連続物語   遠藤家秘史
                      
この物語は、このホームページの所有者(遠藤亀松)の家の歴史を物語り風に書き
                          上げたもので、本業の(株)葵工業の所属する、下水道メンテナンス協同組合の機関紙
                          『組合ニュ-ス』に連載されたものです。連載には時代背景が前後しますが、四ヶ月ごと
                          に連載致したいと思います。稚拙なものですが 御読みくだされば幸甚です。

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第二回  連続物語 更新 平成十七年一月十五日

         第三回   再び砂金堀り人夫となる
      
      何はともあれ、無事に北海道に帰り着いたが、樺太の旅の疲れを癒す間もなく、再び夕張の山
     奥の砂金堀現場に行った。
      時代は明治の末期の四十年代の終わり頃であった。現場の飯場に入り歩合制の砂金堀人夫と
     して働く事になったが、そこで働く人夫達は、どの顔も懐かしい昔の仲間であった。
     樺太に渡る数年の砂金堀の見習い人夫の期間中には、先輩人夫の手元として、何を頼まれても
     嫌な顔一つせず、嫌な事を言われて口答えするでもなく、砂金堀技術を身に付けたいと、せっせ
     と働いた。
      当時としては内地の中等教育を受けたインテリーでも有り、‘‘口八丁,,‘‘手八丁,,で筆も立ち、
     ソロバンも出来た事から人気者で便利に使われた。
     砂金堀現場で働く人夫達は、皆お人好しで、力仕事を得意とする者は多いが、計算したり文字を
     書のは苦手であり、頭(かしら)の中には読み書きが苦手にしていて、砂金採出の監督官庁への
     許可諸手続等の書類や、絵図面を書くなどの手続業務を頼まれるが、喜んで代行を引き受けた。
     これも自分が独立して現場を持っ時に、きっと役に立つだろうと考えたからであろう。

      その便利屋の政市が樺太から帰ってきたと、山奥や川上の採金現場に伝わると、昔の仲間達
     は樺太の話を聞こうと、酒や肴を持参して集まって来た。歓迎会を兼ねた樺太の話しを聞こうと
     云う訳である。
     飯場での歓迎会は、薄暗いランプの下で、荒削りの木製の粗末な長テーブルの上に並べられた、
     近くの山で採れた山菜料理で、久振りで見るアイヌねぎ(行者ねぎ)のおしたしは、何と云っても北
     海道の山菜中の絶品であり、また、腹がはち切れんばかりに数の子が入った鰊が酒の肴として出
     され、飯場の賄いの炊事婦がなみなみと茶碗に注がれた別名‘アイヌ殺し’と、北海道で呼ばれた
     焼酎を配って回った、それを一気に呑みながら、自慢にも似た樺太の軍事道路建設の過酷な作
     業と、タコ部屋の話しや、タコ部屋からの死の脱走の話しを、身振り手振りよろしく物語にも似た話
     しは、僅か数ヶ月前の出来事であったが、すでに遠い昔話しの様に熱ぽく話し出した。

      時々、バラック造りの壁の隙間から入る風は、石油ランプの炎を細く、又明るく揺らいで、ひげ面
     の横顔を照らし、あたかもシヤーマンの祈りの様に幻想的に見えた。時折遠くでシマフクロウの鳴
     く声が聞こえて来た。
     仲間達は焼酎を呑むのも、おかずを食べるも忘れたかの様に、実話の世界にのめり込んで行った。
     話しが終わったのは夜も白々と明けて来た頃であった。
      砂金掘り飯場の朝は早い。朝もやの内にストーブの煙突から出る煙も白く立ち昇り、炊事作業の
     音と、鶏の鳴き声が聞こえると、うっすらと東の空が明るくなり始め、小鳥のさえずる声が聞こえ出
     す頃、薄暗い飯場の中の朝の食事は,樺太のタコ部屋と違って、数人の炊事婦がいて、ご飯を運
     んだり味噌汁を付けて、忙しそうに働いている。
      朝食の内容は人里離れた山奥であったから、豊富な山菜のおかずが主で、蕨や蕗、山うどの煮
     付けで、時には塩魚が盛り付けられた。
      砂金堀の作業は、毎日が水に漬かっての穴掘りの力仕事が主であったから、腹が減るので朝の
     食事は、充分に腹拵えをしないと思うように働くことが出来ないので、人夫達は先を争って食べた。

      砂金掘り人夫として入った砂金現場は、夕張川流域の支流であつた。この地の砂金の歴史は古
     く、今から三百七十数年前の松前藩時代に既に砂金採りが行われ、元和二年(1615年)から寛
     文九年(1669年)に渡る五十数年間、その中で寛永年間(1624〜1643年)が最も盛んに採金
     された。
      松前藩は各地に金山奉行を置き、直営で砂金掘り達に採金作業に当たらせ、その運上金として
     砂金掘り一人当たり、一ヶ月に付き砂金一匁(3,75グラム)を献上させ、この頃松前藩は幕府に
     砂金百両を献じたと云う。更に時代が降り明治三十二・三年から盛んに砂金が掘られる様になり、
     砂金の産出する量も多く、この頃は北海道のゴルドラッシュであった。
      その飯場には数十人の人夫が働いていた。これ等の人々は出面取(日雇い)や漁業や農業の
     合間の出稼や、朝鮮人など雑多な人が集まって来て、砂金堀の雑用や土方作業に従事していた。
     飯場には‘頭’と呼ばれる親方がいて、砂金堀現場を取り仕切っていて、砂金堀に必要な砂金採
     取の道具を置いて、砂金堀人夫に貸し出していた。

      この当時、夕張川一帯で産出する砂金の質は良く、純度は八十五パーセントで有った。また白
     金も含まれている時もあった。大粒の砂金が産出され、最大のもので三十匁(約116グラム)以
     上もあり、一人前の砂金堀人夫で、多い日には一日に三匁(11グラム)から5匁(19グラム)の砂
     金が採れ、悪い日には十分の一も採れなかった。多くの人夫達は一ヶ月の稼動日数は、働き者
     でもせいぜい二十日位で有った。
      政市は樺太に渡る前の様な流れ者の見習い人夫としての待遇ではなく、もう一人前の採出技
     術を身に着けていた砂金堀人夫であったから、日雇い人夫ではなく歩合制で働く事になった。
     歩合制とは砂金が採れた量に対して報酬を貰う物で、砂金を銭(現金)に変えて支払って貰うもの
     で、賃金は七分勘定、八分勘定とがあった。だから、一人前の砂金堀人夫の一ヶ月の採金量は、
     多い時で二百グラム程あったから、八分勘定で百六十グラムが歩合勘定として銭に替えられて
     支払われた。
      ちなみに、明治末期、大正初期の砂金の一匁(3,75グラム)の価格は、約四円であったから、
     百七十円位に成り、飯場での食事代や道具代、その他日常生活に必要な物や、煙草、酒などを
     買うと月末に清算され、それでも百三十円位にはなった。当時銀行員の初任給が四十円、公務員
     の初任給が六十円であったから、かなりの金になった時も有った。
      
