Prologue Prologue 出発 私が旅について語るとき、まず「下痢」の話を除くわけにはいけない。
Chapter.1 「下痢防止大作戦」 上海 それから2年後の7月末日、また私は上海行きの船に乗っていた。
Chapter.2 「香港物語」 香港 結局ビザの申請が許可されたのは、香港に入って、1週間後だった。
Chapter.3 「中国脱出」 南寧 南寧についたのは、次の日の朝7時過ぎであった。
Chapter.4 「ベトナム突入」 ハノイ 朝11時、鉄橋をガタガタ渡る音で私は目が覚めた。
Chapter.5 「ガキパワー炸裂」 ホアルー ベトナムには、2つの桂林がある。
Chapter.6 「龍が降り立つ海」 ハイフォン この頃、いつものやつが始まった。下痢である。
Chapter.7 「詐欺バス」 フエ 女の一人旅は、「早稲田か、立命だって・・」
Chapter.8 「廃墟の町」 フエダナン ハイバァン峠を越えるとベトナムの気候、そして、人の気質が変わるという。
Chapter.9 「くそ田舎」 ホイアン ホイアン、ここはただのど田舎である。
Chapter.10 「食中毒」 ニャチャン 私の頭の中は、もはや泳ぐことだけだった。
Chapter.11 肝炎疑惑 ホーチミン いったい私は何の病気なんだ。 
Chapter.12 「Being On The Road」 帰路 人は、様々な思いをザックに詰めて、旅に出る。
Prologue

私が、旅について語るとき、まず「下痢」の話を除くわけにはいけない。 

私はこれまで4度アジアを旅しているがいつも、「下痢やせ」して帰ってくるのである。
ひどいときで6キロほど減っているのだからたまったものではない。
入国して最初に覚える言葉は「トイレはどこですか」だ。 

ところでアジアの紙は(一部手で洗うところもあるが)硬く、粗悪なものが多い。
そのため一日一回のトイレなら良いが、数回、数十回となってくると尻が切れそうに痛い。
最後の方になると拭くのやめようかと考えてしまう始末である。
日本のトイレットペーパーは必須である。全く情けない話である。 

私が旅した国は、中国、ベトナム、韓国、タイであるが、
中国の人には大変失礼だが私のお腹と最も相性の悪い国が中国である。 

高校時代、「空海記念碑建立10周年記念交流」という行事に学校代表で参加させてもらったが、
わずか、全行程7日の4日目、夕食の水餃子をたらふく食べ
次の日から現地の観光、交流そっちのけでトイレと共同の生活を強いられた。
結局治ったのは帰国後2週間以上たっていた。 
 
Asian Highway1 

大学1年の時、友人とともに再び中国へ旅行に行くこととなった。 

北京、杭州、上海と回ったのだが幸い北京までは無事であった。
今回は大丈夫かと思いきや、杭州への移動日のから「下痢」が始まってしまった。
北京駅のトイレは外国人用だといってもそれほどきれいではなく、
粗末なそれに、個室によっては扉が壊れていたり、無かったりするのである。
それでも「下痢」の力には勝てず、泣きそうになりながら何度もお世話になる羽目になってしまった。
 

中国の経済は、私が語るまでもなく急成長している。
トイレにおいても、水洗トイレになっているところも増えてきた。
しかしながら一部の中国人の中には水洗トイレを知らない者もいるらしい。
杭州といえば、日本の熱海といった景勝地として、多くの人に愛されている町である。
この杭州に泊まったときのことだ。まだ治らない腹を押さえながら早朝からトイレに向かった。
 

ここのトイレは、北京駅のトイレのように、扉なしのボットンとは違って、扉付きタイル張りの水洗トイレである。
そのころの私は紙の芯のところからひもを通して首からぶら下げるというほんとに病人のような生活をしていた。
しかも、トイレから出てきたオッサンと入れ替わりで中に入ると、彼は流してないのである。
拭いた形跡もなく、私は追いかけていって、しばこうかと思ったがその元気はなかった。
このときもう二度と中国には来るまいと心に誓った。


Chapter.1 「下痢防止大作戦」
それから2年後の7月末日、また私は上海行きの船に乗っていた。 

しかし今回は、とても慎重だった。
「下痢防止大作戦」と題する作戦により、まず、船内の食事はとらず持ち込んだパンで済ました。
幸い前日まで試験で寝不足だった上に、コンパで二日酔い気味だったせいもあって食欲はほとんどなかった。
この日のために、ため込んでいたバイトの疲労によって、船での3日間はほとんど寝てばかりで、ぼーっとして過ごした。
とにかく金と無駄な体力、そして下痢を避け船は上海へと到着した。
 

ここ数年の上海の発展スピードは凄まじい。
2年前に来たときよりも、目新しい高層ビルや、百貨店が乱立し、伊勢丹はおろか、ジャスコまであって
販売スペース、そのシステム自体は日本とほとんど変わらない。
確かに、上海っ子たちの数はそれほど見受けられなかったが、それなりに利用しているようである。

我々日本人にとっては、破格の値段で日本のそれと変わらない商品を買うことができる。
私はここで、「鳥の唐揚げ」などのお総菜を買ったが、なかなかおいしかった。
上海で生活は、まさにインスタントの生活である。
 

