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一 括 講 読

投稿時間:01/02/03(Sat) 16:34
投稿者名:ひめ
Eメール:hime144@hotmail.com
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タイトル:  卒業  (上)
「おれ別にエリを好きだったわけじゃないよ」
 健はふと思い出したようにつぶやいた。
「おれさ、女の子とつき合ったりとかって苦手なんだ。あと夜中遊びに行ったりとか合コンとかそういう…みんなが普通にやってるようなこと。興味がないわけじゃないんだけど、なんていうか…勇気がないのかも。知らない人と触れあったりすることに。」
 話しながらも、健はまだつきあいの浅いはずの転校生に対して自分があまりに正直に話せていることに少し驚いた。
 健は黙っている岡田の横顔を見て、一呼吸おいてから続けた。
「だから剛がエリとつき合うって言った時も、先を越されたっていうか…おいてかれたような気がして腹が立った。剛だけはずっとおれと同じだと思ってたから。」
 フェンス越しに見える校庭を見下ろしたまま岡田は声だけで応じた。
「そんなら裏切られたってことやな。」
 岡田があまりはっきり言い切るので健は何も言えなくなった。
 しばらく岡田の横顔を眺めていた健はふと辺りを見回した。
 3時間目の授業中のはずである今、屋上には自分とこの転校生二人だけだった。
 今日は3学期が始まったわりには暖かく、健がコートを脱ごうかと考えあぐねていると岡田は突然健の方へ向き直ってつぶやくように言った。
「無理やで、あんたには。」
 とっさに理解できなかったせいで健は無意識にいぶかしむような顔をしたらしい。岡田は少し笑って続けた。
「剛君やみんなと同じ現実の世界に憧れたって無理やで。健君、あんたは…」
 健はまっすぐ対峙している岡田の視線が急に恐ろしいものに思えた。
 ここから先は聞いてはいけないとも思った。冷や汗のにじむ手のひらを握りしめ、しかしそれからはなぜか一歩も動けなかった。
「あんたは夢の中にいるんやから。」

 さっきまで明るかったはずの空を見上げるとそこには満天の星が輝いていて、健を歓迎するように美しく彼を包み込んだ。健は何もかもを捨て、ゆっくりと目を閉じた。



 教師が書く黒板の文字を目で追いながら健はぼんやりと考えていた。
 一体いつからこんなことになったのだろう、と。
 今でも目を閉じると、まぶたの裏にさっきの星空が鮮明に浮かぶような気がした。
 ふと視線を感じ、隣の席に目をやると剛が一枚の紙を顔の高さまで上げひらひらと振ってみせている。何かが書いてあるようだ。剛はその紙をくしゃっと潰し、教壇に立つ教師のすきを見計らって素早く健の方に投げてよこした。
 授業中の静寂の中で、剛の投げた紙が健の机に落ちる音は妙に派手に聞こえ、剛はいたずら好きの子供のように顔をしかめてみせた。
 幸い教師には聞こえていなかったようで、健は素早く紙を机の下で開いた。
「3時間目どこいってたんだよ
 転校生もいなかったけどあいつと一緒だったのか」
 そう走り書きで書いてあった。
 健は窓際の一番前の席に目をやった。転校生の黒い短髪に窓から差し込む光が揺れている。
 健はむりやり紙に目を戻し、記憶をさかのぼらせていった。
 そして思い出していた。大阪弁の不思議な少年が転校してきた日のことを。
 確かに全てがおかしくなりだしたのはあの日からのはずだった。


 その日はまだ暑さの残る、9月の最初の日だった。
 そもそも高校3年、受験生の2学期からの転校生なんていうもの珍しさも手伝って、その少年岡田准一はとたんに有名人になった。
 彼は勉強も運動もできてルックスもよく、それでいて努力家、と人に愛される要素を全て兼ね備え、転校早々男女共にたくさんの友達を作っていた。
 そんな岡田を遠くからただ見ているだけだった健は、幼い頃に両親を亡くし家族ぐるみで付き合いのあった森田家で育つという経歴を持っていて、兄弟であり親友でもある森田家の実子の剛としか関わりをもたない、内向的な少年だった。
 岡田が人に囲まれているのを見ては、どうせ彼とは会話をすることもなく卒業するのだろうと当たり前のように思っていた健を裏切るように、その転校生はある日突然接近してきた。
「健くん、」
 まず名字でなく名前で呼ばれたことに健は驚いた。そして振り返って、自分を名前で呼んだのがあの転校生だったと知った健はしばらくぼんやりと岡田の顔を見つめた。
「そんな不思議そうな顔で見んといてや。」
 岡田は少し笑いそう言うと健の隣の席、剛の席のイスを勝手に引き寄せて座った。
 岡田がやたらにやにやしているので健はバカにされているとしか思えず、読みかけだった文庫本をわざと目の前の少年の視線を遮るように持ち直した。
「なんや、シカトすんな。」
 岡田の言葉に健は少しいらいらして短く言い返した。
「何か用、」
「用って…うーん、別に。」
 きょとんとして悪びれる様子のない岡田を見て健は心の中で舌打ちをした。
「用もないのになんでおれなんかに話し掛けたんだよ」
 それを聞いた岡田はとたんに驚いた顔を向けた。
「なんや健くんは分からんのか?」
 健はなにがだよ、と言いかけてやめた。岡田が何か考え込んで視線をそらせていたからだ。
 岡田はふと考えるのをやめ、健の目を覗き込むようにして言った。
「おれもその本好きやねん。」
「…え、」
「銀河鉄道の夜。」
 健の手の中には宮沢賢治の童話が読みかけのページで開かれていた。
 何か言い返そうとして何を言っていいのか分からず呆然としている健を残し、岡田はさっさと席を立ってまた人の輪の中へと帰っていった。
 やがて休み時間の終わりを告げる鐘が鳴ったが、健の視線はあの転校生から離れようとはしなかった。いつの間にか隣の席に座っている剛が、あいつじゃまなんだよ人の席で、とぶつぶつ言っているのが聞こえたが健にはなんだかどうでもいいことのように思えた。
 剛は突然わざとらしく咳払いをし、健の方に顔を向け
「おまえさっき転校生と何話してたんだよ。」
と探るように聞いたが、結局健は押し黙っていて剛の問いに答えることはしなかった。 