      採金現場は人里離れた山奥の飯場の事なので、昼間の作業が終わって帰って来ると、川の水
     で体を洗うが、時には屋外に据え付けられた五衛門風呂に入って、一日の疲れと汚れを落とす。
     夏などには褌一本で飯場に用意された飯のおかずで"アイヌ殺し"を呑みながら、たわいない話に
     花が咲くと、誰言うと無く誘いが掛って、博打が始まる。博打は花札も有るが、何と云っても簡単
     勝負が早い通称"チンチロリン"と云われる、どんぶりにサイコロを二つ投げ入れると、二つサイコ
     ロが「チンチロリン」とどんぶりの内側に当たって快適な音を出しながら、どんぶりの内側を回って、
     止った所のサイコロの目の"丁"・"半"に銭を掛ける。博打に掛ける物は、主に銭が主で時には砂
     金を掛ける時も有り、一晩でスッテンテンに負けて、更に飯場の頭に前借をする者もいた。
      政市は、内地で放蕩三昧で先祖伝来の財産を食い潰し、逐電してこの地に流れ着いた程の男
     で有ったから、"呑む"・打つ"・"買う"の三拍子揃った素質は充分有ったが、まんざらの根っから
     の馬鹿では無かったので、この頃は歳を考え、将来の事を考えたのか、一かく千金の夢を忘れら
     れずにか、独立して自分の砂金堀の鉱区を持ちたいと、その時の資金を貯め様としていたので、時
     には博打に参加する事は有ったが、お付き合い程度で月末に清算された一ヶ月分の銭を持って
     時には山を下り、街の女郎屋やカフエに仲間大勢で遊びに行く事も有って、人夫の中には一ヶ月
     の働いた銭を使い果たすまで遊びに夢中になって帰らない者もいたが、好き者の政市は程ほど
     にしてもっぱら守銭童に徹した。

      夕張で妻を娶る

      大正初期、道楽者の山師・政市も砂金取り人夫となって、真面目に働いたので、この頃は小銭
     も貯まって、そろそろ身を固めようかと思っていた頃、或る人の紹介で建具屋職人である、三浦
     建五郎の子持ちの出戻り娘 ヨウ と大夕張炭鉱の町で家庭を持った。大正三年(1915年)頃
     であったらしい。
      結婚当初は、砂金堀で蓄えた銭が有ったので、母ヨウに「銭の事で心配させないし、今に贅沢
     させてやるぞ」と口約束をしたと、私の幼い頃に母は話した。晩年、夫婦喧嘩の時に、母ヨウに
     「理屈語りの仙台衆と罵倒しているから、三浦家は仙台が出自で有ったろうが、この家の血統は
     長命である。
     ささやかに新婚家庭を構えた夕張は、北海道の中央部に有る夕張川上流域を占める、代表的な
     炭鉱街で、各所の河岸の段丘や谷間に、住宅が雛壇式に立ち並ぶ、所謂炭住街が形成され、そ
     の炭鉱から産出される原料炭は、日本一の優良な石炭で有った。この当時は活気が満ちた景気
     の良い街で有った。
      夕張の街の新居を生活の基盤として、夕張川の上流の採金現場の飯場に入って、歩合で砂金
     堀人夫をして、月に一度の歩合による賃金の清算日には山を下って、街の新居に帰った。
      この頃であろう。

 砂金堀の技術も身に付いた事だし、砂金が
多く寄り集まる場所が、どんな地形で有るかも
覚え、砂金堀現場の設営方法も習得した。
更に砂金堀に一番大事な、砂金を掘り出す
為の官庁の申請手続の方法も覚えた。
 それよりも何よりも心強い砂金堀人夫の仲
間も増え、数年掛けて独立して自前の砂金堀
現場を持ちたいと、守銭童に徹して、多少の小
銭も出来た事だし、山の仲間には自前の砂
金堀現場を持った時には、仕事を手伝って呉
れる約束も取り付けていたので、長らくお世
話に成った飯場に別れを告げて、砂金が採れ
る場所を探して、一人で山奥へ川上へ、そし
て沢へと出かけた。


     黄金の山は何処

      砂金が多く寄り集まり易い場所を砂金堀人夫は、”寄せ場”と呼んでいた。砂金堀人夫の長い経
     験と勘で、山が険しく傾斜が急な所よりも、なだらかな山間を流れる河川や沢などに砂金が集まる
     のを知っていた。また、一般的には大粒の砂金は上流で産し、下流では小粒が集まるのも常識的
     に知られている。
     その”寄せ場”黄金の山を求めて、一獲千金の夢を追う山師の政市は、顔は泥まみれ、汗をかい
     て斑になって、虻に刺されて腫れあがり、鬚はぼうぼうに伸びもうだいである。
     山を越え川を渡って来たので、衣服のところどころが切れ素肌がのぞき、その上泥だらけに汚れ
     ている。五尺四,五寸(165センチ)の小柄に、ヤセ馬(背負子)に、砂金採取道具と食糧とテント、
     そして鍋などを山の様にくくり付けて、肩にはドイツ製元込水平銃をぶらさげている。その様はまる
     で乞食が、ガラクタの全財産を背負って歩いている様で有った。

      昨夜の野宿も疲れたのか寝過ぎてしまった。目だ覚めた時には、初夏の太陽がまばゆく輝き、
     既に真上近くまで登っていた。
      今日も今日とて、その”寄せ場”を求めて歩く山の一日が始まった。残飯で造ったニギリ飯に沢
     庵と目刺しで腹拵えが済んで、野宿の一人用テントを畳み、朝霧が太陽の光を反射してキラキラ
     と輝く、熊笹を踏み分け、ヒルに手足を吸われながら、人の背より高く延びた葦のなかを川上に向
     かって歩いて行った。 時折「ギョギョシ」と甲高い声で、ヨシキリが鳴いて飛んで行く。
     独立してから三回目の”寄せ場”を求めての一人歩きで、もう、この地に来て数日になり、背負っ
     て来た食糧も底をつき出したが、砂金が出そうな”寄せ場”は、未だに発見出来ないでいる。
      日も西に傾いて来た。今夜もここで野宿をしなければならない。
     少しあせり気味で有った。背負ったヤセ馬を下ろし、手拭で顔の汗を拭きながら、地面に腰を落と
     した。ズボンのバンドに差した刻み煙草入れを取り出し、煙管に火を付けた。
      「明日は、あの山を越えた所を流れる川に出て見よう。きっと発見出来そうな気がすrぞ。もし駄
      目だったら、一まず山を降りる事にするか」
     一人語を言いながら野営のテントを張る。一人語は山歩きの寂しさを紛らわすのに役にたち、自問
     自答も声を出して話す事も有った。
      初夏とは云え北海道の山中の夜は冷える。枯れ木を集め焚き火をして飯を炊く。焚き火は飯を
     造ったり、暖を取るのに必要であったが、