今回ここで下痢になるわけには行かないという妙な使命感を胸に
私は「とりあえず香港まで下れば、下痢もそんなにしないだろう」と考えた。
見慣れた街上海の観光もろくにすることなく、開通したばかりの日本円で1万円以上もする
上海・九龍直通特急の切符を「ホンマにこの値段なのか、ぼられてるのと違うか」と疑いながら、
結局躊躇しながら買うことにした。
このままここにいては、「インスタント生活」で口内炎ができそうだったからである。
 

なんとこの列車は、香港の九龍駅まで直通しており、冷房がよくきいた、中国にしては最新の車両で、
車掌のお姉さんもとても魅力的だ。しばしば車内点検にくるとき見とれてしまった。
私はしばし下痢のことは忘れて一気に香港へ下った。


Chapter.2 「香港物語」
香港。つい先月中国に返還されたばかりのこの場所は、何らそれ以前と変わっていないように見える。
街には、日本のどこかとあまり変わらない雰囲気を持ちながら、実に様々な人々が生活している。
物価は安いとはいえない。我々は、宿を貧乏旅行者の間では有名な「重慶大夏(チョンキンマンション)」にとることにした。
マンションといってもただの雑居ビルである。ここの宿人はまさに人種の坩堝である。
そんな中で特に目立つのは、インド人だろう。1階にはインド料理のレストランもあり、繁盛している。
 

私たちは、客引きの怪しい香港学生のおねえさんがしきりに誘うので、
ついていくと、窓がない簡素な二段ベッドの部屋に通された。70香港ドル(約1120円)だという。
クーラーがついてあったので、何とか我慢できるだろうとその部屋に決めた。
ところがそのクーラーは音だけでかくて、いっこうに涼しくなる様子を見せないばかりか、だんだん暑くなってきた。
室内の温度はゆうに40度を超え外の方が涼しいという状態になってしまった。
もちろん、次の日には宿を変わった。
 

かつてここを訪れた沢木耕太郎氏は、香港を魅力的な街だと「深夜特急」の中で述べているが、
今私たちが出あう香港は、物価が高く、カネにがめつい香港人だけである。
次の宿は、シングル部屋なのに一人90香港ドルもふんだくり、一人は、エキストラベッドと称した「床寝」であった。
そうはいってもこれは安い方の部類に属するため私の連れは我慢して床に布団を敷いてトイレの前で寝ていた。
私たちは、すでに香港が貧乏旅行者向きではないような気がした。
今では、日々の食事さえも結構な値段なのである。むしろ、マクドナルドやケッタッキーといった方が安いのだ。
 
 
  ここでも、そういった店の世話になったのは言うまでもない。
情けないことに、吉野屋で食べた「牛丼セット」が旨くて、久しぶりの米の飯に思わず目頭が熱くなってしまった。
上海の宿で同室にいた常盤貴子のマネージャーをしていたといううさんくさい、バックパッカーに
「中華料理を食べに行くなら、買い物で香港に来ている女子大生を捕まえて、4人ぐらいで行くと安くておいしいよ」
と教えてもらっていたが、カネのない我々は、そんな余裕はなかった。
例によって観光はほとんどしなかったが、唯一、頭上を飛行機が飛んでいくあの景色を一度自分の目で見たくて、
九龍城跡にいったぐらいである。
あの悪の巣窟とまでいわれた「九龍城」は今はもう跡形もなく、立派な公園に変わっていた。
 

世界一離着陸が難しいといわれる啓徳空港に向けて、
3分に一機の割合で飛行機が突如として現れ、頭上をかすめていく迫力は圧巻である。
あほみたいに、頭上をかすめていく飛行機とのツーショットを撮りまくった。香港の思い出はそれだけである。
では観光も、ショッピングも、グルメもできない我々が香港にきたのはなぜか。
それは、ベトナムの陸路ビザをとるためだ。
ベトナムはやっかいなことにビザが必要なばかりか、その出入国地点も明記していなければ入国できない。
これが結構面倒な作業で、旅行代理店によっては、空路のビザしか扱っていないところもあり、
しかも、料金もばかにならないため香港の街をうろうろ探し回らなければならなかったのだ。
 

結局ビザの申請が許可されたのは、香港に入って、1週間後だった。 

我々は、次の日の朝、香港と中国本土との国境とをつなぐ羅湖までの列車に乗った。
途中建設中のビルをたくさん見る。日曜の朝だというのに電車の中は人々でいっぱいだ。
香港側を出境すればそこは、深川(シンセン)となる。
中国への再入国へは、あっという間に終わり、何の苦労もなく目の前の、広州行きの高速バスに乗り込む。
深川は発達していると言っても少し走ればまだまだ原っぱが多く、これからの発展が期待される。
美人の車掌さんが乗った高速バスは、2時間もかからないうちに珠江デルタに開けた南の玄関口である広州に到着する


Chapter.3 「中国脱出」
広州は、テレビでもよく見る「盲流」と呼ばれる人々が多く、治安がとても悪い。
広州駅付近は、それらの人々で埋め尽くされる。
私達は、彼らが皆私の荷物をねらっているような気がして、どうしても今日中に広州を脱出したくなってしまった。
しかし、切符売り場は長蛇の列で外国人の私が同じように並んだからといって特別に売ってくれそうな雰囲気ではなかった。
目の前には、おびただしい数の盲流の人々。
背に腹は代えられない。
仕方なく、売場の横にある小屋のような「ダフ屋」で飯を食ってた西田敏行似の親父に、頼んで、
多額にふっかけられた「南寧」行きの切符を購入。
午後2時過ぎベトナム国境の起点となる南寧まで向かう列車に乗り込むことができた。
 