投稿時間:01/02/09(Fri) 15:33
投稿者名:ひめ
Eメール:hime144@hotmail.com
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タイトル:  卒業  (中)
 夕焼けでオレンジ色に染まった校庭には部活動をする生徒達の声が響いている。
 どこかのスピーカーから聞こえる放課後の校内放送を遠くに感じながら健はただ黙って校庭のオレンジ色を見下ろし、その傍らで岡田は「銀河鉄道の夜」のページを読むともなくめくっていた。
 しばらくして沈黙を破ったのは健だった。
「剛さあ…今日はエリと帰るって。」
 岡田の方に目をやると彼は座り込んでまだ本を見つめている。
 自分達以外誰もいない屋上と隣の少年の黒い髪、そして健自信も、何もかもがオレンジ色に染まっていた。
「当たり前だよね…だってあの二人つき合ってるんだから。」
 健は一言言う度に岡田の方を見やったが、彼は一向に動こうとも口を開こうともしない。健はあきらめて独り言のようにつぶやいた。
「でもおれは…どんどん剛が遠ざかっていく気がするよ…」
 そこではじめて岡田はへえ、とだけ返事をしたがそれきりまた本をながめはじめた。

 健はいつでも剛に新しい友達ができると不安になった。
 それでもたいていの場合は何ごともないような顔をして剛の話を聞くことができていたが、今回ばかりはそうもいかなかった。
 昨晩、剛は改まった様子で健を自分の部屋に招き入れた。隣の健の部屋とは違って散らかり放題の剛の部屋を見て健は眉をしかめたが、そんな健とは裏腹に剛はいかにも喜びをかくせないといった表情で健をむりやり床に正座させた。
 そして自分も健と向かい合う形で正座をし、はやる気持ちを押さえるように声を落としてこう言った。
「おれ…エリとつき合うことになったんだ。」
 剛のそわそわした様子から何となく予想していたものの、健は淡い絶望感を感じていた。
 そんな親友の思いには気付かず楽しげにあれこれ話す剛を見て、健は無意識のうちにつぶやいていた。
「……実はおれもエリのこと好きだったんだ…。」

 オレンジ色が消えかけた屋上に一筋の冷たい風が吹いた。
 健はコートの上からマフラーを巻き直すと、まだ本をながめている岡田の方にそっと顔を向けた。
 屋上の灰色の風景の中で、まだ少し暗いオレンジ色が残る彼のまわりはそこだけ現実から切り取られた別世界のようにあたたかに見える。
 さっきと全く同じ格好で座っている岡田は、なぜか妙に非現実的なものとして健の目に映った。
 健は何か言おうとして口を開きかけたが、もう一度頭の中で言葉を整理し直そうとして口から出かかった言葉をつまらせた。
 その様子を察したのか岡田はようやく本から目を離した。
「なんや健君、もう帰るんか」
 そう言って岡田が立ち上がろうとした瞬間、健は止まっていた時が急に動き出すのを感じた。
「あ、……ああ、うん。」
 健はあわてて用意していたセリフをのどの奥につまらせ、そのかわりに
「その本貸しとくから、持ってて。」
とだけ言うと足早に屋上を立ち去った。
 岡田を取り残してきた屋上からはわずかに星空に吹く冷たい風の香りがただよってきた気がした。


 玄関のドアを開けてすぐ、健は家の中の空気がいつもと違っているのに気が付いた。
 森田家はいつも、騒がしくはないまでも一般的な生活の音というものがあった。それが今日はテレビもついていなければ会話もない。わずかに台所から母親が夕食を作る音だけが響いていた。
「ただいま。」
 健が台所をのぞくと母親は手を動かしながらおかえり、とだけ短く言うと忙しそうに料理を続けた。
 健はふと、家がやたらと静かな原因を思いついた。
 この時間はいつもソファでゴロゴロしながらテレビを見ているはずの剛がいない。
 健が剛のことを聞こうと振り返ると母親はいつの間に台所仕事に区切りをつけたのか、エプロンで手を拭きながらリビングルームに顔を出した。
「そこに封筒があるでしょ、」
 そういって母親が指し示した電話台の上には一通の封筒が無造作に置かれていた。
 健はその封筒の文字を見て悪い予感がした。そこに書いてある大学名は健が推薦ですでに入学が決まっていた大学であり、同時に剛が一般入試を受けた大学でもあった。
「あの子落ちちゃったのよ、大学。」
 その言葉に健が封筒から顔を上げ声の方を見ると、母親は心配そうな中にも笑みを浮かべ
「今部屋ですねてんのよ剛。健、何か言ってやって。」
とだけ言うと足早に台所へ戻っていった。
 健はしばらく封筒を手にしたままぼんやりしていたが
「ごはん、もうすぐだから。」
と言った普段通りの母親の言葉が台所から聞こえてくると、封筒をもとの場所に戻し無言で2階に上がる階段をゆっくり登っていった。

