| Packer's Web 「1992年 夏 China」 |
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初海外は、「空海記念碑建立10周年記念交流事業」で中国に。
H4.8.22-8.27
| Who is KOOKAI? |
空海は,唐から密教という,当時としては最新の仏教を,そっくりもち帰った人。
| 初海外は、ひょんなことから・・ |
私の始めての海外旅行はひょんなことから決まりました。
いく人がいないということで、「じゃあいきます」といったら、即決。
わずか5万円という(市立なので市から補助金がでた。)旅費で出かけることができました。
私の父は、中国モノが好きで、よく「シルクロード」とか、「大黄河」をみていたおかげで、
実際に、「中国」という大地に足を踏み入れられることに、胸躍りました。
「空海記念碑建立10周年記念」。
これは、讃岐・香川の生んだ偉人、空海こと弘法大師が遠路はるばる中国まで渡って、
昔の長安の(現在の西安)にある青龍寺において、お勉強したことに由来します。
実は、高松市と西安市とは姉妹都市にあるため、その文化交流ということで、記念碑が建てられました。
建立されて10周年と言うことで、香川県の全高校から1名ずつの訪中団を結成し、
西安と、北京の高校生と交流しようというもので、私も高松一高の代表で参加しました。
このとき乗っていったのが、JALのジャンボ。
この後の旅行人生を考えると一番いい旅行だったような気がします。
はじめての中国。全てが大きく、私の想像以上でした。
特に出発前夜に見た「ラストエンペラー」が印象に残っていて、実際紫禁城を見たとき思わず息をのんでしまいました。
無事、西安高級中学校の皆さんとも仲良くでき、一路へ北京とびたつその朝。事件は起こりました。
さて、それまでの経過について、お話しすることにしましょう。
我々の食事は、毎日が、豪華で、食べきれないモノばかりでした。
もちろん、「これ食い物か?」と思うようなモノもありましたが・・・・。
毎日毎日、有り余る料理の数々に、もったいないと、思った我々のテーブルのメンバーたちは、
「今日は残しません!!大作戦」を決行することにしました。その日は水餃子。
敵に不足なし。我々は、意気揚々と食べ始めました。ところが、でてくる、でてくる。
その数、20種類以上。我々の班のメンバーは全員食あたりとなり、正露丸なんか効かず、
結局、日本に帰って、2週間後に治ったというひどいものでした。
ここで分かったことは、私と中国との「腹」の相性は最悪だと言うことです。
| 行程日 | 時間 | 行程地 |
| 8月22日 | 13:15 | 北京空港着 |
| 天安門広場見学 | ||
| 21世紀飯店泊 | ||
| 8月23日 | 10:25 | 北京空港発 |
| 12:10 | 西安空港着 | |
| 13:00 | 青龍寺・鐘桜・西門見学 | |
| 18:30 | 夕食 | |
| 西安賓館泊 | ||
| 8月24日 | 8:30 | 西安高級中学校着・交流会 |
| 13:00 | 兵馬庸見学 | |
| 17:30 | 西安賓館着 | |
| 18:00 | 夕食 | |
| 西安賓館泊 | ||
| 8月25日 | 4:30 | 起床 |
| 5:00 | 西安賓館発 | |
| 西安空港発 | ||
| 北京空港着 | ||
| 万里の長城見学 | ||
| 明の十三陵見学 | ||
| 18:00 | 二十一世紀飯店着 | |
| 二十一世紀飯店泊 | ||
| 8月26日 | 9:30 | 月壇中学校着・交流会 |
| 12:00 | 昼食 | |
| 8月27日 | 13:00 | 故宮・天壇公園見学 |
| 8:40 | 北京空港発〜上海経由 | |
| 16:55 | 大阪伊丹空港着 | |
| 21:30 | 高松駅着・解散 | |
| 当時=1元=25円 |
遣唐使って何?
630年から897年の最後の遣唐使(これは中止されたらしい)まで260年余りにわたり、
日本は唐へ使節を派遣し、先進文化を輸入してきた当時最先端の海外留学です。
空海の乗った第16次の遣唐使は,260年の歴史の中で後半の時代となります。 4隻からなる船団をつくることが多く、各船には120人〜160人が乗りこんでいたらしい。
平底で高波に弱い構造の船で、無風あるいは逆風の時のみこぐため、乗組員の半数が水夫であったらしい。
航路
前期には朝鮮半島の西側を北上。半島の政治状勢の変化により
後期になると,直接東シナ海を突き進むコースがとられたようです。
10日足らずで横断することができる。しかし難破の危険も高いものであったらしい。
羅針盤もなく,さらに当時の日本人は,季節風の知識ももたなかったとのことである。
そのため,後世から見ると,わざわざ逆風を選んで船出することが多かった。
実際,第9次の遣唐使以後で東シナ海をつききるコースをとった8回の使節中,
往復ともに無事であったのは第15次(779〜781)の1回だけであった。
食料として1日に1升の糒(蒸した米粒を干したもの)と,1升の水が支給されるだけで,
難破しなくても,あるいは1ヶ月,時には2ヶ月も漂流することが予想された。
そのため,海上の危険を恐れて遣唐大使に任命されても,ことわる人もあり,
副使に任命されたのに逃れようとして実際に処罰された者もいる。
ところで,それにしても,なぜ空海は留学生として入唐できたのだろう。
第16次の遣唐使は,実は803年に一度出航した。この時,最澄は上船していたが,空海の姿はなかったのである。
この船は,出航後すぐに難破したため渡航は中止され,最澄はそのまま九州にとどまった。
そして翌804年遣唐使船は再び難波の港を出たが,この時に空海が乗っていたのである。
私度僧に近い身分の空海が,政府派遣の留学生に選ばれたことの意味は,限りなく大きい。
普通,留学生は1回の遣唐使で10名余であったという。どうして空海がその中へ入れたのか?
真実はわからないが,いずれにせよ当然,空海の優秀さは広く知られていただろう。
さらに入唐希望者も減少していたのではないか。
「たまたま志願者が少なかったので,留学僧の末席につらねてもらった」という空海の文章が,残っている。
ともあれ,最澄と空海には,それぞれ当時の凡庸な僧には思いもよらぬ志があったのだ。
最澄の場合それが,天台教学(法華経)の請来であり,多分彼の場合には,法を求める旅に生死は二の次となっていたのではないか。
これに対し,空海の方は,最新の仏教である密教をきちんと請来するのは,自分をおいて他に誰があるかという自信にあふれ,
自分が死ぬかもしれないなどということは,彼の頭の中にかけらもなかったのではないか。
入唐 −長安にて
804年当時,唐の都長安は世界一の大都市であった。文字通り文化の中心であった。
宗教でいえば,インド伝来の仏教以外に,イラン方面からザラトゥーストラ教,マニ教,
さらには景教(ネストリウス派キリスト教)さえもが,長安の都に寺院を構えていた。
805年2月,遣唐大使の一行が帰国した後,長安の人々の溺愛する牡丹の名所,
西明寺に住いを定めた空海は,二つの大きなチャンスに恵まれる。
一つは,般若三蔵というインド僧について,サンスクリットを学ぶことができたということである。
かくして「若き日の空海は直接インド人の高僧から学ぶ機会を得,かつその訳した経典を手ずから受け取って,
日本に持ち帰ることができたのである。
中国に留学した日本人仏者で,これほどの幸運にめぐまれた例は,他にはないようである」。
空海は「サンスクリットの原典を贈られているところからみても,
おそらく日本人として最初にサンスクリット語が理解できた人となったのであろう」。
もう一つのビッグ・チャンスは,恵果との出会いである。