一般に中国の列車は、硬座、軟座、硬臥、軟臥の4つに分かれる。
一部の強者は(私はこの人たちを馬鹿と思うが)尻が痛く、治安が悪い硬座に、人民の目線から旅行したいと乗り込むが、
旅行者の多くは軟座以降のものを購入する。
中国の列車はスピードが遅く、時間がかかるため、この寝台車である硬臥の切符はとりにくい。
しかも車種によっては大変古いものから、香港の時乗ったとても快適なエアコン車までピンからキリまである。
 

今回、南寧まで乗ったのはキリの方だった。
寝台は、三段ベッドでどの段にもそれなりのメリットはある。
下段は、広く、荷物もベッドの下に置け、景色を見たり、トイレにも行きやすいが、よく他人に座られ、
人の往来によってしばしば眠りが妨げられる。たまに盗難にあったりすることもある。
中段は、一番狭く、ひたすら横になるだけの席である。
上段は、下段ほどの広さはないが、トイレや、景色を見るのは不便な席である。落ちたら確実に死ぬ。
今回連れが下段、私が上段だった。
連れは、この下段のデメリットをすべて受けたばかりか、ディーゼル車のため、
すすが窓から入ってくるという最悪の状態だったらしく、くたくたで、すすのせいでのどの調子もおかしかった。
私は、騒音のひどい古い扇風機を真横に見ながら、蒸し返すような暑さの中ひたすら寝ていた。
 

南寧についたのは、次の日の朝7時過ぎであった。
今度は、ベトナム国境まで向かう切符を買う。
運がいいことに、明日、ハノイまで直行する中国、ベトナム間の国際列車が南寧に停車するという。
少々高いがこれに乗ってみることにした。

南寧はこれといった見所はない。ここで今回の旅行始まって初めて中国で飯を食った。
バイキング式で、いろいろな料理を皿に盛ってくれるのだがどれも脂っこく、
2年前の中国の悪夢が頭のすみをかすめたが、明日の夜にはベトナムに入っている、どうにかなるさという囁きが聞こえた。
その上、私のお腹は、もうすっかりファーストフードとパンに飽きてしまったていたため、
その脂っこい料理がすごく旨そうに見えた。実際なかなか旨かった。
しかし、次の日、胃がもたれてしまって何も食べる気がなくなってしまった。
 

ハノイ行きの列車に乗ったのは、その日の午後8時過ぎのことだった。

ここ南寧からベトナム国境まではわずか220キロである。
 

この国際列車は主に越僑と言えばいいのだろうか、中国や香港で成功したベトナム人が多く乗り込んでいる。
彼らは、びしっとしたスーツを着、大きな段ボールやバッグにおみやげを詰め、とてもうれしそうだ。
もちろん旅行者も若干ながら乗っているが、数えられるほどである。
そのため、硬臥の切符を買ったのに、あこがれの軟臥コンパートメントの部屋を使わせてもらうことができた。
とても快適だが、ベトナムと中国との国境の町、ドンダンについたのはやっと寝付いた、午前3時だった。
 

中国出国は列車の中ですぐ終わった。
いよいよ入国手続きである。

いろいろな本に、ここのイミグレーションの悪行が載っていたので、非常に緊張していたが、
何事もなく、荷物検査もあっと言う間に終わってしまい、拍子抜けした私に、
係官たちは、とても気さくにいろいろとしゃべりかけてきた。ここで我々はベトナム側の列車に乗り込む。
またもやコンパートメント列車と聞いてさっそうと乗り込んだが、
さっきまでの中国のコンパートメント車両とは雲泥の差である。
扇風機が天井に4つもぶら下がっており、虫の死骸がいっぱい溜まった薄暗い蛍光灯。そして、護送車のような車窓。
ベッドは、一応シーツはあるがあまりきれいとはいえない。
スピーカーからは、妙なベトナム歌謡が割れんばかりに流れている。同じ社会主義国でもこの違いである。
日本の蚊取り線香で車内の蚊がバタバタ死んでいく中、私は眠りについた。

Chapter.4 「ベトナム突入」
朝11時、鉄橋をガタガタ渡る音で私は目が覚めた。
鉄格子のような窓をどうにかこじ開け、外を見ると、
黄土色の川とともに、「ノン」と呼ばれる、すけ笠をかぶった老人が目に入った。

いよいよベトナムにきたのだ。
 

昨夏以来、心のどこかでもう一度来たいと思っていたこの国にいま、いるのだ。
私は、胸に何とも言えない、高鳴りを感じ始めていた。
列車はすでにハノイ市内に入っている。
車窓からは、普段と変わらない人々の生活が見えるがすべてが懐かしくもあり、新鮮でもある。
やがて、ベトナムの首都、ハノイ駅に着く。
とりあえず、シクロと呼ばれる人力自転車の運ちゃんたちの客引き攻撃をかわしながら、
車中で知り合った日本人の女の子二人とタクシーをシェアして、安宿があると言われるホアンキエム湖北西側に向かう。
 