 剛は自分の部屋で散らかった物を押し退けただけの床に座り、何かに憑かれたかのように携帯電話のディスプレイをじっと見つめていた。
 やがてノックの音とともに部屋に入ってきた健を一瞥したが、また手元に目を戻すと今度はせわしなくボタンを打ち始めた。
 健はしばらくの間座る場所もないので立ったままじっと黙っていたが、剛が指を動かすのをやめ、また黄緑色に発光する液晶画面に目を落とすとようやく口を開いた。
「エリにメールしてんの?」
 剛は今はじめて健の存在に気付いたように少し驚いたような顔で健を見るとまた目を伏せて言った。
「ああ。」
「エリ何だって?」
「…がんばれって。」
「ふーんそれだけ?」
 剛は睨むような目つきで健の顔を見据えるとベッドの上に散らかりっぱなしの服を片手で払い落とし、布団の中に倒れこんだ。
 立ったままだった健がしめたと思いさっきまで剛が座っていた場所に腰を下ろすと、布団の中から剛のくぐもった声が聞こえた。
「お前に関係ねえだろ。」
 健は一瞬返事に窮したが、ふと言い返す言葉を思い付くとうれしそうな顔をした。
「関係なくなんかないよ。言ったじゃん、おれもエリが好きだって。」
 健は「だから剛とエリがケンカして別れてくれたらうれしいなあ」と独り言のように言うとさも機嫌良さそうににこにこした。
 相手の反応がないのを訝しんで健がベッドの方に目をやると、剛はまるで健を無視しているかのように一人でぼんやりと窓の外を見つめている。
 健もなんとなく誘われるように窓に目を向けると、そこには白い月が暗闇ににじむように浮かんでいた。
 二人はしばらくの間ぼんやりと視線を泳がせていたが、突然剛が口を開いた。
「お前それ嘘だろ。」
 月に夢中になっていた健が突然の剛の言葉に不思議そうな顔をすると、剛はいらいらしたように続けた。
「お前がエリを好きって言ったことだよ、嘘なんだろそれ。バレてんだよバカ。何年つき合ってると思ってんだ。」
 まくしたてるようにしゃべる剛の傍らで健が呆然としていると、剛は一呼吸おいて今度はしっかりとした口調で言った。
「お前はそれでうれしいのかよ。おれとエリが別れたら。」
 健は心臓の鼓動がひとつ、大きく鳴ったのを感じた。
「おれはエリを本気で好きだし、マジ、エリだけだと思う。それでもお前はおれがエリと別れたらうれしいのかよ。」
 健は剛の射るような視線にいてもたってもいられなくなり、夢中で剛の部屋のから隣の自分の部屋に逃げ込むと内側から勢いよくドアを閉めた。
 しばらくは剛の呼び止める大声や母親が心配そうに階段を上がってくる足音等が健の耳の中でこだまのように響いていたが、そのうち辺りが静かになると健は脱力したようにベッドの上へ崩れ落ちた。
 目を開けたままぼんやりしていると、電気が消えたままの暗闇の中で窓の形だけがくっきりと明るく見えていて、虚空を揺らいでいた健の視線は窓の外の星空の上で止まった。
 さっき剛と見た月は今は見えなかったが、健の心はその幻想的な星空さえ見えていれば不思議と安らいだ。

 しばらくして音もたてずにドアが開き、明るすぎる光が差し込んだ。
 黒くのびた影の様子でそこにいるのが剛だと分かった。
「……お前、おれが誰かとつき合うのが不安なんだろ。でもお前だって最近あの転校生とつるんでんじゃん。……おれは…」
 健は空を見つめたまま一方的にしゃべる剛の言葉を聞いていた。
「おれは…お前がどんどん遠ざかっていく気がする。」


 翌日、健は剛が家を出るのを待って遅れて学校へ行った。
 岡田は欠席していたが受験も終わり高校生活も残りわずかな今、欠席者はそれほど珍しくもなく誰も気にとめなかった。
 健は隣の席の剛の様子ばかりを気にして時間を過ごした。
 そして岡田はその日から学校へ来なくなった。
 生徒達は皆一様にもうじき来る卒業という行事に期待と不安のないまざった感情を抱き始めているようだった。

投稿時間:01/03/13(Tue) 18:42
投稿者名:ひめ
Eメール:hime144@hotmail.com
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タイトル:  卒業  (下)・1
 健は大きなスクリーンに次々と映し出される映像を見つめながら、手はポケットの中でその存在を確かめるように小さな紙に触れていた。
 やがてスクリーンが青一色に変わるとはじめは小さくまばらだった生徒達のざわめきが少しずつ大きくなり、暗かった部屋にゆっくりと光が差し込んだ。