      

       第二回   曽祖父は庄屋で土木技師
     
     私の父政市(昭和三十一年没)の出生の地は、岐阜県大垣市から近鉄揖斐線の終着駅の
    揖斐駅を下車して、徒歩で三十分位の所に有る揖斐郡沓井と云う農村で、その一村の一画
    に、今でも遠藤姓を名乗る家が数軒点在している。
    この地沓井に遠藤家が住み着いたのは江戸時代中期で有った。その遠祖は美濃国郡上藩、
    またの名を遠藤藩の支流と云われています。

     藩主の支流の後裔は帰農して、揖斐郡沓井に住み着いて本百姓になった。
    江戸時代村が支配単位で有って、遠藤家は領主の指名で代々沓井村の庄屋を勤め、曽祖父・
    銀右衛門も庄屋で有ったが、百姓の間では信望も厚く人物は傑物で理財に優れ家名を興し、
    庄屋として良く村に尽くした。
      江戸時代の経済の基盤は農耕による稲作で有り、それを造る身分は、政策上「士農工商」
    と武士の次に置かれて、百姓達は先祖伝来の土地にしがみ付いて稲作に励んだ。
     日本の稲作は水稲が主で有るから豊作不作は、その年の気候の良し悪しによって左右され、

 ※沓井村の鎮守         適度の太陽の光と水とが豊かな稔りを約束してくれる。
稲作に必要な水は個人で自由に水源から引く事は出来ない。その水の管理と配分は、村々の庄屋の合議による制約だ有ったから、個人の田に水を引くのも、極められた量しか配分されなかった。

 沓井村の庄屋銀右衛門は、毎年村人の田に配る水の事で悩んでいた。村の百姓は我が田に少しでも多くの水を取り入れる為に、皆が寝静まった頃を見計らっては、約束事を破って水路の堰を切って、我が田に水を流す事も有った。毎晩交代で水当番に立つ百姓に見つけられて、袋叩きに会う者も有った。

      また、日照りの続いた年には、水の奪い合いで、村と村との対立も有って、或る年には村の
    百姓どうしが、鍬やスキなどを手にして、あわや大乱闘になる寸前になった事も有った。
    銀右衛門は度重なる水に関するトラブルを解消する方法は無いものかと幾年も考え続ずけて来
    たが、どうする事も出来なかった。
     或る夏の暑い日、揖斐川の支流である粕川の水かさを見ようと、河川周辺を歩いていると百姓
    が穴を掘っていた。不思議に思った銀右衛門は百姓に声を掛けた。
     「吾作作ではないか、精が出るのお・・」
    百姓は作業の手を休めて、
     「ああ、庄屋さまですか」
    汗を拭きながら顔を上げた。
     「こんな所に穴を掘ってどうするのだ」
    銀右衛門は訝しげに聞いた。
     「昨夜、一人娘が病気で死んだので、此処に墓を造っているのですが、こんなに浅いのに湧水
    が多いので、どうしようかと考えているとこですよ」
     「ほうーあの美人の娘さんか、それは大変気の毒な事だな」
    銀右衛門は百姓の掘った穴を覗き見したが、一瞬、何を思ったのであろう、顔色が変わった。
     「吾作悪いけど穴から上がって、俺に穴の中を良く見させて貰えないか」
    吾作が穴から出ると、銀右衛門はスキをてに穴に入った。穴の深さは腰の高さしかなかったが、
    水は膝の辺り近くまで有った。
     「これだ!永い間考えつかなかった水源は」
    銀右衛門は穴の中で小躍りして叫んだ。
     「庄屋さま、如何されました?」
    狐につままれた様に吾作は聞いた。
     「吾作、ありがとう、これで水不足が解消できるかも知れないぞ」
    銀右衛門が百姓の掘った穴で発見したものは、揖斐川の川床を流れる地下水で、
    所謂伏流水で有る。
     水田の水の配分は河川を流れる表流水で有ったから、地下を流れる水は村々の庄屋に許可
    を得る事も必要なかろうし規制を受けずに採水出来ると考えた。

     それからと云うものは、村の百姓達を手元に毎日の様に、地形の測量が始った。
    この時代は昔四代将軍家綱の時代に、江戸の街の飲料水として、多摩川の水をひいた玉川
    兄弟の時代(1653〜54年)より降った時代であったから、農業土木技術も進んでいた。
     筆者所蔵の古書、天保八年(1837年)丁酉夏六月の年号の有る『算法地方大成・量地之部』
    に依れば、三角法を使っての測量に使用する測量器は、針盤(磁石)と分度規、そうして望遠鏡
    とで出来ている。今で言う「トランシット」で有る、「小方儀」は伊能忠敬(1745〜1818年)が
    使用した測量器と同種の絵が掲載されている。
     だが、その様な特殊な測量器は藩の測量方にしか無いので、測量と云っても玉川上水の玉川
    兄弟がしたと同じ様な原始的な方法で、距離の測定は間竿と水縄巻を使い、高低の測量は夜
    間に提灯の光で目測する、日本で古くから使われた方法であつた。
     絵図も出来上がって、いよいよ着工しようとした矢先であった。毎日の様に庄屋を先頭に、大勢
    の百姓達が提灯を振りかざしての測量をしているのを、いぶかしく見ていた隣村の庄屋に、揖斐
    川の地下水を採水しようと、領主の許可も得ないで工事を興そうとしているのに気付き、
    「恐れ入ります」と、訴人されてしまった。
    
     その結果、銀右衛門は白州に引き出され、奉行様の裁きをを受ける事になった。
    三尺高い所に奉行様、大きな家紋を染め付けた裃姿で威儀を正し、肩を威からかして着座す
    れば銀右衛門は七尺さがった白州に敷かれた荒ムシロの上に、紋付袴で恐れ入ってひれ伏す
    している。
     「エッヘン!」
     威嚇するかの様な咳払いをしたお奉行さま、
     「そこなる者が銀右衛門であるか、そなたは、苗字帯刀を許された庄屋で有り、百姓に水利の
     掟を守る様、率先垂範しなければならない立場なのに、揖斐川の水利を私用しょうとした。
     お上を恐れぬ不届きな行為で有り、末恐ろしい者である。よって謹慎を申し付ける」
     と、裁量が下った。謹慎とは江戸時代、公用以外に外出を禁止した刑罰で有り、武士で有れば
    閉門蟄居と同じで有った。そして、その後庄屋の職を解かれ、出入りの門は青竹で十文字に打ち
    付けられてしまった。