到着して早速、タクシーはメーターにもかかわらず、ドライバーは、ぼってきた。
私は、「きたきた」と内心うれしくなった。ベトナムでは日常茶飯事の料金交渉のトラブル。
そのカネに対する執着心は、香港人以上である。
この手のトラブルは昨年来たとき嫌というほど味わっている。もう慣れっこである。
少し含み笑いをしながら、待っていました、とばかり、大声で喧嘩を始めた。
それまでのストレスも溜まっていたせいもあって、稚拙な英単語と関西弁が、
木々の緑があふれ、市民の憩いの場であるホアンキエム湖に響きわたる。
結局運転手がおれたが連れと、女の子たちは、早くもベトナムがいやになったらしい。
 
  現在ベトナムは、「ドイモイ」と呼ばれる市場経済政策によって、飛躍的に力を伸ばしている。
市内には、建設中の高層ビルの姿もちらほらではあるが姿を見せている。
しかし、とても一国の首都には見えない。
むしろホーチミン市の方が首都のような錯覚に陥る。
ここハノイは、ホアンキエム湖と呼ばれる、湖を中心に町が形成されている。
特に北側は、旧市街と呼ばれ、市場や、商店が軒を連ねる。安宿や外国人向けの食堂もまた集まっている。
 

ここに来てやっと私は、現地の食事をとることにした。
何しろベトナムには、マクドナルドも、ケンタッキーもない。
唯一、「オレンジハット」なる日本人が経営する店が目に付いたが、高くて、おいしそうには見えない。
食事は、専ら「フォー」と呼ばれるベトナムうどんが主食である。
この麺は、米で作られており、うどんより、そーめんに近い。
だしも、おばちゃんが朝早くから仕込みをしており、鳥殻、牛等様々である。
どの店にも独特の味があり、甲乙はつけがたい。
昼は、散策がてらに見つけた屋台や、大衆食堂で食べる。
私が好きなのは、「バインミー」とよばれる、焼きたてのフランスパンに挽肉やハム、野菜などを挟み、
チリソースやベトナム醤油の「ニュックマム」を振りかけた、ベトナム風サンドイッチだ。
これが旨い、とても旨い。
私は昨年からずっと病みつきである。


Chapter.5「ガキパワー炸裂」
桂林は、山水画のような景色で有名な中国の名所であるが、ベトナムには、2つの桂林がある。
陸を「ホアルー」海を「ハロン湾」という。
ハノイなどの都市では、ツアーオフィスがたくさんあって、様々な趣向を凝らしたツアーに参加できる。
特に、2つの桂林は、ベトナム北部のドル箱観光地で、人気がある。
私たちはまず、ホアルーにいって見ることにした。
 

あいにく雨の中、欧米人ばかりのミニバスで、ハノイ市外の舗装の悪い道を猛スピードで走る。
外は叩きつけるような土砂降りなのに、とにかくベトナムのドライバーは、親の敵のようにボロ車を飛ばすのだ。
そのため、この日も、自転車と車の事故を見た。
3時間も走ると、外は、一面緑色の水田、遙か向こうには、カルスト奇形の山々が見え始めた。
どうにか雨も上がり、薄日が射している。
真剣に大人と子供たちがサッカーをしていたり、水牛を引っ張ったりしている姿が目にはいる。
やがて、水田の中に小道が見え、「ホアルー」と記した消えかかった看板の船着き場に着いた。
 

ここからは、小舟で水路を進んでいくらしい。
舟漕ぎのおばさんと、舵取りのおじさん、そして私たち二人の四人乗りの船だが、水がちょろちょろと入り込んでいる。
ちゃぷちゃぷと波をこぐ音がとても心地よく、水田いっぱいの湿地帯の目の前には、
本物の桂林のそれと同じような景色が広がる。雲の合間から差し込む薄日によって、神秘的な雰囲気が漂う。
まさに龍が出てきそうな気配すら感じる。
様々な形の岩山を見ながら途中、長年にわたってできたのであろう、洞穴のようなところもくぐりさらに奥へ奥へ進んでいく。
 

やがて折り返し地点に来るやいなや、
船を漕いでいたおばさんは、櫓をおじさんに渡し、袋から、刺繍のテーブルクロスや、コースターなどを取り出して、
私たちに売り始めた。
後方に乗っていた、連れは、そのしつこさに負けて、どこで使えるかわからないような風呂敷を買わされていた。
やはりベトナム人はしたたかである。
わずか1時間ちょっとだったが、とても気持ちいい船旅だった。
 

昼食後、今度は、ベトナムの寺を見ることになっていた。
舗装のされていない道をさらに走っていくと、子供たちの姿が見えた。
なんと、我々の車が追い抜くやいなや、みんなが一斉に走り出したのだ。
外国人が珍しいのかなと思っていると、車はすぐ駐車場についた。
すると、そこにいた物売りの集団が一斉に駆け寄ってきた。

さらに、さっき走ってきた子たちも実は物売りで、
私の周りだけで4人もの子供と2人のおばちゃんが取り囲むといった状態であった。
子供たちはしきりに、線香を勧め、買ってくれ、あなたはこの線香をたけばハッピーになれる、
日本人いい人ばかりで、みんな買ってくれている、私を助けると思って買ってくれ、
学校にも行けないんだよと泣きそうになりながら英語で売りつけてくる。
まったくよく英語を喋るものだ。
時折、日本語や、フランス語さえをも使っているから驚きである。
さらに、ガイドに代わって寺の説明もしてくれた。
 