 卒業式のリハーサルを終えた生徒達は、視聴覚室に集められ意味のない映画を見せられていた。
 健はすっかり明るくなった部屋を見渡し教師の目がないのを確認すると、ポケットから丸められた紙切れをそっと取り出した。指でゆっくりと紙のしわをのばしていくといつもの剛の字が目に飛び込んできた。
「3時間めどこ行ってたんだよ
 転校生もいなかったけどあいつと一緒だったのか」
 それはいつか剛が授業中によこした手紙だった。
 幕の下りたスクリーンの前でまだあれこれと映画の説明をしている教師の声は健の耳には届かず、その意識はすっかり汚くなってしまった紙の上の文字に集中していた。もう見慣れているはずのその文字は、今の健にとって妙に懐かしいものに感じた。
 健はいつまでも紙の上の汚い文字をただぼんやりと見つめ続けた。

 健は剛に大学不合格通知が来たあの日から剛とはほとんど会話をしなくなっていた。剛のほうからも特に近付いてくることはなく、かといって怒っているふうでもない、健の存在自体を無視しているかのような態度だった。
 剛は健以外の他の友達と一緒に行動するようになり、岡田もその後学校へ顔を出すことはなく、元から剛しか付き合いのなかった健は自然と一人でいることが多くなった。
 健はぼんやりとした淋しさを燻らせながらも日々一日ずつ現実から遠のいていくような感覚を覚え、その度にいつか岡田が言っていた言葉を思い出していた。
「あんたは夢の中にいるんやから。」
 今でも目の前にあの時の岡田の視線をはっきりと感じることができる。あの時は何かに飲み込まれてしまいそうな恐怖をあんなに感じたはずなのに、今はその何かが安らぎのようにも思えていた。
 自分は夢の中にいるのだろうか。
 いっそ目の前の現実が全て夢ならいい。
 そう思うたび健は地に足をつけている感覚を失い、決まって満天の星空の中にぽっかりと存在している自分自身を確認しては理由のない安堵感に浸るのだった。


「ただいま…」
 健はかばんを肩から下ろすと静まり返った居間をのぞき込み家に誰もいないことを悟った。
 卒業式を明日にひかえ、卒業式のリハーサルと映画観賞を終えた生徒達は早めに家に帰されたはずだった。健もまた例外ではなく、平日だというのに居間の時計の針はまだ午後一時前を指していた。しかし剛が家に帰っている様子はない。健はもう一度玄関に剛の靴がないのを確認した。
 健は剛が家にいないことで正直いくらか安堵していた。彼と接触しないということは、健にとって現実から引き離され夢の世界へ飲み込まれていくことと同じだったが、健はそれを心地よいことだと信じるようになっていた。
 健はゆっくり息を吐き、かばんを自分の部屋に置いてこようと二階への階段を上りかけたが、とたんに危うく足を踏み外しそうになった。
 突然電話のベルがけたたましい音で鳴りだしたのだ。
 その音はこの家の電話のベル音とは違っていたばかりか、健がこれまで一度も聞いたことのないような音だった。にも関わらず、不思議と健はそれが電話が鳴っているのだと理解していた。
 健の中に恐怖がうっすらと蘇った。しばらく階段の横から電話の音が鳴り響くリビングルームを見張るように覗き込んでいたが、電話のベルは一向に鳴り止もうとはしないようだった。
 大音量の不快感に耐えきれなくなった健は、仕方なく一歩ずつリビングルームへ足を踏み入れ電話台に近付いた。
 そこへ健の目に飛び込んできたものがあった。電話台の上に置きっぱなしにされた一通の封筒だ。
 健は封筒を確認するや否やはじかれるように受話器を取り上げ、必死で耳に押し当てた。さっきまでのけたたましいベル音が嘘のように、突然訪れた静寂は逆に耳に痛く、健にはその少し低い関西弁が聞こえるまでの時間がひどく長く感じられた。
「そない慌てんでも切ったりせえへんよ。」
 岡田は電話の向こうで少し笑いながら、健の行動を見透かしているかのような奇妙なことを言った。しかし健はそれを不思議に思うこともせず、ただ落ち着いた彼の声を聞くことでほっと胸をなで下ろした。
「…おれさ、今岡田じゃないかと思ったんだ。この電話。」
「へえ、おれはもうてっきり健君は俺のことなんか忘れとると思っとった。」
 健は岡田のことを忘れていたわけではなかった。確かに最近剛のことを考える時間は長くなっていたが、それ以上に転校生の存在は健の中で大きくなっていた。そして、彼のことを考える時は決まって星空を見るのだ。
 あの目を閉じると瞼の裏に見える、あたり一面の星の群。
「岡田…おれ今、ここにある封筒を見たら急に岡田に会わなきゃいけないような気がしたんだ。」
 健はたった今目が覚めたかのように慌てて受話器を持ち直すと、そっと封筒の上に指を置いた。
「封筒?」
「うん。剛が大学に落ちたっていう通知の封筒。」
 健は何のためらいもなく岡田に剛の不合格を告げてしまった。しかしなぜか罪悪感は薄かった。岡田にならいい、と思ったのかもしれない。
「そうか、剛君落ちたんか。ならふたりはここで別れるんやな。」
 健は急に頭から冷水を浴びせかけられたような気持ちがした。
 別れる。そんな恐ろしいことにどうして今まで気付かなかったのだろう。封筒をはじめて見た時、確かに悪い予感はしていたはずだったのになぜか卒業した後のことは何も考えていなかった。
 健があまりに黙り続けていたため岡田は疑うように続けた。
「だってそういうことやろ?二人は今までずっと一緒やったのに、その封筒たった一通で別々の道を行くことになるんやから。」
 健は岡田の声を聞きながら封筒をゆっくり手にとり、隅から隅まで眺めた。彼の言うことはもっともだ。こんな薄い封筒が自分達の運命まで変えてしまうなんて奇妙だった。
「あんな、健君。本返したいねん。」
 健は弾けれたように顔を上げた。
「え、」
「おれ借りっぱなしやったやろ。銀河鉄道の夜。ニ時までにここに来て。」
 なぜか健は岡田の言いたいことをずっと前から知っていたような気がした。当然のようにああ、とだけ短く返事をすると場所も聞かずに電話を切り、コートのボタンをかけ直して外へ出る準備をした。
 学校の屋上だ。
 はっきりとそう思った。彼はそこにいて、そして自分は行かなくてはならない。使命感とは少し違っていたが健は理由もなく確信し、毎朝起きて学校へ行くように、今自分が学校の屋上へと向かうことを当然のことだと感じていた。
 居間の時計を見上げると、午後一時すぎを指している。
 健は今し方脱いだばかりの靴をもう一度履き、急ぎ足で家の玄関を出た。しかしまっすぐ駅へと向かう足をふと2、3歩のところで止め、思い出したようにゆっくりと振り返った。
 健はもうすっかり見慣れたはずの家を、真新しいものでも見るような気持ちで眺めていた。屋根はこんな色だったろうか、窓はこんな形だったろうかと、見れば見るほど幼い頃の自分や昔の出来事が目の前によみがえる気がして目が離せなくなっていた。
 この家に来た頃のことはあまりに小さくてもう覚えていない。思い出すことといえば遊んだことやケンカしたこと、それらの場面の中では自分の隣に必ず剛がいた。気が合うとか合わないとかそんなことを考えたことは一度もなかったが、自分と剛とはお互いに、向い合わせではなくても自然と隣にいて、そんなふうにこれからもずっとつき合っていくのだと当たり前のように思っていた。
 健は、今岡田に会いに行ったらもうそれきりこの家に帰って来ることは二度とないだろうという予感がした。そしてそれは剛とももう会うことはないということでもあった。
「…さよなら。」
 健は口の中で小さくそうつぶやくと、一歩一歩駅までの道を歩き出した。