     銀右衛門が考えた伏流水の採水は、徳川幕府の農業政策で不都合で有ったのであろう。
    この庄屋、銀右衛門は私の曽祖父で有り、物語の舞台は江戸末期の事で有る。
    この話の本筋は、故政市の姉の連れあい杉岡令一が天理教の布教師として、東京に来た折に
    筆者に話った遠藤家の先祖の話である。

   
 第三回 素封家・遠藤家の没落

     曽祖父・銀右衛門は三人(甚助、為助、惣三郎)の男をもうけた。
    私の祖父は次男の為助(明治二十八年没)と云ったが、諺に「氏より育ち」と云われる様に、先祖
    や親が如何に立派でも、この兄弟達はあまり出来の良くない人物で有った様で、銀右衛門が苦労
    して築き上げた家名も財産も、守って行く努力もせず、家業にも励まなかった。為助は遊びが上手
    で、囲碁は有段者の腕を持つ程で、百姓で有りながらスキ鍬を持たず、村々に招かれて先生の
    称号を貰って遊び歩いた。
     
     一方、先祖が残した広大な田地に多くの小作人がいたが、小作料の取立ては江戸時代の代官
    並の豊作凶作に関係なく極めた通り容赦なく厳しく取り立てたので、小作人達は遠藤家を呪った。
     父政市は、明治十八年為助の五男二女の四男として沓井村に生まれた。この頃はまだ銀右衛
    門が残した財産と旧家の名残は、まだ有った様で、長女は隣村の安八郡福田の豪農の金森家に
    嫁いだ。次女の 志う は学校の先生をしていたが、豊臣秀吉が築いた墨俣城(一夜城)で知られ
    る、安八郡神戸の旧家杉岡令一に嫁いだ。
    
     山県郡美山町で生まれ、岐阜の利用価値の少ない水田の真ん中に、新幹線の羽島駅を造り、
    物議をかもした政治家大野伴睦が政治家に成り立ての頃は、良い相談相手で有った。
     令一は後に満州(中国東北)に渡り警察官(特高)にをしていたが、大日本帝国の傀儡政権の
    大満州帝国が建立されると、首都新京が有る吉林省の公主嶺市の市長となったが、昭和十七年
    大東亜戦争の戦火が広がると共に日本に帰ってきた。そうして、大日本医療公団総裁となり、更
    に植民地台湾総督府に赴任が予定されていたが、敗戦によりふいになった。

     常に権力側にいて名誉公職しか知らない令一は、戦後、岐阜一区から衆議員に立候補したが、
    不運にも選挙運動中に倒れ選挙を断念した。その結果、田地田畑を手放し、裸一貫となって、天
    理教を信じ布教師となり、無欲の一介の人間としてこの世を去った。
     残された家族の最後の財産とも云える、公主嶺市長を辞めて日本に帰国する際に、市民代表
    から贈られた壷は、大清帝国・乾隆皇帝時代(1735〜1796年在位)に、四十数個造られ、満州
    時代には八個しか残っていなかった内の、溥儀満州皇帝が使用していたと云われる、
    『五彩大内御用壷』と名付けられた名壺と藁葺きの古い家だけが残った。

     沓井村の遠藤家は、銀右衛門が築いたこの地きっての農家で有り地主で有った。
    庄屋門を潜ると大きな敷地と大きな庭と、米倉が幾つも敷地内に建っていた。出来の良くない祖父
    為助の代になって、財産は目に見えて減少して行った。更に為助が死ぬと残された息子達は、親の
    素行の悪さをまともに受け継いだのであろう、争って財産を食い潰して行った。
     
     私の父政市は幼い時に親に死なれたせいか、子供の頃は腕白小僧で、村のガキ大将で有った。
    出来の悪い親でも子を思う気持ちは何処の親も同じようで、この将来の為と十四・五歳頃、大阪の
    呉服屋に丁稚奉公に出されたが、年期も明けない内に帰って来た。
    青年になると親に似て囲碁が好きで、尺八を得意にしていたが家業に精を出さずに遊ぶ事のみに
    没頭した。
     朝から酒を食らい、村の悪の仲間を集めては博打に興じた。米倉から馬車で米を運び出しては、
    大垣に出ては豪遊する事が有った。その様に遊蕩三昧の素行よろしからぬ毎日の生活であった。
     当然ながら田地田畑も他人の手に渡ってしまった。あげくの果てに残った物は借金だけだった。
    借金で首が回らなくなって、二進も三進も行かなく、借金を踏み倒して生まれ故郷を捨て逐電する
    事になった。道楽の限りを尽くして、スッカラカンの丸裸になった政市は、未開の地の北海道に行け
    ば、無尽蔵の砂金が有り、酒好きで無知なアイヌ民族がいて、焼酎と砂金と交換して貰えると、今
    の様に情報網も発達していない明治時代の頃で有ったから、遠い地の事とて、かなり昔の伝説的
    物語を真に受けて、遊びの金ほしさに山師根性が出たのだろう。一発勝負に命を掛ける決心
    をした。
     「北海道に行って、砂金を掘り当てて大金持ちになるぞ!」と、生まれ故郷の沓井の村を逐電した。

 ちなみに、かっての繁栄をj誇った遠藤家の屋敷跡は、その後テレビのコマーシャルでも知られる「日東あられ」の工場が建てられている。
その「日東あられ」も平成三年に、本業を忘れた岡崎社長の株の操作の失敗で、生き詰まり現在会社更生法の適用を受けている。

 第四回 北海道で砂金堀人夫となる

 生まれ故郷を逐電した父政市は、津軽海峡を渡って北海道にたどり着いた。
時代は明治の終わり頃である。
 当時の北海道は、海産物も豊富で昆布やニシンが内地の需要を満たすのに、大量に水揚げされ好
景気の頃で、「春告魚」と云われたニシンは、また「宝の魚」で、この頃は百万トンの水揚げが有り、江
差、松前、余市、美国など、浜ではニシン御殿が建ち、ニシン長者も生まれた程に栄え、毎晩、街の花
柳界では、三味線や太鼓の音に乗って、ヤンシュの歌う賑やかな大漁の歌が聞こえて来た。
 更に、北海道の中部の山と、その河川では大量の砂金が採れ、ゴールドラッシュでも有って、山奥へ
川の上流へと砂金堀の道具を背負って、俄か山師が一かく千金を夢見て行った。北海道の歴史で最
高の景気の良い時代かも知れない。
 