 
  ベトナムの寺院は、中国の影響を多大にうけており、境内の文字は漢字で、
ベトナム人には読めないが我々には読めるという奇妙な寺なのである。
中には、閻魔様のような神様が厳かにまつられており、線香がもうもうとたかれている。
しかしはっきり言って、あまり有り難そうには思えず、何となく安っぽく興味もわかないので外に出ると、
また物売りの子たちに囲まれるのである。
 

結構この子たちと話している方がおもしろい。
彼女たちは、お金がないのなら、何かくれ、ボールペンでもいいからくれ、と言うのだ。
しかも顔はほとんど泣きそうなのだ。
 

連れを見ると、私の倍の物売りに囲まれ、右手には線香を持ち、左手には、ボールペンを持っていた。
私と同じことを言われているのだろう。
仕方がないので、ガムをあげることにしたが、子供にあげようとした瞬間、
大の大人が、ものすごい力で、奪い取ってポケットにしまった。
しかも、そのあと私のところに来て、ガムをもらっていないからくれというのである。
これには、あきれを通り越して、腹が立った。
 

特に日本人は、何か買ったり、何かあげたりしているのだろう、我々はスター並に取り囲まれていた。
他の欧米人を見ると、一人いるかいないかなのだ。このとき他の日本人の行動が見て取れた気がした。
げっそりしながら、バスに乗り込む。
物売りの子たちは、「何かくれ、何かくれ」と泣きそうな声で叫んでいたが、バスが出るやいなや、
次に到着したバスに走り寄っていた。全くたくましい限りである。
 

社会主義国には、よく冷凍死体がある。
こう書くと気持ち悪いが、中国では、毛沢東、ロシアならレーニンとあるように、ベトナムには、ホーチミンの保存死体がある。
ここは、午前中しか見ることができない。また、カメラの持ち込みは禁止である。
死体の安置している室内は、大理石で、とてもよくクーラーがきいており、
ホテル以上に冷房のよくきいた長い階段のあと、小さな薄明かりの小部屋にはいると、
ガラスケースに入った、色つやの良い、まるでろう人形のような、ホーチミンが、
四方4人の兵士の直立不動の警備の中、安置されていた。
観光客だけではなく、現地の人たちもたくさん訪れており、その偉大さをかいま見たような気がした。
事実、ベトナムの各地には、多くのホーチミン記念館があり、あちこちで祀られている。
また、ベトナム発行のすべてのお札にホーチミンの顔が印刷されている。


Chapter.6「龍が降り立つ海・ハロン湾」
次の日、「海の桂林」と呼ばれるハロン湾に行くことにした。
前夜宿で行って来た人の話を聞いていると、すぐ泳げるから海パンをはいていった方がいいよといわれたので、
早朝から、さっそうと海パンをはき、ツアーバスを待った。
バスと言っても案の定、ただのワゴンなのだが、なんとメンバーはたったの6人と少人数でしかもみんな男だった。
またまた、猛スピードでドライバーは車を飛ばす。
カーステレオからは、音の悪い「愛と青春の旅立ち」が幾度となく流れている。
海パンがだんだんむれてきた頃、道は、舗装されてない道になり、今度は、上下の揺れで、
何度となく、天井や窓に顔や頭をぶつけた。
ベトナムきってのドル箱観光地なのになぜこんな道なのかと思いながら、揺られること3時間、潮のにおいがしてきた。
昼過ぎ、暑い太陽の照りつける中、ホテルに到着した。
 

ハロンという地名は、「龍が降り立つ」という意味でまさにそのような雰囲気をもつ岩々が大小1000以上もある。
第一印象は、「何だ、ホアルーと一緒じゃないか」と言うことである。
船も小舟からポンポン船に変わっただけであまり感動しないまま、クルージングは始まった。
船は四方岩山囲まれたところまでくると、突然停まった。

ガイドが叫ぶ、「swimming time!」

最初みんな戸惑ったが、一人がデッキから飛び込むと同時にみんなが飛び込み始めた。
水が冷たくて気持ちいい。1時間ほど泳ぐ。
 

それまでぎこちなかった6人のメンバーも、ぽつりぽつり会話し始めた。
特に韓国人の二人組は、私に、この風景とシチュエーションにぴったりの日本の歌を歌ってくれないかとか、
一緒に飛び込みしないかとか、いろいろ話しかけてきた。
歌えといわれて、戸惑っていると、彼らは、韓国の歌を歌ってくれた。
彼らが和やかなムードを作ったといってもいいだろう。
映画「インドシナ」のポスターのような夕日を見ながら船は港へと帰る。
このハロン湾の夕日は、かつての「金曜ロードショー」のオープニングのようである。
夕食をホテルでとり早々寝るが、夜中、身体のあちこちがかゆくて目が覚める。
蚊がすごかったのだ、ぱっと横を見ると、連れは、ちゃっかり蚊やをつけて寝ている。
かゆみと戦いながら夜は更けていった。
 

  早朝から、またまたクルージングを開始する。
すぐに、小舟が近づいてきて、しゃこや蟹、魚を売りに来た。
彼らは、その船で生活しており、船には、洗濯物や、テレビ、犬などが一緒に乗っていた。
次によってきた船は、土産物の貝殻ばかり積んだ船だった。
そういった船が次々と併走してきては、何か売ろうとしていたが、結局港へ戻っていった。
青々とした岩山ときらきらと光る海を見ながら船は進む。
風光明媚とはこういう景色のことだろう、そんな中、昼食を船の中でとりハロン湾をあとにした。
 