 学校の校庭の道ぞいに並んだ桜の木には花も葉さえもなく、灰色の空を背景になんだか淋しく感じる。
 剛は卒業式のリハーサルを終えた後、何人かの友達と連れ立って校庭の朝礼台に腰かけ、取り留めのない談笑を延々と続けていた。まだリハーサルだというのにみんなもう感慨深い気持ちになっているらしく、普段なら気にもとめないような思い出話にも花を咲かせていた。しかし友人達はみんな自分の過去に浸るのに夢中で剛の様子に気付く者はいないようだったが、剛はみんなが笑うと一緒に笑い、その後必ず自分の足元に目を落とす。それの繰り返しだった。
 剛は、みんなが文化祭の話をすれば、ずっとつまらなさそうな顔で出し物を見ていた健の横顔を思い出し、修学旅行の話になると、列の一番後ろをゆっくり歩く健の手をむりやり引いて早歩きした時の手の感触を思い出した。
 それは自分の中の健の存在がいかに大きいかを証明しているような気がして、剛は不愉快だった。
 剛は小さい頃からずっと、友達や近所の人に健との仲の良さを誉められるたび
「あいつは仲が良いとかじゃなくて、いてもいなくても同じなんだよ。」
と同じ言葉をくり返してきた。実際、あの不合格通知が来た日から健との関わりはほとんどなかったが生活は今までと何も変わらなかった。
 だが思い出は彼との不思議なつながりを否定させてはくれず、剛は誰にも聞こえないように小さく舌打ちした。
 と、そのとたん校庭にチャイムが重々しい音で響き渡り、剛は驚くと同時にはっと目が覚めた気がした。
 校舎の時計を見上げるともう午後二時の十分前だ。友人達は一様に同じことを考えたらしく、一人が「場所を移動してどこかに入ろう」と提案すると皆二つ返事で賛成した。
 剛はそこではじめて、自分だけかばんを持っていないことに気がついた。教室に置きっぱなしにしてしまったらしい。友達は剛の珍しい失敗をやたらとおもしろがった。剛も自分のうっかりに多少驚きながらも一緒になって笑い、「先行ってて」と短く言い残すと教室へと走った。
 面倒なので靴のまま生徒玄関を抜け、リズム良く階段をかけ上がる。いつも通りの教室までの道のりのはずだったが、剛はもう何かが違っていることになんとなく気付いていた。それは上に上がるたび、屋上に近付くたび強くなる。剛はむりやり知らんふりをして4階の教室にかけ込んだ。これでかばんを取って帰ればいい。そう胸をなで下ろしかけた時、剛は凍りついた。自分が珍しくかばんを忘れたりしたことも、偶然ではなく必然だったのだと思わずにはいられなかった。
 剛の机の上には、健がいつも持ち歩いていたはずの「銀河鉄道の夜」がきちんと中央にそろえて置かれていたのだ。
 手のふるえを必死に堪え、ようやく本を取り上げると剛は弾かれるように教室を飛び出した。なぜ自分がこんなに恐怖にも似たような気持ちになるのかは分からなかったが、今行動しなければいけないという漠然とした思いが剛を屋上へと向かわせた。屋上へと続く階段は薄暗く、嫌でも剛の不安な気持ちに拍車をかけた。