 一かく千金を夢見た山師の政市は、北海道の中部の砂金堀現場に、出面取り(日雇い人夫)として
働く事にした。
 砂金堀技術は、まったく知らない素人で有ったが、それでも何にやかやと仕事は結構有った。政市
に最初から砂金堀の技術を教えてくれる者などいる訳は無い、先輩の砂金堀人夫が作業しているのを
見て技術を盗み取り覚えなければならない。
 砂金堀現場の政市の初めての仕事は、見習いとして雑用的な仕事から始めた。先輩人夫に云われ
るまま忙しく、あれこれと動き回ったが、主な仕事は取り除いた土砂や小石を捨てるのと、砂金が多く
含まれている土砂や岩石などを、ムシロで造ったモッコに天秤棒を通して肩に担ぐ作業で有ったが、内
地にいた時には農作業の経験は有ったが、モッコ担ぎは体にこたえた。慣れない為か肩の皮がむけ、
赤く腫れあがった。それでも砂金堀の技術を身に付けようと、歯を食いしばって頑張り、数年に渡り道内
各地の砂金現場を渡り歩き、砂金堀の技術も少しばかりは身に付いたが、まだ一人前に自前で砂金堀
をする迄にはいかなかった。
 
 砂金堀は誰でも自由に出来るのではない。砂金の採れそうな場所を発見すると、砂金堀の区域の
鉱区主から貰い、鉱山監督局に砂金堀現場の払い下げの申請をして、鉱区主に毎月、人夫一人に付
き極められた料金を払わなければならない。
 そうこうしている内に、この地の砂金の採取量も少なくなったのであろうか、めっきり仕事が減って、砂
金堀人夫の間で、「シベリアに行けばもっと多く砂金が簡単に掘り当てる事が出来る」と云う話が伝わっ
て来た。
 政市は北海道での砂金堀は、古参の砂金堀人夫から見れば、流れ者の新参者で有り、自前の砂
金堀鉱区を持つのは難しいであろう。それなら思い切ってシベリアに行ってみようと思った。

 樺太に渡って”タコ”になる


 北海道の砂金堀に見切りをつけ、「濡れ手に粟」の一かく千金を夢見た父政市は、山師と云えばそれま
でだが、何と無謀にもシベリアに渡って砂金堀をしようと決心したのだ。
 シベリアは、当時ロシア本土の思想犯の流刑地、そして世界の極寒地、世界有数の黄金と白金、更に
ダイアモンドの産地である。

 シベリアに行くには、今も昔も新潟の港より日本海を縦断して、ウラジオストックへの海路が有ったが、当時は簡単に行く事出来なかった。交通手段が今の様に進んでいなかったのと、日露戦争(明治三十七〜三十八年)後でもあって、ロシアの軍事上の理由で行く事は難しかった。

 そこで政市は考えたのは、ロシア大陸に一番近い陸地をつたわつて行くのが得策と考え、宗谷海峡を隔て、北海道の北に続く島、樺太(サハリン)から越境してロシア領に入り、更に狭い間宮海峡を渡れば、目的地シベリア大陸に行けると思った。
 
 そのコースは、今を去る文化五年(一八〇八年)探検家間宮林蔵が初めて日本人として、シベリアの地を踏んだコースでもあり、更に時代は降って昭和十三年に、女優岡田嘉子と演出家杉山良一は、この樺太の国境を越え、ソ連に行った事は有名な事実で有るから、政市の考えは間違いではない。
 樺太は、昭和二十年(一九四五年)まで、北緯五〇度以南は、日本の樺太庁が統治していた。住んでいる民族は先住民族のアイヌ・ギリヤーク・オロッコ・キーリン・ヤクーツなどがいた。外国人ではロシア人が最高で、当時は南北合わせて一万三千人の流罪人がいた。
 樺太はロシアと日本には軍事上重要な地でも有ったから、一般人の国境に近ずく事は出来ないし、
まだ道路が整備されていなかった。日本軍は軍事上、ロシア国境に通ずる、軍事道路網を整備する
必要が有り、軍御用達の請負業者は多くの土工を募集していた。
 この当時この種の重労働に従事していたのは、朝鮮人と中国人が多かったが、稀には食い詰めた訳
有りの日本人労働者もいた。
 
政市は、シベリア大陸に渡るチャンスを得ようと、軍事道路建設現場の土工となって飯場に入ったが、
この当時樺太の鉄道や道路の開発に従事した土工達が入った飯場は、タコ部屋(通称・地獄部屋)と呼
んでいた。タコとは海に棲む、あの八本足のグロテスクな蛸の事で、タコは我が身を食う習慣に似て、我
が身を売って非人間的強制労働に似た過酷に使役されるから、そう呼ばれる様になつた。

 タコの募集する所は当時、東京や大阪といわず、いたるところに有った。賃金は大正時代初期で大抵
一日二円で有ったが、都会の生存競争に負けた者や、何処に行っても使ってくれない前科者が、一日
二円の当時の日雇い労働者の三倍から四倍の高額の賃金と前借金に惚れ込んで、うかうか募集に応
ずる者がいたし、一方では青少年の誘拐や略奪され、脅迫して証文に捺印をされられ、三年三十円、
二十円の借金の為に働かなければならなかった。
 
 請負業者は人手不足の為に、一度雇い入れた者は再び解放しようたはしなかったから、生きて「タコ
部屋」から自由の身で娑婆に出ることは出来なかった。
 飯場はバラック小屋で中に廊下を真中ににして五十帖敷き位の大きな長方形で、汚い畳をひいただけ
で、窓も少なく日の光も入らぬ、薄暗い監獄の様だった。窓には鉄格子が付けられ、監視付きで自由な
行動は出来なかった。食事というよりも餌と云った方が良いような粗末な物で、麦主体の飯と汁一杯と
、タクアン二・三切れ程度で有るから、栄養失調で死ぬ者もいた。
 夜寝る時は長い一本の丸太を枕にして、数人が寝かされて、朝は皆を起こすのに丸太の端をハンマー
で叩くのだから頭に響いて、どんなに寝起きの悪い者でも一たまりもなかった。
 
作業の内容は土運びが主で、厳寒の冬は着用しなかつたであろうが、逃亡を防ぐ目的で赤い腰巻を着
せられ、軌道の上を土運搬車(トロッコ)で一合八勺の土を積んで、極められた往複回数を運ばなければ
ならなかった。土運搬車押しより更に過酷な作業は、鉄橋の橋脚のコンクリート打ちで有った。
 今のようにプラントで配合されコンクリートミキサー車で運ばれて来るのでは無く、手練で有ったので、
橋脚に高い足場を登って、砂と砂利、そしてセメント樽(昔は木の樽に入っていた)を運び、砂とセメントの
混合を空練三回、砂利と水を入れた混合は、本練り三回の作業を練りスコップで練った。作業がきつい
ので、誤魔化しに大きな石や木の根を投げ入れ込む事もあった。
 もしも作業をサボルと凶暴で粗悪な請負業者の現場監督兼逃亡監視の棒頭は、鞭を振るい頭に拳骨
を加え、時にはツルハシを脳天に打ち込んだ。逃亡者を石に下に埋める事を有った。
こんな過酷な重労働に使われるとも知らず飯場入りしたが、何としてもシベリアに渡りたい一心で、チャ
ンスを狙った。