この頃、いつものやつが始まった。
下痢である。
早朝5時私を起こす。その後は、普通の生活なのだが、これが毎日続くのである。
貧乏旅行者の達人である、下川裕治氏は、
「下痢は、通過儀礼みたいなもの。水が身体に慣れれば、すぐ治るから心配ない」とその著書の中で書いていたが、
とんでもない。
冒頭に述べたとおり、治ることはなかった。連れは便秘だというのに。
 

いよいよ、移動を開始する。

まずは、ベトナム中部の都市、かつては、都として栄えた、フエまで南下することにした。
宿のおじさんがツアーバスが格安でいいというので、一番安いホーチミン市までの片道オープンバスチケットを購入する。


Chapter.7「詐欺バス」
フエに向かうバスは、夜7時に出発だった。
ハノイからから700キロ、15時間をかけて徹夜で突っ走る。
下痢が心配だったので、用心して、当日は、食事をとらないでおいた。
車を待つ間、宿に泊まっている女の子と話をしていた。
「いつもいわれるんです。女の一人旅でアジアに来るやつは、早稲田か、立命だって。」と言っていた。
私はそうは思わないが、彼女はもう何回もいわれたらしい。
しばし立命や、最近の話題などについて話しながら、バスがくるのを待った。
「大型バス」と聞いていたのに迎えにきたのは、韓国製のワゴン車だった。外は、雨が降り出してきていた。
 

この旅行は本当によく雨が降る。
そのうち雷まで鳴り始め、薄気味悪い天気になった。他のホテルからも旅行者を乗せ、すし詰めで車内はとても蒸し暑い。
雨の降りしきる中、またもや猛スピードで郊外へと走り続けた。
途中、また事故を見た。バイクの方は即死しており、死体には線香があげられていた。
こういった事故は、何度となく目撃している。とにかく、ベトナム人は、交通マナーが悪い。
その上道幅が狭く、舗装状態は最悪である。
これから、経済を成長しようとするとき、このような交通事情を早々に改善する必要があると思われる。
 
この移動は最悪であった。シートは狭く、揺れが激しい。
しかも、蒸し暑い。2時間運転するごとに、休息するのだがちょうど眠りにつき始める頃起こされる。
その繰り返しが、何度も続く。腹は減り、体力はどんどん消耗されてゆく。
やがて、夜が明け、次第に、景色がはっきりしてくる。
車は相変わらず、猛スピードで突っ走っているが距離は減っていかない。
窓からは、豊かな水田の緑が遙か彼方まで広がり、大勢の小学生が登校しており、手を振ってくれる。
アヒルの大群が道を横切ったり、朝市でにぎわっているところなどをぼんやりと半ば夢を見ているように眺める。
眠気と空腹で意識がもうろうとする中、やっと車は、城壁の中へと入っていき、ついに15時間の大移動は終わった。
体中が痛い。さっさとホテルを探しチェックインすると、眠りについた。
2時間ほど眠った後、まだ眠たい身体を起こし、フエの王宮を見に行くことにした。


Chapter.8「廃墟の町」
フエ。
ベトナム最後の王朝、グエン朝(1802〜1945)の都として栄えた都市である。
しかし、お互いあまり、史跡には興味がなく、このフエという街に長居するのは、時間がもったいないと思い、
明後日のバスの予約を済ませ、王宮へと向かう。
ここは、ユネスコの世界遺産に指定されている。そのせいか観光地はどこも、京都並に高い。5ドル以上するのである。
城は、ホアルーで見た寺のように、中国の影響を過分にうけており、城門は、北京の天安門を彷彿させる。
かつて王が君臨していた、太極殿は、美しい装飾が施された、唯一の見所である。ここもまた、紫禁城の模倣である。
 

パンフレットでは、たくさんの史跡が載っていたが、
実際は、戦争でほとんど破壊されたのか、「兵どもが夢のあと」で、原っぱばかりで廃墟と化している。
それがなんともいえない、この都の盛衰を感じさせる。
他に見るところはなかったので、早々とホテルに戻ると、ベットに倒れ込んでしまった。
 

翌日、ボートトリップに参加した。
フエは、王宮を中心に、郊外に、史跡が点在しており、船で、巡る方が経済的である。
ベトナムはあの戦争によって、たいていのものは焼き尽くされ、破壊され尽くされているため、
あまり特筆すべき史跡は見あたらない。ただ、この街は、時がゆったりと流れ、心地よい風が肌をなでていく。
それだけで疲れていた僕らにとって十分だった。ホテルもこの旅始まっての最も快適で格安の宿をとることができた。
なんとエアコン付きである。このエアコンがうれしいほど寒く、長距離移動で、ばてていた体力は、回復しつつあった。
 

今日の移動は、120キロと短い。
またバンである。
大型バスというのは、どうも嘘らしい。
私たちは、5ドルという料金をケチったせいでこのあとも、ボロバンでの移動を強いられることになった。
もしケチっていなければ、クーラー付きの大型バスで快適な移動ができたことを
この途中に立ち寄ったランコー村のビーチで知ることになる。
 