 健はコートのポケットに無造作に放り込まれた携帯電話を取り出し、ディスプレイを灯した。画面の時計が午後ニ時ちょうどを告げている。健は屋上へ出る重い扉を両腕で押し、隙間からもれ出る光につい目を固くつぶった。
 目を閉じていても瞼の中に白い光が見える。とても長い時間が過ぎた気がして健がゆっくり目をあけると、濃紺の空に無数の小さな光がちらちらと燃えているのが見えた。まるで真夜中のような星空に驚いて健が携帯電話の時計を覗き込もうとした時、左肩の後ろから聞き慣れた少し低い声が聞こえた。
「午後二時ちょうどやな。」
 あの転校生が、列車の扉口に立って健に声をかけている。健はそこではじめて、自分が駅のプラットフォームに立っていることに気がついた。学校の屋上の風景などはもうどこにもない。
 健は見たこともないはずのこの駅のことをよく知っていた。そして自分を迎え入れようと扉の口を開けている目の前の列車のことも。どこかから「銀河ステーション、銀河ステーション」というアナウンスが重々しく響き渡った。
 健は、岡田が列車の中から自分に手を差し伸べていることに気がついた。岡田は今まで健や他の誰にも見せたことのないような笑顔で、差し出した手をさらに健の目の前に出した。
 健は彼が初めて自分に話しかけてきた日のことを思い出した。あの日突然話しかけられて嫌な気持ちになったのは、単に驚いたからだけではなかっただろうか。健は常に人に囲まれている岡田をうらやましいと妬む反面、賞賛の眼差しで見ていたかもしれない。だから岡田が次第に自分と親しくしてくれると単なる喜びというよりある種の優越感を感じ、彼から離れることができなくなった。同時に、昔からあんなに一緒だった剛からは遠ざかっていった。
 健は岡田が学校に来た最後の日、あの何もかもがオレンジ色に染まった屋上で、彼に言いそびれた言葉を思い出した。
「岡田はこんなに近くにいるのに、おれ剛が今どこで何してるかなんて全然分からないんだ。
 おれ…剛から離れていくたび岡田に近付いていく気がする。」
 健は差し出された岡田の手にそっと触れた。その瞬間、健は体の中で何かが大きく渦を巻き、何もかもを飲み込んでいくのを感じた。



****************************
すいません…なんかこんなに(下)が長くなるとは思ってもみなかったんですが…(‐‐;)
あんまり長すぎて投稿できなかったので分けました。
つーか…それは長すぎだろうっていうかんじ…(‐‐;)
(上)と(中)の時にもっと考えとくべきでした。(泣)

