千本通りの由来について

千本三条付近
(下記文章は京都を散歩さんのホームページより引用させていただきました。)

平安京の朱雀大路にあたる。
北は鷹峯源光庵の南から南は宮前橋の東に至る、全長約十七キロメートル。

千本丸太町西の内野児童公園に、「大極殿遺址之碑」と刻んだ碑が建っている。

平安京が造営された時の大内裏跡である。
南面した朝堂院の正殿大極殿を中心に殿舎が並び、正門には朱雀門がそびえた。

朱雀門から平安京南端の羅城門までは、幅二十八丈(約八十五メートル)の朱雀大路が一直線に通った。
朱雀大路で都は西の右京、東の左京に分けられた。(天皇は南面するにより、左右が決まった)

朱雀の名は、高松塚古墳に描かれた壁画「四神図」で知られる中国の四神相応の思想による。
方向をつかさどる四つの神々で、北は玄武、南は朱雀、東は青龍、西は白虎がつかさどった。
朱雀門は大極殿の南の正門であり、南を守護する神の「朱雀」の名が冠せられた。
朱雀大路も同様であった。

北大路の南にぽっかり浮かんだような標高百二十メートルの船岡山がある。
山頂から南へ遮るもののない眺望を眺め下ろして、羅城門までの朱雀大路が設定されたという説もある。

通り名の由来は諸説ある。
両側に千本の卒塔婆に由来するとも、千本の桜が並木をなしていたからとも。
さらに桜ではなく松並木であったという説もある。
卒塔婆説は、通が北の葬送の地蓮台野につながり、鞍馬口下るに通称、千本閻魔堂と呼ばれる引接寺が残っていて、道すがらに卒塔婆が立ったことは十分に想像できる。
桜説も、引接寺境内に「普賢象桜」と称される桜が残り、花の季節には念仏会が開かれたという記述がある。

西高瀬川が開かれたのは文久三年(1863)。
古い文書によれば「大堰川から水を引き樋の口を作り、舟だまりをもうけ、梅津から太秦大石村えお経て山内南部で御室川を交差し、池尻の舟だまりから西院春日の森を南に回り、三条街道に出て千本にいたる。そこに舟つき問屋があり、千本通を南へ五条、七条通と下がって吉祥院から鴨川に合流する」と。

開設時は薪炭、米が中心だったが、明治中期に嵯峨、梅津、桂の三ケ所に集められた木材が千本に移ったという。

明治二十九年に園部〜二条間に京都鉄道会社の鉄道が敷かれて、二条駅が開設され、水路が鉄道に変ったあとも、材木問屋は活況を呈した。

余談
大正天皇の御大典のとき。
千本通は、真直ぐに羅城門まで市電が走る予定だったが、大反対したのが周辺の材木商。
「通が広うなっては同業者町は分断される」というのが理由だった。
市電は千本三条から「く」の字に曲がって後院通を通ることになったのだった。


だということである。らしい・・・・