そもそもツアーバスというのは、定番のツアー会社である、「シンカフェ」のバスと、
その他のツアー会社が共同で走らせるバス(ボロバン)に分かれる。
そしてツアーバスは、移動の途中、いろいろと観光地に立ち寄ってくれるというメリットがある。
この内容も、少しずつ違うというのをあとで知ったが、とにかく、金額にしてたった5ドルなのに、
そのサービスは、雲泥の差、月と鼈のように違うのである。
 

ここランコー村のビーチは、とても澄んでいて砂がきらきらと輝いている。
まさに、まだ手の着けられていないリゾートである。
ゴミ一つなく限りなく続く砂浜に広がる青空、思わず、犬をつれて、散歩したい気分になった。
ここでハノイの宿で知り合った人に再会した。
彼はシンカフェのバスに乗っていたのだが、50人乗りの大型クーラーバスにたった乗客5人いう贅沢なものだった。
 
 
それに引き替え我々のバンには、10人乗りのバンに12人乗っていた。
しかも、クーラーなしである。
5分の休憩という短い時間で、我々はまた出発した。
シンカフェの方は、30分ほど休憩だというのに。

まったく、けちも考えものである。
 

ハイバァン峠を越えるとベトナムの気候、そして、人の気質が変わるという。 

ベトナム語で「ハイ」は海、「バァン」は雲を意味するが、その名のように、ガスがかかって、峠は曇っていることが多い。
ここは、今も昔も交通の要所であり、かつては、フランス軍、日本軍、そして、アメリカ軍がこの峠に要塞を構えており、
そのあとは、いまでも残っている。
眼下には、紺碧の海が見え、空は真っ青である。
 

一気に、峠を下り、ダナンの街にはいる。
ここには、ベトナム人に信仰されている、五行山という連山がある。
トゥイーソン、モックソン、キムソン、トーソン、ホアソンの五山の総称で、
大理石できていることからマーブルマウンテンとも呼ばれる。
その中でも一番大きい、トゥイーソン山で休憩をとることになった。
 

眺めが良さそうなので登ってみることにした。
途中、日本語で、「コニチハー」「ドコミルー」などと妙な発音で子供たちがついてくる。
我々は、ホアルーでの一件以来、子供恐怖症になっていたので、無視してどんどん登っていった。
途中から、勝手に、「こっちがいい、ここからいけ」などと教えてくれたので、ついていくと、頂上に着いた。

とても、気持ちいい風が吹き抜けていく。海岸線も見え、水田の緑もきらきら輝いている。
記念に石を持って降りてくると、さっきついてきていた、子供たちがまだ待っていて、今度はこっちだよと腕を引っ張る。
「この人は私の旦那さんよ」などと言って、私の腕まで組む始末である。
 

戸惑いながらついていくと、観音様の像の前についた。
その左側に、小さい穴があった。
今度はそこに引っ張られていく。
中は真っ暗で、石の段がある。降りていくと、そこは、別世界だった。
洞窟の上から、光が射し込み、正面の石仏をうっすら照らしている。

その美しさに思わず、涙が出そうになった。
ここはかつて、ベトナム戦争で病院として使われていたらしい。
しかし、ある時、爆撃によって天井に穴があいたという。そのとき、多くの人が犠牲になったそうだ。
そんな話を聞いていると、とても真摯な気持ちになった。
私は心が洗われたような気がした。この旅の中で最も、感動した場所であった。
五行山から次の町、ホイアンへはすぐ着いた。


Chapter.9「くそ田舎、ホイアン」
ホイアン、ここはただのど田舎である。
日本人がかつて建てた、「日本橋」という橋以外大した見どころもない。
かつては、海のシルクロードの中継地として繁栄したらしいが、
いまは全くその面影は見られない。
これまで、会った旅行者たちはみんな「ホイアンはゆったりしていていいよ。落ち着くよ。」
といっていたが、そんな風景は、四国出身の我々にとって、見慣れたというより、
見飽きており、別段何とも思わなかった。
 伊勢うどんに似た、「カオラウ」といううどんを食べる。
確かに似ていて、味も悪くないが、妙なクラッカーのような煎餅が入っていて、食べにくい。
さっさと宿に帰って、明日の移動に備えた。
いよいよベトナムきってのビーチリゾート地である、ニャチャンへと向かう。
530キロ南下だ。


Chapter.10「食中毒」
私の頭の中は、もはや泳ぐことだけだった。灼熱の太陽、きらめく海、光る砂浜、そよぐ椰子の木。
もう、乗客数が少ないからといって、かわりにしこたまベトナム人を乗せて、
ぎゅうぎゅうになっているボロバスにも気にならなくなった。
「俺には、輝くビーチが待っている。肌灼くぞ」。

それだけを考えながら、13時間の移動を耐えた。
もはや、旅行というより、試練だ。
「我慢大会」に近い。顔は、排ガスや砂埃で真っ黒である。
ニャチャンについたのは、夕方5時過ぎだった。

宿に着くと、とりあえず、病みつき状態の、「バインミー」そして、かた焼きそばを食べ床についた。
 

その日の夜中、熱が出た。 

そして、強烈な下痢が幾度となく続いた。
まったく治まらない。
「バインミー」があたったのか、それとも昨日の「フォー」か?トイレの中で自問自答が続く。
朝、宿の親父さんが薬を持ってきてくれて、多少ましになる。