 目前に見える、あの国境線を一歩でも踏み入れば、自由の身でロシア領に入った事になるのだ。
 そのチャンスを覗っていた。だが、運悪く国境付近で、日本軍とロシア軍との軍事的小競り合いが勃発
し、その野望を断念せざるを得なかった。これ以上いても希望が無いと思って、タコ部屋から脱出を決行
する決心をした。

 タコ部屋 死の脱走


 凍て付く星の綺麗な或る夜、タコ部屋から死の脱走を決行した。
日もたっぷりと暮れて過酷な一日の作業も終わり、夜食も済んで薄汚れたセンベイ布団に丸まって仲間
達は、死んだように寝入っている。
 「今夜こそは脱走を決行するぞ!」、身の回りの物は持って行く訳にはいかないが、腹巻には命の次に
大事な銭を入れている。そっと大部屋を抜け出し便所に行った。便所の小窓にも鉄格子が付けられてい
る。逃げる道は床に明けられている排便口しか無い、凍り付いた肥溜めに潜り、汲み取り口から逃亡し
た。捕まればリンチで殺されるに違いないと、星空を頼りに一目散に逃げた。昼間は森の奥深くに隠れ、
夜になると再び大泊の街を目差して、星の光に輝く白雪の広野を脱兎の如く走った。ただ雪を口に入れ
るだけで飲まず食わずで、何日間走り、そうして隠れたであろう、無我が夢中で逃走して、大泊に着いた
時は倒れる寸前であつた。

 タコ部屋を逃げきって大泊でしばらくの間は身を忍ばせたが、ほとぼりの醒めた頃、タコの労働契約の
時の前借金を持って逃げたの来たので、それを資金に老いぼれ馬と馬車を手に入れ、古鉄回収兼運搬
業になりすました。
 この当時の古鉄回収は朝鮮人が多く、内地でもそうで有った様に、お金を払って買うよりも、拾う、貰う
盗む、のが商売で、時には子供に飴を与えて釜や鍋などを持ち出させていた。
或る日、何時もの様に手拭で頬かぶりをして、人に顔を見られない様に注意深く、今日も古鉄回収をして
回った。
 
 その途中の森の繁みの中で、偶然にもロシア軍が日本軍との戦いに敗走して行く時に、置き去りにして
行った大砲を見つけた。持ち帰り銭にしようと思い、大砲を馬に挽かせたら怪しまれるので、荷馬車に乗
せ様と
一人で数時間掛けたが、到底一人で荷馬車に乗せる事は出来ずに諦めた。その後分かった事だが、誰
かの手によって、その大砲は豊原の官幣大社樺太神社に奉納されて、正午の時刻を知らせる号砲として
使われる様になつたと云う。

 しばらく大泊の街で古鉄回集業をしていたが、やっぱり日本の地が恋しいのか、苦しくも苦い思い出の地
、樺太にも別れを告げ、大泊の港から船で北海道に帰る事にした。だんだん遠くになって行く樺太の島影
に、シベリアに渡れなかった挫折感と、日本本土に無事帰れる安堵感とが交差して複雑な想いで有った。
 政市を乗せた船は一路、北海道を目差して波しぶきを立てながら進んで行く。
なぜ、タコ部屋から死の脱走後、すぐ北海道に逃げ帰らずに大泊にいたかはの理由は分からない。恐らく
樺太で小金を溜めて帰りたかったのであろう。
 この話は断片的に、子供達に話した事柄で有ったが、何故か生まれ故郷の話はしたがらなかった。

        第二回はこれにてお終い。

                             ※予告・第三回は再び砂金堀人夫となり「砂金王」となる。

       第一回  誉れ高い出征兵士の家

 ”十二月八日未明、南太平洋上に於て戦闘
 状態に入れり”
 
  昭和十六年(一九四一年)十二月八日、
 ラジオから流れる臨時ニュ-スは、アメリカ に対して 宣戦布告で大東亜戦争(太平洋戦争)に突入した。こ の時、私は八歳であつたが事の重大な事は充分に感 じとつた。
 
連日ラジオの臨時ニュースは、大本営発表による連戦 連勝の破竹の勢いの皇軍の勝利のニュースを流した。毎日の生活が濃緑の軍事色に塗られた。世の中は戦勝ムードで国民は浮かれ立っているかに見えたが、我が家の空気はなんとなく沈んで暗く、灰色になったかの様だった。
 
  我が家は貧乏人の子沢山の例えではないが七人の子沢山であった。この時代富国強兵の国策として「子は宝、生めよ増やせよ」の時代だから、我が家の七人兄姉は差たる珍しい事ではなかった。ちなみに、近所の行きつけの銭湯の一家などは、戦時には余り奨励されなかつた、女ばかり一ダースも産んで育て、これが街でも評判の美人揃いであった。その産みの親は誠にあっぱれ軍国の母として表彰された。
我が家の女一人男六人は、七福神と世間で羨しがられた、今日では考えられない様な子沢山を産み育てた、私の母は初等教育しか授けていなかった。
 

     
   
  当時は徴兵制度が施行されていて、長男と次男は既に兵隊に取られて、北海道旭川の第七師団に
    歩兵として入隊していたが、開戦に伴い我が国の北の守りに北方領土の千島列島と国土防衛部隊に
    配属された。
    
     大東亜戦争突入後の世の中は戦時体制となり、国民生活も平時とは変わった緊張した毎日であっ
    た。街々の家の壁や電柱には、戦時の愛国心と戦意の高揚と、銃後の守りを促した語句の標語が貼
    られていた。
     ”欲しがりません勝つまでは”
     日常生活の国民の衣食は、軍事優先であつたので、質素と節約が奨励され、女性の服装は祝儀不
    祝儀に関係なく、モンペ姿に防空頭巾を背負った。男は国防色の国民服に戦闘帽に似た帽子とされ、
    贅沢は敵と半強制された。
     開戦初期は、まだ多少物資があつたが、それでも学校に持って行く昼食の弁当は、梅干一個が入っ
    た”日の丸弁当”であった。学校の一日の始まりは校門を入ると、教育勅語を安置した「奉安殿」には
    怖い配属将校が立つている、深々と最敬礼をして通過して古びた木造校舎に入った。
   
     教育は 国威掲揚を主体とした学科が優先で、歴史は特に重要である。その主な内容は、「日本は
    万世一系の天皇が統治する神国で、国難の時には必ず神風が吹き勝利に導くであろう」と、国史を通
    じ明治憲法を基本に、徹底的に叩きこまれ、”天皇は現人神”と教えられた。
    授業は軍隊式で、ある時は個人のミスも連帯責任で、子供の体だぶっ飛ぶ強烈なビンタが頬に飛んで
    来た。それでも奥歯を食いしばって、痛いのを我慢して泣く者は一人もいなかった。また、太い節だらけ
    の竹の棒で叩かれる事は日常茶飯事であった。更に机に向かって自分で額をぶつける”自爆”と言う
    体罰を自らさせられもした。