投稿時間:01/03/13(Tue) 18:45
投稿者名:ひめ
Eメール:hime144@hotmail.com
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タイトル:  卒業  (下)・2(最終話)
「健くん、健くん、」
 鼻先をかすめる甘い香りにうっとりしながら健はふと目を覚ました。
 一瞬自分の置かれている状況が分からなくて健は驚いたように辺りを見回したが、そこは少し古い列車の中で、健は岡田と向かい合って窓際の席に座っているようだった。列車のごとごとと揺れるのがあまりに気持ちよくて、いつの間にか眠っていたらしい。
 知らないうちに乗客が増えたようで、健の隣には女の子と色の白い優しそうな青年が、向かいの岡田の隣には小さい男の子が、それぞれりんごをひとつずつ手にして座っていた。
「健くん、これ。あの人にもらったんやで。」
 そういって岡田は、健にも彼らが持っているのと同じ赤いりんごをひとつ手渡し、通路を挟んだ向こうの席に座った燈台看守を指した。その燈台看守は健と目が合うと、細い目をさらに細くして人の良さそうな笑顔を見せた。岡田は自分でもひとつ、りんごを大切そうに抱えている。
 健はさっきの甘い香りの正体が分かり気持ちがすっきりすると、今度は淋しいような、泣き出したいような気持ちになった。なぜこんなに沈んだ気持ちになるのかは分からない。自分は確かに、今目の前にいる少年と誘い合わせてこの列車に乗り、これから彼とふたりでどこかへ行こうとしているはずだった。しかし一体どこへ行こうとしているのかどうしても思い出せない。それにもっと大切な何かを忘れてしまっている気もした。
 健は泣きたいのを必死に堪え、耳を赤くしながら思い出そうと考えていると、隣に座っている女の子が急に立ち上がって健を押し退けるように窓にしがみついた。向かいに座った男の子も同じように窓の外をじっと見つめている。
 何が見えるのかと健が窓の外に目をやると、そこにはとても鮮明な藍色に、いろんな色の小さな光が瞬いてそこらじゅう一面に広がっていた。
 健はその大きな星空をいつも見ていたような、妙に懐かしい気持ちになって、なんだかまた淋しくなった。こんな目の前に友達がいるのに、自分とどこまでも一緒に行ってくれる人はいないんだという気持ちがした。
「さそりの火や。」
 ふいに岡田が窓の外を見て声をあげると、小さな女の子は
「あら、さそりの火のことならあたし知ってるわ。」
と気取った調子で言った。
「昔一匹のさそりが小さな虫を殺して食べて生きていたのだけど、ある日いたちに見つかって一生懸命逃げたら目の前の井戸に落ちてしまったの。
 さそりは溺れながらこうお祈りしたというの。
 ああ、私は今までいくつもの命を取ってきたのに、いたちからはあんなに一生懸命逃げ、このありさまだ。私の体を黙ってくれてやればいたちも一日生き延びただろうに。どうか神様、この次には真のみんなの幸(さいわい)のために私の体をお使いください。
 そしたらさそりは自分の体が美しい火になって夜の闇を照らしているのを見たって。」
 健は女の子の話を聞きながら、こうこうと赤く燃える火がだんだん遠ざかっていくのを見送っていた。女の子も男の子もまた席につきもうすっかり遠くへ行ってしまったさそりの火がやがて見えなくなっても、健はさそりのことが頭から離れなかった。
 健はつま先を見つめながら一生懸命何かを思い出そうとした。
「切符を拝見いたします。」
 声に驚いて健が振り向くと、そこには健の思いをわざと断ち切るように、赤い帽子をかぶった背の高い車掌が健と岡田を見下ろしていた。
 切符なんて持っている覚えのない健は困って助けを求めるように岡田を振り返ると、彼は特に驚いた様子もなく平然とした顔でポケットから灰色の切符を取り出した。
 それを受け取り、何か書類のようなものと照らし合わせながら切符の確認をしている背の高い車掌を、健はつい観察するように見つめた。目深にかぶった赤い帽子のせいで分からなかったが、よく見ると健が思っていたよりはずいぶん若く、見栄えのする顔立ちのようだ。
 突然車掌が健のほうに目を向けたので、今まで車掌を見つめていた健と彼の視線が空中でぶつかってしまった。車掌は健が自分を見ていたことなどは構わないという態度で無言で手を差し出した。切符を催促しているのだ。
 健は慌ててポケットの中をでたらめにまさぐった。すると入れた覚えのないものが指に触れ、おそるおそる取り出してみるとそれは薄っぺらい一通の封筒だった。
 健は背中が冷たくなるのを感じた。
 凍りついている健にはお構いなしに、車掌は取り上げるように健の手から封筒を引き抜くと裏にしたり表に返したりして調べ始めた。
「これはすごい。これはきっと天上や、それ以上のどこへでも自由に行ける通行券ですよ。」
 そう横から口を挟んだのは、さっきの愛想のいい燈台看守だった。
 車掌は一通り調べ終えると
「よろしい、けっこうです。それでは、南十字(サウザンクロス)に着きますのは第三時ごろになります。」
と言い残し、隣の車両に移ろうとドアのほうへ歩いていった。
 健が車掌から返された不合格通知の封筒を見つめたままぼんやり立ちつくしていると、車掌が歩いていった方から車掌の「切符を拝見いたします」と言う声がまた聞こえてきた。この車両にはさっきの小さい女の子男の子を連れた青年、燈台看守、それに健たちしかいなかったはずだ。健は胸騒ぎがして急いで封筒から目を離し、車掌のほうを振り返った。
 その瞬間健はあんまり驚いて手にしていた封筒を落としてしまった。
 そこには健のよく見知った少年が射るような視線で健を見据えていた。
「…剛、」
 ようやく健がそれだけ言うと、剛は弾かれたようにつかつかと健の前まで歩いて来て突然健の制服のポケットに手を入れた。
 健も、そして岡田や燈台看守たちも、驚きのあまりすっかり硬直して剛の行動を見守るように眺めることしかできないでいた。剛は健のポケットの中から何かを奪い取ると、車掌に向かって投げつけるように放った。
「切符。」
 そう剛が短く言うと、車掌はようやく剛が投げてよこしたものをさっきと同じように調べ始めた。健はそこでやっと、剛が自分のポケットから取り出したものが何だったのか分かった。
 それはいつか剛が授業中にくれた手紙だった。
 車掌は急に眉にしわを寄せ、しきりに手紙をのばしたりひっくり返したりしていると、剛は車掌の反応を予測していたように言った。
「その切符じゃこの列車には乗れないはずだって思ってるんだろ。そうだよ、その切符はでたらめだ。だからおれはここで降りる。」
 剛はめちゃくちゃなことを言うと当然のように健の腕をつかみ、通路に突っ立ったままの燈台看守を押し退けるようにしてドアへ向かった。
「無理やで。」
 その声に反応して剛は睨むようにゆっくり振り返った。剛の視線の先では、あの転校生が冷静な顔をして座っている。剛はずっと前から台詞を用意していたように、転校生をまっすぐ見据えて言った。
「健は現実に生きてる人間なんだよ。お前とは違うんだ。」
 岡田はしばらく黙っていたが剛の言葉を無視するようにそっぽを向いて言った。
「もうすぐ南十字へ着く。降りるなんて無理や。」
 健は彼がこんなに冷たい態度をとるところを初めて見たような気がした。彼は健に対して優しいというわけではなかったが、健は彼の隣をあたたかくて居心地のよい場所だと信じていた。
 健は岡田に裏切られたような気がすると同時に、目の前のもの全てが嘘のように思えた。子供達や優しそうな青年、燈台看守、そして車掌やこの列車そのものまでも。
 この手の感触以外は。
 健は剛が掴んだ手を振払うようにして離すと今度は自分から剛の手を握った。
「剛、窓から飛び下りよう。南十字に着く前に降りなきゃ。」
 剛は少しためらったが無言でうなずくと近くの窓に手をかけた。開け放たれた窓からは勢いよく風が吹き込んできて、車内のもの全てを洗い流してしまうかと思うほどだった。その風に混じって、微かに転校生の少し低い声が聞こえてきた。
「健くん、行ってしまうんか。」
 健はなぜか心臓を掴まれたような気がして驚いて車内を振り返った。
 するとそこにはもう誰もいなくなっていて、がらんとした座席の上にひとつのりんごが置いてあるだけだった。
 健はそこだけぽっかりと浮き上がったような真っ赤なりんごを見つめた。
『僕たちふたりきりになったね、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。』
 健は無意識のうちに「銀河鉄道の夜」の言葉を呪文のように口の中でつぶやいた。
『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』
「健、」
 健がはっと我に返ると、剛はもう窓の上に座るようにして今にも飛び下りる、という格好をしている。健は繋いだ手に力を込めると、自分も剛と同じように窓から身を乗り出した。
 目の前には大きな星空が広がっていて、その少し下のほうに月が掛かっている。健はつい星空に吸い込まれるように見入っていた。
「星は見んな。あの月めがけて飛ぶんだよ。」
 健は剛に言われた通り必死で月に目をやった。ずっと見つめていると、丸い月はそこだけぽっかりと穴があいているように見える。ふたりはどちらからともなく繋いだ手に力を入れると足を窓から離した。
 時が止まってしまったようで落ちていく感覚はなく、健は銀色の月を見つめながらいつか剛の部屋でふたりで見たあの月を思い出していた。
 少しずつ大きくなる月はやがて視界いっぱいに広がって、白い光がふたりの体を包み込んだ時にはもう何も見えなくなっていた。


