんですごく気楽で、「ほら、これおいしいのよ」「あらほんと」「ちょっとその服いいわねえ。自分で縫ったの」「ううん、これは既製服。××屋のバーゲンでねえ」なんてくつろいでしゃべってる、っていう雰囲気なのね。そういうときはお母さんはお母さんでなくなってて、おばちゃんに「○○ちゃん」って名前で呼ばれるんだけど。
 
 マンガの最後、るきさんは、いきなりひとりでナポリに行ってしまう。アパートに残されているえっちゃんは、そんなにさびしそうでもないけれど、わたしはさびしかった。
 高野文子のマンガで、題名は忘れたけど、近所の女の子の所に突然お迎えが来て、その子はよそのくにのお姫様になって行っちゃうってマンガがあったけど、要するに、るきさんもそのタイプの終わり方だったわけ。
 お姫様になって行っちゃった女の子もるきさんも、「子ども時代」ってことなのかな。こないだまで、自分は子どもだとばかり思っていたのに、いつのまにか子供時代は飛び去って、遠い思い出になっちゃうのかな。
 やっぱ、さびしいよ。るきさん日本に帰っておいで。
 ここで買えます。
いつもカヤの外にいると思う人たち
イレーン・サベージ著
沢木 昇訳
扶桑社
2000年
 人間関係に不安を抱いている人のための本。
 最近、似たような感じのタイトルがいっぱいありますが、これは良書と思います。(この本の中に「共依存症」という言葉は出てきませんが、実質上、共依存症と同じ症状について書かれた本です。)

 著者は、子供時代のつらい経験から身を守ろうとして身についた「ものの考え方の癖」が現在を生きにくくしている元だと分析、具体的な実例と、癖のついた考え方からの脱出法を示します。

 良好な親子関係を実現するために親に求められる条件、心理的虐待とはなにか、などが具体的に挙げられており、子育てに指標が欲しい人にも良い本です。
 (たとえば「良好な親子関係を実現するために親に求められる条件」には、◆
愛情、忍耐、理解、共感、賞賛、受容を提供し、自分は価値ある人間だという感覚を与える。◆子どもにとって大切な経験には立ち会う。◆子どもの働きかけに応え、励まし、導く。◆安全を守り、安心感、安定感を与える。◆保温、清潔、栄養を保障し、病気の時には治療、看病する。◆継続的で安定した養育環境を与える。などなどがあります)
(2003.2.13)
 ここで買えます。
ミステリー&エンターテインメント700
河田陸村・藤井鞠子・編・著
東京創元社
1996年
 編者達が「読者がまちがってダメ本を読んでしまって時間と金の無駄遣いをしないように」という暖かい心遣いで編んでくれたありがたい本。
 お心遣い痛み入ります。ほんと、オトナには、ダメ本を読む無駄時間なんてないんですから。
 それに、世の中に、いろんなエンターテインメントの名作はあるのは知っているけれど、いちいち全部を読んでる暇がないので、概略、どんな話かわかるようになっているのもありがたいです。
 わたしなんて、この本を見ていて「悪を呼ぶ少年」と「暗い森の少女」が気になったので、ネットで検索してネタまで知ってしまった。
 「悪を呼ぶ少年」って、ナイルズとホランドという双子の出てくるヤツで、竹本健二のミステリー「匣の中の失楽」にも出てくるので気になってたんだけど、そうかあ、そのテかあ! 萩尾望都のアレとかアゴタ・クリストフのアレとかに似てるね。
 「暗い森の少女」は、なるほど、そうなのね。あらすじ読んだだけで犯人がわかりそうなものなのに、ネタを読むまでわからなかったわ……。
 ホラーの傑作と言われるシャーリイ・ジャクソンの「山荘綺談」もずっと気になってるの。これは、前にもあらすじを読んだことがあって、山岸凉子のアレの元ネタだろうなあと思ってるんだけど、わたしは怖いのダメだから、読んで確かめることができないの。っていうか、したくないの(^^;

 
注・若い読者の皆さんは、こんな横着な本の読み方はしないようにね。
(2003.2.6) 

 ここで買えます。

依存と虐待

斉藤学(編集)
日本評論社
1999年発行
 「はじめに」のページに、「共依存(コ・ディペンデンス)の概念は、今や現在の心理臨床を支える鍵概念の位置まで登りつめた」とあるが、ほんとうだろうか。
 わたしには、もっと「共依存症」のことが一般に知られていれば救われるだろう魂は、たくさんあると思われる。たとえば「かたづけられない女達」とかいう言葉を最近見かけるが、わたしはたぶん、彼女たちは共依存症ではないかと思う。
 
 本書には、「アルコール依存」「薬物依存」などにかかり、そこから回復した人の体験談も乗っているが、それよりも、自分は実際にはなんの依存症もないのに、親による「見える」もしくは「見えない」虐待によって心を傷つけられた女性達の体験談のほうが心を打つ。(彼女たちは「共依存症」である)
 自分の共依存症を語れるようになるには、ある程度の共依存症の知識がいる。そして、その言葉を身につけているなら、人はすでに、共依存症から一歩抜け出しているとも言える。
 ぜひ日本でももっと、「共依存症」について、多くの人に知ってもらいたいと思う。
 ここで買えます。

料理人

ハリー・クレッシング作 一ノ瀬直二訳
ハヤカワ文庫NV
1972年発行 2001年16刷
 
 中学生の頃からしょっちゅう本屋で背表紙を見かけていたこの本を、42才になって読みました。おもしろかった。
 原作は1965年にかかれたそうで、強いて言えば社会風刺ファンタジーというようなジャンルになるのでしょうか。わたしが今まで読んだことのある話のなかでは、ロアルド・ダールとか、「みどりのゆび」という童話などと共通した雰囲気があるように思いました。ニューヨークの出版社で出版されたそうですが、ヨーロッパ的な話です。
 あとがきに、原作者はこれ一冊書いたきりで正体がわからないと書かれていて興味をそそられますが、ほんとうかなあ?

 内容は、最終的にはファンタジー的になっていくのですが、途中の料理や家事についての記述や主人一家が変化していく様子に、すごくリアリティがあります。ある意味では、現実でもこの小説のようなことが起こって、「使用人」という職業は今やなくなってしまいました。それがいいことなのか悪いことなのかはわたしにはわかりませんが……。
 エピローグに描かれるプロミネンス城は、アメリカや日本など、飽食する豊かな国家を象徴しているようにも受け取れます。寓話的な象徴性に富んだ、いろんな読み方が可能な話です。

 最後に細かい点ですが、この話には「太った女性」への嗜好が感じられるところがややありまして、小林恭二の「ゼウスガーデン衰亡史」や「純愛伝」を思い出しました。逆に言うと、今まで「ゼウスガーデン衰亡史」や「純愛伝」に似てる小説って読んだことがなかったんだけど、この本は似ていました。
 (2003.1.7)

 ここで買えます。