     学校のグランドは畑に耕されて、カボチャや芋等の野菜が植えられ、上級生は畑仕事も授業の一環
    とされ、汲み取り便所の人糞も大事な肥料として木樽に入れて担がされた。
    体育の時間は配属将校に依る木刀と竹槍による軍事教練が行われ、また、空襲に備え自分の”蛸壺”
    と称れられる一人用の素掘りの退避用の防空壕を掘らされた。掘ると蝦夷鹿の骨がよく出て来た。

戦争も激戦長期化の模様となり、我が家ではすでに二人の働き手が兵隊に採られていたが、それでもまだ徴兵検査も済んだ適格者の二人を持つ我が家に、何時召集令状が来るか分からない。母は何時もビクビクしながら毎日を過ごしていたのが気の毒に見えた。遂に三番目の明兄さんに赤紙が来た。決められた日時に所定の師団に入営しなければならない。入隊まで数日しかない、次の日から母と姉は街角に立って、「千人針にご協力下さい」 と、通りすがりの若い女性に、銃弾除けの呪いの腹巻に使う晒しの布に赤い糸で玉結びの刺繍をして貰うのである。
「千人針に御協力下さい」と、通りすがりの女性に、銃弾除けの呪いの腹巻に使う晒しの布に

    赤い糸で玉結びの刺繍をして貰うのである。
    
      ※ 写真説明 (昭和18年五男五郎の横浜海兵団入営前の記念写真) 上段3人の右より五男五郎・長女千代子・
           四男明
下段右より長男為治・六男幹一・七男亀松(本人)・三男正七
     
     戦争も激戦長期化の模様となり、我が家ではすでに二人の働き手が兵隊に採られていたが、それ
    でもまだ徴兵検査も済んだ適格者の二人を持つ我が家に、何時召集令状が来るか分からない。母は
    何もビクビクしながら毎日を過ごしていたのが気の毒に見えた。
    遂に三番目の明兄さんに赤紙が来た。決められた日時に所定の師団に入営しなければならない。
    入隊まで数日しかない、次の日から母と姉は街角に立って、
     「千人針にご協力下さい」 
    と、通りすがりの若い女性に、銃弾除けの呪いの腹巻に使う晒しの布に赤い糸で玉結びの刺繍をして
    貰うのである。
    


    軍国主義の片棒を担ぐ見勝手な人達は、
    ”お国の為に天皇陛下に一命を捧げて死んで帰れよ!!”と言うが、誰が我が子に死ねというだろうか。
     「死ぬんじゃないぞ、きっと無事で帰って来るんだよ」
    と母は兄に言った。
     「ウン、分かっているよ」
    と言うかの様に首を縦に振った。しかし、この様な非国民的な会話は、他人様に聞かれない様に”壁に
    耳有り障子に目有り”と戦時防牒標語に有る通り、誰に密告されるか知れないし、特高(特別高等警察)
    の目が光っている。
     いよいよ出発の朝、出征兵士の為に特別支給された日本酒が茶碗に注がれ、焼きスルメと伴にお
    盆に載せられ目出度い門出と別れの杯として、見送りに来てくれた隣組の人達や会社の同僚や上司
    に配われた。隣組の女性達はモンペ姿に白のエプロンに、日本国防婦人会の襷を掛け、手に手に日の
    丸の小旗を持っている。私のクラスの全員が先生に連れられて、小旗を持って見送りに来てくれた。
    「お国の為に戦って参ります!!」
    国民服に国民帽、寄せ書きの日の丸を肩から襷掛けした、凛々しい格好の兄は、元気良く見送りの人
    達に挙手の敬礼をした。
     「万歳!!万歳!!」
    歓呼の声と手に手に振られる小旗の波に送られる兄の姿に、母は人前では涙を見せなかった。

     この三番目の兄の入隊で、我が家の玄関に「誉の家」の表札が三枚貼られた。三人の働き手を兵隊
    に採られた我が家は、急に寂しくなって父母と兄二人、姉一人と兄嫁と私の七人家族となったが、何か
    につけ隣組の人達が励まし家事の手伝いに来てくれた。また、学校の季節の休みには女学校の生徒
    さんも多く手伝いに来てくれた。
     父は相変わらず釧路に移って来てからも、”砂金王”と言われた昔の事が忘れられずに、山奥に砂金
    を求めてさまよい家を空ける事が多かった。
 
     その様な櫛の歯が抜けた寂しい日々に、ある日突然に我が家に思っても居なかった不吉なとも言え
    る出来事がやって来た。五番目の兄の五郎が青年学校の軍事担当教員を連れて来て、
    「海軍に志願したいから許可して欲しい」と言って来た。
    それを聞いた両親は驚いた事は言うまでもない。赤紙による徴兵ならまだしも、自分から進んで戦場に
    死にに行く事はなかろう。海軍は陸軍より戦死の確率は高いのだ。
    「それにしても、お国為とは言え、もう既に三人を出しているではないか」と父は言う。
    父は美濃岐阜の江戸時代の庄屋を勤めた事のある豪農で育った。当時としては、まあまあの教育
    を受けていて、進歩的な考えの人だったのか、きっぱり断った。再三再四しっこく先生が説得に来た。
    それでも父は応じなかった。そうして時折「この戦争は勝てないぞ」と家族に話した。

     しかし、海の好きな五番目の兄は海軍に憧れ、お国の為と遂に父が砂金採りに家を留守にした
    隙に母を説きふし、騙すよう様な格好で志願兵の願書に承認の印を押してしまった。
    山から帰った父は、その事を知ると、母と兄とそうして先生に激怒したが願書は既に受理され、後の
    祭りであった。両親の不合格になってほしいと言う願いも虚しく合格してしまった。
    入隊先は横須賀海軍基地である。入隊時の持参する金は決められていたが、何かの時に必要だろう
    と、万年筆の中身を抜き百円紙幣を丸めて隠し、それを持たせた。これで我が家から四人目の出征兵
    士がでた。長男為治は北方領土の千島列島に歩兵の兵卒として北の守りに従事し、次男正七は北海
    道国土防衛として残った。そうして三男明兄は工兵隊として酷寒の地、樺太(サハリン)にいた。

     この時期、昭和十八年(1943)頃になると、アッツ島の玉砕など戦況も思わしくなく、街角のポスター
    も”一億一心火の玉だ” ”一億総玉砕”などと書かれていた。
    街のあちこちで白木の箱に入って凱旋して来る兵士が目立つ様に成って来た。母は朝な夕なに影膳
    を作り、戦場にいる息子達の無事を祈った。