結局泳げずじまいである。
 
 
  次の日、熱も引きたので、朝日を見に、ビーチへ行く。
なんと、そこは、地元の人でごったがえしていた。
体操する人、サッカーする少年たち、話し込むおばさんたち、みんなが楽しそうに、海辺のひとときを過ごしている。
6時過ぎ、みんなは、帰っていく。昼間は、外国人の観光客だけがまばらに泳いでいる。
2時間ほど泳いだが、やはり朝の涼しく、澄んでいるときの方が気持ちいいように思う。
ビーチマットで休んでいると、おばちゃんが蒸し蟹を売りに来た。
連れは何を考えているのか、いつとれたか分からないその蟹を買い、むしゃむしゃと食べ始めた。
横で見ていた私は、「今度はおまえが当たってしまえ」と心の底から祈ったが、
その後もエビや半生の肉まんなどむさぼり食っていた。が、便秘気味の彼に開いた口もふさがらなかった。
 

3日目、また熱が出た。
もちろん下痢も治ってはいない。
おまけに外は雨だ。リゾート気分どころの話ではない。

残りのバスのチケットは、もったいないが、一気にホーチミン市まで列車で下ることにした。
どうにかその日の切符がとれ、夕方、ろくに泳ぐことも、肌を灼くこともないまま、ニャチャンをあとにした。


Chapter.11「肝炎疑惑
朝4時半、ホーチミン駅に着く。早速、下痢。もう顔はやつれ果てている。 

宿を決めると、近くのインターナショナルの病院に直行した。血を抜く。体温を測る。
たぶん食中毒でしょうと言っていた先生は、次の日、血液結果を見て、顔色を変えた。
 

「肝炎かも。」と言うのである。
しかも英語でいうので、所々単語が分からず、不安はますばかりである。
精密な血液検査をするというので、もう一度血を抜く、検便もとる。
もう気分は、すっかりA型肝炎患者である。
憂鬱になりながら結果を聞きに行く。診察室に入ると先生は、険しい顔をしていた。
ほぼ間違いなく肝炎だという。
それをきいて連れは、早速飲み水をかえた。
 

もう私の顔は泣きそうだった。
そこへ、検便の結果が出て、先生は、「こりゃ食中毒かもしれない」と言い始めた。
少し待っていると、今度は、「他の先生は、胆石ができている可能性もあるといっている。」とおっしゃる。
 

いったい私は何の病気なんだ。 

もう笑いながら超音波を当てて調べると、やはり肝炎だろうということで落ち着いた。
先生は「もう一度血を採らしてくれ」と言うのでまた、抜かれる。
私たちはもう精神的につかれてしまい、タイには行くのをやめることにした。


A型肝炎は、比較的に経過が良好で、安静して、食事療法で回復する。
しかし、3ヶ月の禁酒、油もの厳禁。など結構大変である。
 

diarrhea、そして、hepatitisと言う単語は、今後一生忘れることはないだろう。
何度使ったことだろうか、こればかり連発していた。
9月3日、ホーチミン発、香港経由の航空チケットを買う。

そのあと、病院に行って、最後の血液結果を聞きに行く。
 

すると、何ということだろうか。

先生がこういったのである。「I’m sorry, you are not hepatitis A」と。
そして、「1週間もすれば治るから、旅行をつつけてもいいよ」というのだ。

すでにチケットを買ってしまった我々は、そこに呆然と立ちつくした。

宿に帰ると、お互い何もいわず、帰り支度をし始めた。
 

翌朝、アオザイの女学生が通学する姿を見ながら、ベトナムをあとにする。
そして日本へは、1ヶ月間かかって移動した距離をわずか6時間で帰ってきた。


こうして私の旅は、終わった


Chapter.12「Being On The Road」
人は、様々な思いをザックに詰めて、旅に出る。
今回、私の旅行は、「旅」へと姿を変えた。
旅というのは、一種の試練や辛さを持っている。私にとって旅とは、自分を見つめ直すことである。
日本を離れて、有り余る、一見無駄のような時間の中で様々なことを考える。
これからのこと、いまの自分。激しい腹痛の中で、疲労しぎったバスの移動中に、屋台で飯を食いながら・・。
どうしようもないほどの郷愁にかられたり、思わず涙が出るような、感動をしたりする中で、
これまでの自分とは違う「何か」を発見することができるような気がするのである。
 

  この旅行に行く前、「上海の西、デリーの東」という本を読んだ。
そのあとがきの中に、こんな一文がある。
「旅は記憶だ。、そしてその記憶は僕の財産でもある。」私はこの文章が好きだ。
記憶は薄らいで、やがて南寧の橋の下で散髪をしながら筆談したことや、
フエのホテルの従業員と、将来のことを話し合ったことなど忘れてしまうかもしれない。
すべてを覚えておくことなどとうてい不可能だし、すべてを書き記すことも無理だ。
もう一度同じ行程をたどったからと行って、同じことは起こらない。
しかし、記憶が薄れても身体のどこかで、それを感じ取っていると思うのだ。


終わりに・・・・
旅はいい。旅の途中下痢になることが分かっていても、出かけてしまう。
旅の最中は、こんなところ二度とくるかと思っていても、日本に帰ってくると妙に懐かしくなる。
そうしてまた、ふらふらと出かけてしまう。
大学の間にこのような体験をすることができたことは、私の宝であり、糧となるだろう。

最後までこの雑録紀行を読んで下さったみなさんが、旅をしてみたいと感じてくれたなら幸いです。 
 1997夏 ベトナムにて