 ふいに体の上を冷たい風が通り過ぎた。
 健は寒さを払いのけるように寝返りをうつと、少しだけ瞼を開けた。枯れた木の枝が風に揺れているのが見える。
 健はゆっくり体を起こすとあたりを見渡した。
 灰色の空の下に、同じ色の学校の屋上。さっきまでの銀河鉄道の光景が嘘のようにいつも見ているこの学校の屋上で、自分は今まで横になって眠っていたようだった。剛はいつの間に起きたのか、フェンスに寄り掛かってだるそうに立っている。
「…剛、ありがとう。」
 つぶやくような健の声で、剛は初めて気がついたように健のほうを見た。
「…何が?」
「だって助けに来てくれたんでしょ。」
「は?だから何がだよ。っていうかなんでお前こんなとこで寝てんの?」
 健はしばらくいぶかしんでいるような剛の顔を見つめて呆然としていた。
 剛は全て忘れてしまったのだろうか。それとも、全部ここで眠っている間の自分の夢だったのかもしれない。
 健があまりにも長い間見つめているので剛は何か勘違いしたらしく、急に慌てて弁解した。
「おれは別に、わざわざお前を探してたわけじゃねえよ。教室にかばん忘れたからたまたま戻ってきて、それでなんとなく屋上に来たらお前が寝て…」
「岡田は…」
「え?」
 健は剛の言葉は聞こえていない、というふうで、その視線は剛の上を通り越し、屋上の片隅を見つめていた。
 そこには赤く輝くりんごがひとつ、無造作に転がっている。
「?岡田って誰だよ。」
 剛はふらふらと立ち上がる健を見ながら彼の視線の先のりんごにようやく気付き、それに向かっておぼつかない足取りで歩く健を簡単に追い越すとりんごを拾い上げた。
「なんでこんなとこに転がってんだ、」
 健は、そう言って不思議そうにしている剛の指先とその先にあるりんごの赤を見ながら、ふと思い付いたように言った。
「おれたち明日卒業するんだ。」
 剛は健の唐突な言葉に驚きながらも、自分の中でその意味を確かめるように卒業、とつぶやいた。
 ふたりともしばらく黙っていたが、健には、剛はきっと今自分と同じ思いでいるだろうという自信にも似た気持ちが芽生えているのを感じた。
 空を見上げると、いつの間にか灰色一色だった雲の隙間からわずかに青い色がのぞいている。
「見てな。」
 剛はそう言ったかと思うと野球のピッチャーの真似事のように大げさに振りかぶって、りんごを空へ放った。
 りんごは高く、遠くまできれいな放物線を描き、ふたりは放心したように果てのない先を見つめた。
 太陽の光を受けて青い空の中で輝く一点の赤は、まるで夜空に浮かぶさそり座の赤い星のようにいつまでもふたりの目に焼き付いて離れなかった。



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今回、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から文章を引用した部分があるので書いておきます。
「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫 宮沢賢治著
 P216 1〜5行目
(健君がつぶやいた台詞の部分。二重かっこになってるとこです。)
それと、女の子が言ったさそりの話の部分なんですが、はじめまるまる引用しようと思ったんですがあんまり長くて、いくらなんでもこんなに他人の文章を使うのもどうかと思ったので一応自分の言葉に変えて書いたのですが、その元となった部分も書いておきます。
 P210 16行目〜P211 11行目

というわけで、今回はほんとにこんな恐ろしく長いものを読んでいただいてありがとうございました。(‐‐;)
hongmingさん、著作権のこと、わざわざすいません。(^^;)丁寧に教えていただいて。ありがとうございます。
それから、賢治先生とイーハトーヴォの人々に敬意を表します。m(__)m
(おお〜一回書いてみたかったんですよこういうの。(^^;))



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