     国民の日常生活は極度に物不足にみまわれ主食の米は言うに及ばず、酒、砂糖、タバコ等配給品
    も配われなくなった。そんな耐久生活をしいられていた。或る日、連絡なしに突然、
    「帰って来たぞ!!」
     と、玄関先に水兵姿の五郎兄が帰って来た。家族一同ビックリした事は言うまでもない。この時期に
    休暇を貰って帰郷出来るのは、到底不可能なのに、まして横須賀基地の海軍が、北海道まで休暇を
    出すには、それなりの理由が有った。その理由は特攻隊などの出撃すれば生きて帰れないと分かっ
    ている場合に、この世と家族と親しい人達との別れに、特に認められたのであろうが、それも初期の
    事だつた。
     そう言えば休暇で帰って来る直前に、熱海温泉に乗組員全員で行ったと写真を送って来た。
    父は其の時,「兵隊にこんな待遇をするのは変だぞ」と言った。
    五郎兄はこのような特別待遇の意図は勿論承知していたのであろう、
     「今度出撃したら生きて帰れないかも知れないよ」
    と、母に話した。何処に行くかや特殊任務の内容は軍事機密として話さなかった。
    



 その五郎兄は掃海艇に乗っていた。旧日本海軍の掃海艇は磁気式機雷に反応しない様に、木造
船で通常300頓〜400頓程度の小型船であり、敵の敷設艦が海の交通路を遮断し物資の供給を絶
ち、船舶を撃沈させるのが目的で、施設した機械水雷をカッター付きのワイヤーを引きながら、水雷を
繋ぐワイヤーを切り、浮き上がった水雷を機銃で爆発させる、海軍きっての危険度の高い任務である。

 昭和19年(1944年)、サイパン島の玉砕、東条内閣辞職と負け戦の中、内地より遠く離れた私の住
んでいる北海道釧路の地にも、けたたましいく空襲警報のサイレンが鳴り響き、艦載機が飛来し機銃
掃射をあびせかけて行く。防空壕に退避し身を丸め敵機の飛び去るのをのをじっと待つ。
 「怖いよ、怖いよ」
と言う私に、
「敵に聞こえるから静かにしろ!!」
と、本気で母は言った。
 それからは毎夜防空壕の中で、母と一緒に石油ランプを持ち込んで寝る様になつた。
そんな或る日、五郎兄の戦死の公報が届いた。この来るべくして来た訃報に家族一同は,深く悲し
みに打ちししがれた。五郎兄の戦死した処は、旧日本軍の占領地区(南洋諸島)で、赤道近くに浮か
ぶ、インドネシャ諸島の一つであるモロタイ島近くに海上であった。
 日本軍でこれ等の島々から物資を船で運び出すのを阻止する為に、アメリカ軍で施設した機雷を
処理していたが、処理作業に失敗し浮遊機雷に接触して、掃海艇と共に海の藻屑と消えたのである。

 白木の箱に入った英霊が帰って来たのは昭和19年も終わりの頃でした。白木の箱には生前残し
て置いた遺髪と、切った爪が紙に包まれて入っていた。
 母は兄の戦死を信じきれずに毎日帰りを待っていた。風が玄関の戸を叩けば、帰って来たかと見に
行った。
 誰から聴いて来たのか、行方不明者などの生死を知る占いに、自分の髪の毛に穴明きの五銭を
結び、湯飲み茶碗の中に手でぶら下げ垂らして、五銭玉が揺れて、茶碗の縁に当てって「チャリン
チャリン」と鳴ったら、何処かに生きていると云う占いを、家族が寝静まった夜中に、
 「死ぬなよ、生きていれよ」
と、つぶやいきながら父に隠れてしていた。その占いに飽き足らずに、よく当たると評判の”いたこ”
に兄の霊魂を招き、口寄せをしてもらった。無知とも幼稚とも云える迷信にのめり込んだのも、子供
を亡くした親として藁をも掴みたい想いで有ったに違いない。

 昭和二十年(1945年)硫黄島の玉砕、沖縄本土決戦の日本軍の全滅と幾度重なる負け戦に、広島
長崎の特殊爆弾(原子爆弾)投下は、日本の決定的な敗戦が目の前迫った。
 夏八月、北海道の短い学校の夏休みに、父に連れられて帯広の親戚に遊びに行っていた。北国の
夏にしては、何時の年より暑い日が続いた。三日前からラジオ放送は中断されていた。
 「日本は負けたな?」
 父はそう言った。
 八月十五日、この日も朝から暑い太陽の光がさんさんと降っていた。突然のラジオ放送は
”玉音放送”を流した。大人の顔は皆緊張し引きつっていた。子供の私は”玉音”内容は難しかったが、
周囲の雰囲気で日本が負けた事を知った。
 
 学校の授業は数日前まで習った国語と歴史の教科書に、軍国主義と天皇に関する部分に墨で塗り
潰す作業がなされ、教科書の半分近くは真っ黒く塗られた。
 釧路の街にも進駐軍がやって来た、多くのデマが実しやかに流れたが心配する様な事は無かった。
ジープに乗って来るアメリカ兵の物珍しさより、チョコレートとチュウインガムをねだる英語を子供達は
覚えた。アメリカ軍を相手にする”パンパン”と言われる娼婦も出現した。

 そんな頃、長男と次男が相次いで、支給された軍の物資・軍毛布等を背負って元気で復員して来た。
勿論、母が生きていると信じていた五郎兄は帰って来るはずはなく、日本の敗戦で五郎兄の戦死を
信じざるを得なかったのか、それからは占い事はしなくなった。
 終戦から三年目、三男明兄がシベリア抑留から復員して来た。極寒の凍土の地に食べ物も碌に与
えらせず、防寒服も無く暖房も無い、バラック小屋の収容所で、藁の中に着のみ着のままで寝る毎日
に、栄養失調と寒さで、多くの戦友が死んで行った。戦友達は林森の木材の切り出し作業が主で、兄
は工兵隊なので材木伐採の運び出しの林道造りに酷使され、栄養失調寸前に弱り切って復員して
来た兄は、
 「ロシアと再び戦うなら喜んで戦うぞ!!」
 と、恨みを込めて、そう言った。
 だがしかし、時は移り平成の世となり、三人の兄達は既にリタイヤしている。そんな平和な昨今、
ゴルバチョフ・ソ連大統領は、シベリア抑留死亡者名簿を持って来日した。

 また、我が国は湾岸戦争後の国際貢献として、ペルシャ湾に四艘の掃海艇と二艘の支援艦を送っ
た。旧日本海軍の掃海技術は世界一と言われ、朝鮮戦争後にも出動している。そんな掃海艇の任務
は戦時も平時も、機雷処理作業は危険度の高さは同じである。この四艘の掃海艇は、私の女房の弟
の七人兄弟の四番、与四郎が勤める日本鋼管系の横浜ヨットで建造された木造の優れ者の船で
ある。戦時に掃海艇で兄は戦死し、平時に女房の弟の会社でペルシャ湾派遣の掃海艇を造ったとは
、奇縁奇遇である。
                                         
 第一回目は此処にて終わりです。