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ふれカルStory

@出場決定

2005年5月、リーダーのガッツミノルの家の電話が鳴った。「そうですか!出場決定ですか!」ガッツは叫んだ。

TX(つくばエクスプレス)開業イベントでバンドとしてエントリーをしていたのだ。すぐにこの知らせはメンバーにメールや電話で伝えられた。「え!!」「ついに・・・」「まじ?・・」・・・・各々のメンバーは喜びと驚きでいっぱいであった。

これが「
Gutsminoru&ふれあいカルチャー」(ふれカル)のスタートである。それまでは地域のイベント等で演奏することはあったがバンドとしての方向性はなく、ボーカルのドレミはキーボードから転向したばかりであった。実質的なバンドとしてのデビューとなったのだ。

A選曲

野外の特設ステージでの演奏である。聴衆は300人はゆうに超すと思われる。8月28日の夏の野外ということを考慮してハードなのりの曲を考えた。そこでアンルイスの「六本木心中」と松本孝弘アレンジの「パープルタウン」に決定した。

Bダイエット

ギターのジミーはダイエットを決意した。高校時代にはバンドを組んでいたが本格的に人前で演奏するのは30年ぶりになる。昔Jimmy Pageを目指したひとりとして太った体で人前でギターを弾くことは自分が許せなかったのだ。ギターの練習とダイエットは同じ位頑張った。会うたびに痩せていくジミー・・。病気説もささやかれる中、3ヶ月で10キロのダイエットに成功したのであった。

C本番

 たった2曲なのに練習は何回も行った。そしてついに8月28日の本番を迎えた。5人は熱く熱く燃えた。ライブのもつエネルギーをメンバー全員が満喫したのであった。

Dライブハウス進出

 ライブで火がついた5人は、バンドとして本格的なスタートを切った。

ベースのマーカスは、最初、もらいもののベースを使っていた。ケースもなくギタースタンドごと握ってベースを持って来ていたのである。しかし、フェンダーUSAを新しく購入して、本気モードになった。

そんな中、ライブハウスに進出ことを決めた。この年齢でライブハウスに出られるのか?まず30分のライブができるだけの曲数が必要である。選曲は映画NANAの主題歌や、J−POPをハードにアレンジしたものを多く手掛けた。そして、瑞江の「HOTコロッケ」や柏の「ALIVE」にも出演することができた。

ライブハウスでのリハーサルのときの出来事。親子ほど年の差がある若い対バンであった。われわれが「グラマラススカイ」を演奏したとき、「このおじさんたちすげえよ、グラマラススカイをやってるよ」と叫んだとか。

そんな時、ふれカルに大きな変化が起こった。

EマキOZとの出会い

 色んな曲を手掛けながら、バンドのカラーを探していたとき、キーボードのシンディが「カルメンマキ&OZ」の「私は風」を持ってきた。70年代のジャパンロックである。これにはメンバー全員が衝撃を受けた。マキの太い歌声、ピアノ、ハードなバックの演奏、唸るギター・・これこそふれカルの目指していたサウンドではないか。

 そして、マキOZのコピーバンドとしてバンドのカラーを大きく塗り替えることとなった。

 それから、いたるところで「私は風」を演奏した。懐かしがったマキOZファンが声をかけてきてくれた。初めて聞く若い世代も感銘してくれた。そして、マキOZのレパートリーも少しずつ増やしていった。

F最後に・・

 遅咲きの中年バンドふれカルはリーダーのガッツミノルの夢が叶ったバンドである。ドラムを始めて30年のガッツはバンドを組むことが夢であったのだ。

 現在、親父バンドのブームである。われわれふれカルは中年の夢と希望を乗せて今日も奏でる。

 どこかのイベントで、ライブハウスで、ホールで「私は風」が聞えて来たらそれはフレカルに違いない。





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